◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2012/03/14 http://dndi.jp/

老舗旅館、大鍋屋4代目女将いのちの物語

 ・3・11、あれから1年、東北再訪:その2は気仙沼発
 ・炎上の遊漁船と熊谷浩典さん、渾身のドキュメント
 ・屋台村、月子さんの絶品ラーメンとある俳優との絆
〜連載〜
・松島克守氏 第15回 「知的クラスター10年の総括」
http://dndi.jp/27-matsushima/matsushima_15.php
・張輝氏 第45回「「岡田流」は中国サッカーへの旋風になるか」
http://dndi.jp/16-tyoki/tyoki_45.php
・黒川清氏 「Media Lab in Tokyo -2」
http://dndi.jp/14-kurokawa/kurokawa_Top.html


 気仙沼の内湾が炎上、周辺に火の手が迫る。浩典さんの船は、写真の下方に写っていた。危機一髪で脱出した。そのまもなく炎上し、船は沈んだ。(熊谷浩典さん提供)

DNDメディア局の出口です。気仙沼再訪。不思議なほど偶然が重なりました。思い通りにいかない、それが都合のよい結果をもたらしたのかもしれない。何かに導かれているのではないか、という風な天の差配に感謝した。今回の訪問先は、フカヒレで名高い漁業と人情の街、気仙沼です。老舗旅館で繰り広げられたある家族の3・11、その壮絶なドラマです。


◇どこも満杯、宿の手配に往生した気仙沼


 大鍋屋の女将さん、熊谷桂子さん、フロントの掲示板に3・11の記録写真が生々しい。若手ホープの代議士、小野寺五典さんのご実家でした。

気仙沼は、いち早く有名ホテルや旅館、それに民宿などが再開した、と聞いていた。が、いざ、予約の電話を入れると、3月いっぱいはどこも満室状態で空きはなかった。復興工事を請け負う業者や、地質測量、調査の専門業者、それに気仙沼港に停泊する船主や漁業従事者らが、長期滞在のために部屋を抑えていた。ボランティアも入っていた。復興特需で湧いている。


昨年5月上旬にホテルを再開した港町界隈の大型ホテルは、ネット検索すると3月はほぼ満室で、希望の3月2日は絶望的だった。中堅のホテルも同様だ。いやいや、どうしたものか。このままでは気仙沼をスル―しなければならない。そんな諦めの気持ちが脳裏をかすめた。


ひらめいたのが市の観光協会でした。ネットにのみ頼ったらいけない。昔はこうやって片っ端から直に電話したものだ。応対にでた女性がフェリーで大島に渡れば空きがあるかもしれないとアドバイスしてくれた。どこの旅館に空きがありますか、と聞いたが口ごもっていた。う〜む、この時、大島の民宿を紹介されていたら、このメルマガは生まれなかったに違いない。女性は、恐縮しながら宿泊施設の一覧表をFAXで送ってくれた。気仙沼の観光桟橋から大島の浦の浜航路のフェリーの時刻表がついていた。


大島といえば、地震、津波、そしてその後、火災に見舞われた。4日4晩燃えて寒空を赤く焦がした。大島の旅館や民宿はいま12軒を数えている。「海鳳」、「門松」、「魚波」、「くぐなり」などの旅館の名前が散見された。学生時代のアパートと同じ「あけぼの荘」というのもあった。気仙沼市内で宿の確保が無理だったら、大島に行ってもいいか、と思っていた。


気仙沼市内は11軒、収容の大きなホテル望洋は、工事関係者らで3月は満杯、といわれた。それじゃ民宿の崎野屋といえば4月まで満室、キャンセルがあるかもしれませんという。次々と電話をした。言葉は丁寧だったが、結果は非情だった。その他も予約でいっぱいだった。さすがに少し焦った。


ふ〜む、どうしたものか気になったのが、大鍋屋本館だった。一覧表の下から二番目に書かれていた。無骨な屋号の印象になじみがない。少し腰がひけた。が、やれやれと思いながら番号を押した。今思うと、最初から大鍋屋に泊まる運命だったという気がしてならない。ここからすべてが始まった。


大鍋屋に電話を入れると、透る声の女性が出た。3月2日の予約をお願いしたいのですが、と聞くと、ハイ、申し訳ありません満室です、3月いっぱいは…とこれまでの宿と同じ返事だった。みなさん、お仕事の関係でお見えになっています。急に部屋に空きがでることもあるのですが、それがいつになるかわからない、と言う。ためらいと申し訳なさが電話口から伝わった。それでは、ガチャッと不作法に受話器を置かないところが、気仙沼の人情の奥の深いところだ。老舗旅館の熟達の女将の所作なのであろう。


