DNDメディア局の出口です。3月16日、87歳で亡くなった評論家、吉本隆明氏の追悼や評伝が、新聞等で後を絶たない。朝日新聞だけでも4〜5本は読んだ。十人十色、人によってそれぞれにアプローチがあるものだ。その眼差しがやわらかだ。幼い子を抱いた若い母親の一途な姿を見ているだけでハラッと涙されるような温もりが消えないのである。
つい最近では東大教授の姜尚中さんが、27日夕刊の文芸欄に戦後における吉本氏の登場を事件とし、「無冠の帝王のように在野に徹し、戦後の一切の権威、一切の擬制を根底から揺さぶる思想的根拠を示した」ところをその理由に挙げた。進学のために上京し東大闘争の明くる年に吉本氏の著作と出会ったのは、それはご自身とて大きな事件だったことを明かした。吉本氏の丸山真男論をはじめて読んだとき、すかさず教祖にひれ伏す「信徒」になっていたと、その圧倒的な存在感を遠慮なく述懐した。教祖にひれ伏す信徒だなんて、あのソフトな語り口の姜尚中さんらしからぬ表現にいささか誇張しすぎではないか、と驚いたりもした。それはひとつの布石なのだろう。
そんな追悼だからと礼賛一辺倒で終わらないところが、この人のこの人たる所以でしょうか。丸山氏と吉本氏の対照をいくつかの角度からエッジを効かせて描いてみせた。
再びドキッとさせられたのは、繰り返し丸山氏を舞台回しに引きこんで、ヒロシマでの被爆体験を持ちながら被爆者手帳の交付を拒んだ丸山氏だったら、3・11の東日本大震災に伴うフクシマ原発事故に対してはきっと断腸の思いで原発廃止を訴えたはずだ、と言い切り、その一方で吉本氏については、科学によって科学の限界を越えられると嘯(うそぶ)いたという皮肉を込めながら、吉本氏こそは、無限の進歩と科学万能を信じて疑わない「近代主義者」だったのではないか、と痛烈に批判を加えた。そして「かつての教祖の面影はどこにもない」、「教祖の思想的な命脈は尽きていたのである」とばっさり断じた。
まあ、姜尚中さんの言説では、それを吉本氏の"転向"と思えるが"転向"ではない、という。それは大衆の実感に寄り添う吉本氏の思想が辿らざるをえなかった必然と定め、その思想の帰結が大衆に寄り添うという変貌なのだ、と付け加えた。
姜尚中さんの吉本論は、それが正当な評価なのかどうか、門外漢のぼくには面喰うようなことなのだが、「思想的な命脈は尽きた」と断罪した姜尚中さんのこの一文の読後感がそれほど嫌味にならずある種、あっ晴れなほど心地よい余韻を引きずるのは、思想家、吉本氏の存在や生きざまに精いっぱいの愛情をにじませているからだろう、と理解した。
忌まわしいフクシマ原発事故に対する吉本氏のスタンスは、姜尚中さんの指摘の通りだったらしい。確か、昨年8月の日経文化欄に載ったインタビューだったと思う。「発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは人類をやめろというのに等しい。完璧な防御装置をつくる以外に方法はない」という吉本発言が物議をかもした。姜尚中さんもそこのところを見逃さなかったのかもしれない。この吉本発言へのコメントがネット上に流れた。印象的だったコメントのひとつが、さすが東工大出身だわ、というもので、ぼくはそれを冷やかしとはおもわなかった。
思想の左右を超えて「きれいごとの正義」や「党派や組織の論理」にかみつき、あらゆる権威に市井の目で挑んだ、と評したのは天声人語でした。権威に屈しないのはいうまでもないが、迎合もしなかった。吉本氏の原発事故と科学の進歩という文明論的アプローチは、どちらかといえば勢いを増す反原発ムードへの警鐘というより原子力ムラへの厳命と捉えた方がよさそうだ。人を寄せ付けぬわけではないが近づいて擦り寄っていくと、孤独な核につきあたるような気がする。孤独な核、とは、吉本氏のことばでした。
さて、気負がなくしかも捉われない。透徹した理論で潔く対象を論じ切る。それが吉本氏の流儀であるとすれば、姜尚中さんの挑戦的な記述も立場を変えれば吉本氏と同一の流れの中にあるように思えた。吉本氏が得意とした技で姜尚中さんが吉本氏に迫ったと捉えることはできないだろうか。そういう意味で姜尚中さんの一文は出色なレトリックであり、ぼくらの日常では思いも寄らぬ、知識人の深淵な世界を思い知らされるのである。物を書くという行為は、人と違うことを言うから意味がある、というような記述をどこかで読んだ記憶がある。吉本氏がそう認めているだから、あの世から吉本氏はそれを面白く受けとめているに違いない。
