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-石彫家、和泉正敏氏の世界-
・「天空の庭」(救世神教)礼賛 
    その10 「神話づくり」
       ー石庭は、ご神意ー



「天空の庭」は、なぜ、人の心を魅了するのか。
 天上山にたって空を見上げると、果てしない宇宙のど真ん中に佇んでいるような気分にさせられる。「石庭」といっても従来のその概念ではとらえられないのである。わたしのこの連載の悩ましさもその一点に尽きる。
「天空の庭」は、何を意図しているのか、という疑問は、後藤崇比古管長との散策の間、たえずわたしの心に去来していた。あわてん坊だから、いつもなら推測で答えを導いてしまうのだが、「天空の庭」に限ってはいまだに思索を重ねている。もがき、苦しむ、という意味であるなら呻吟といった方がいいのかもしれない。
「書く」ということ、それは「作庭」というスケールの大きい石の芸術に比べれば、矢穴ひとつにおよぶべくもない。心鎮めて、素朴に、その時を待つという時の流れに委ねているところもある。
 まだ見ぬ、憧れの石彫家、和泉正敏氏の息遣いや、割れた瞬間の石の響きを感じなければ、「天空の庭」の本質的な世界には到底たどり着けないのではないか、とも思う。わき立つようなある種の高揚感を胸に秘めながら、やれるのなら平明に繕わずに意識の奥底から、この壮大な創造世界のリアリティーを捉えられないだろうか、と念じている。
                    DNDメルマガ編集長、出口俊一




◇確かに「宇宙船っぽい」
 すぐ目の前である。
『天之磐座』(あめのいわくら)と再び、対峙する。
 再び、というのは正確ではない。思えば、神苑に薫る5月のバラ園の取材から「救世神教」本部の訪問は、今回で2度目だが、「天空の庭」の散策は5回を数える。それぞれを鮮明に記憶している。『天之磐座』には朝霧の早朝、漆黒の闇の中をも徘徊していた。深夜、見知らぬ人が目撃すると、その風貌からイサム・ノグチさんが現れたかと見間違えて大騒ぎになったかもしれない。
 ひとたび足を運ぶと、巨大な石の座を歩き回って時間の許す限り眺め続けているのである。何を見ているのか? ですよね、何を見ようとしているでしょうか。わたしにもわからなくなる時がある。が、そうしていると、石から何らかの信号が届く。信号がメッセージに変わる時を待っているのかもしれない。 
 今回の散策が格別なのは、「天空の庭」の全体構成をプロデュースする後藤管長が直々に付き添ってくれていることだ。が、後藤管長は、風の流れに身を任せている。どうしたことか、踏み込んだ説明を避けてむしろその雨の散策を楽しんでいらっしゃるようにお見受けした。
 たとえば、『天之磐座』を正面から見て後藤管長は、
「どうみても宇宙船っぽい」という。わたしは、後藤管長の冗談めいたつぶやきに思わず吹き出してしまった。宇宙船と聞いてサンダーバード2号をイメージしたからだ。言われてみれば、宇宙船に見える。湖の方に向いた北東側が、宇宙船の先頭だろうか、と。しかし、宇宙船というシグナルが、実は今回のメルマガを書く上でとても大きなヒントとなった。




◇空を飛ぶ石の船
 すると、
「石の船が飛んできた、という、それは神話に基づいている」と言って、
「古代の神話といっても決してそれらがまったくの空想の世界と片付けられない。そういう事実が隠されているのかもしれないものです」と神妙な表情になった。
続く、後藤管長の言葉にわたしは衝撃をくらった。
「天之磐船」(あめのいわふね)。
 空を飛ぶ石の船、それは古代の神話に裏付けされていることが、その後、気づかされることになる。いまやカーボンだが、鉄の塊が空を飛んでいたのだから石の船が飛んでも不思議はない、と、まあ、そんな妄想を逞しくするのである。
 石の船が飛ぶ、文字のない時代にそのようなひらめきが、とても妄想とは思えないのは、それが伝承であれ、伝説であれ、それが今日までしっかりと神話として語り継がれているからだ。