いやあ、もうこれで7〜8軒目、取材のスケジュールが前後切られており、他の日というわけにはいかない。いやあホトホト参りました、と泣きを入れた。そして思い切って、ロビーのソファーでも物置でもどこでも…と、懇願して粘った。


あら、どうしましょう、と困った様子の女将さんが、一拍おいて、それじゃ、とりあえずいらっしゃってください、と言ってくれた。小躍りしたくなるくらいうれしかった。未知への扉が開いた。う〜む、取材の半分が進んだのと同じだ、と被災地の再取材に十分な手応えを感じた。


よくまあ、再開にこぎつけられましたね、被災地を取材しています。ぜひ、お話しを聞かせてください。無理を承知で厚かましく取材まで申し込んだ。素敵な女将さんに心から感謝した。よかった。その日朝から宿の予約で半日を費やしたかいがあった。今日中に決めないと、次の行動の予定が立たなかった。前日まで仙台、そして2日の朝は石巻、南三陸、女川などを経て気仙沼に入る。3日は釜石に向かう予定だった。


大鍋屋本館、その住所は気仙沼市魚町1丁目とある。地名からして海に近いことが容易に想像できた。それは津波の被害が大きかったことを意味した。昨年5月、この周辺を歩いた。案内役の足利英紀さんの店舗兼住宅のあった場所とそんなに離れていない。足利さんの住宅周辺は跡形もなく流されていた。潰された住宅の残骸やがれきがうず高く積まれ、流れ着いた車数台が無残だった。異様な悪臭でむせ返った。。


あの辺なのだろうなあ。地図を広げると、気仙沼の岸壁とは目と鼻の先だった。観光桟橋や港町ブルースの歌碑が建つ船着き場が、歩いてすぐだった。その道路のひとつ裏側の通りに、大鍋屋は旅館の看板を掲げてあった。広い玄関と奥のロビーから暖かな明りがもれていた。


◇石巻、南三陸、女川再訪

到着は、予定時間を3時間も過ぎてしまった。気仙沼市内についたのは夕方5時を回った。仙台からEMみやぎの鈴木徹さんが運転し、前夜ご一緒だった小林康雄さん、安斎かずえさんらが同乗してくれた。午前9時に仙台のホテルを出発し、石巻市内で斉藤義樹さんらと再開しかつて避難所となっていた市立湊小学校に向かった。学校は廃校となって閑散としていた。壁に板が打ちつけられていた。あの時、2mを越える津波が街を襲った。斉藤さんはEMの恩師を失った。学校の裏の寺院の墓にワゴン車な数十台が流されて墓石をなぎ倒していた。が、それもすっかり取り除かれ真新しい黒御影石に建て替えられていた。


石巻では斉藤さんの案内でNPOの運営する集会所にいった。ご近所の被災者がお茶をしていた。「おちゃっこ」と呼ぶ。ボランティアの若い女性らがお年寄りらにマッサージやら、お茶の世話をしていた。お昼はカレーだ、とすぐ鼻でわかった。だれでも無料でふるまわれていた。惜しまれてこの11日で閉められた。


女川町に急いだ。昨年5月の時と同じく女川町立病院の高台から一望した。流された町は片付けが進んでいた。朽ち果てた工場やビルは錆びた鉄骨をさらしていた。後方の谷合はがれきに埋まっていた。津波で浮いて25m流された4階建てのビルが横たわったままだった。震災遺跡として遺す計画が浮上していた。




 (昨年5月撮影)


 悲しみの女川、町立病院の高台から海を望む。
 ビルが横倒しになったままだ。
 周辺は瓦礫が片付けられた。(今年3月撮影)


人影はなく工事車両がすれ違った。その先々でカメラを向けた。視界をさえぎるものはなにひとつなく茫々たる更地に海風が吹き付けていた。数分もカメラを構えていると、凍えそうだ。この街の復興は、いつになるのだろうか。急いで車に乗り込んだ。雪がちらついてきた。今朝の天気予報通りだ。スピードをあげて北上し、悲しみの南三陸に向かう。


壊滅的な爪痕を残す南三陸町、風が出て吹雪いてきた。骨組みだけ残る3階建ての防災対策庁舎に近づいた。献花台で手を合わせた。最後まで津波の警戒をアナウンスしていた職員の遠藤未希さんの防災無線が響いてきた。天使の声を耳元に感じながら気仙沼を急いだ。南三陸の志津川、歌津の無機質な風景に言葉を失った。黒い土が剥きだした見渡す限りの平地に雪が白く降り積もっていた。雪がこの町の悲しみを消してくれるかもしれない、と願った。みんな押し黙ってしまった。