有史以来なんてオーバーだが、思想家というものは次代の洗礼を受ける宿命を覚悟しなければならないようだ。死んだら反論できないのだから、生きているうちに余すところなく他人と違うことを言い続けるしか、手はない。姜尚中さんの批評は切れ味が鋭いだけにその短すぎる物理的な枠に押し込んだ亡き教祖への追悼というにはあまりにも挑発的で体当たりすぎる、と思った。それでよいのでしょうね。
さて、次は、吉本氏の逝去から2日後の18日付には人類学者の中沢新一さんが「吉本隆明の経済学」を論じ、「価値一般を串刺しにする思考」との見出しで朝日の読書欄に追悼文を寄せていた。
「吉本さんには、まとまった経済学の著作というものがない。しかし経済の問題は文学や政治問題と並んで、吉本さんの重大な関心領域であり続けた。スミスやマルクスの経済学を学ぶことから出発しながら、現代の新しい現実と格闘しているうちに、吉本さんは独学でひとつの体系をつくってしまった。」 冒頭、中沢さんは吉本氏の経済学をこう読み解いた。
そして吉本氏の経済学がもっとも威力を発揮したのは、現代資本主義のウェイトが「生産」から「消費」へ転換しだした時期であったと語り、中沢さんのことばを借りれば、世界中のどんな思想家をも凌駕する、斬新で大胆な思考を展開してみせたのが、『ハイ・イメージ論』の連作に結晶する、驚くべき仕事がそれだ、と喝破するのである。
吉本氏の大きなテーマだったという農業をひとつの例に、中沢さんはこんな興味深い吉本の"贈与経済"の概要を紹介した。おしなべて貧困に窮する農業地帯、人口もどんどん減少している。しかし農業が生み出す食料がなければ生きて行けない。この矛盾をどうするか、と問いかけて、「交換経済ではなく贈与経済だけがその矛盾を乗り越える可能性を持つ」と吉本氏は考え出したそうだ。都市生活者は、農業者から食料を得るために等価交換に寄らないで積極的に自分の富をあげてしまう、贈与のやり方を採用する必要がある、と大胆に提言していたという。中沢さんは、未来の経済学は新しい贈与論を組み込んだものにならなければならない、とその出典『マルクス―読みかえる方法』を解説しながら、吉本隆明の経済学はいまだ全貌をしめしていないが未来への宝が埋蔵されている、と締めくくった。最後に「合掌」の二文字を添えた。繰り返すが、教祖へのアプローチはいろんな道筋があるものだ、というのが素直なぼくの実感でした。
中沢さんの追悼文が出た翌19日付の新聞は、作家の高橋源一郎さんが寄稿していた。いつもはどんな醜悪な事象とて戸惑いを見せずに軽々と退治してしまうクールな高橋さんが、なぜか神妙で心を鎮めるように、「この国には『わたしの吉本さん』を持っている人がたくさんいて、この稿を書くほんとうの適任者は、わたし以外にその中にいるはずだ」と慎重だ。
作家らしいといえばそうなのだが、最初は詩人としての吉本氏の輪郭を浮かび上がらせていく。
「半世紀以上も前に、時代のもっとも先端的な表現であった現代詩の中に、ひとり、ひどく孤独な顔つきをした詩をみつけ驚いたことだろう。そしてこの詩が、孤独な自分に向かって真っすぐ語りかけてくるように感じただろう」と書き起こし、思想家や知識人などいっさい信用できないと思っていたのに、この「思想家」だけは、いつの間にか、自分の横にいて、黙って体を動かす人であると気づき、また驚いただろう、とつないで、つまるところは「吉本さんは、思想の後ろ姿を見せることができる人だった」と表現した。うまいことをいう。この「後ろ姿」という言い方に、高橋さんの万感の思いがにじんでいるのである。
ふつうは、立派そうなことをいっているが、実際はどんな人間か、ほんとうはぼくたちのことを歯牙にもかけていないんじゃないか、と疑うのだ。けれども、吉本さんは、正面だけでなく、その思想の「後ろ姿」もみせることができた。彼の思想や言葉が、彼の、どんな暮らし、どんな生き方、そんな個人的な来歴や規律からやってきているのか、想像できるような気がした、と胸の内を明かす。
これまでのどんな思想家も、結局は、ぼくたちの背後からけしかけるだけなのに吉本さんだけは、「ぼくたちの前で、ぼくたちに背中を見せ、ぼくたちの楯になろうとしているかのようだった」と親しみを込めた。
高橋さんは、どんな思いでこの追悼を綴っているのだろうか、この追悼を読みながらそんなことを考えてしまった。気持ちの高ぶりが行間に読み取れるのである。個人的なこと、と断って、ある時、本に掲載された1枚の写真をみたときのことに触れていた。
