◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2012/02/08 http://dndi.jp/

鈴木大拙館にみる谷口吉生氏の至高の世界

 ・哀愁の北陸へ雪吊りの金沢へ(下)
 ・黒御影石のつくばいのエナジー
 ・石、漆、和紙、池、そして…
 ・名誉館長で秘書の岡村美穂子さんの不思議
〜お知らせ〜
DNDの連載で「松島克守氏の世界まるごと俯瞰経営塾」がはじまりました。
〜連載〜
 ・張輝氏 第42回「中国各地域の1人当たりのGDPと最も近い国」
 ・石黒憲彦氏 第177回「ダイバーシティが成長の突破口 」
〜一押しイベント〜
 ・健康生活創造セミナー、3月4日、東京で1000人(無料)
 〜微生物で健康づくり〜比嘉照夫氏と杉本一朗氏が登壇


 直線を生かしたシャープな谷口建築の妙、白壁、池の配置が洗練されている。


DNDメディア局の出口です。ゆったりと和みの時、そしてゆっくり、静寂なやすらぎが訪れていました。小鳥のさえずりが響いてきます。小川のせせらぎだろうか、風のささやきなのだろうか、ナチュラルな旋律が流れている。カサッと、濡れた木の葉が散った。


金沢市本多町にある鈴木大拙館の、その精緻な構えは、凛とした名刀の輝きを放っているように感じた。おおよそ記念館と対峙してこれほどの緊張感をもった建築が、いままでにあっただろうか。ひさびさに高ぶった気持ちになっていた。


大拙の96年にわたる思想と実践、濃密な人生の真髄を学ぶという大拙館の詳細に触れた。加えてもうひとつの見どころといえば、その建築そのものではないだろうか。洗練された建築家、谷口吉生氏のその集大成ともいえる建築の系譜と、大拙館に見る磨き抜かれた職人の究め技に少し視点を変えてみたい。松田章一館長の解説は、淀みなく絵巻物を広げるように連続し、その第2幕へ。


動線に従えば、書や、写真パネルのある展示空間の北隣が、学習空間と名付けられた書斎風の小部屋でした。本棚や学習机が備えられている。座ってみた。落ち着きますね。北側の大きな窓から、障子を通してやわらかな光が射し込んでくる。う〜む、庭の木々に四季の移ろいを見ていると思索が深まるだろうなあ。その坪庭の石をめぐるエピソードが、知的興奮をくすぐって実に面白い。


坪庭の、せり上がった丘陵と庭を隔てる無骨な石垣に目を奪われていたら、館長が、これはね、と他の石を話題にした。館長のいう石は、庭一面に敷かれた小石、いわば砂利のようなものだが、ただの砂利でもない。その奥にどんと構える黒い石の塊はなんだろう。


これはね、川石でしょう。石川県産の石なのです。大拙が生まれた石川の大地をこの細かな川石に託しているのです。なかなかなアイディアでございましょう。その先に、もうひとつ黒い大きな石が置いてあります。これは海の向こうからの石で、ちょっと、大拙の御心を偲ぶ、という谷口さんの着想でした。

いやあ、こっていますね。凄いなあ。


■黒御影石のつくばいにみる感動の系譜
 館長が指をさした奥の黒い石には、不思議と惹きつけられるものがあった。庭を仕切る西側の壁際に鎮座する。存在感があるなあ。谷口さんは、この石の場所決めに相当、考えをめぐらせていたらしい。大人が二人で手を広げても余るくらいの大きさだ。勿論、抱えて持ち上げるなんて不可能だ。


壁際から程よい場所に決まったのは、開館の数日前、ぎりぎりでした。庭の真ん中にあったのを面白くない、と言って谷口さんがしばらく考えた挙句、60pほど壁側に動かした。納得いくまでやり直しを指示していました。