 南三陸町の防災対策庁舎、この屋上まで津波が襲った。職員の天使の声が聞こえてきそうだ。献花が絶えません。


◇老舗旅館の大鍋屋と女将さん

大通りの裏手に大鍋屋本館はあった。ひっそりとした佇まいだ。うっかりすると、見過ごしてしまいそうだ。気仙沼市内に入って、フェリーの船着き場に向かった。地図をみればわかりやすい場所だった。が、地形が一変していた。地図が頼りにならず迷いこんだ。商店や家々はほぼ全壊し、まだ撤去されない廃屋も目立った。


大鍋屋の隣は、門の屋根のみを残していた。向かいの家は1階が突き破られていた。周辺一帯のがれきは取り除かれていたが、いまだ爪痕は生々しい。


津波は、凄い勢いだったはずだ。この旅館はなぜ耐えられたのだろうか。一部鉄筋木造3階建ての老舗旅館が、再開されたことは不思議な気がした。あの時、女将や従業員はどうやって逃げたのか、宿泊のお客はどうだったのか。


透る声は、女将の熊谷桂子さんだった。おっとりした馥郁たる美人です。広い玄関を上がったら奥まった正面がフロントで、そのわきが食堂、お風呂と続く。右端に2階に通じる階段がある。タイル張りの共同洗面所、トイレ、やや広めのお風呂が配置された昔ながらの旅館だった。フロントの掲示板に3・11の四つ切写真が貼ってあった。生々しい当時の様子が感じられた。一面、火の海となった不気味な写真が目に焼き付いた。海が紅蓮の炎に揺らいでいた。


女将は、のんびりした性格なのだろう。あの時、少しもあわてた様子がないのである。地震の直後、玄関の自動ドアの「片付けかたをしていた」といった。ドアが全部外れた。そのわきを息子の浩典さん(42)が血相を変えて、船のカギをもって大鍋屋を飛び出していった。それも気にかからなかった。 女将は、凄い地震だったが津波がくると思わなかった。遠くから、あぶねぇ、逃げろぇ、といった叫び声が聞こえた。近所の人が逃げろ、と言って誘いにもきた。なぜだか、お客さんの履物を片付けることに気をとられていた。客のことが心配だった。客は10数人いたが、出払っているものが多かった。工事の関係者の8人は高台に出向いていた。後でわかったことだが全員無事だった。しかし、船が心配で岸壁に向かった北海道からきていた常連客らが帰ってこなかった。どこかで助かっていてほしい、と祈るような思いだった。


◇北海道からの常連客の安否

北海道の釧路から親子で気仙沼にきていた浜木漁業の社長、浜木良雄さん(85)が、余震の続く中、「港にいがねばなんねぇ」と旅館を出た。女将は、あとを追って「あぶねぇがらだめだぁ」と腕を抑えた。「だいじょうぶだ」と言い残して女将の制止をふりきった浜木さんは車で港に向かった。港では、出港を間近に控えて息子で専務の文雄さん(55)が仕込みの準備をしていた。 もうひとりいた。地震直後、軽トラックで旅館から荷物を運んで港に向かった客が北海道根室市の石垣漁業の局長で、常連の吉田一男さん(68)だった。荷物を船に積んでいたらしい。みんなドーンときた津波で船ごとさらわれた。一瞬だった。


浜木さん所有のマグロ遠洋漁船「第35八幡丸」は、津波で住宅街にまで押し流された。陸に上がった。行方が分からなかった社長の浜木さんは、5月上旬に気仙沼港から100m離れた工場倉庫内の車の中で発見された。倉庫の中に車が8台折り重なっていた。浜木さんは一番底で変わり果てていた。この車の所有をめぐってひと騒動あった、と女将さんがその顛末に触れた。


倉庫の下から見つかった気仙沼ナンバーを警察が紹介したところ、持ち主が衆議院議員となっていた。警察署内がざわついた。地元選出の代議士でその名はテレビ出演などでよく知られていた。自民の若手論客で現職の小野寺五典氏と判明した。警察から国会に連絡が入り、ご本人の無事はまもなく確認された。


