DNDメディア局の出口です。ヘドロの中から祈りの花が甦る。それが3・11東日本大震災の壊滅的な惨状に喘いだ宮城県名取市の花卉栽培農家の希望となるだろうし、東日本の復興のシンボルになるに違いない。あれから1年6ケ月、どん底から這い上がった彼らに笑顔が戻った。その手になる淡い彩りのカーネーションは気品に満ちていた。
「喜びも悲しみも、花とともに」と言ったのは、被災地に温かいまなざしを寄せてきた前農水省花卉産業振興室長で、現在京都大学の教壇に立つ佐分利応貴さんである。友人のこのメッセージがいま胸にしみてくる。
■匂い立つ花のプレゼント
段ボールの縦長の箱がきのうの午後、自宅に届いた。なんだろうといぶかりながら、クロネコヤマトの配達員から抱え込むように受け取ると、ふわっと軽く、やわらかな荷物の感触が体に伝わってきた。う〜む、花の贈り物だろうか。
伝票の外枠に「復興へがんばろう、みやぎ」、住所欄に「名取市」の文字、そして依頼主の名前がチラッと見えた。やっぱりあの人が育てた花だ。逆境の被災地でやっと栽培、そして出荷にこぎつけたのだろうか。
箱を開けたら、花束が重なるように詰め込まれていた。束は7つ、ひと束に30本から50本はある。包み紙を解くと、実に愛らしいカーネーションだった。赤、ピンク、オレンジ、クリーム、それにグリーンと楚々として香しい。
大きな一輪花のスタンダードは満開で、ひと枝に複数の花をもつスプレーは対照的で蕾がやっとほころび始めたところ。花は、咲き競っていくことだろうから、しばらくは美しい花を眺めていられそうだ。こういう取り合わせの心配りがうれしいじゃない。いやあ、数えきれないほどの本数だ。近所に配り、実家の母に届けて、書斎に飾ったら部屋中が匂い立った。
手紙が同封されていた。便箋に万年筆で丁寧に綴られていた。
皆様方のご支援のお陰で、無事に
花を咲かせることができました。
本当にありがとうございました。
感謝の気持ちとして、心ばかりですが
花を送らせて頂きます。
菅井俊悦
絶望のヘドロから再起をかけた希望の花が、やっと咲いたのだ。ちょうど季節は秋彼岸、そしてまた花が好きだった亡父の仏前に供えた。彼岸は悲願に通じるのだろうか。その赤色を焼しめの壺にざっと活けたら、パーッと華やいだ。
花栽培の復活を誓った菅井さん、右手は名人の鈴木さん。名取の閖上で、今年3月1日撮影
■3・11から1年、その3月に訪問
花を手に取って眺めていると、黒く日焼けした顔に涙をためて再起を誓ったあの時の菅井さんの悲壮な姿が浮かんできた。
ヘドロで埋まった無残なカーネーションのハウス、昨年5月撮影、名取市閖上で
あれは3月1日の午後、菅井さんに会いたい。アポなしでもいいから、ハウスの周辺をのぞいてみたい、と無理を言って、ヘドロと塩害の田んぼから奇跡の米を収穫したあの伝説の鈴木英俊さんが運転し、友人でEMみやぎ世話人の小林康雄さんとぼくが乗り込んで名取市の郊外に向かった。
佐分利さんらを誘って名取市小塚原のカーネーション栽培農家の支援のために伺ったのは昨年の7月だった。佐分利さんは休みを取って参加した。そこで具体的な要望を聞いた。菅井さんらは、連日の猛暑のなか、がれき運搬の慣れない日雇い作業で疲労困憊だった。
「ただ、おれたちも、みんな収入がなくなってしまったんで、建設会社がきて、この辺のがれき処理とか、温室の解体をやっているんですよ、それで組合員の何人かが、作業員として働きに出ているもんで。結局、仕事はないし、収入もないしね、ほかに働きにでるっていっても、おれたち結構、年も年なもので…」と、花の栽培にはやや腰が引けていた。栽培にかかりたいが、まず生活が優先しないと飯が食えない、と表情を曇らせたのだ。
それでも真剣に耳を傾けてくれた。12月のクリスマスの出荷に間に合うように、と希望をつないだ。ヘドロの中から、祈りの花が甦る。それが名取市閖上の希望になるだろうし、ひいては被災地東北の復興のシンボルになるにちがいない、と思ったからだった。