なんとなくわかりますね。あんまり離れると、海の向こうに行けなくなりそうだよね(笑)。壁の向こう側とこちらの坪庭をつなぐ、何かそんなイメージがあったのでしょうか。しかし、石ひとつ、座りや角度、その微妙な具合に神経を傾注し、こだわり抜く。やはりプロの仕事ぶりは違いますね。


なるほど、なるほど。いやあ、感動ですね、と言って、館長の次を待った。すると、何気ないひと言が、僕には頭上にカミナリが落ちたような衝撃だった。


この黒い石は、イサム・ノグチがニューヨークに売ろうとして結局、売れなくて残っていたものらしい…、あらっ、館長の口から彫刻家、イサム・ノグチの名前が飛び出した。谷口さんとイサム・ノグチの関係は、業界の間では、知らぬ人はいないくらい親密な間柄だった。それから本を読んで知ることになるのだが、しかし、僕はその時点ではまったく予期しないことだった。


そのためイサム・ノグチの名前を耳にした瞬間、フラッシュバックとでもいうのか、頭の中のシプナスが弾け飛んだ。イサム・ノグチ、黒御影石、つくばい、牟礼、石工、最高裁、札幌モエレ沼公園、丹下健三、と立て続けに過去の残像が甦った。やはり、この石は黒御影石だった。


もう7年余りも前のことでした。イサム・ノグチと札幌モエレ沼公園に関した」DNDメルマガ「イサム・ノグチの祈り)を書いた。イサム・ノグチが最高裁の中庭に納めた黒御影石のつくばいと同じものが、実は、札幌のITベンチャー「ソフトウエアハウスBUG」の社内にあることをメルマガで突き止めた。


〜つくばいの形をした石の彫刻が置かれ、いまでも石の中心から水が湧き出て、心地よい音を響かせている、という。ノグチ氏は、このつくばいの製作にあたってギリシャのデルフィ遺跡のアポロン神殿の「地球のヘソ」を表すオンファロスという石組みに触発されて創作した。最高裁の中庭にあるノグチ作のつくばいと同じなのかもしれません〜と。


奇遇というしかない。ITベンチャー創業の服部裕之さんがイサム・ノグチに出会っていなかったら、丹下健三氏の事務所にいた建築家、川村純一さんらが立ち上げた建築家集団「アーキテクトファイブ」が服部さんのオフィスの設計を手掛けなかったら、そして両社に要の共通の同級生がいなかったら、といくつものifが重なるのである。


この偶然のつながりがなかったらモエレ沼公園はイサム・ノグチの遺作として後世に語り継がれることはなかった。プレイマウンテンやひだまりなど、子供らの楽しい夢を育むスケールの大きい公園は陽の目をみなかったのだ。


イサム・ノグチは、三月下旬のみぞれの寒い日に初めて札幌を訪れた。その年の暮れにマスタープランや模型を提出し、まもなく逝去した。モエレ沼公園の完成は、イサム・ノグチの死後、17年の歳月が経っていた。ここにも感動のドラマが埋もれている。


少し引用が長くなってしまうが、モエレ沼公園に足を運んだ時、丁寧に応対してくれたのが札幌市の職員で初代園長の山本仁さんでした。後日、家内の近い親せきと判明して驚いた。浅からぬ縁を感じた。山本さんはモエレ沼初代園長の肩書のまま残念なことに病気で亡くなった。


イサム・ノグチ、黒御影石、つくばいというストーリーが、あろうことか今度は、建築家、谷口さんのアイディアで誕生し、金沢の地、鈴木大拙館でお目にかかろうとは、僕にとっては驚きであり、大きな発見でした。最高裁の中庭のつくばいは立ち入りできない。札幌のそれは個人のものだ。イサム・ノグチが珍重した黒御影石、そのつくばいをこの目で確かめたのは大拙館のそれが初めてでした。