車は、小野寺さんが実家にきた時に乗る黒のチェイサーで、大鍋屋の駐車場に置いてあった。浜木さんは、大鍋屋に30年通っていた。小野寺さんのことも幼少の頃から知っていた。常連客だが、長く家族ぐるみの付き合いだった。この車をちょくちょく乗り回していたのだ。悲報に接し、女将さんは肩を落とした。あの時、もっと強く止めていれば、と悔いるのだ。息子の文雄さんはいまだにみつかっていない。船は3日後の3月14日にタスマニア海域に向けてマグロ漁に出るところだった。


ベテランの吉田さんは、北海道根室市の石垣漁業(石垣光義社長)に勤めていた。4月13日発表の犠牲者一覧に名前が載った。住所は、福島県いわき市小名浜とあった。吉田さんは、船にいたところを津波に襲われた。船は184tの大型サケマス船「若潮丸」で、所有の石垣漁業の石垣浩一さんによると、船は岸壁に乗り上げた格好で黒く焼けただれていた。湾内に火が走り燃え移った。国の補助で新しい造船を急いでいる、といった。吉田さんのことには口をつぐんだ。犠牲者の中には、地方から仕事で来て津波に遭遇した水産関係者も少なくない。震災当日、その家族らはどんな気持ちで身内の安否を気遣ったことだろうか。それを思うと胸が痛んだ。


◇女将、危機一髪


 大鍋屋旅館の2階から。この階段を津波が駆け上がった。

みんなが裏の高台の避難所に行こうと入れかわり立ち代わり、誘いにきた。ハイ、先に行ってくださいっと返事しながら、ひとりになった。そうしているうちに、もうきたぞぉ〜だめだぁ、逃げろっ〜と騒ぎ立てる叫び声が聞こえてきた。玄関から、靴をはいたまんま、コートをまとって3階の屋上の物干し場に向かった。階段を急いだ。夢中だった。干し場に着いたら、地響きとともに家が流されて軋む音がバリバリバリッと弾けた。海側の家が壊れていく音だった。濁流が凄い勢いで押し寄せていた。津波はたちまち2階付近を突き破りって足元にまで迫った。もう少し逃げるのが遅かったら、やられていた。上から多くの人が波にのまれていくのが見えた。恐ろしくて足腰の震えが止まらなかった。


そこでオロオロしていると、濁流が押し寄せる道路から隣の家づたいによじ登ってくる男性がいた。もうだめだ、ここも流されるぞぉ、早く逃げろっと必死で叫んでいた。どうやってこの干し場まであがってきたのだろうか。逃げろ、逃げろって叫んでいたが、どやって逃げるのか、逃げるに逃げられなかった。


濁流が渦を巻いていた。やがてゆらゆら鎮まったら、波が逆流しているのに気が付いた。その日は天気だった。旅館の窓を開け放っていた。旅館の窓からお風呂場にたまった海水が、ザーッと一気に流れ出す音がした。引き波が始まったのだ。この機を逃したら二度と逃げられない、と思って階段で下りた。1階の玄関口は瓦礫で埋まっていた。その隙間を縫って裏手の高台に避難した。危ういところだった。大鍋屋の建物は窓が破られ無残にも泥とがれきに埋まった。が、余震にも耐えた。第2、第3の津波にも潰されなかった。


◇大鍋屋女将の4代の矜持


 大鍋屋の玄関に掲げられた木製の看板と女将さん

女将、熊谷桂子さんは、玄関のひさしに掲げた「大鍋屋」の看板に不思議な因縁を感じた。旅館が倒壊してもこの木製の古い看板は守るつもりでした。男衆が力づくで引き抜こうとしたが、ピクリともしない。外れなかった。何で、外れないのだろうか。引き続き旅館をやれ、という意味なのかもしれない。


後日、従業員ら総出で作業をした。当日の客らも一緒に加わった。水はなかった。みんな涙をふきながら、瓦礫や泥を取り除いた。明治初めから続く、港町の老舗旅館はぎりぎりのところで踏ん張った。のれんは守られた。どこでもいいから、と常連客が大鍋屋の再開を待ち望んだ。夏に復興の声をあげた。当初は、まさに大鍋を囲むような状況だった。初代の一松じいさんは、伊達藩に献上する塩を大鍋で煮た。そこに開いた旅籠屋が、大鍋屋の源流だ。


立場も肩書も、お客にいささかの違いはない。あってはならないのだ。みんなで鍋を囲む、そんな屋号のもうひとつの原点を知らされた思いだ。数えて4代目の女将は、寡黙で心優しい海の男衆を受け入れた代々のご先祖の加護を確信した。毎朝、早朝から腕まくりして米を研ぎ大きな釜で飯を炊くのが、女将の日課だ。冬の水は氷のように冷たい。手がすぐにかじかんで指先が痛いほどだった。大きな釜で飯を炊く、それは4代目女将が命に刻む大鍋屋の矜持なのである。