◇玄学氏の「神恩日記」
『天之磐座』に続いて「天之磐船」、いわくら、といわふね、これらは何を意味しているのだろうか。天地の始まりを現す太古にまで、時空の針を巻き戻さねばならなくなったようだ。
 聖地と尊ぶ神恩郷の「天空の庭」に、『天之磐座』が鎮座したのは2009年3月3日だった。
「救世神教」としてはこの日を「御復活・立教祭の日」として意義を込める。
『天之磐座』の鎮座の儀を振り返って後藤管長が、季刊誌『光明世界』に「玄学」の雅号で連載している「神恩日記」の2012年春号に、『天之磐座』鎮座に思うーとのタイトルで、その意義に触れていることがわかった。後藤管長は、わたしには一切そういったことは明かさなかった。
『光明世界』の5年分のバックナンバーを片っ端からページをめくり忘備録として付箋をつけているうちにその一節を見つけた。偶然、目に飛びこんできたという方がふさわしい驚きであった。





◇ご神意
「玄学」氏が、
大きな『天之磐座』の姿を仰ぎ見て思うことは、と前置きして、
彼(か)の古事記、日本書紀の随所に出てくる神々の乗り物、「天の磐船」を見る思いでしたーと、畏敬の念を込めながらしかも端的だがその数行に万感の思いがにじんでいるように読めた。
 そしてこういう歌を紹介する。

「石(いそ)の上(かみ)古事記(ふることぶみ)にも未だ見ぬ地上天国の美(うるわ)しの姿よ」

「天空の庭」の作庭は、奇しくもこう詠んだ明主様(教祖)の地上天国に通じたご神意でもある、と解釈できる。最高の神が、天から降られた「天の磐船」が、そのわたしの目の前にあるこの堂々の『天之磐座』であり、明主様がこの磐座から地上へと降り立たれたという姿が、「いまここに出現した」との確信なのだろう。

 それらを裏付けるように、「玄学」氏は、
「霊界をつき抜いている不二の山」という明主様の冠句(かんく)を引用されながら、富士の型である光明台が、天上の山の磐座に突き抜けており、その御座(みくら)を磐船として地上へと、神恩郷に降り立たれたということでありましょう、と述べ、そして「壮大な光景です。今降り立った如く『天之磐座』が天上山におさまりました」と明快に言い切っていらっしゃる。それは、「大宇宙の完成が五六七(みろく)」というべき、大きなご経綸のお示しであるという。

「神恩日記」の末尾には、「天空の庭」に捧げるとした御神歌が紹介されている。
その数51首、そこに「天空の庭」を待ち望んでいたかのような歌が確認できた。

・未だ世になき珍らしき石庭を作らむとするわが望みかな
・珍らしき大石小石に彩れるわが広庭(ひろにわ)を石楽園と名づけぬ

 なんということだろうか、後藤管長の意図は、それはご神意のままなのか、と受け止められるのである。わたしにとっては深遠なほどの宗教的開眼といえるかもしれない。そこに石彫家、和泉正敏氏は、どのようにして現れたのか、その不思議な縁を思うと、感動で心が泡立ってくるようだった。




◇美しい国名、「虚空(そら)見つ国」
「玄学」氏は、その前段で、
 日本は古来よりいくつもの美しい国名で呼ばれていますーとして、こんな古歌を紹介する。

「神代より言(い)い伝(つ)て来(け)らく虚空(そら)見つ日本(やまと)の国は皇神(すめかみ)の厳(いつく)しき国、言霊(ことたま)の幸(さき)はふ国と語り継ぎ言い継(つ)がひけり」

 調べるまでもなく、後藤管長が紹介したのは、万葉の歌人、山上憶良の歌であった。古来、日本人は言葉には言霊があると信じたという。美しい言葉を紡いでつなぎ、尊んできたということだろうか。
 その中の「虚空(そら)見つ国」とは、神武(じんむ)天皇が神武東征のきっかけとなった古事に始まります、と述べ、塩土老翁(しおつちのおじ)という翁(神)が、神武天皇に
「東の方に青い山々にかこまれた美しいよき地があり、天の磐船(いわふね)に乗ってその地に降った神がいる」
 と、語った。この神話の中に、「天の磐船」が登場するのである。
 その神というのは、一足先に旅立った天孫(てんそん)である饒速日命(ニギハヤヒノミコト)に違いないとして、神武天皇はその地に向かって東征を決意した。この時、「天の磐船」から地上を眺めたということから、「虚空見つ日本国」と言われるようになりました、と「玄学」氏は論じるのである。
 そういえば、後藤管長は、「天空の庭」の作庭は、「神話づくり」をしているのかもしれない、とこれまで何回となく口にされていたように思う。その時は、何を意味しているのか、正直いって判然としていなかった。