大拙館のつくばいは、どっしりと地球のエナジーを涌出させるが如し、そんなパワーを秘めているように思えた。スパッと表面を平らに切り開いてそこに、例の「△□○」を彫ったのだという。谷口さんがデザインした。やるもんだわ。ふ〜む、創作の力量を存分に発揮されていた。大拙の魂というか、その禅の極意が、しっかりと刻ざまれているのである。る。谷口さんは、失礼な言い方だが、ただものじゃない。


■石、漆、和紙、池、そして…
 館長によると、つくばいの設置にかかわる一連の作業は、香川県・牟礼町の和泉屋石材店が請け負った。和泉屋石材店といえば、親方の和泉正敏さんはイサム・ノグチの作品に終生かかわった石工の匠なのである。「自分の好みを徹底的に貫いた住まいと一流の職人を自分の手足とした仕事場」を持つ魯山人の「夢境」に譬えて、イサムの「夢境」は和泉の献身で成り立った、とドウス昌代の名著『イサム・ノグチ、宿命の越境者』で言わしめた。


さあ、これはとっても面白くなってきた。たまらないなあ。


さて、札幌と、最高裁のつくばいと、いま見ている大拙館の中庭のつくばいは、イサム・ノグチが意図した「地球のヘソ」をイメージしたものと同じ部類のものなのだろうか。イサム・ノグチのつくばいへの執念とこだわりは尋常ではないはずだ。そんな疑問がわいた。その答えは、後段に譲り、館長の後ろについて次に進みましょう。


ガラス越しに坪庭を眺めてのち、体を学習空間に戻した。すると、障子を通して柔らかな光が部屋に射し込んでいた。天然素材の香しい障子に手を触れると、指が弾けてカサッと鳴った。


和紙ですね。金沢近郊の二俣という山里で漉いたもので、加賀藩が重用した二俣和紙というものです、と館長の解説が続く。


う〜む、たいしたものだ。ふと気を許していると、これは…と館長の次なるターゲットは、畳一畳ほどもあるうるしを施した一枚板でした。艶やかでむらがない。鏡のようで、黒く深い。壁の大拙の軸「無」を微かに映していた。見事なものだ。和紙と漆、加賀百万石の優美、面目躍如といったところでしょうか。


漆と聞いて、心が動いた。以前にも書いたが、若い記者時代に取材した日光社寺の文化財は絢爛豪華な国宝、陽明門をはじめ、その多くの歴史建造物に漆彩色が施されています。なかでも日光山輪王寺の大猷院二天門に伝わる透き漆は貴重な技法だが、修復してもまもなく雨風でただれ、1年もしないうちにくすんでしまう欠点が難題だった。修復すると5000万円近い費用がかかった。漆の技法は変えられないか、文化庁とのやり取りが繰り返されていた。それを記事にした。その当時、僕が耳にした漆の大家が、人間国宝で蒔絵師の松田権六氏でした。ご存命でした。


館長の名前も松田という。こう切り出した。


あれですね、漆といえば松田権六さんでしょうか。権六さんは、北陸のどの辺でしょうか、新潟だったでしょうか。


予期せぬ客人から松田権六の名前が飛び出したことで、館長の松田さんの口元が少しほころんで、目が輝いた。


■犀川上流は、文化勲章の里
 ええ、北陸というか、金沢です。犀川上流ですよ。犀川上流というと、あそこは、文化勲章の里でしてね。仰せのとおり漆の松田権六、山を上がった平和町には金工の蓮田修吾郎、それに建築家の谷口吉郎さん、いずれも金沢の犀川上流の生まれです。谷口さんは、ご存知の通り、吉生さんのご尊父ですね。吉生さんは父親の故郷、金沢に疎開し学校に通った。


いやあ、それは金沢の傑作、数々の究め技術のDNAを継いでいるのですね。建築家の矜持というか、親子二代の系譜というか、大拙館の設計はある種、運命的な出会いを印象付けていますね。