吉本さんが、眼帯をした幼女を抱いて、無骨な手つきで絵本を読んであげている写真だった。それは、ぼくが見た、初めての、思想家や詩人の「後ろ姿」の写真だった。その瞬間、ずっと読んできた吉本さんのことばのすべてが繋がり、腑に落ちた気がした、と述べて、「この人がほんものでないなら、この世界にほんものなんか一つもない」、そう確信した当時の記憶がいまも鮮明だという。このひとコマにも高橋さんの熱烈な思いが感じられるのである。
高橋さんが自分の事を語り始めた。世間との関係を絶って、小説を書き始めた。吉本さんをたったひとりの想像上の読者として。その作品で、幸運にもデビューし、思いがけなく、吉本さんに批評として取り上げられたそうだ。
「ぼくは、この世界で認知されることになった。ぼくは、生前の吉本さんに何度かお会いしたが、このことだけは結局、言いそびれてしまった。おそらく、それは『初恋』に似た感情だったからかもしれない」
う〜む、この辺でぼくはもう胸に熱いものが込み上げてきた。
吉本さんの、高橋さんにあてた珠玉のメッセージは、「きみならひとりでもやれる」でした。そして「おれが前にいる」だったと思うと語り、吉本さんが亡くなり、ぼくたちは、ほんとうにひとりになったのだ、とさみしげに結んだ。
この稿に適さぬ理由は、その辺にあるらしいことが後段になって気づくことになる。「初恋」という言葉を使っていた。この感情が波打つ高橋さんの心情を思うと、不覚にも涙で画面が霞んでしまった。高橋さんも立派に「後ろ姿」を隠さないのである。う〜む、次に進めなくなるじゃないですか。文字に魂が宿る。文芸評とか追悼を越えて、これは吉本隆明氏への弔辞だと確信した。
考えれば、全共闘世代からやや遅れてきたぼくたちノンポリ世代は、先輩らがリュウメイ、リュウメイって呼び捨てにするから、てっきりリュウメイって呼ぶのかなあ、と疑わなかった。リュウメイさんの訃報を流したNHKラジオが、タカアキさんと読み上げるので、一瞬、誰だろうと思ったほどだ。アナウンサーは、作家で次女の吉本ばななさんの「最高の父でした」という短い談話を伝えていた。家族の記憶をたくさん残していたに違いない。
吉本隆明氏に随筆集があり、それが気に入ってなんども読み返していた。文章は平明で屈託がない。ああ、こんな風に書けたらいいなあ、と読むたびに感嘆の声を上げた。そこには日常の暮らしぶりがさりげなく語られている。先輩らが口にするリュウメイではなく、平凡なタカアキさんの息遣いが感じられた。
随筆集『日々を味わう贅沢 吉本隆明〜老いの中でみつけたささやかな愉しみ』(青春出版)で、この本を肌身はなさず持ち歩いていると、眼差しのやわらかな吉本さんに寄り添っている気分になって心地よいのだ。
幼い頃、東京の佃島での長屋暮らしや餅つきの祭事、餅をつく量でその年の家計の懐具合を感じて心を躍らせたり、痛めたりした。舟大工だった父のこと、母と、それから父と通った銭湯のこと、桜がきれいな上野での花見や、娘を妻との間に座らせた上野での居酒屋のことなど…風呂上がりのきさくな格好でつぶやくように語る吉本さんの追憶がたまらないのだ。
不忍池や精養軒、谷中墓地など上野界隈の題材が多いなあ、と思って後付けをみると、タウン誌「うえの」に書き綴った随筆が大半を占めていた。上野のれん会主宰の月刊「うえの」には著名な方々の寄稿であふれていた。「うえの」は、1959年5月の創刊でタウン誌の先駆けでもある。上品な文芸誌の趣があり、題字は、武者小路実篤氏というのはよく知られている。かつて、新聞社の都内版の担当の時に、都内のタウン誌編集長に持ち回りで原稿を書いてもらっていた。「うえの」の編集長もその中に加わってもらって懇意にしていた。よく知っているつもりだったが、吉本隆明氏が上野に縁が深く、そのタウン誌にエッセイを寄稿しているとは知らなかった。ぼくにとって一生の不覚だ。
『日々を味わう贅沢 吉本隆明』のあとがきに、校正のとき一読したが思っていたよりも重たいなというのが感想だった、と書いていた。2003年2月15日の発行だから、当時吉本氏は77歳なのである。それに続く次の一行を読んだとき、僕はハンマーで頭を殴られた思いがした。
「まだまだ随筆を書いておさまりかえる柄でもないなというのが感想だった」。恐れ入った。心からご冥福を祈りたいと思います。