手付かずの田んぼは、へドロの上に
雑草がおおう。名取市閖上の高柳で
それでも道端に花は咲く
DNDメディア局の出口です。津波をかぶってがれきに埋まった宮城県名取市で贈答用のカーネーションやバラを栽培していた農家の方々は、どうしているだろうか、ヘドロに埋まった仙台平野の田んぼでいち早く苗を植えた銀シャリ名人の鈴木英俊さんの鈴木有機農園では、あれから苗がうまく育っているだろうか―。
震災から4ケ月、最初の訪問から2ケ月にあたる今月9日、仙台に再び足を運んだ。夏雲が白く、ぐっと構えたまま動かない。空がギンギラでまぶしい。風はそよとも吹く気配すらない。クールマジックという赤い熱中症対策グッズを首に巻いていたのがよかったかもしれない。ジリジリと気温が上がり正午前に32度を超える猛暑も、それほど苦にならなかった。
仙台駅で、被災地への支援を惜しまない東京のNPO地球環境・共生ネットワークの事務局長、芝幸一郎さん、地元のEMみやぎ世話人、小林康雄さん、鈴木徹さんらと合流し、前回の体験ですっかり気に入った有機野菜を使ったレストラン「六丁目農園」でお昼を食べた後、急ぎ、気になる名取市の閖上(ゆりあげ)地区に向かった。
仙台市内から車で東に30分余り、名取市小塚原の花卉生産組合の組合長、菅井俊悦さんのご自宅に直接伺ったら、律儀に組合員や近くの方々が10人ほど集まっていてくれた。津波で壊滅的な被害を受けた温室を見てまわり、その後、場所をJA名取の会議室に移して意見交換する予定になっていた。
名取市の花卉生産組合の菅井さんのご自宅で打ち合わせです。右側が、菅井さん。
炎天下、ボランティアの皆さんが温室のへドロを
取り除いていた。頭が下がります、名取市で。
近所の畑に流された漁船がすでに撤去された。遺体収容の自衛隊員らの姿はもはやない。2ケ月前の惨状は影をひそめ、ヘドロやがれきがすっかり取り除かれていた。一部、ガラスのハウス棟の中で、政党のボランティアがスコップを手に黙々と乾いたヘドロの土をかき出していた。ガラスのハウスは蒸し風呂で、その炎天下、汗みどろでした。つぶさに様子をうかがうと、年齢的に私とそう変わらない。聞くと、埼玉県からのチームで一人は川口市から、といった。逆にどちらからと質問された。越谷からと答えると、越谷のどちら、と再び聞かれた。どうもご近所らしかった。う〜む、頭が下がりましたね。
さて、どうなりますやら、不安の中で
カーネーションの苗が植えらていたが…。
順調に、周辺のがれき処理が進んでいるように見えた。そしてヘドロを取り除いたら塩害対策を講じて花の苗を植えればよし、と疑わない。早ければ、来年5月の母の日に間に合うように色鮮やかなカーネーションが花を咲かせるに違いない。そんなことを思うと、つい暑さを忘れてしまう。
ヘドロの中から、丹精込めた祈りの花が甦る。それが壊滅的な惨状を招いた名取市閖上の希望になるだろうし、ひいては被災地東北の復興のシンボルになるにちがいないから。
しかし、そうはうまく筋書通りにいくものでもない塩害対策を講じて花を植えればよし、って、容易じゃないことにすぐに気づかされることになる。
「ただ、おれたちも、みんな収入なくなってしまったんで、建設会社がきて、この辺のがれきとか、温室の解体をやっているんですよ、それで何人か、作業員として働きに出ているもんで。結局、仕事ないし、収入もないしね、ほかに働きにでるっていっても、おれたち結構、年も年なもので…。」
菅井さんは、組合員の顔に目をやりながら、いまの窮状を語り始めた。
まあ、いずれにしても復旧といっても時間がかかりますね?
「だと思います。ただモーターも動かないし、水も出ない、電気が通じていないところもある。家も壊された人もいる。やっと電気が点いたところもある。うちも、水が入ってなんとか、かんとかここまできた。」
水?って津波ですか?