ですから、市長直々、大拙館の設計は谷口吉生さんを指名したのです。


そうでしょうなあ。それは正解でした。市長もやりますね。大拙館の設計、施工を仕事と思ったら、ここまでやらないでしょう。またやれない。気構えが違いますね。


館長との会話は、充実していた。初対面なのに、ずいぶんと話が弾むことといったらない。記者時代に少し建築家の周辺をウロウロしていたにすぎないのに、生意気な論評をやってしまった。あとで恥ずかしく反省するのでした。


横道にそれてしまうが、少し僕の事を書きますね。フジサンケイグループが事務局を担う日本美術協会主催の世界文化賞では、昭和63年秋の第1回から10回まで、毎回欠かさず顧問で受賞者の一人だった建築家、丹下健三氏、それに理事だった東京都知事の鈴木俊一氏両氏のアテンドをまかされていた。それなので、大拙館をめぐると、次から次と、記憶の断片がわしづかみ状態になってしまうのである。


ある日、丹下先生とご一緒し、鈴木都知事のお近くに行った時、鈴木さんが僕を丹下先生に紹介する状況となった。僕は、都庁の担当で鈴木都政をフォローしながら、丹下番の特命を受け持つという二足のわらじだった。会社の上司もあんまり知らないのだから、鈴木さんが知る由もない。で、鈴木さん、こちらは産経新聞の都庁のキャップをされている出口さんです、名前は俊一で同じなのですね、と鈴木さんはにこやかに丹下先生に紹介した。


丹下先生は、よく存じております、出口さんは新聞記者というより、Almost architectureです、と言って笑っておられた。門前の小僧という。丹下先生のインタビューに立ち会った。パリの建築展に行った。ニューヨークでのプリッカー賞の取材をした。シンガポールは先生が手がけた完成間近のOUBセンター、外観が整ったナイヤン工科大学に同行した。お二方は、Gentleで社会の有り様に責任を感じていた。清楚でお美しい奥様らが陰で献身的に尽くしていた。思うと、懐かしさが込み上げてくる。


この世界文化賞の建築部門では丹下先生、安藤忠雄氏らに続いて、谷口吉生さんも第17回の贈賞式で受賞されました。谷口さんの経歴は後段に別掲しました。


さて、館長は、僕ら、私と金沢工業大学の村井好博さんを案内し、そとの回廊にと導いた。外に出ると、わーっと声をあげてしまった。

いやいや、これは見事ですね。いいですね。

垂直にのびる回廊、そのわきが、水をためた池なのである。水の流れる音が心地よい。周辺の木々に、こんもりとした森が迫る。あたりの景色を映してひっそりとした佇まいだ。清々として、身も心も洗われるようです。う〜む、繰り返すが、これは見事だわ。ため息がもれそうでした。


向こう側の壁のところで水を落とし、その水を循環して回しています。昨年9月に水を入れたままのものです。雨と雪も入るが、汚れない。昨年暮れに、ケヤキの葉っぱを取った。葉っぱは、沈むと動かなくなる。一旦、水を池の下部のプールに落として池の水を抜き、ジェット噴霧で葉っぱやごみを取り除いた。

いやあ、これも凄いですね。循環ですか?

電気代がかかる。それをどうするか、なのですね。

やがて太陽光でしょうか。この循環は、大拙風にとらえると、生命の永遠になる。鏡のような池の水面は、自分を映す鏡に譬えられるかもしれません。でも、風がでると景色も揺らぎますね。


もうひとつ仕掛けがございまして、ほら、波紋がひろがってきました。これは波を起こしているのです。足元のヘリまで波頭が届くのに3分かかる。波動ですね。波の動きが太陽の光で向こうの壁に映るのです。結局ね、空気の動きは波で見る。波は光で揺らぎ、石壁に映る。四季折々の風景を水面に映して観賞できるのですね。風が吹くときれいですよ。


