DNDメディア局の出口です。3・11あれから。東日本大震災、福島原発爆発の大惨事から2年。震災被災者にとって、恐らくは激流のような2年が過ぎたのではないか、と天声人語は書いた。NHKラジオは、悲しみを胸に押し込んだままだと、被災者の生の声を伝えていた。そして、釜石に住む佐々木俊さんから、あの日、失うものが多すぎて、あのまま2年という感覚の被災者もいます、とのメールをもらった。
悲しみを胸に押し込んだ、激流のようなあのままの2年というものが、実感として捉えきれないのが歯痒い。復興は3年目に向かう。中国の四川大地震の復興は、職と住に焦点を定めて3年で適えた。現地の震源地付近まで研究調査で行ったからわかる。「あのまま2年」とは、現地被災者への対応が遅れている、という"告発"だ。
もう2年、いやまだ2年というべきだろうか。被災者らの悲しみや痛み、それを共有するところから始めよう、と心に誓った。
◇胸の疼き
3・11それから。人によって捉え方や関わり方に違いはあるだろう。説教めいたメッセージが溢れる。支援を名乗って、被災地を自分の都合に利用してはいないか。支援を食い物にする、そんなまやかしの輩が跋扈する。寡黙であることをいいことに、東北の人の情けに寄りかかるのだ。
温かく優しい被災地に、何兆円もの巨費がばらまかれた。どこに使われているのかよくわからない。それに言い訳し続けた政治家、冷ややかな対応の行政、これは茶番かもしれない。茶番でなければ、いったい何? この2年の間、ああすればいい、こうやってほしい、との意見や要望がたくさん寄せられた。3.11を迎える特番や正月のNHKの討論番組でも紹介されたが、不思議とそれが形にならない、なぜ?
みんな懸命なのだろうけれど、うまくまわらないのは、行政の仕組みに問題がある。よく指摘されているところだ。言えば、きりがないけれど、いつまで小さく区切った行政組織にこだわっているのだろうか、津波に襲われた三陸沿岸の街は、ひとつなのに。
書きとどめておきたいことがある。震災からまもなくしてこんな場面をテレビ映像で観た。いまだ記憶から抜けない。
行政の担当者が拡声器で、どうぞ、みなさま、ご遺体の火葬はこちらで責任を持ちます。ついては、それぞれご遺体を火葬場にまでお運びください―と声を張り上げていた。雪がちらつく野外、そこで何時間も待たされていた。あの〜車は流されてないのだけれど…、ガソリンはどうすれば…と、やっと生きのびたとはいえ疲労困憊、家族を失って悲嘆にくれる遺族らは、力なく訴えるのだが、くぐもった声は、担当者の耳には届いていないようだった。聞こえなくても、訴えがなくても、その状況を察すれば、何が必要かは、おのずとわかる状況だ。そのため、寒さに震えながら途方にくれていたのだ。担当者は、そんな被災者を前に、どうぞ、よろしくお願いします、と用件を締めくくってその場を立ち去った。
担当者に文句を言うつもりはない。ギリギリの極限状況なのだから。が、こういうやり方は、ぼくが信じる日本の姿じゃない。行政は、困っている個々人には力になりえないものだ、と知った。当時の政権の閣僚は、現地入りしてその場に5分しかいなかった、と地元でささやかれていた。その後、被災者らは身内のご遺体をどうしたのだろうか、ずっとそのことが胸の奥で疼くのだ。
政権が変ったから、少しはよくなるだろうか。復興を加速する、と安倍首相は復興に本腰をいれることを約束した。月1回は被災地に入る、と免罪符のように繰り返し主張する。行かないことより、行った方がましだ。が、それでどうなる。大事なのは、そこだよね。あの仮設住宅ってどうなの。スーパーもお店も作っちゃいけない、というのはどういう感覚なのだろうか。3年で「住」と「職」を提供した中国に劣っていることを知るべきだ。
◇優しさ、という価値
現地に入って教えられた。それはぼくだけじゃないと思う。宮古から釜石、気仙沼、女川、南三陸、石巻、仙台、そして名取の閖上に至る三陸海岸ぞいを7台の車リレーで南下した。春まだ浅い2011の5月上旬だった。鉄道などの交通手段が断絶し、旅館やホテルは閉鎖、宿泊施設がなかった。そのため、釜石の佐々木雪雄さん宅、気仙沼の足利英紀さん宅に泊めていただいた。
ぼくはカニ好きだとネットで調べて毛ガニを食膳にのせた佐々木さん、また好物のカレーで親切にもてなす足利さん、笑いながら食べて、その真心に涙した。大切なのはやさしさ、その一語に尽きる。人の心を大切に。人間として最大の価値かもしれないと、いのちに刻んだ。