◇あの子なら、きっと生きている。

さて、女将は高台の避難所で一夜を迎えた。眼下はまだ一面、炎に包まれていた。海に火が走り赤々と燃え黒煙が立ち上った。タンカーが爆発し重油が流れ出した。まさに火の海だった。地震で壊れ津波で突き破られた挙句、この大火である。深夜、街にサイレンが響き、点滅の赤色灯がせわしなかった。救急車や消防車が四六時中、街を走った。空襲のような不気味さ感じた。火は海から陸に上り次々と家々や車、立木などを焼き尽くした。それが三日三晩続いた。旅館にも火の手が迫っていた。


女将は、喧騒の避難所で寒さを堪えながらうつらうつらしていた。コートをまとっていたのは幸いだった。津波がくるぞぉ、と海に走った息子、浩典が火炎のなかで遊漁船の舵をきっている姿が見えた。夢ではないような気がした。高校の時からヨットでインターハイに出るなど、操舵の腕は確かだった。気仙沼の内湾は、子供の時から慣れ親しんだ。地形や特徴を知り尽くしていた。あの子なら、きっと生きている、と信じたかった。が、あの炎を見て気持ちが揺らいだ。耳元で、かあさん、とつぶやくあの子の静かな声が聞こえた。なぜ、あの時、行くんじゃない、と止めなかったかまた悔やまれた。息子の消息は途絶えたままだった。避難所の多くは、みんな憔悴しきっていた。力なくうなだれていた。


翌日の早朝のことだった。避難所で横になっていたら、そこに現れた知り合いが、廊下で手当てをうけているのは、もしかしたらお宅の浩典さんじゃないか、と唐突に言った。女将は驚いて、急いで避難所に通じる玄関付近の廊下にかけ寄った。浩典だった。仰向けに横たわる我が子をみとめた。足から大量の血が流れた痕があり、女性に応急の手当てをしてもらっていた。泥をかぶったような顔は切り傷で血がにじみ、やつれて青ざめていた。ともかく無事だった。安堵の思いでふと気がゆるんだら足元が揺らいだ。


涙があふれてきた。よかった、と言おうとしたが、口をついて出た言葉が、どうやってきたの?だった。いま冷静に考えると、やはりおかしい、と笑う。浩典さんは寝ながら治療を受けていた。おもむろに、防寒着の胸ポケットから、デジカメを取り出して壊れていないか、チェックを始めた。あの現場を捉えていた。あの時、津波がくるぞっと海に走ってから船で体験した一部始終が、このカメラに収められている。命がけで撮った3・11 の気仙沼湾の生記録だった。


◇津波、鉄塔、火事…気仙沼湾で生死をかけた壮絶な格闘

フロントに端正な顔立ちの男性がいた。女将から聞いていた息子の浩典さんだ。九死に一生を得た果敢なアドベンチャーとは裏腹に、この人には沈着冷静な雰囲気が漂っていた。話しぶりに好感がもてた。誠実な人柄がにじみ出ていた。


この四つ切のカラー写真をみながら、手前左側にぼんやり見える1隻の船を指差して、私が乗っていた遊漁船「魚心丸」が偶然、この1枚に捉えられていた、と言った。海面一帯が赤い炎に包まれた。猛烈な黒煙が噴き上げていた。火の海と化した気仙沼の内湾を逃げまどっていた場面である。船は炎上して沈んだ。


さて、女将の疑問ではないが、この人がどうやって魔の波をかわし、火の海をくぐりぬけて逃げ帰ったのか。それはいまだかつてドラマでしか見聞きしたことのない生死をかけた壮絶な海での格闘だった。


地震と知って迷わず、遊漁船のカギを握って岸壁に向かった。すでに十数隻の大型漁船やボートが岸を離れて沖に向かっていた。地震、そして津波が年に1回は押し寄せていた。岸壁で船をそのままにすると、津波で転覆したり傷めたりする。迷ったが、やはり船を沖に出した方が無難と判断した。


ところが、潮位が上がる程度のこれまでの津波とその様相は著しく違った。エンジンをかけて大島の東側を目指した。魚市場の右岸あたりで津波が視界に入ってきた。沖合から気仙沼湾に到達した津波は凄まじい勢いで盛り上がっていた。それが巨大な壁と化して行く手を阻んだ。得体のしれない生き物のようだった。こんな怪物みたいな津波はみたことがない。