「そう、がれきと一緒に津波がきた、というか、なんというか、がれきがみなこの辺の温室周辺に流れ着いた。すっかり頭まできたところもある。温室の中でがれきが暴れていた。すごかった。4−5日動けなかったし、避難もしない。ずっと片付けていた。この畳は、おじさんが家を解体するというのでわけてもらった。昨年、家をリフォームしたばかりだったが…。やっと、この4ケ月で、ここまできたという感じだなあ、じゃあ、見てみようかねぇ」。
菅井さんは、そう言い終わると、一同、席を立ってご自宅周辺のカーネーションの温室を案内してくれました。2ケ月前の惨状とはうってかわり、泥は除去されて畑に苗が植えられていた。温室といってもガラスは割れて外されているため、吹き抜け状態だ。
こっちはトマト、ピーマンなど野菜を植えた、というから、こちらは?と質問すると、カーネーションだという。種苗メーカーの富士プランツやシェミジャパンから分けてもらった苗を7月上旬に400本植えた。順調に生育すれば、10月上旬か11月には出荷ができるかもしれない。といってもわずかばかりの本数だが、試験的でも挑戦する姿勢は、涙ぐましい。
それでは、ということで次にJA名取の会議室でヒアリングを行うことになった。集まったのは名取市小塚原、高柳で花卉栽培を手掛ける10人ほどでした。菅井さんのところの組合員ではない方も参加した。
ご挨拶に名刺をお配りすると、驚いた。小塚原エリアの組合員8世帯のうち、菅井さん、そして太田隆さんをのぞいて全員が「三浦性」でした。いろいろご意見をいただいた三浦太さんが、紹介してくれた。そして本家、分家といった言葉が笑いの中で飛び交った。この地区は、三浦さんという名前が多いのです。
その中の中心的な三浦さんが、口火をきった。期待と戸惑いが、錯綜してなかなか考えがまとまらない様子がうかがえた。
国の二次補正で我々の復旧、復興にむけた要望が叶えられるのではないか、ともかくがれきが半端じゃなかったし、田んぼのヘドロも手におえない状況だ。ひょっとしてこのエリアを将来の新しい街づくりの計画地として考えるなら、私たち花卉農家が移転すべきなのではないか、どうだろうか、という。
もちろん、この閖上地区が新たな都市計画のビジョンとして描かれている、という話は耳にしたことはない。が、地元の中には、花卉農家の土地を買い上げてもらって他のところにみんな移転する、という淡い期待が見え隠れしていた。
それとは逆に、組合員ら5軒以上集まれば、国や県の補助の対象となる。名取市の方向性をみながら、この土地の特産であるカーネーションやバラの栽培をなんとしても復活させたい、そのために何をすべきなのか、という意見も少なからず出た。
そのためには、何を急がねばならないか、復旧のコストが、どのくらいか?ここを整理する必要がありそうだ。農機具は全戸全て使えない。共同購入なら助成の道はありそうだ。温室の損壊は人それぞれに程度が違うが、誰かがまとめやくになって個別の課題を全体として積み上げなければならない、が、その事務的作業の手がない、という実態が浮かび上がった。それこそ、ヘドロの除去ばかりじゃなく、地域復興のための人的サポートが必要に迫られている。役所に現場の担当者が来てもらうのではなく、アウトリートの発想がほしい。彼らの意向を現地に足を運んで聞きその要望を政策的に叶えてあげられる人的なサポート体制が求められる、そんな気がした。
地元、名取市農政課、普及センター、東北農政局等の動きも活発化しているが、個別の対応まで行きまわらないのが現状のようだ。ざっと、その場所で聴いた。
ある農家の試算でいえば、3か所の温室の修理で規模が700坪の場合2400万円、また、新設の温室で240坪の場合は、1200万円との見積もりがでていた。温室の修理や、新設も大事な復旧支援です。これに対して、「国からの助成金がいくらになるか、その査定次第で再開できるか、できないかの態度が決まると思う」という意見も。