もう2年、いやまだ2年という方が正解かもしれない。哀しみが消えないのだ。忘れてしまいたいのに、切なさが追いかけてくる。数々の記録が劣化していくなかで、いくつかの記憶が浮かび上がってくる。これを生涯抱えていくことになるのだろうか。
被災地の方々は、変わらぬやさしさだった。親しくなって気がつけば屈託のない笑顔をもらって元気になったのは、このぼく自身だった。励ますつもりが、逆に励まされていた。彼らの笑顔に救われた。申し訳ないほど気を使っていただいた。丹精込めた野菜なんかをあれもこれもと惜しみなく与える。抱えられないくらい持たせてくれた。開けっぴろげで、大らかで、惜しみなくもてなす、東北の人というのは、なぜもこうに自分を犠牲にしても他人にやさしいのだろう。この人たちの日常の幸せを奪った天を恨んだ。神仏の加護はあるのだろうか、と疑問を抱いた。
振り返ると不覚にも涙が落ちる。これまで何度、こんな思いをしただろうか。涙をふいて、前に歩みをすすめなければならない。いま、彼らに心からの感謝を伝えたい。今後もそばに居てその朴訥な言葉や、優しい心を大切にしますから。3・11いまから。ふだん通りの勤め、毎日通う学校、季節を待つ田畑、いつもの暮らし、そんな平凡な日常の光景が一日も早く訪れることを祈りたい。
◇鮮烈ないくつかの記憶
現場で、言葉を失っていた。この2年間で4回、現地に入った。その度に絶望の文字が脳裏をかすめた。地震で揺れ津波に襲われ、原発事故に翻弄され続けた。街は、三日三晩天を焦がし焼き尽くされた。被災者の心の渕をなぞったらいたたまれなかった。表情が歪んで落ち込んだ。一週間そこそこの取材でさえこんなに精神的にダメージを受けたのだから、渦中の被災者らの心情を思うと、心が波立ってやりきれなさが募った。夜中に、女川の倒壊したビルを真下にのぞむ、その茫々たる光景にたびたびうなされた。
そこは釜石港の津波が襲った港湾施設の一角。8000tの中国船籍のタンカーが岸壁にせり上がって座礁した驚愕の光景が生々しい。一般道を隔てる分厚いコンクリートを突き破って丸みを帯びた赤い鼻先が路上に。聞くと、津波に翻弄されながら湾内を右に左にゆっくり回りながら方向を失ったのだ。対岸に巨大な石油タンクが浮いていた。荷役に使う鋼鉄のクレーンが流されて海中で横倒しになっていた。
あれは気仙沼港。足利さんの軽トラックは、やっと道が開いた気仙沼港から500mほど陸側の一帯をゆっくり走っていた。現場は焦土と化していた。焼けただれた家や車が無残だった。津波で流された民家の2階に車が乗っかったままだ。死臭がする、と足利さんが表情をゆがめた。眼前に、打ち上げられた巨大な漁船、第18共徳丸が態勢を保っていた。その陰で白いヘルメット、白いジャンパー、白いズボン、白い長靴といった出立で50人ほどが横一列に並んでがれきを掻き分けていた。遺体捜索が続けられているのだ。だんだん、ぼくの顏が歪んできた。
そこは南三陸。海から陸へ見渡す限り、壊滅的な惨状だ。風が出て雪が舞った。骨組みだけ残る3階建ての防災対策庁舎、献花台で手を合わせた。最後まで津波の警戒を叫んでいた職員の遠藤未希さんの声が響いてきそうだった。黒い土が剥きだしの平地に雪が白く降り積もった。雪が、この町の悲しみを消してくれるかもしれない、と願った。そこでも動けなかった。
そして釜石の鵜住居地区。津波が川筋を駆け上がり、渦を巻いた。津波の警報を耳にして、一週間前に落成した防災センターに住民200人余りが避難した。その逃げ込んだ後ろから追いかけるように大津波が押し寄せた。防災センターは、1階、2階の窓や壁が突き破られた。一瞬だった。津波は住民を巻き込んで山側にせり上がっていった、という。犠牲者は160人に及んだ。
再訪。道はぬかるんでいた。押し潰された車がうず高く積まれていた。瓦礫が周囲を覆う。悪臭が漂う。ふと、目を足元に落としたら、女児のものと思われる縫いぐるみが転がっていた。持ち主は、どうしたのだろうか、と思うと動悸が激しくなった。胸に悲しみがつのる。周辺の建物は倒壊したり横倒しになったり跡形もなく流されていた。山側の奥、津波が途切れた土手に、赤いチューリップが咲いていた。その印象が記憶から抜けない。しばらく立ちすくんでしまった。
取材は、車窓からカメラを向けた。時には、車を降りて歩いた。夢中で、行った先々のルポをメルマガにした。これらは、その一端だ。
