◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2011/06/08 http://dndi.jp/

仙台のコメ作り名人と微生物の奇跡!

 ・ブログ・ファーマー鈴木英俊さんの発信力
 ・名取市の花卉栽培、高橋恵美子さんの挑戦
 ・ヘドロ、塩害に強い有用微生物(EM)の驚異
 ・『現場からの報告余話:その4』
〜コラム&連載〜
 ・黒川清氏の「WEF本部で東大President Council」
 ・塩沢文朗氏の「震災の後に日本が世界に発信したこと」
 ・橋本正洋氏の「インベーションと復興計画」
 ・橋本正洋氏の「シリコンバレーにて−その2:シリコンバレーの活気」

DNDメディア局の出口です。地図を開くと、仙台湾に沿って砂浜が広がり、そのすぐ西側を南北に貫く運河が伸びる。延長60キロに及ぶ伊逹正宗公ゆかりの貞山堀という。この堀が、農業用水として肥沃な仙台平野の穀倉地帯を潤し、ササニシキ、 ひとめぼれ、と言った宮城県が誇るブランド米を作り、つややかな銀シャリをも産んできた。


 仙台市東部の地図

が、残念ながら、3・11の大津波でこの田園は一変し、海水やヘドロで作付けの見通しが立たない深刻な事態に陥っていた。新聞は、約2万fの水田でがれき撤去や土中の塩分を取り除く(除塩)作業が必要で、大半の水田は3年先まで作付けが困難になる、との農水省の見通しを伝えていた(朝日4月27日付朝刊)。そんな仙台市東部の田畑を歩いてきた。津波の爪痕に息をのんでしまった。こりゃ、もうダメだ。作付けどころじゃない、と思い「絶望」の文字が脳裏をかすめたのは確かでした。


 そんな中でも負けないで立ち上がった人たちがいる。涙をふいて、ね。政府うんぬんと言ったところでラチがあかないし、問題が解決するわけじゃない。作付け困難だからと言われてじっと瞑想にふけってもいられないのよ。他人のせいにしないし、世間の一部の嫉妬にも気にしないのさ、と前向でした。これを自立というのでしょうね。さあ、みんなで力を合わせんべぇ、うまくいったらそれを教えてやればいい、と逞しい。ひょっとしたら、これで奇跡を起こすかもしれない、と、その気構えが輝いてみえるのです。ひとり立つ、その姿に全国から、大勢の協力者、ボランティア、そして仲間が集まって応援していました。これは奇跡を生む、戦う微生物の尊いドラマかもしれません。


 被災地からの報告余話は、さて、いよいよ仙台市に入って最終ラウンドを迎えます。先行き見えない作付けの自粛要請を押してひとり作付けに立ち上がった仙台市のコメ農家、折れそうな心をご近所で互いに鼓舞しあう名取市の花卉栽培農家など、そんな健気で涙ぐましい活動の一端を紹介します。


 被災地の取材を気仙沼市から石巻市、女川町の凄惨な被災現場をめぐって仙台入りしました。石巻では、ある人の死をその奥様から聞いて考え込んでしまったし、女川町の惨状には身体が凍りついた。まあ、そんな連続でしたね。新幹線で盛岡に行ったのが先月10日、そこから先々で車を乗り換えながらリレーしてきました。そして5日目、数々記憶を重ねた長い旅だったかもしれません。


 仙台市内の夜、ホテル近くのカウンターで餃子をつまみにビールを飲んだ。タイムスリップした浦島太郎のような気分でした。杜の都、仙台は、都会特有の素知らぬ顔をする。すれ違うおしゃれな若者らは、たぶん奇異な長靴姿の私に少しも気づいていないかもしれない。


 日常と非日常、現実と夢の世界、どっちがどっちだか、地底の深いところから這い出たような私は、その境目が判然としないままホテルの狭いベッドで倒れるように眠ってしまった。ひとりの人の死というものがこんなに悲しい出来事なのに、それが万単位という夥しい数になったら万単位の悲しみが現れてくるわけではない。悲しみが薄く消えもしないのは、どういうわけだろう。


 EMみやぎの代表で、
 お世話になった小林康雄さん

翌14日の朝、仙台市内から国道45号線を北東へ走り、仙台市宮城野区、若林区、そして名取川を超えて名取市に向かう、という。ご案内役は、NPO地球環境・共生ネットワーク、EMみやぎの会の会長、小林康雄さんと、小林さんの友人の大谷光義さんでした。いずれも初対面でした。現役時代は、一部上場企業に勤めていた。定年を機にボランティアに参加した。私よりひと回り上の先輩たちで、気が優しく力持ち。そう、夕べ餃子店のカウンターでご一緒したのが小林さんでした。相撲部出身とやらで、店を出た先の駐車場で酔って胸を借りた。熊腰で屈強、骨格が違いすぎる。ぴくりともしない。赤子の手をひねるように肘の関節をいじられて降参した。ごちそうにもなった。飲むほどに楽しいのだが、ほんの数杯でヘロヘロでした。


 車中、私は後部座席で地図を広げながら、iPhoneを開いてfacebookに書き込んでいた。憎いほどの五月晴れ、風が気持ちがよい、と。この旅の終点に訪れることになった名取市といえば、記憶に鮮烈なあの裸足の女性がひざを組んで泣きじゃくっていた閖上(ゆりあげ)地区があります。ずっと気がかりでした。不思議と、今回、運が良く取材に恵まれる。さて、次に、何が待っているだろうか。


