◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2016/06/30 http://dndi.jp/

-石彫家、和泉正敏氏の世界-
・「天空の庭」(救世神教)礼賛 
 その5  石の聖地、牟礼と五剣山



土砂降りの雨である。
 森の方向に目をやると、本殿をおおう大きな伽藍が白く霞んでいる。雨に濡れる石庭、緑が伸びやかで清々しい。わたしたちは一段高い右側の土手に沿って歩いていた。
 屹立した対の「天之御柱」を抜けて「洗心」へと進むと、さらに雨が激しさを増してきた。頭上の傘の雨音で後藤崇比古管長との会話がとぎれとぎれになった。
 さすがに、この辺で後戻りするのかなあ、と淡い期待をつなぐのだが、そんなそぶりは少しもみせないのである。

 後藤管長がおもむろに口を開いた。

「これがね、『岩鏡』といいます。柔らかな石肌が雨に濡れていっそう引き立ってきました。見事だと思います。牟礼(むれ)、牟礼の石、庵治石(あじいし)です。和泉先生のゆかりの地から切り出されたものです」

 牟礼、庵治石と聞いて、気が引き締まった。そこはあえて言うまでもない事なのだが、後藤管長の指摘の通り、石彫家、和泉正敏氏の仕事の拠点なのである。そして、振り返れば和泉氏とイサムノグチをつないだ石の聖地ではなかろうか、と思うと胸が静かに泡立ってきた。まだ一度も訪れてもいないのに不思議と懐かしさがこみ上げてくるようだ。

 石の聖地「牟礼」、それと庵治石にまつわる和泉正敏氏の関わりについて、少しここで調べておかないと、「天空の庭」の全貌を捉えることは難しくなるのではないか。牟礼、そこにこの連載の原点が潜んでいるように思えた。
 和泉正敏氏は、この創作的芸術をどのような思いで作り上げたのかーそこに少しでもフォーカスできれば、和泉正敏氏の輪郭を再び、手元に引き戻せるかもしれない。
 が、そうはいっても自信はない。つり橋を目隠しで渡るような心境なのだ。

                     DND編集長、出口俊一





◇庵治石の産地、牟礼
 香川県・牟礼町といえば、庵治石の産地で知られる。光沢がある庵治石は、固くて加工に適しており、日本で最も美しい花崗岩だという。その庵治石を大胆に割って遠慮なく組石として配置したのが「岩鏡」だ。
 どのようにやるのだろう、和泉正敏氏が息をつめて石に向かう、静止画像で写したような寡黙な姿が目に浮かぶ。その石彫の巧みを連想するしかない。
 後藤管長が、「牟礼、庵治石」と口にした時点で、本来ならその次にくる文章は、トリップして場面が切り替わり、牟礼の石切り場で目にすべきその描写であるべきだ。
 現場からの情景描写から入るのが、いつものわたしの流儀、書き方だ。つり橋をわたるような心境とは、現場を踏まずに訳知り顔で、見てきたように書くことの危うさを言うのである。



:やはり、和泉正敏氏の仕事場では、五剣山を背景に、「岩鏡」が組まれていた=写真は救世神教からの提供

◇「岩鏡」
 広い平面がこちら側に背を向けているように見える。その滑らかな断面はどのようにしたらできるのだろうか。割るというか、分断するというか、その瞬間の石の割れる音とは、どのような響きなのか。どうしても知りたい。
 後藤管長の説明や資料によるとー。
わたしたちが眺めている「岩鏡」の中央の石には、その正面に薄皮を剥ぐような柔らかな石肌(いわはだ)がみえている。それを最上の「重ね肌」という。南北の筋に沿って割れた時に現れる。
 面白いことに石の割れ方で、その平面の呼び名が違うのだ。例えば、南北の「重ね肌」に対して、東西か、あるいはその他の方向で割れたものが「二番肌」、水平方向に割れると「目肌」といって風合いが異なり石の硬軟に違いがでる。それぞれに美しいことには変わりはない。
「岩鏡」について、和泉正敏氏は、「正面の重ね肌には自分を写し、水平な磨きの面には空を映す」とこのふたつの面を対比させている、という。
 やはりそうか、
 庵治石の「鏡」の前に立ってみると、そんな己の傲慢さが映し出されるようですぐに目をそらしてしまった。




