【周辺雑記】
ほぼ2週間ぶりのメルマガとなります。10周年を経て、少しペースダウンしたのだろうか、と思われるかもしれませんが、新規事業やイベント、出張と重なって、落ち着いてパソコンに向かえなかったというのが正直な理由です。後段のメルマガにも触れましたが、義父母の介護が現実的となり、もうその覚悟は整っております。
■沖縄でEMフォーラム開催
沖縄に出張し、恒例のEMフォーラムに参加しました。洪水の被害をEMで克服しいまなおEM技術のを利用を政府挙げて取り組んでいることを住宅公社の元総裁が報告し、チェリノブイリ事故における放射能の除染をEMの導入で効果があがったという実験報告がベラルーシの国立研究所の所長らによって行われました。比嘉先生が指導される農場の視察、そしてEM食材をふんだんに使ったBBQなど楽しさいっぱいのイベントが連続しました。
まあ、沖縄は連続した台風被害が想像以上に激しく、街路樹が根こそぎ倒れ、ホテルや商店の窓ガラスが割れるなど爪痕が生々しかった。普天間基地周辺の上空ではオスプレイが日に何機も飛び交っていました。
いつも感じることなのだが、沖縄県の人びとの思いやりは、どこまで深いのだろうか。誰でも受け入れる寛容さが、それが逆に裏目にでることがある、なんて悲し過ぎます。ひとのよさに付けこんで、メディアが猫なぜ声で近寄ったかと思ったら、豹変、手のひらをかえすように牙を剥く。沖縄は、長い間、こんな風に本土の謀略に脅かされ続けてきたのだろう、と同情を禁じ得なかった。しかし、どんな組織でもそうだが、外からの攻撃にはびくともしないものだ。
■秋季ビジネスモデル学会開催
これまた恒例のビジネスモデル学会秋季大会が20日、東大の本郷キャンパスで開催されました。再生可能エネルギーをテーマに、北澤宏一氏が独立事故検証委員会の委員長としてまとめた報告書を踏まえながら、公平にしかも冷静に、研究者と検証の委員長というふたつの顏を同時にあわせもちながら、これからの日本のエネルギー選択肢を具体的に6つ提示されたのは圧巻でした。詳細は省きますが、この日の〆のパネルでモデレータを務めた会長の松島克守氏は、やっとまともな議論が可能になった、とその充実した報告や議論に満足な様子でした。その裏では、実行委員長の林田さんを運営委員がそれぞれの立場でサポートした。うるわしい友情が発揮された大会でもあった。
再生可能エネルギーをテーマにしたビジネスモデル学会の会場風景
■『週刊朝日』の責任の取り方、ダメージコントロールの要諦
今週は、大阪市長、橋下徹氏を誹謗中傷した『週刊朝日』の連載をめぐる、朝日新聞側の橋下氏に対する謝罪は、迷走した。編集長の河畠大四氏の名前で「同和地区を特定するなど不適切な記述があった」と詫びるが、その問題の本質を矮小化しているように感じた。。表紙や構成、意図、経緯など、もっと重大な問題をはらんでいるのは明白だ。記事にうそやでっち上げがあるかもしれない。例えば不適切な記述がされていなかったとしても、この悪辣で、下品な記事はそれ自体が問題で、許せないのだ。
朝日と言えば、記事で、ひとを傷つけてはいないかどうか、と多くの先達は記事一本、言葉のひとつに身を削るような思いで向かった。それが朝日人の矜持だったはずだ。記事審査部や第三者委員会の創設に見る、取材する側とされる側の溝を埋めよう、その不信感を取り除こうと、どこの新聞社よりも腐心してきたではないか。が、今回の差別記事は、そのすべてをご破算にしかねないのだ。
特定の人をターゲットにして、人格をつぶし、汚名を着せて、この社会から葬り去ろうという魂胆だろうか。まるで悪魔の所作だ。本体の朝日新聞が当初、知らんぷりしていたのも気に食わない。、あわてて謝罪に回ったのは、大手の広告主から引き上げられる懸念があったからだろう。