あっという間に津波の先端が目前にせり上がって渦を巻いた。海が、うねりながら湧き上がって勢いを増し、波が、遠くの海水を背後に巨大な陣列を組んで不気味に立ち上がろうと目いっぱい力をためていた。


内湾でも狭いところにはぐわっと大波が立つ。その危険なことは察知した。とっさにUターンして全速力ですそ野の広い深い場所へと船を戻した。ここなら津波をかわせるかもしれない。急激な流れを加速させて迫る津波と対峙した。正面から構えた。一瞬、ドーンと鈍い音がさく裂した。空が陰った。やや足を広げてブリッジに立ち、腰を低めに構えていたから、衝撃には耐えられた。船も大丈夫だった。次がくるぞ、と思った。体をロープで固定した方がいいだろうか、脱出する時、ロープが逆に災いになるかもしれない。まだ冷静に考えられた。


第一波をやり過ごして岬周辺を走らせていたら、大島の西側に入った大型の漁船が荒れ狂う波にほんろうされていた。激流の中の木の葉のようだった。それに続くようにモーターボートの船影が見えた。大丈夫かなあ、と見ていたら波にのまれた。浮き輪がくるくるっと回転するみたいに波間に浮き沈みしながら、視界から消えた。足の震えがとまらなくなっていた。落ち着け、落ち着け、と言い聞かせた。


大島の西側は水深が浅いから波が数十mに立ち上がる。ここは危険エリアだ。もう少し早めに出港していたら同じ運命になっていたかもしれない。内湾を出た船のほとんどが転覆し乗組員は行方がわからなくなってしまった。船は一瞬にしてバラバラに吹っ飛んだ。恐ろしい破壊力だった。


魚市場付近から東に向かっている航行している時だった。湾の入り江の蜂ケ崎に目をやると、その岬に建つ高圧電線の鉄塔に、その高さを越える津波が襲った。鉄塔はもろく、ひとたまりもなかった。土台から湾内に傾き、ゆらりと海に倒れ落ちた。まるでスローモーションの映像をみているようなシーンだった。もう少し近かったら倒れた鉄塔で船が砕け散っていた。バウンドしたみたいにドーッと水しぶきが上がった。しぶきが船にまで飛び散った。直撃をうけたら、と思うと背筋が凍りついた。何本ものケーブルが商港岸壁の対岸の間に沈んだ。ケーブルは直径10cmほどあった。湾内から沖への航路はケーブルで閉ざされ、岬をふさいだ。


もはや沖には出られない。再び湾内に戻るしかない。船首を変えながら波を何度もかわした。冷静でいられたのは、気仙沼高校のヨット部での経験が役に立ったからだ。操舵技術もさることながら寒い冬に波しぶきを浴びて鍛錬した精神力の賜物と思った。この湾内は庭のようなものだった。魚探を使って浅瀬や深みを確認しながら移動したが、ここの地形や潮の流れは身体にしみついていた。


恐ろしいことが再び、ふりかかった。引き波が始まったのである。沖には出られないとなると、深いところに船をつけるしかない。急激で強烈な引き波だった。引き波の怖さを初めて知った。魚探で水深をはかった。海底からの深さが11mあった。が、凄い勢いで海水が沖に流されていった。海がえぐられた。湾内の岸壁周辺はすでに海底があらわになっていた。車や家、がれきが大量に流れてくる。ぶつかったら危ない。引き波がとまらない。水深がどんどん浅くなった。このままだと座礁して転覆するのは時間の問題だった。その恐怖を想像した。祈るような思いだった。水深は8mを切った。6m、5m、4m、どんどん流れが早まる。手の打ちようがなかった。船が不安定になってきた。水深3m…やばいなあ、もはやこれまでと観念したら、そこでピタッとメモリが動かなくなった。引き波がとまったのだ。ああ、と天を仰いで叫びたい心境だった。命を拾った、と思った。


 生死を分けたものは?の問いに、考えて、やはり運ですかね、と あの時を振り返る、浩典さん。


◇漂流するがれきの上の男性を救助

津波は、第2波、第3波、それに伴って引き波が続いた。家々が砕けた。津波、引き波の繰り返しでバラバラになり家々はもはや原形をとどめていなかった。船の角度を変え、そしてがれきを避けながら湾内を移動した。南側の魚市場付近から北上し神明岬を西にみて魚浜町のコの字岸壁に差し掛かった。その時だった。