菅井さんらは、その夏にカーネーションの苗を400本植えた。順調に生育すれば、10月上旬か11月には出荷ができるかもしれない。試験的でもその姿勢には、涙ぐましいものがあった。昨年秋に菅井さんのお宅に電話して、苗の生育状態を聞いた。やはり塩害なのか、暑さなのか、苗の問題なのか、その辺の原因はわからないが、花の生育は思わしくなく一部で枯れ始めている、と、声が沈んでいた。うまくいっていなかった。
試験的に苗を植えた。が塩害だろうか、うまくいかなかった。昨年7月撮影、菅井さんのハウスで
■「あきらめない」の気構え
それから年が明けて震災1年を迎える3月1日の訪問は、数えて3度目となった。
前述の通り、アポなしなので菅井さんの自宅周辺をおそるおそる見てまわった。さて、いまはどうなっているだろうか。ハウスは、どれも見違えるように片付いていた。ハウスに面した菅井さん宅の茶の間を外からのぞくと、菅井さんはお客さんと話していたが、ぼくに気づいたらしく会釈すると、菅井さんが、すぐに外に出てきてくれた。
表情は、明るかった。自宅前のハウスに土を入れた。津波で流されて、土がなくなったため、園芸用の土をダンプ2台分運んだ。費用は交付金でまかなった。組合員8世帯が、動き始めていた。ハウスの中を見て回った。ボイラーは入れかえた。モーターは自前で新品を入れた。配電盤も新しくなった。耕運機やポンプも何とか整えた、菅井さんは目を輝かせていた。
菅井さんは、今年4月下旬から順次、カーネーションを植えます、と明快に言った。山土を入れて除塩資材を加えたから大丈夫、花卉栽培農家8軒全員でやります、と声を弾ませていた。宮城県や名取市から、申請していた交付金が下りた。銀行からの融資が決定した。3月6日に契約の運びとなっていた。
「あの時はね、ガラスはぶっ壊れて天井まで水が来て、どうにもならなかった。 が、うちらは、どんなことがあっても絶対、花をつくるって決めていたから。 がれきを集めるアルバイトもやったが、名取から必ず花を復活させる、あきらめない、そういう気持ちを持ち続けてきた」と菅井さんは明るくいいのけた。
一緒に行ってくれた銀シャリ名人の鈴木さん、それに小林さんらも菅井さんの手を取りながら目を潤ませていた。菅井さんの花にかける思いが、ぼくたちの心の琴線に触れた。小林さんも鈴木さんも男泣きしていた。東北人のピュアな心根の美しさを身近に知った。
絶望の淵で心が折れた。そこから這い上がろうとした。が、一度挫折し、再起をかけて挑戦した。多くの人の激励やサポートがあったことは確かだ。が、「あきらめない、という強い気持ちだよね」と名人の鈴木さんがいみじくも口にした通りだ。それはまた鈴木さんの気構えと共通する。鈴木さんもまた過酷な条件を必死な思いで超えた。
帰り際、庭先に回ってぼくらの車を見送った。菅井さんは、ずっと深々と頭を下げていた。なんどもふりかえってその姿を目に焼きつけていたら、熱いものが込み上げてきた。
■1日に2000本を出荷まで回復
それからちょうど6ケ月、復興の象徴となるであろう、名取市閖上の希望の花、涙をふいて立ち上がった菅井さんのハウスにカーネーションが再び花をつけたのである。
「出口さんのところにも花を送るよ」との約束通り、菅井さんはぼくにもたくさんの真心を届けてくれた。必ず復活させるという菅井さんの心の祈りの花が咲いたのだ。泣けちゃうわ。菅井さん、おめでとうございます。よかった、とすぐにはがきにお礼を書いた。ご自宅に電話した。
奥様の声は明るかった。菅井さんが、「いやあ、お蔭様で、花ができました」と声を弾ませた。夏に暑い日が続いたためか、開花が1ケ月早くなった。塩分が上がらないように水かけを多めにしたのも影響しているのかもしれない、と言った。いま最盛期を迎えて日に2000本のカーネーションを出荷する。組合の8軒のうち4軒でも出荷をはじめた。秋彼岸のこの時期の出荷は初めてで、塩害のせいか茎がやや短いのもあるが、これで来年は震災前の状態に戻れると思う、と自信いっぱいに語った。