この8月いっぱいで温室や周辺のヘドロの片づけが終わり、そうなったら、組合としては9月からは本格的に見積もりをまとめる、つもりだという。
まあ、組合員の生の声を聞いていると、花を育てるために手当てしなければならないことが山積しており、そのひとつひとつの優先順位が決まらない。どこから手を付けていいかわからない、といった状況にあることがわかりました。
とにかく、土作りをやり直さないと栽培はできない。だから、現在、塩害に強いという微生物のEMを試している農家もあるが、どこまで効果があるか、不安を抱える農家もいてなかなか踏み出せず、だからといって何か処方があるわけでなく、そこで手をこまねいているというのが実際かもしれない。他の農業資材にすがって土を復活させたい、という考えも同様だ。地元の普及所からは除塩の指導書が届いているというが、やはりやってみなくては分からない。
やっぱり土、ヘドロと塩害、これにまけない土を作らないといけない、ことははっきりしている。しかし、議論は、揺れます。温室への電源がやられたままだ。温室を稼働させるには、電源の復旧を急がないといけない、という。そうすると、次は、津波で配電盤、モーター、スイッチも動かない状態だ。続いて、やはり水が肝心じゃないか、という意見が飛び出した。配管が損傷し、給排水の水回りが全部、壊れたままだという。土づくりに水は欠かせないし、塩害に対しても水は不可欠な条件となっています。まあ、微生物の働きによっては必ずしも水が必要条件じゃない、という海外の事例もあるようだが、水は肝心でしょう。水は、ポンプさえあれば井戸からくみ上げられるので、まずここは水の確保を最優先する、という方向がみえてきた。
このやり取りを真剣に聞いていた小林さんのメモによると、組合員やその他エリアの花卉農家の復旧には、以下の手順が必要となる。そこには国への金額の要望まで書かれていました。この人の実務能力は、たいしたものです。さすが一部上場企業で部長さんをやった経験がこんなところでいきてくるのですね。
a)通水のための電源工事の申請⇒全戸、全額要求
b)除塩のための作業許可申請⇒全戸、全額要求
c)苗の仕入れ⇒割引価格で提供、無償提供の可能性
こんな形でまとめて、国や県などに申請することが望ましい、とし、そこに関係農家のデータ類を添付することなどが書かれていました。
苗の仕入れは、つまりこういうことでした。なんとしても花を咲かせたい、とアクセルを踏み込んでも塩害がどういういたずらをするか、わからない。高い値段で苗を購入しても失敗するリスクがある。いまこの状態で大きなリスクを抱えられない。苗や種を業者から安く仕入れらないか、提供していただくことはできないか、という考えでした。種苗会社などはわずかだが、花卉栽培農家への支援を始めているようです。実際に、塩害を覚悟して苗を植えた農家も少なくないが、やはり苗の活着が悪く、結果も思わしくないというのが実情だ。
「もし、苗の支給をして頂ければ、試験的な苗の植え付け時の経済的な負担が軽減できるし、何度でも挑戦しようという気持ちにもなる。成功するかどうか解らないものにお金をかけるのはプレッシャーだ、という気持ちです。
組合長の菅井さんのお宅に電話して、あのカーネーションの苗の生育状態をお聞きしたら、あんまりよくない、という。やはり塩害なのか、暑さのせいなのか、苗の問題なのか、その辺の原因はわかりませんが、生育も悪く一部で枯れ始めている、と、菅井さんの家族が教えてくれた。う〜む、確率的にどのくらいのリスクなのだろうか。この辺を知る意味でいま苗を植えるという姿勢は、大切と思います。
例えば、小塚地区の組合員の全戸にカーネーション苗を支給した場合、温室の面積から算出してざっと42万本となり、金額にして2000万円とはじき出された。組合員に高柳地区の関係者を入れてもそれほど変わらないが、これをどうにか、ならないものか。手当てしてもらいないか、と願う。
花卉栽培農家でEMを使い始めた
丹野さん、右に細かい指導する
芝事務局長