がれきにつかまって漂流している男性をみつけた。うつぶせになってがれきの端に体をあずけている。意識があるのか、どうかわからない。声をかけたが返事がない。静かに船を寄せた。鉤のついた長い棒を持ち出した。鉤を男性の衣服の肩にひっかけて船の近くまで引き寄せた。船べりから体ごと船内に引き上げた。びしょぬれで重たかった。船の上で仰向けにした。意識はあった。が、体が硬直し顔が真っ青だった。なんどとなく呼んだが声がでない。船のエンジンルームに運んで体を温めてあげた。エンジンルームは温度が高いのだ。小一時間ぐらいたったら顔に生気が戻ってきた。生き返った。少し言葉をかわした。近所の人とわかった。年齢は還暦をすぎていた。体を横たえながら感謝を口にした。涙を浮かべて、お礼を言ったようだが、言葉がよくわかならかった。いやあ、よく助かったもんだ。こっちももらい泣きした。命拾いした者同士、これからどうなるのか、さっぱりわからなかった。



 湾内で溺れかかった男性を救助した。
 その時の画像、浩典さん撮影

喜びあっているのも、束の間、次から次と思わぬ危機が襲うのである。時間は夕刻の5時45分ごろだった。船に乗って3時間がたっていた。デジカメで撮った写真で時刻が確認できた。その頃、遠くで火の手が上がった。岸壁の巨大なオイルタンク20基が全部流れだしていた。タンクが何かの衝撃でパカーンと乾いた轟音を響かせて黒煙を噴き上げた。これが、数日間、気仙沼を焼きつくした火災の始まりだった。


タンクは津波にのって湾内に入ってきた。あっちこっちにぶつかって重油に引火、爆発を繰り返した。重油が海面を覆った。その厚みに驚いた。海面を数cm浮いている程度と思ったら10cm以上の厚みとなっていた。波の揺れが重油で重たげだ。これに火が走ったらどうなるのか、想像しただけでも恐怖感に襲われた。


重油が船のエンジンに入る危険性があった。遊漁船は船底から冷却水を上げてエンジンを冷やしている。重油が上がってきたらオーバーヒートを起こす。そうなったら今度こそおしまいだ。操作不能になって逃げられないからだ。臭いも凄くなってきた。炎が迫る。疲労が極限にきていた。顔が焼けるように熱かった。四方を炎に取り囲まれた。海も海岸沿いも火が荒れ狂っていた。もう駄目かと…その時、風が吹いてすーっと黒煙がゆらいだら視界の先に岸壁が見えた。その方向は幸いにも岸壁に火がないようだ。船首を岸に向けて無我夢中で走らせていた。船内の男性に声をかけた。岸壁についたら一目散に走るか、泳ぐかする、と言い放った。


たまたま辿り着いた先は、柏崎の気仙沼プラザホテル付近の岸壁だった。ここだけ火が延びていなかった。桟橋付近に船首を突っ込んだ。中年男性を支えながら下船した。水深が胸まできた。デジカメを濡らさぬように手を上にあげて泳いだ。浅瀬からは身体を起こして走った。男性をホテルに収容した。


そこから夜道を歩いた。魚町の実家、大鍋屋に向かった。人の気配がなかった。恐ろしい惨状だった。サイレンが鳴って赤色灯がせわしく点滅しているのが見えた。一瞬、ボアッと明るくなったので振り返って海をみたら、相棒の遊漁船「魚心丸」が燃えていた。炎上し爆発して沈んだ。よく頑張ってくれたと感謝したい気持ちだった。海に向かって手を合わせたら無性に涙がこぼれた。


大鍋屋についた。1階は壊滅状態だった。がれきが玄関から2階付近まで押し寄せていた。この旅館も奇跡的に壊れずに姿をとどめていた。足に激痛が走った。釘を数本踏んだらしい。おびただしい血が流れていた。これでやっと助かった。この痛みで生きていることを実感した。悪夢のようだった。運がよかった。助かったのはやはり運、それしか考えられなかった。


 夕方、岸壁付近から火の手が上がった。
 これから街中を焼け焦がす大火となり、三日三晩燃えた。


 翌朝の気仙沼湾内、火がまだくすぶっていた。
 浩典さん撮影


◇感謝と笑顔の屋台村、あの人との絆

旅館は部屋が2階に用意されていた。こざっぱりした和風の旅館だった。タイル貼りの共同洗面所が懐かしかった。昨年7月下旬に再開した。よく眠れそうだ。窓から正面の家々が傾いていた。海が近かった。津波の被害が大きかった場所の一つに違いない。荷物を置いたら、友人の足利英紀さんが訪ねてきた。午後3時に到着する予定が大幅にのびて申し訳なく思った。お元気そうだった。小一時間して帰った。