◇「日本書紀」にみる「天之磐船」の饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
 石の船に乗って降り立ったという、日本の神話に登場する神は、『日本書紀』では、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)、『古事記』では邇藝速日命と表記されている。別名、櫛玉命(クシタマノミコト)。
 夏休みを使って、にわか勉強に古典をひも解いた。
『日本書紀』では、巻第三「神武天皇 神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)」、舌をかみそうな名前だが、その冒頭「東征出発」の項に登場する。わたしが手にしたのは『日本書紀(上)』(全現代語訳、宇治谷孟氏、講談社学術文庫)だ。
 東方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。そこへ天の磐舟にのってとび降ってきたものがある。大業をひろめ天下をおさめるのによい、きっとこの国の中心地だろう、というのである。物語には、そこに行って都を作るにかぎる、と言えば、諸皇子たちも「その通りです。速やかに実行しましょう」と申された、と書かれている。
 だが、ここだけ切り取ってもその脈絡がよくわからない、と思うが、まあ、しょうがない。天地創造、国造り、数多くの神々が誕生していくのである。


◇「古事記」では
 さて、一方の『古事記』ではどうか。
「日本の古典をよむ」シリーズの1、『古事記』(校訂・訳/山口佳紀氏・神野志隆光氏、小学館)の「序」は、混沌とした初めの気が凝縮していた頃、兆しや形はみえていない。天地がようやく分かれると、三神が万物の始まりとなった。陰と陽が分かれて、二柱の神が誕生し、すべての生みの親となったーという書き出しだ。
 その神が次の章で詳しく書かれる「伊耶那岐命と伊耶那美命」(イザナキノミコトとイザナミノミコト)で、その三の項「国生み・神生み」で、国を造り終えてのち、さらに次々と神を生むことになる。その神の名の一つに、
「鳥之石楠船神」(とりのいわくすふねのかみ)、またの名を「天鳥船」(あめのとりふね)、鳥のように速く行く船という意味として登場する。


◇復活する神話
 やはりそうだったのか。
「天空の庭」がなぜ、神話づくりといわれるのか、後藤管長の意図しているものが見えてきたかのように思えるのだ。ご本人にもう一度、どうなのか、確かめないと断定的なことはいえないが、「天空の庭」は、どうも現代の神話を創造しているのではないか、と。『天之磐座』が宇宙船というのもまんざら冗談とは思えないのである。
『天之磐座』が降りたった場所が聖地であり、世界の中心地という解釈も成り立つのかもしれない、と思ったら、鳥肌が立った。この辺は、地上世界に国造りを整える作業が、天の神の主導で始まるところなのだが、「次に、生みし神の名は、鳥之石楠船神。亦の名は、天鳥船と謂ふ」と。「天之磐船」が現れてくる。
 天と地が、いまのようにそれほど離れておらず、古代では柱があれば行ったり来たりできたというのも興味深い。


◇『古事記』に重なる「天空の庭」
 さらに『古事記』を細かくみていくと、随所に「天空の庭」と重なることに気付かされた。凄いことだなあ、われながら再び、心が浮き立つようで気が急いた。
「序」の冒頭から「つたい石」に遭遇した。
「天(あめ)の安(やす)の河原で神々が相談して天下を平らげなさり、小浜で説得して(国譲り)、国土を平定なさった」と。
「天の安河」は、よく知られていることだが、「天の川」のことである。「伊耶那岐命と伊耶那美命」の二の「神の結婚」の項では、二柱の神はその島に天降りされて天の御柱を見立てた、とあった。天を突く「天之御柱」は、ここからきているのではないか、と思った。「小浜」は、天上山付近の「洲浜」だろう。
『日本書紀』にも、巻第二「神代(下)」には、天稚彦(あめわかひこ)を選んで弓と矢を授ける場面がある。「矢」は、「天羽羽矢」(あまのはや)と呼んだ。同じ項の先には、『天磐座』(あまのいわくら)の記載が確認できた。