◇銀シャリ名人、鈴木英俊さんの涙の物語と碑文
仙台市宮城野区の蒲生地区。がれきとヘドロ、それに塩害と三重苦の田んぼを目の当たりにして息をのんだ。これでは当分の間、米の栽培は困難だと疑わなかった。ポンプ場が破壊された。田んぼの水回りがやられてしまっていたのだ。ヘドロ厚さ20pも覆ってひび割れていた。ガソリンの臭いが鼻を突く。
ところが、そこで有機農業を営む鈴木英俊さんは、ひとり立ち上がった。必ず、やれる。復興のシンボルにしたい、との気構えだった。実弟の家族は津波の犠牲になってまだ悲しみの真っただ中だった。が、水の確保さえできれば、と祈った。そこへある朗報がもたらされたのだ。
長年、指導を仰ぐ有用微生物の開発者で、琉球大学名誉教授の比嘉照夫氏から、井戸を掘って水を吸い上げるポンプの掘削費用を支援しましょう、という申し入れだった。それが見事に的中した。お蔭で震災から2ケ月後の5月24日に田植えを強行した。幸い、恵みの雨が降った。秋に金色の稲穂に喜びがわいた。テレビや新聞、雑誌に、奇跡の収穫、復興のシンボルと掲載された。全国に報道された。
ぼくは、一昨年5月から密着取材をし、その都度配信した。そして、銀シャリ名人と名付けさせてもらった。親しみを込めてお付き合いさせていただいている。ぼくにとって、このご縁は生涯の宝物となった。
ヘドロは微生物で分解できる、と自信をのぞかせる鈴木さん、背後にポンプの掘削が進められていた
その鈴木さんが、復興への感謝を込めて記念碑を建立するという。その計画を練っていることを盟友のEMみやぎ世話人の小林康雄さんからメールで知らされた。文面に、ついては、碑文を考えていただけないだろか、という依頼が舞い込んだ。それは鈴木さんが思いを綴る方がよいのではないか、一度は、やんわりお断りしたが、それは鈴木さんから希望だという。
その夜、鈴木さんの奮闘をイメージして文字にした。「3.11あの日あの時」と題名をつけた。
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すべてが悲しみに沈んだ
あたりまえの日常の風景から色が消えた
しかし、負げなかった
あれから、ひとり立ち上がった
その憂いの中に覚悟と優しさがあった
忘れまい
比嘉照夫先生のご恩、大勢の涙の励まし、手を握って泣いた家族、
それらの絆が奇跡を呼んだのだ
それから、瓦礫の田んぼに慈雨が降り注いだ
ポンプから水が噴き上げた
緑の稲に笑顔が戻った 笑ったら、また泣けた
蘇る田んぼ、有機が勇気に変じたのだ
その千年に1度の未曾有の大震災、大津波の、
あの日あの時の我らの闘いの日々を忘れまい、決して忘れまい
いまから、一歩前に 涙をふいて歩み始めなければならない
金色の稲穂に風がわたり日が照らす
希望の明日に向かうのだ
俊楽
小林康雄さんいう。 「震災直後から現地に密着して取材を続け、被災地の惨状とその中で絆を育くむ東北人の雄々しい姿レポートした、出口さんにして書けた碑文だと思います。その言葉遣いの中にプロ魂を感じ、その表現の精妙さに感動しました。出口俊楽さん、よくぞ書いてくれました。」
鈴木さんからもメールが届いた。 「収穫祭後から私なりに大震災の記録と井戸を掘った経緯と比嘉照夫先生、各地区から支援によって稲作りが達成できたことなどを後世に語り継がねばならないと思いました。小石を投じた波紋が思いもよらぬ大きさになり、そのお陰で素晴らしい出会いが得られました。出口先生の抒情詩的な文面に目頭が緩みました。刻まれた碑文が目に浮かびます。建屋の設計と石碑の建立計画が同時進行しています。出口先生、小林康雄さん、安斎かずえさん等の親身なる支援に感謝致しております。今一歩踏み出したばかりです。」
再び、胸がつまった。記念碑の落成には勇んで仙台に行こう、と思う。絆、確かにそうかもしれない。この2年、夢中で取材し書いてきた。大変な量に積み重なった。釜石の佐々木さんファミリー、気仙沼の足利さん、石巻の齋藤さん、仙台の安斎さん、鈴木さん、閖上の菅井さん、高橋さん、…まだまだお名前を書ききれないが、このご縁は、ぼくにとってかけがえのないもの。これからもフォローしよう、と心に決めている。できたら一冊の本に仕上げたい。
生涯の宝物、生き抜いた証だから。3・11、ぼくは取材を続けていきますので、みなさま、どうぞよろしく。
<仲間たち>