再び、『天之磐座』(あめのいわくら)。
それを捉えた一押しの写真は、これだと思う。写真には、浄化された透明な輝きがあった。実際、わたしの実力では逆立ちしてもこんな風には撮れない。魂魄ともいうべき息を止めた一瞬、風景が微笑んでくれているのである。
辺りの景色を水面に映した池を背景に「天上山」、まばゆいばかりの「州浜」、画像には見えてこないが「夢湖」へと流れる風の色がみえる。
『天之磐座』に射す薄墨のような影からして撮影は正午前の時間帯だろう。きっと脚立の前でこのハレの日を待っていたのかもしれない。右手の森の淡い色の山桜や、睡蓮の白い花がよく撮れている、と感心した。睡蓮は光を感じて開いたり閉じたりするので天候や時間に影響されやすいからだ。
わたしも取材経験を通して撮影のコツをいくらか心得てはいるが、この写真を拝見してシャッターチャンスの一瞬を狙った撮影者の手ごたえというものが分かるような気がするのだ。
『天之磐座』の表情を知り尽くしているのだろう。
◇写真の中の『天之磐座』
茫々たる奥庭に堂々として精緻な石組である。間近に立てば、むしろ鷹揚というか、胸懐に抱かれているような安らぎを覚える。肩の力が抜けて呼吸がだんだんと深くなっていく。ひと雨降ったためか、湯上りのような優美な気品が立ち上ってくるようだ。
写真は、御聖誕130年の佳節を刻む「天空の庭」の竣工を祝う冊子に納められているものだ。その中から遠近数枚の組み写真を拝借した。
後藤崇比古管長は、地元津市が生んだ端正な川喜田半泥子の美感に沿うように彫刻、絵画、陶芸などもそうだが、写真に対しても一家言を持っていることはこれまでの語らいのなかで知った。ご自身でも写真を撮る。それらを極める審美眼がこの写真にも投影されている、と思った。
この不動という驚きの石組、その佇まいの豪放さ、単純さをどう譬えたらいいのだろうか。惜しいことにそれはわたしの筆力を越えている。その世界を浮き彫りにしようという試みは、あらゆる表現を総動員して書けば書くほど逆にその本質から遠のいてしまいそうな気がして、物書きのわたしとしては弱った。
◇「原型は桃の実」
というわけで、つまり、1枚の写真の衝迫には、到底かなわないことを今更ながら思い知らされるのである。
写真その1のキャプションには、
造営中に春を迎えた「天空の庭」、『天之磐座』を中心に大自然の息吹に包まれる、とある。広角で捉えたカメラの位置は比較的高いところにあって、「長池」の奥までの遠景がのびやかだ。湖面に周辺の木々が逆さに写っている。
写真その2は、
神礎石のふるさと瀬戸内海・太郎島産の花崗岩160トンもの巨石が6分割され、組み直された『天之磐座』。原型は桃の実の形をしており、割られた時に「御徴紋」(みしるしもん)が刻まれた-とある。
豪快にして細密な巨石の分断、石の積み重ねというのはどのように行うのだろうか、少しも想像ができない。まさに神業だったに違いない。
「御徴紋」が刻まれた、とあるのも奇跡的で、これまた劇的なドラマを生んだ。そこにもフォーカスしたい。太郎島とはどんなところなのか、考えるとそわそわして落ち着かないのだ。これまた弱ったものだ。取材の時間がないのだけれど、見切り発車というか、次回以降、それらのことにも言及していくことになる。
◇「一天四海」の意味
後藤管長の周辺には、不思議なことがよく起こる。
雨の散策の時もそうだった。
後藤管長とわたしたちは、「天上山」の頂上にのぼって行こうとしていた。
『天之磐座』を仰ぎ見ながらの語らいは、160トンもの巨石、それを6分割したというその神秘性について、時にユーモアをまじえながら楽しげな掛け合いを演じていた。
後藤管長は、その分断の数に触れて、天地と四方と捉えるという考えで「一天四海」という意味でもあり、「それは宇宙を現している、とも言えます」と解説した。天と地、それに四方、つまり東西南北を合わせて6になるのですか、と念を押した。
わたしが、うーむ、と、一拍おいた。初めて聞く話であるためにたぶん、気難しい表情をしたのだろう。すると、後藤管長は、話題を変えて、「かじりたくなりますよね」といい、「たぶん歯がかけますね、確実に」と笑って場を和ませるのである。
そして、
「6つの構造体から、何かが出てきた感じがありますね」と続ける。
「卵石が浮くと、言いましたよね。あそこから動いてきた感じにも見えます」と印象を伝えると、
「飛んできたんです」と、ためらわず、そう断じた。
オッと、来たか、と驚きながらもわたしは平静を装って、
「そうですか、あの鳳凰の卵がね、ここへ飛んで大きくなって割れた?」
「復活というか、何か新しいものが生まれたんです」と後藤管長は表情を変えない。
が、そこでわたしの顔をみつつ
「こんなアホなことを言って一緒に歩く人は滅多にいない。なかなか(出口さんのような人は)いない」と面白がるのである。
そこでわたしは、素直に
「そんなアホなこととはまったく思いません。エキサイティングでとっても…」と言いかけた、その瞬間のことだった。
◇光を撮った!
雨雲が垂れ込めていた森一帯がパーッと明るくなって、湖面には光の束が走ったのだ。「おおっ、日が照ってきた」と思わず声をあげたら、
間髪入れず、後藤管長が
「これが大事なんです」と簡潔に言った。なにかの瑞兆なのかも知れない。
あらかじめこういう場面を予期していたかのような口ぶりなのである。そして、ゆっくりと光の方向に顔を向けて、光が遠のいて小さくそして消えていく様子を見送るように眺めていた。
光が池の上の雨雲を明るく照らした。光芒のような光の束が射し込んだのだ。それは控えめで、イサム・ノグチ氏の和紙を竹ひごで囲んだランタンのような明かりに思えた。
わたしは、iPhoneをポケットから引っ張り出して構えた。パーッとした瞬間、光の方向に同行の職員がひとり立っていたので、「ちょっと、どいてくれませんか」とカメラアングルから外れてもらった。そうした数秒の間に、光はにわかに鈍く小さく変わってしまっていた。
それでも後藤管長の背後にその光を捉えた。
◇天の物語
散策の当初は、今にも降りそうな雨雲が垂れ込めていた。すぐにパラついた雨は、「夢湖」を越えて「天之御柱」付近で激しくなった。しばらく強い雨が続くので、後藤管長との語らいもとぎれとぎれになった。
が、「つたい石」の先端、広場にくるとハラッと雨があがった。レインマウンテンを背にして、「天上山」に足を踏み入れた途端に、日が射したのだ。
わずかな時間に雨のバリエーションを堪能した。天が、わたしたちのために絶妙な動きを演出してくれたようだ。語らいは、「雨の物語」だが、それは「天の物語」でもあった。
その物語は、まだ続く。
≪続く≫