◇緊迫した設置作業
 記録では、「岩鏡」の設置は、平成23年2月24日であった。時折、雨が降る中で、作業は進められた。組石なので搬入されたその数5個、100トンクレーンで吊り降ろすのだが、その五剣山を模した中央の庵治石は、重量が14.5トンもありその重心が取りにくい形のため慎重な作業となった。トレーラーから吊り上げるだけで30分、吊り上げるたびにチェーンワイヤーが軋み、添木の角材が弾けて鈍い音を響かせた。現場は、しわぶきひとつなく緊迫感に包まれていた。ひとつ間違うと、けが人どころか重大事故さえ危ぶまれる工事だった、という。
 組石のわきから霧を噴き上げる装置があり、光をあびれば虹になり、風が吹けば霧が風の動きを捉えるという。雨のこの日でさえ、噴き上げる霧が雨の中で幻想的な雰囲気を醸し出していた。後藤管長のいう石に水、そして光と風、刻々と変化するこの自然の営みを壮大な宇宙空間の中のひとコマとして捉えることは可能だろうか。



:雨のなか、慎重に進められた「岩鏡」設置作業、左側が作業を指示する和泉正敏氏=写真は、救世神教からの提供





◇『光明世界』の記録
 そののち、後藤管長との散策を終えて、本部の応接間でお話を伺っている時に、教団の機関誌『光明世界』を頂戴した。そこには、「天空の庭」の計画から工事段階、完成祝賀等の一連の経過に加え、和泉正敏氏の“独占インタビュー”が掲載されていた。和泉正敏氏は、自然石を活かす、という点に意識を向けているということがわかった。
 自然の中の静寂な佇まい、ということだろうか。わたしの最初の印象はそれほど違っていなかったことに安堵した。
 和泉正敏氏のインタビューといえば、いつもはイサムノグチはどのような人物だったのか、というイサムノグチの証言者としての和泉正敏氏だった。いわば、舞台回しのような印象をもっていた。
 そのためか、本来、あまり多くは語らない取材泣かせのような気がしていたのだが、『光明世界』のインタビューに登場した和泉正敏氏は違った。ご自分の庭でくつろいでいるような雰囲気で、のびのびとして気持ちよさそうに率直に語られているのだ。よく練られた質問にも好感がもてた。
 正直、この『光明世界』は新しい発見だった。そして、宝の山と思った。文字通り、一条の光明というのだろうか、その10冊余りをすべて出張先まで持参して、繰り返しむしゃぶりつくようにページをめくっていた。




◇「石は人間のための道具ではない」
 これは忘備録として書き留めたい。
 石彫の長い遍歴を経て、「救世神教」の後藤管長との運命の出会いによって、いま適えられようとしているのが石彫家、和泉正敏氏の世界、その集大成が「天空の庭」の石庭づくりなのだろう。
 あえて誤解を恐れずにいえば、イサムノグチにすら果たせなかった天と地を結ぶ神話の世界に挑んでいるのではないか、と。
 和泉正敏氏は、「洗心」に触れて、
「やはり、真善美の表現として、例えば水は生命の大事な要素ですが、その水を石の上に置いて美しく見せられるかがテーマでした。水も美しく見えるし、石もきれいに見える。また、それを見ている人の心もきれいにするということが、この石(花蓮の白い大理石)を選んだ一番の目的です」とその意図を明らかにしている。
「石を活かす」という。その石に向かう時の大切なことに関して、
「若い頃は手を加えたものがいいと思い、ずいぶんと作ってきました。機能性を求め、自然から遠ざけるほど、人間のものだと思っていた。しかし、石は人間のための道具ではない。機能的でなくてもいいのではないかと考え、違う作り方、動かし方をしたいと思うようになったのです」と心情を吐露するのである。後世に伝えるべき貴重なメッセージだと思う。