風も見えるのですね。館長、うまいことを言う。松田さんは文学者ですね。いやいや、凄いです。


池は□でしょう。波動は、○なんですよ。


いやあ、黒御影石のつくばいもそうでしたね。池にも大拙の極意を沈ませている。そこまで谷口さんは知恵を絞った。やるものですね。恐れ入りました。感服です。


■景色を映す人工池は、能舞台になる
 人口池と聞いて、これは谷口magicと見抜いた方もいらっしゃるでしょう。谷口さんの代表的建築に数えられる秋田県酒田市にある、写真家、土門拳記念館は、日本芸術院賞と吉田五十八賞のダブル受賞作品だが、ドウス昌代さんの『イサム・ノグチ』の「庭という小宇宙」の項には、「高潔な第一印象のその記念館の前には、周辺の緑を映す大きな人工池が広がる」と紹介されていた。


続けて、イサムはその中庭を担当した。なだらかな傾斜に数段の段差をつけて石床をしき、その前面に池へと落ちる水を流した、とある。酒田の土門拳記念館と金沢の鈴木大拙館にどんな違いがあるのだろうか。谷口magicは、谷口さん自身にイサム・ノグチの魂がのり移ったかのようだ。


写真を撮ってもよろしいでしょうか。
どうぞ、ご遠慮なく、どうぞ。
それでは館長もご一緒に。
私もですか、ハイ…。


僕は、周辺の景色を撮ったあと、池を背景に館長、村井さんらと一緒に並んで、iPhoneをこちらに向けた。


回廊の漆喰が、まばゆいほどの白さを浮きただせていた。


漆喰は、壁の美を誇る左官の石動博一さん、白の漆喰は3pと厚い。金沢の匠の技が一段と光彩を放っていますね。最近は、世界遺産の姫路城の修理に取り掛かっているようです。白亜の天守閣、その外壁をやるのでしょうか。


これも凄いですね。まるで白無垢の花嫁が、白いお化粧をしている風です。美しいです。思わず、手でなぞりたくなりますね。


回廊を進んで突き当りを右に折れた。いやあ、ここからの景色がまたなんとも素晴らしいものがあった。そういえば、坪庭の西の壁が、こんな石組になっているとは気づかなかった。う〜む、これは舞台だ、と思った。


まるでお能でも始まるような雰囲気ですね。

そうでしょう。能舞台になりましょう。


館長は、正面に見える石の壁を眺めて、

あそこがスクリーンになりますね。石は、約400個余り使った。石を組んだのは、香川・牟礼の和泉屋石材店でした。縦、横、石積みにバリエーションをもたらした。さびのような赤が下方に積んで、色合いにバランスをもたらした。何度もやり直しをさせた。谷口さんは、納得いくまで注文をつけた。石の影のリズムが気に入らなかったようです。


やるものですね。やり直しっていってもまさか石を担いで並べ替えるわけではなし、クレーンで動かすわけでしょう。しかし、やる方も大変でしたね。


お蔭で、ここも開館ギリギリに間に合った。まったく水平できれいに仕上がっています。壁の奥、あの森は、入らずの森で4〜500年は経っています。大きな楓がございましょう。北陸の楓は、葉一枚一枚がそれぞれ自在な色を見せます。一つが散ったらまた別の色を見せてそれの繰り返し、錦秋の頃は、水と壁と、森と空が混然一体をなって夢のような世界を見せてくれます。


ひとつ屋根を越えて、東側から中庭の楠木がにょっきり姿をのぞかせていた。正面は、手つかずの森、北側には欅が堂々と枝を広げていた。


あの木は?

