第56回 社会人博士の取り方その5 社会人博士の本当のメリット


 日経web版に大学院問題の議論が掲載されていました。現在中央教育審議会の大学院部会長を務める有信睦弘氏を含めた三人の論客の討論です。有信さんはもともと東芝の技術者で経営企画などを歴任されていたと思いますが、筆者らが大学連携推進課でMOT1万人計画を進めていたとき、その推進のための委員会メンバーとしていろいろご助言いただいた方です。その時から大学院教育にもご縁ができたのでしょうか、現在は東京大学監事をされておられます。(中教審の大学院部会に企業人が部会長をつとめるとは世の中変わったとの感慨がありますね。)


 この議論の中では、有信さんが中心となって推し進める大学院博士課程の質の改革、例えば修士論文を前置とせず、選抜規定を導入するなどの対応を評価しつつ、最近の大学院の課題を大学側、企業側、そして学生側から検討しています。


 この議論に関連して、学位の意味、社会人博士の本当のメリットについて、もう一度お話ししたと思います。


「Ph.D.の実力の源泉」

 第32回に、社会人博士のメリットを概説しました。その中で、「学位取得前と後で根本的に異なってくるのは、自分の「中味」」と説明しました。これは、博士とは何か、という問いに答えるものでもあります。


 もちろん、博士の意味は「末は博士か大臣か」の時代から大きく変わっていて、ポスドク問題も未だ十分に解決されていない中ではありますが、グローバルな競争下で有名大学を出たかどうかで人生が規定されることもなくなっている一方で、いろいろな専門家としての資格の効用もクローズアップされてきているようです。国内よりも海外で価値があると思われる博士号については、上記の日経web討論でも、「産業界でも官僚でも、博士と修士では交渉力が大きく変わってくる」(有信氏)との指摘がありましたが、この差はどこに起因しているのか。それは、名刺に刷られた「Ph.D.」の神通力ではありません。Ph.D.を取得するに至ったプロセスと、それにより期待される本人の中身の変化ではないかと思うのです。


 博士課程では終了に必要な単位数はありますが、基本的には、一定の水準を超える論文を仕上げ、審査をパスすることが必要かつ重要なことです。つまり、新規な成果を示す研究し、それを論文の形に仕上げる能力を審査されているといっていいでしょう。ここには二つ要素があります。ひとつは新規かつユニークな研究を遂行して最終的な成果を得る能力、もう一つは、それを論文の形にまとめる能力です。


「社会人博士の研究作業とは:混沌とした自分の過去を棚卸しして積み直していく作業」

 このうち、前者の研究遂行能力については、社会人の場合は、それまでの研究や経験をもとに、科学的手法に従って自ら新たな法則を導き出すこと、といえます。第32回でも、「混沌とした自分の過去を棚卸しして積み直していく作業」といいましたが、これまでの経験を整理し、そこから社会的法則や解を見つけていくことは、自分の中身を変えるという意味で大切な作業です。また、これには、他の研究者、学者を客観的に納得させるための論理性、科学性を求められます。このプロセスを経ることこそ、博士課程の重要な意味ではないかと思います。


 このプロセスは、企業の研究者、技術者が社会人博士を目指す際も同じことです。こうした理系の方々は、すでに論文なども多数著述されている場合が多いと思いますが、それら既存の研究開発を系統立て、整理し、そしてそれを大きく新しい発見へと構成していくことが社会人博士課程で求められることだと思います。


 一方、筆者の場合は研究者ではありませんので、自ら考え、行ってきた政策、立法作業に関することを整理し、そこから経験に裏打ちされた概念を抽出するとともに、これを基礎に今後やるべきこと、やりたいことを整理することを行いました。


 博士課程では、前述のように論文執筆以外に必須の単位があるわけではなく、その結果、MBAやMOT専門職大学院のような体系的な知識の取得ができるわけではありません。あくまでも研究が中心なのです。しかし、だからこそ、自らの内容を整理し高めていくプロセスがそこにあります。特に社会人博士では、取得後の生き方の道筋を考えるのにとても有効ではないでしょうか。