◇五剣山を仰ぎ見る
 これを反対側から見ると、つまり南側から写真を撮って比べるとよけいに鮮明なのですが、「岩鏡」は、「五剣山」が顕れているのに気づきませんか?
 後藤管長は、ゆったりとした口調でそう語った。
「牟礼に五剣山という山があります。共鳴というか、フラクタルというか、五剣山の山の形になっているんですよね」
「えっ!それはこの大きな岩の断面ですか?」
 どうも勘が鈍い。五剣山を知らないというのは致命的だ。なかなかイメージがつかめないのである。後藤管長は、こちらが恐縮するほど根気強く、わかりやすく説明を加えた。
「その上の山並みというか、稜線です」
「あゝ、これが…」
「実に五剣山です」
「へぇー」
「牟礼を、故郷の牟礼を仰ぎ見るような思いで…」
 五剣山、それは庵治石の産地である、ということが後になって知ることとなった。わたしは、迂闊にも牟礼にある、つまり和泉正敏氏の仕事場所である五剣山についての説明をそこで打ち切って、「伝い石」も庵治石か、と見当違いの質問をしてしまった。
 もっと聞いておかねばならないエピソードがたくさんあったに違いない。粗忽者、不覚だった。


◇世界に珍しい石の聖地・牟礼
 いまさらながら五剣山をGoogleで調べると、牟礼町の和泉正敏氏の仕事場所からほど近い距離で、そこの北東に位置していた。
 五剣山は、庵治石を切り出す、つまり採掘場所なのである。牟礼では、石を切り出す場所と、加工する仕事場が間近にある、というのが特徴で、「(そういう場所は)世界的にみてもほとんどない」(イサムノグチ生誕100年、東洋文化研究家、アレックス・カー氏と和泉正敏氏の対談「イサム・ノグチがたどりついた牟礼」から)とカー氏がいう。
 その対談で和泉正敏氏は、イサムノグチに触れて、「やはり山などを見ながら彫っておられましたね。ただ単に完成した作品を、山を背景に置いたのとは意味が違います」と語っていた。
 その伝でいくと、「岩鏡」で描いた五剣山の稜線は、牟礼の作業場で仮組みの際、実際に見える山の稜線と岩の上部の形状を重ね合わせて仕上げたのではないか、とそんな想像が働いた。そのふたつの写真を比べると、ピタリ重なるのかもしれない。

 後藤管長は、「牟礼は和泉先生の原点で、わたしも何度もお邪魔してよく石の上に立たされたものですが、それが偶然ではなくそのすべてに意味があったと思うところがたくさんあります」と語り、「それらを一つずつ紹介していきますので、楽しみにしてください」という。


◇「そこは天の川、星は石」
「岩鏡」をそばに近寄ってみようと、一段高い土手からのり面を降りようとしたら、「そこはいったん下ると、蟻地獄のようで滑って戻れなくなりますよ」と教団の部長職にある小野薫さんが慌ててとめた。キラキラした細かい砂利が敷き詰められていた。

「その細かい石は、すべて庵治石を砕いたものです。『伝い石』のその先まで左右一面に敷いてありますが、それを『天の川』に見立てました。星は、ほら、流れ星も石でしょう」

 ふ〜む、後藤管長の言う「星は石」という言葉に気を奪われながら、今夜、こっそり「天空の庭」に忍び込んでみようと心に決めた。雨があがれば、きっとまた新しい発見があるはずだ。




◇「暗香」
 少し酔いも手伝って、わたしは不思議な体験をした。ランニングシューズに履き替えて、その夜、「天空の庭」に立った。雨は上がっていた。暗闇の中で光を帯びた本殿の伽藍がかすかに見えた。
 顔をあげると、闇の奥に小さな光を放つ星の群れが浮かびあがっていた。その瞬間、ふわっと、体が浮いたのだ。すると、足元からも夥しい数の光が次から次と湧いてきた。庵治石を細かく砕いた「天の川」だ。光と光の間はどこまでも色濃い闇だ。庵治石は夜に星のように光るということを確認した。
 その先を歩いた。どこからともなく甘い香りが漂ってきた。漆黒の闇の中の香り、「石水博物館」で目に止まった茶碗、川喜田半泥子作の梅をあしらった「暗香」を思い起こしていた。


     ≪続く≫


※関連
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