タブですか、古い常葉樹です。隣が、緑をたやさない「ゆずり葉」、丸いのがウコギ科の「隠れ蓑」、それに「紫式部」ですね。

いやあ、館長は植物にもお詳しい。

さあ、寒くなってきましたから中に入りましょうか。

いやいや、別の意味で背筋が寒くなりましたよ。


館長について入った先は、天井が高い思索空間、部屋は真四角の法城の構えでした。鎧戸は、普通、斜めにするのだが直線にした。これでは中が見えてしまう。が、外が見えるようにしたのだ。打ちっ放しのコンクリートは、幅が40pの狭いパネルを取り付けた。1ケ所で押さえているので、最低限のくぼみで違和感を消した。見た目が実にシンプルでした。細かく神経をくだいた。が、ゆったりした時が静かに流れているのである。名刀の輝きに似た見事な仕上がりでした。


■秘書、岡村美穂子さんの不思議
 金沢の訪問は、金沢工業大学の先生らと次につながる有意義な懇談が持てました。その詳細は、また別の機会に。夕刻、小松空港向かった。村井さんが見送ってくださった。西の空を見ると、冠雪した白山が西日をうけて薄紅色に染まっていた。


飛行機の中で、ずっと気になったのは、石工の和泉正敏さんが大拙館の石積みの現場に来たのかどうか。その辺に松田館長もやや不確かで、「私は会っていない」と言った。イサム・ノグチの数々の傑作を作り出した石工の和泉さんが来ていたか、どうか、僕には重大な出来事のように思えた。


ドウス昌代さんの渾身の大作『イサム・ノグチ』で和泉さんがどんな人物かはおおよそ掴んでいた。後は、104で電話番号を調べて問い合わせるだけだ。


電話は、受付の丁寧な女性を通じて、和泉正敏さんにつないでほしいといったら、親方は別の部屋にいるので、といってしばらく待っていると、電話口に大拙館の現場を知る職人風の男性に変わった。


和泉正敏さんは、大拙館の現場に行かれたのでしょうか?そんな質問から切り出した。渋い声の職人さん風の男性は、ええその都度立ち会った、と言った。石材店から常時4−5人が作業に携わった。土門拳記念館の設計と同様に、石工に和泉さんを指名することによって仕事の完成度をあげたのかもしれない、と推測した。


電話のやりとりをまとめると、坪庭の黒御影石は、最高裁の中庭に納めたつくばいと同類でスウェーデン産のもの、その西の石の壁に積んだ石は、庵治石(あじいし)だった。日本三大石材産地のひとつ、香川県の五剣山で産出される庵治石は日本で最高級の花崗岩と言う評判だ。「磨くほどに光沢を放ち、長年の風化に耐えられる硬度の高い石質である」(ドウス昌代著『イサム・ノグチ』から)という。


もうひとつの興味は、アメリカ生まれの岡村美穂子さん、現在の大拙館の名誉館長で展示物のほとんどは岡村さんが所蔵している貴重なものだった。鈴木大拙が81歳時から96歳で亡くなるまでの15年間、秘書として大拙に尽くした。当時15歳でした。岡村さんのことに触れては、後日、図書館で関連本を漁った。アマゾンで、鈴木大拙没後30年記念『思い出の小箱‐鈴木大拙のこと‐』と、『大拙の風景‐鈴木大拙とは誰か‐』、これはいずれも岡村さんと上田閑照氏の共著、それに没後40年『鈴木大拙』(河出書房新社)などを手に入れて理解した。


岡村さんに関して僕が一番、驚いたのは、なんども引き合いに出しているが、ドウス昌代さんのその本にほんの数行だが触れられていたことでした。いや、ドウスさんの本に岡村さんがイサム・ノグチとの関係で登場するとは想像もしなかった。なので、余計に驚いたのです。それは、「石工との出会い」の項の後段で、和泉正敏さんがイサム・ノグチに献身的に仕える師弟関係にあった、との記述の次の行から始まる文章でした。


イサムは、「先生」とあがめられるその生活に、本心から安住していたのだろうか。アメリカで禅を広めた宗教家鈴木大拙の秘書だった岡村美穂子は、戦中からのつきあいであるイサムを、「イサム家」が完成してからしばしば訪ねた。その岡村にイサムは一度ならず口走ったという。