僕は、それまでの資料を整理し、メモ帳にその日の出来事を綴った。そして少し眠った。目を覚ましたら空腹を覚えた。外は雨だった。遠くにぼんやり赤ちょうちんの屋台村が見える。復興屋台村、人気だそうだ。ビニール傘を借りてとぼとぼ歩いた。漆黒の闇、廃屋や骨組みだけのビルが不気味だった。屋台村は歩いて5分ほどだった。突きあたりの奥に一軒、ラーメン屋があった。感謝と笑顔の文字が真新しい白いのれんに赤く染められていた。客はいなかった。壁をながめていたら、俳優の渡辺謙さんとこの店の女将さんのツーショットの写真が額に入っていた。謙さんのサインが見事だった。女将の了解を得てiPhoneで写真を撮った。女将は月子さんいう。月子さんは笑顔が素敵だ。僕も一緒に写真を撮らせてください、と頼んだ。OKです、と明るい声がかえってきた。ネギラーメンと餃子は絶品だった。


ご苦労を聞いた。国道沿いで34年間、札幌ラーメンを開いていた。35年目にして津波で全部流された、とさらっといいのけた。写真を一緒に撮ろうとしたら、客が見えた。ラーメンを2杯持ち帰った。今度こそ、ツーショットで写真を撮ろう、と思っていたら、大柄な男性が仲間3人と一緒に店に入ってきた。こちらに目線を感じた。カウンターに座ったのは、噂していた渡辺謙さんだった。役者のプライベートな時間を乱してはいけない、と思った。それはわきまえているつもりだった。知らんぷりもできそうにない。


額の写真を話題にしていたのですよ、と話かけた。謙さんはあの甘く渋く響く声で、とっておきのメッセージを返してきた。これは内緒にしましょう。謙さんらは僕のススメでネギラーメンを頼んだ。


ラーメンを食べ終わったていたのでお金を払って帰り支度を始めた。月子さんが、お約束の写真は撮れませんでしたね。ごめんなさい、と詫びた。満面の笑みだった。確かに、感謝と笑顔だわ。また来ますと、言った。では、お先に、と言って店を出た。背後から、お疲れ様、の低く響く声が届いた。


3・11、夜9時からNHKで渡辺謙さんが気仙沼の現場から中継のマイクを握っていた。心底、被災者と直に寄り添っていらっしゃると感心した。「Kizuna311」のプロジェクトを早々に立ちあげていた。スターは、スタイルも表情も、そして声も世界級ならそのハートも超一流だ。ありがとう、謙さん。



 復興屋台村でラーメン店を再開した月子さん、
 感謝と笑顔がモットーだ。


 ハートのある俳優、渡辺謙さんは被災者に寄り添う、
 月子さんとのツーショットが爽やかだ。


◇あれから1年、3・11を迎えた

東日本大地震から1年を刻んだ3・11付の新聞は、家族が離れ離れとなって、そして仕事もない、という多くのひとの不満の声を伝えた。いまだ復興はままならず、その滅失した状況は痛々しいほどだ。原発事故も不手際が目立った。何が変ったか、何も変わっていない気がする、と政治や行政の対応の遅れを嘆く。奇妙で重厚な堤防や長大な道路の土建国家じゃなくてさあ、家族を支える「住」と「職」の日常を取り戻してほしい。しかし、遅々として前にいかない。このもどかしさはどうしたことだろうか。時間が解決する、というのは安易な観測でしかない、と思い知らされた。取材の先々で、やっとの思いで生きのびて夢中で耐えてきた人らは寡黙だった。再び、彼らを訪ねた。やはり奪われた命を悼みつつ癒えぬ辛さを気づかれぬように包み隠そうとしていた。その愚直なほどの健気さに、こちらが襟を正さざるを得なかった。そして胸が詰まった。



 友人でお世話になった足利英紀さん、
 住宅兼店舗を流されたが、昨年12月24日、
 仮設商店街の南町紫市場にEMショップを再開した。
 お元気でなによりでした。


 大鍋屋の朝食、心のこもった朝ごはんは、味噌汁に漬け物
 各種、女将が釜で炊いたご飯が絶品、
 まかないのお姉さん方も気配りが行き届く。


 街は、漆黒の闇だった。灯りは、屋台村。




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