「論文の書き方:論文てなあ、ご近所のおばちゃんが読んでもわかるもんじゃなくちゃあだめだ」

 一方、後者の論文をまとめ上げる能力については、筆者の若い頃、ある指導をいただいた経験があります。大学院修士課程に在学していたとき、主任教授である笹田直東京工大教授(故人)から、「論文てなあ、ご近所のおばちゃんが読んでもわかるもんじゃなくちゃあだめだ」と幾度となく教えられていたのです。笹田直先生は東大航空研や理研にも在籍され、我が国の潤滑・摩耗学の第一人者ですが、東大時代、同じ学科の松島克守先生(当時助手)が摩耗試験器を借りに行ったといいますから、スモールワールドですね。


 筆者は理系の学生で、長い文章を論理的に構成するのは、大学卒業論文、その後の学会発表論文とこの修士論文作成過程が初めての経験になりました。作文はどちらかと言えば得意な方でしたが、論文を書き始めてみると、笹田先生の方針に沿って、あきれるほど一から直されました。簡単に言えば、文章が論理的につながっておらず、その結果「おばちゃん」(この場合、おっさん、でもいいのですが、あしからず。)に理解してもらえるような文章になっていなかったのです。修士論文の厳しい指導をしていただいたのは、笹田研究室の先輩、馬渕清資博士で、修士課程の学生の私が共同研究にお邪魔していた北里大学医学部の講師をされておられました(その後、同大学医療衛生学部教授)。そのときのご指導は、官僚になったときに様々な文書を作成することにも役立ちましたし、博士論文を作成するときにも基礎的な能力として機能したのではないかと思います。もちろん、それだけで博士論文ができたというつもりはありません。さらに枚数の多い博士論文の論理性とその構成については、指導教官の厳しく暖かいご指導により、大幅に改善されていくものです。


 文章を誰にでもわかりやすく論理的に書く訓練は、もちろんそれぞれの職場でも行いうるものです。しかし、学位論文という分厚い文章を、構成から始まって、内容の論理性、各章の連結、全体としての主張、そして自分の思いをこめて整合的にまとめるのは、大変良い勉強です。著述業の先生方は日夜そうしたことをされていると思うと、頭が下がります。 


「高みにのぼることができたか」

 さて、学位取得により得た経験、特に前者の「混沌とした自分の過去を棚卸しして積み直していく作業」は、自分を見つめ直し、目標を再構築していくには最適の行動であったように思えます。これまでもご紹介してきたように、筆者は、経済産業行政のうち、特に産業技術政策を一つの軸としてきましたし、現在奉職している知財担当職でさらにその裾野が広がったとも思っています。こうした経験と、その中で努力してきたことを、指導教官の示唆を得ながら、新たな視点で見直し、整理することができました。その結果、論文の形としてイノベーション政策の体系をまとめることができたのではないかとも思います。単純に日常の業務に明け暮れていたならば、こうした「知的」作業が出来たかどうか、疑問があります。この作業により、「高み」にのぼったといえるかどうか別として、少なくともまとまった考えをほかの人にも伝えることができるように思います。NEDOで行っていたNEDOカレッジもその一環でした。


 今後、政策の当事者、さらには人材育成の現場などにおいて、この考え方を基礎として、これまであまり整理されていなかった「イノベーション政策研究」、あるいは「イノベーション政策学」というものを確立するための、一つの捨て石となれたらうれしいと思っています。


 またまた、はっきりしない「メリット」を概説したので、お役に立てなかったかも知れませんが、どんな仕事をやってこられている方でもこの効用は認めていただけると思います。もちろん、グローバルにお仕事を展開されている方々には、そのメリットを最大限享受されているものと確信します。






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