「どんなに居心地がよくても、ここに長居しては、ぼくはだめになる」。


■おしまいに
 鈴木大拙館をめぐる、一連の大拙のひと模様と谷口吉生氏の建築の世界は、そろそろ書き終えなければなりません。鈴木大拙の『日本的霊性』(岩波文庫)、『禅 鈴木大拙』(北国新聞社)、『新編 東洋的な見方』(岩波文庫)などに目を通すと、大拙による体系的な禅の研究の本質や、その一方で欧米の著名な知識人、哲学者らとの交流にまつわるエピソード、そこにいつも同行していた岡村さんのリアルタイムな証言、インサイダー的メモや写真、記録の類、その几帳面にも保存、整理しつくした蓄積の数々を読み解いていくべきだったかもしれません。岡村さんに関しては、別の機会で深く取材してみたい、と念じております。さて、ところどころ食い散らかした個所や、突っ込みが不足し、取材が甘い点も多々あります。ご批判を覚悟しながら、ひとまずこの辺で区切りといたします。


【谷口吉生氏】
谷口 吉生(たにぐち よしお、1937年10月17日 - )は日本の一級建築士、日本芸術院会員。東京藝術大学客員教授。日本建築学会賞作品賞2度、吉田五十八賞、高松宮殿下記念世界文化賞など多数受賞。東京都出身。父はモダニズム建築の建築家、谷口吉郎氏。


1960年、慶應義塾大学工学部機械工学科卒業、1964年 、ハーバード大学建築学科大学院卒業、ボストンの建築設計事務所で勤務。1965年-1974年、 東京大学都市工学科・丹下健三研究室および丹下健三都市建築研究所。1975年、計画・設計工房を設立、1979年、谷口吉郎建築設計研究所所長、1983年 谷口建築設計研究所所長、2005年、第17回高松宮下記念世界文化賞]]建築部門受賞、2008年 日本芸術院会員。


主な作品;資生堂アートハウス(共同設計:高宮眞介、日本建築学会賞)、秋田市立中央図書館明徳館、土門拳記念館(吉田五十八賞、日本芸術院賞)、ホテル安比グランド、ジョルジュ・ルオー記念館、慶應義塾幼稚舎新体育館、東京都葛西臨海水族園(毎日芸術賞)、長野県信濃美術館東山魁夷館、日本IBM幕張テクニカルセンター、 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館・丸亀市立図書館(村野藤吾賞)、慶應義塾湘南藤沢中等部・高等部、豊田市美術館、浜松市茶屋 松韻亭、東京国立博物館法隆寺宝物館(日本建築学会賞)、慶應義塾幼稚舎 新館21、香川県立東山魁夷せとうち美術館、ニューヨーク近代美術館新館、京都国立博物館南門、ノバルティス研究所、鈴木大拙館。現在は京都国立博物館百年記念館、米ヒューストンのアジアハウス、スイス・バーゼルの製薬会社の実験棟などのプロジェクトに取り組んでいる。


一般マスコミにも登場する他の建築家とは異なり、専門メディアでも自作品解説など以外は登場回数が少なく、まさに「作品主義」の建築士である。(ウィキペディアなどから)。



 見事な壁は、和泉正敏さん指揮による。
 石は最高級の庵治石、奥は手つかずの森。


 お世話になりました。 
館長の松田章一さん。


 池を背景に、松田館長、村井局長と記念撮影


 あたりの景色を映す池、せせらぎの音が響いてきます。


 こんなところで原稿がかけたらいいなあ。


 真四角仕切られた法城の思索空間、 
コンクリートのパネルがフィットしていた。


 思索空間の天井は、丸。


 冠雪した白山が薄紅に染まる、小松空港で。


 大拙の関連本を地元、
 越谷の図書館で探して読んだ。


Amazonで購入した、 
岡村美穂子さんが書いた大拙関連の本


参考になったドウス昌代さんの大作『イサム・ノグチ』と、 
モエレ沼公園に関する資料


金沢工業大学の先生方と記念撮影、 
みなさん、大学運営に情熱を燃やしていらっしゃった。






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