橋下さんが記者会見で非難の声を挙げなかったら、そのまま第2弾が発売されたのだろうか。せめての救いは、1万人近くいる朝日人の中から、一部だが良識ある声が上がっていたという事実だ。それほど、ぼんくらじゃないのだ。
さて、お詫びしてもその傷跡は、どう修復するのか。もはや雑誌の回収は不可能に近い。橋下さんのファミリーに朝日新聞グループは今後どう向き合うのか。果たしてそもそも朝日は責任が取れるのか。
残念なことは、河畠編集長が更迭されたという一報が入ってきたが、ウェブで流れている前任の編集長とのやり取りで、「おれたちは外様で、朝日の人間じゃないシ、ハッハッハ」という冷やかし半分のおふざけに、、週刊朝日編集長の奴らの不真面目な本性が現れているような気がしてならない。
23日の天声人語が、その冒頭、「事件史に太字で刻まれそうな一件である」とあった。週刊朝日の「ハシシタ 奴の本性」かと思ったら、尼崎連続死体遺棄事件のことだった。指摘する、おぞましさは週刊朝日の記事と大差はない。
朝日新聞は、これからどうするのか。注目したい。その大事なところは、まず保身に走らないことだ。では、何を守るのか。
経営的判断か、役員らの面子か、あるいは新聞の矜持か、青臭い言い方だが、ダメージコントロールの要諦に立てば、自ずと答えは出てくるはずだ。保身に走れば、そのわずかでも狡さというのはすぐに見破られてしまうことを知るべきである。
編集長・出口俊一
DNDメディア局の出口です。やさしく香る金木犀が、橙色の花を咲かせた。高さ5mの木が庭の塀にそって三本あり、この時期に路地の角まで香りを漂わせてくれる。数件先の民家の庭にも金木犀が花をつけた。木の、その年数や苗木の産地によって、香りに違いというものがあるのだろうか。
うちの木は、ほのかに和らいでいる。風に吹かれて初めて匂いを発するように感じる。この家を買った時に、義父が造園業者に頼んで植えてくれたものだ。もうかれこれ30年になる。今年は例年よりずいぶん開花が遅れた。が、先日の強風でその大半が早めに散った。朝、緑の庭が、絨毯を敷き詰めたように橙色に染まった。イヤリングのような可憐な花なのに、散ったら華やいだ。
木犀や家風に馴れて静ごころ 水巴
その義父が米寿を迎えた。数えれば、その当時の義父と同じ年齢になっていることに気づかされた義父は、年々、外出が億劫になり、ほとんど寝てばかりいる。時折、ふと、思い出したように窓から庭を眺めるのが、唯一の戸外との接点となった。ふたつ下の義母と仲睦まじく静かに暮らしている。80歳の半ば頃から体力が衰えたような気がする。それまではまだ元気で気力も充実していた。アウトドアの月刊誌を購読して読んでいた。いまから7年前には、義父母を誘って地中海のマルタ島に10日間、旅した。サイレント・シティーや要塞の都市の石畳を歩き、中世の騎士団に想いを馳せた。
嵐の夜、船でゴゾ島に渡った。5つ星のホテルは清潔感に満ちていた。新鮮な魚介類を使った食事はスパイシーでおいしかった。母は、アルバムをながめながらマルタは生涯の最高の思い出、夢に出るわ、と懐かしんで旅の思い出を口にする。妻が、あの時、一緒に行ってよかった、としみじみ語る。両親との思い出を刻むラストチャンスでした。
子育てが終わってひと息ついたら、次に介護という現実が訪れる。誰もが経験することだ。ぼくの実父の時は、介護と、それに付添いの看護に、妻が愚痴ひとつこぼさずに尽くしてくれた。どうも、実の親子より、第三者の立場の人の方が、うまく介護に立ち会えるようだ。イライラしてつい言葉がでてしまうらしい。今度は、ぼくの出番だ。
ぼくは、週に数回、訪問する。東武日光快速に乗って自宅から1時間半、栃木の実家に向かう。小さな旅気分を味わっている。行くと、食事を用意したり、庭の手入れをしたり、畑に野菜を植えたり、と動きっぱなしだ。
父は銀行員だった。大学病院の理事、事務局長を勤め上げた。几帳面で、他人に迷惑をかけることをよし、としなかった。自分を常に厳しく律した。