塩害対策については、同行した地球環境共生ネットワーク事務局長の芝さんがEM活性液の提供や指導について全面的な応援をする、との意思表示がありました。心強いことです。民間ベースでは、種苗会社や、東京の大手コンサル会社が現地に入ってファンド設立等のアドバイスに積極的です。震災から4ケ月、閖上が、やっと動き出した印象ですね。
名取市閖上の希望を東日本の希望にしたい。このヘドロから咲いた希望の花を、被災地の避難所や仮設住宅、そのほか街のすみずみに贈り届けられないだろうか、来年の花の日は、ぜひ、そんな夢をかなえたいですね。
さて、名取の帰りに宮城県宮城野区のヘドロで埋まった田園地帯に向かった。がれきの処理が進んでいた。しかもうっすら緑色にみえるのはおびただしい雑草なのだ、という。その荒れ放題の田んぼを横にみながら、蒲生地区の鈴木有機農園に銀シャリ名人、鈴木英俊さんを訪ねました。少しひざを痛めている様子でしたが、元気に出迎えてくれました。そして開口一番、DNDメルマガ読んでいますよ、とにこやかでした。今回が2度目なのにもう旧知の間柄のようなのです。そして、「まさか、文才あるね」と、うれしいことを言う。そして気分よく裏手の田んぼにいったら、そこに稲が40pほどに成長し、青々とした田んぼが広がっていました。
銀シャリ名人の鈴木英俊さんの田んぼで、へドロを克服して成育する苗に目を細める鈴木さん、小林さん、橋恵美子さん、左から。
ほんの2ケ月前まで、この田んぼはヘドロの油のような悪臭が覆っていた。5−6センチほどの粘土質のヘドロを手にしながら、このヘドロを除去しないで微生物に分解させる。塩害もこれで大丈夫だろう、と思う。すると間違いなくミネラルが豊富な田んぼに生まれ変わる、と自信ありげに鈴木さんは話していました。その通りになっているじゃないですか。
青々とした鈴木さんの田んぼ、へドロと塩害に
打ち勝て!背後はEMみやぎの鈴木徹さん
しかし、この夏場、この炎天下、どうしのぐか、だという。田んぼが干しあがったら塩をふいて稲を枯らせてしまう心配がある。さて、鈴木名人はどうこの夏場を乗り越えるのか、秘策ありですか、と水を向けると、ニヤッと笑った。う〜む、どうするのだろうか。
さて、仙台に帰る時間が迫ってきた。ビニールハウスにトマトが栽培されていた。上に伸ばすのではなく横に横にと生垣みたいな栽培方法でした。これもEMのぼかしを使うらしい。そばにいた小林さんが解説してくれた。
鈴木さんのトマトは、1個300円もする。そんな高価なトマトだが生産したら生産した分だけ飛ぶように売れる、ファンがついていまかいまかと待っているのだそうだ。へぇーいくらうまいといっても所詮、トマトはトマトじゃないの?と言いかけたら、その話題のトマトが無造作にカゴに入って出てきた。どうぞ、という。冷えたトマトをひと洗いして、かぶりついた。
う〜む、確かに。外側はやや硬めでがっちり実が詰まっていた。外側の皮の厚みが数ミリある。厚くて硬いのだが、この食感がなんともいえないのだ。野菜トマトというよりは果樹トマトと呼ぶべきかもしれない。中の種は赤く熟れてジューシーそのものでした.
銀シャリ名人は、いやいや人間国宝級の豊穣の匠なのかもしれない。
翌日は、名取市から南下して
ロケットのある角田市へ、小林さんと。
一般の人はねぇ、作物ができてから、これをいくらで売ろうと考えるでしょう。でも私は違う。最初から、一個300円のトマトを作ろう、と決めてそれで300円の高価値のトマト生産に取りかかるのですよ、おわかりかなあ、と鈴木さんはまた含み笑いを浮かべていた。美味しいトマト、まるで魔法にかかったようなトマトなのですね、これが。
帰り際、車の助手席にいた僕に鈴木さんが手のひらいっぱい、その高価なトマトを持たせてくれた。うれしい、なんともうれしい、と有頂天になっていたら、その夜、どこをどう歩いたのか、翌朝、ホテルで目を覚ましたら、そのトマトがない。魔法のトマトはするりと私の手を離れて、どこかに消えていた〜。