◇古代の目撃者
 まだ文字を持たない時代の神話が、現代に復活したとするのなら、巨大な石の彫刻は、古代の目撃者になぞらえることができるかもしれない。悠久の石の系譜を知悉する和泉正敏氏は、後藤管長に宛てたお手紙のなかで、このような石への賛歌を託していた。(光明台完成10周年記念事業の冊子から)

 古代から人間は、石の中に潜む
 自然の神秘を探し求めた。
 石を立て、石を並べ、石を積み重ねた。
 宇宙との対話を念(おも)い、
 生きる大切な糧として、
 石から未来を信じることも悟った。
 私は石を割ることに専念し、
 石に立ち向かった。

 パリッと音をたて割れた瞬間の石肌、
 初めて空気に触れた鮮明な美に
 私の心はときめき、
 勇気を汲み取っている。

 その信じがたき割肌の
 あまりにも清楚で潔癖な姿は
 大地と天をつなぎ、
 空間を静かに支配する。
 生物の根源である石に
 私はもっと近づきたい。
 未知への誘いである。

 石を生物の根源と詠われ、それでもいまだに「もっと近づきたい」と念じる和泉正敏氏、その探求心は、啓示を受けた信仰者そのものではあるまいか。わたしは、感動を持ってこの一文を拝読した。和泉先生の胸中を垣間見た思いがした。
 さて、『天之磐座』の巨石は、どこから現れたのだろう。後藤管長と和泉正敏氏は、いつ、どんな場面で、神話づくりに挑戦しようしたのであろうか。浮いては消え、消えては浮かんでくる「天空の庭」の不思議、和泉先生のお言葉を拝借すれば、その深淵に「私はもっと近づきたい」と素直に思うのである。




◇東大阪市日下という地名
 余談になるが、8月5日は亡父の7回忌であった。写真や書類を整理していたところ、一通の戸籍謄本が出てきた。白地に青い線の入った古いコピー用紙は字が霞んで見えにくくなっていたが、父の出生地は「東大阪市日下(くさか)」と読めた。父の父親、つまりわたしの祖父は、そこで造園業をやっており、その弟、叔父は近くで石材店を営んでいた。兄弟でホテルや料亭の庭づくりを手掛けていたようだ。
この東大阪市日下という地名が、『古事記』などに登場する。
「神武天皇」の項の「五瀬命(いつせのみこと)の戦死」を読み進めていくと、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)が、待ち構えていた登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)の軍と一戦をまじえることになる。そこで神倭伊波礼毘古命の軍は、船に積んであった楯を取って降り立ったところから、その地名を名付けて「楯津」(たてつ)と言った。そこが現在の日下(東大阪市日下町)の「蓼津」(たでつ)なのだという。
 ネットで「謎の磐船の伝承地」でヒットしたところでは、天の磐船は、『先代旧事本気紀』の中に
「饒速日尊、天神御祖の詔を受けて、天磐船に乗り、河内国河上哮峯に天降り坐す。(中略)、いわゆる天磐船に乗り大虚空(おおぞら)を翔行きて、この郷を巡りみて、天降り坐す、すなはち虚空見日本国(そらみつやまと)といふは是なり」と記述されていた。

 そして、『大阪府全誌』の磐船・岩船神社によると、
「東大阪市日下の生駒山に哮ケ峰・饒速日山があり、山麓の石切には、同じく饒速日命を祀る石切剱箭神社がある」という。日下に限らず、各地に磐船の伝説が神社などに残っている。空を飛ぶ磐船は、古代の視点からすれば、当然のこととして描かれていることに気づかされるのである。
 石に、磐船に、わたしの係累が多少の血脈があるという事実に、驚いた。なぜ、この連載をやっているのか、その理由が分かるような気がして、少し鼻が高い。


◇悠久の太古
 さて、後藤管長は、「今という中に悠久の太古がある」(天空の庭奉納祝賀祭での挨拶)、2012年11月3日)と喝破された。
 古代のロマンというけれど、「天空の庭」に佇んで、すぐれた太古の言霊に耳を澄ませてみてはどうか。飛鳥時代の武人、角麻呂(つぬまろ)のこんな歌を紹介してこの項を終える。

・久方のあまの探女かいはふねのはてし高津はあせにけるかも
・磐舟のいしの大船に棹さして行末なかく漕渡るらん




:和泉正敏氏と後藤管長、分断された巨石を眺める貴重な一枚=牟礼の石置き場で2006年撮影


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