その義父が、ある日、食卓にぼくらを呼んで、神妙な面持ちで、「お願いがあるのだけれど…」と断ってから、どうか、一緒に住んでくれないだろうか、と頭を下げた。義父の最初で、きっと最後のお願いになるかもしれない。「ハイっ! 喜んで…」とオーダーをもらったすし屋の職人のような威勢のいい返事をした。「ああ、よかった。よかった。これで安心だわ」と相好を崩して義母に目をやった。うっすら、涙を浮かべていた。
週に二回は通う。泊まる日も増えてきた。老夫婦と一緒に暮らす、その準備に入っている。義父は、行くと、いつもベッドに横たわって寝ている。起きてきては、今日は泊まっていけるの、と聞くのが口癖となった。泊まって行けばいいしょ、と繰り返す。何回も同じことを聞いてくる。携帯の操作がもどかしく、電源をいれたつもりが強く押しすぎてOFFにして混乱する。食後の薬を飲んだか、どうか、戸惑うことが多くなった。若い頃の記憶や、数年前のことは鮮明に憶えているのに、ついいまさっきのことがぼやけるらしい。
泊まると、夜中に顔を見せて、いやあ、泊まってもらうと安心だよ、と言う。
義父母と一緒に暮らして、静かな時間に身を委ねるのも人生の有り様のひとつかもしれない。
還暦を迎えるにあたって、心の準備を整え始めている。何かと言えば、何をしたいか、何をすべきか、それを決めることですね。やがてお年寄りになるとはあんまり考えないし、想像もしない。しかし、20年たったら確実に80歳に到達する。無事に、健康で迎えられればいいが、大病を患うかもしれない。不慮の事故に遭わないという保証もない。
この不確かな時間を、せめて心穏やかに過ごせたらいい。EMの技術で無農薬野菜を栽培したい。広い、のびやかな森って、どうだろうか、と思いついて、DNDメルマガ10年の記念にと、日光に0.5haの山を購入した。やや険しい丘陵地だが、そばを渓流が山林の一角を縁取ってくれている。大半は、樹齢50年を超える杉林だが、市道わきの入り口に、堂々たる欅(けやき)と椚(くぬぎ)、その一段高い見晴らし台には、すっーと伸びた桧と赤松の二本の樹が目印となっている。ブランドの「桧家」じゃないが、桧っていうのがいいじゃないの、と知人がいう。そばに巨大な樅の木、藤の木が天を覆おっている。河原には山桜が一本枯れかかっていた。
さて、この山をどんな森につくりこんでいくか、森が好きな仲間がひとり、ふたりとぼくのまわりに集まってきちぇいる。うれしい、ね。寝ても覚めても山のことばかり、わくわくするこの気持ちがどうにも抑えられない。
子供らを遊びに連れて行こうか、山葵棚をこしらえようか、キャンプができればいいね、夏の夜は、温泉にひたった後に仲間と飲み明かすのもいいかもしれない。夢がいっぱいつまった、ぼくの森物語なのだ。
■鬼首山のカツラの樹が捩じれた、と報告あり
森と言えば、夕張は沼ノ沢の鬼首山の巨大なカツラの樹の事は、以前に紹介した。樹齢数百年、その幹の根元は人が20人で手をつないでも回らないかもしれないくらい太い。高さは30mを超える、森の精霊が宿っているかもしれないほどの存在感があった。
あった、と書いたのは、そのカツラの樹の半分がねじれるように折れたからだ。中学の同級生の太田正章さんが、その生々しい写真を送ってくれた。彼によれば、小学校の同窓会の打ち合わせを札幌で開いた翌21日に、夕張に入り、とまどいながらそのカツラの樹を目指した。すると、近くの場所に鎖が張られて道路が封鎖され、倒れた樹の幹が道路まで塞いでいた、という。折れた衝撃は凄まじかったに違いない。
老木だから、寿命なのかもしれない、と太田は感想をメールで寄せていた。
数百年の歳月を待って、この夏に出会ったカツラの樹、そのわずか2ケ月後に再び、こんな姿をさらしてくれるとは、なにかの因縁だろうか。
一方の枝が折れたとしても周辺を圧倒する存在感は変わらない。折れ方も見事じゃないですか。堂々たる風格で、さらに凄味が増した、と思った。