 悲しみを引きずる名取市の閖上地区の現場

仙台市内を出て30分ほど走ると、穀倉地帯の一角、仙台市宮城野区に差しかかりました。ここである人物と合流することになっていた。軽トラックから顔を出したのは、鈴木有機農園を営む自称・エコファーマーの鈴木英俊さんでした。コメ作りの名人という。小柄だが、どっしり構えて全身からエネルギーがみなぎっていた。69歳になるというが、動きは機敏だし、表情は穏やかで屈託がない。鈴木さんの田んぼに向かう道すがら、私は小林さんの乗用車から鈴木さんの軽トラックに乗り換えた。この地域一帯の田んぼが海水とヘドロに浸かったから、さぞ、落胆しているのではないか、そんなこちらの推量は裏切られてしまった。そして、青年のような瞳を輝かせながら、こんなことを言う。


 自宅近くの田んぼでヘドロを手に取る
 鈴木英俊さん、後ろは井戸掘りの掘削機

「どうなるか、その先はわからないことが多い。が、うまくいけば奇跡が起こる。この塩害、ヘドロを分解する微生物の力を信じて、この記録を後世に伝えたいし、近在の農家にもノウハウを教えたいさ。そして収穫期に、みんな、全員に来てもらえれば、うれしい。そんな夢をもってやっている〜」


続けて、


「見ればわかると思うけどが、私の田んぼで凄いところがあるから、見ればわかる。いや、被害がないどころか塩害とヘドロ、いまだ海水が溜まっている。もうそこは数年ダメかもしれないが、諦めないさ」。


 鈴木さんの牛、牛小屋が臭わない不思議!

宮城野区蒲生地区。鈴木さんの作付面積は、ざっと5町歩ほどでこのエリアでは1、2位を争う規模だ。年間収量は、60キロ入りの俵換算で450俵にもなる。銘柄は、ササニシキと、ひとめぼれ、有用微生物のEMを使った有機農業を続けてきた。年に1回除草剤を撒くので無農薬ではない。が、化学肥料は使わない。昔ながらの微生物による土作りに専心してきた。牛を飼育し、牛に踏ませたきゅう肥を発酵させた堆肥を使う。これに米ぬか、海藻粉、魚粕などを混ぜたものに、名桜大学教授、比嘉照夫氏が開発した有用微生物群のEMを加える。減農薬、有機質ぼかし肥料栽培で元気なお米になるだという。1キロの売値が600円から650円前後と、市販のスーパーで並ぶお米の倍の価格だが、全国に鈴木さんがつくるお米のファンが多い。大口では2店舗構えるすし店が年間で11トン、常連のうなぎ店は6トンも仕入れてくれていた。いずれも銀シャリとして扱われている。扱い量が増えると、コメの価格もいくらか割安になるらしい。


 鈴木さんからこんな話を聞いているうちに、その諦めない凄いところに着いたようだ。



 なぎ倒された海岸沿いの松林



う〜む。言葉もない。景色が一瞬にして歪んでしまったのだろうか。おだやかで平坦な仙台平野の地形が災いしたのか。浜辺のうっそうたる松林をなぎ倒し、お堀を突き抜けて平野に広がる水田一帯を容赦なくのみ込んだ。大津波は、海岸から高架の東部道路までの5キロも濁流を押し流した。折れた材木や、窓わく、ガラス、プラスチック、住宅の屋根瓦、ぺしゃんこの車の残骸などが埋もれてがれきの山となっていた。黒いヘドロと茶色い海水が泥沼と化し、油っぽい悪臭を放っていた。


 いつもなら緑の風が吹き抜ける田園風景は、5月に入って田植えの時期なのだろうね。いやあ、なんともこれは、いったいどれくらい被害がひろがっているのだろうか。そして、これからどうするのだろうか。鈴木さんの妙案は、この甚大な状況を克服しえるのだろうか。


 仙台市の調査では、大津波で浸水した仙台市東部の農地約1800fは、全てで塩害のため作付けが不可能な状態にある。このうち仙台東部道路の東側約1500ヘクタールは、排水機場も全壊して深刻だ。元々地盤が低いため、津波が引いた後も多くの地域が海水に水没したままだ。排水機がなければ海水を排出できないのだ、という。


 鈴木さんと一緒に=蒲生地区の貞山堀付近で

見渡すと、田んぼはどこも茶色く濁っていた。水田のわきの農道を走って海岸沿いの貞山堀付近に出た。この堀に巨大なタンクがさかさまに倒れて浸水していた。コンクリートの頑丈な作りの揚水機場が損壊していた。水が、田んぼに入らない。揚水も排水も壊れ、作付けの致命傷となり、作付け自粛が打ち出された。国が閣議決定で、国が9割、県が1割負担して復旧するというが、その見通しはたっていない。


 付近で仙台市議の伊藤新治郎氏と偶然会った。地元選出のベテラン議員で現在5期目という。いやあ、まず、考えてほしいのは復興ではなく、復旧ですよ。復旧に集中してほしい。ご覧になってください、この状況を。この田んぼをどうするの。がれき除去、ポンプの修理、塩害対策…政府が9割負担する、と言ったきり、それ以降さっぱり。何をどういう手順で復旧するのか、ヘドロをどこが除去するのか、塩害対策はどんな具合でやるのか、第一に、いつからやるの?いっさい具体的な取り組みが示されない。お米は、ねぇ、鈴木さんが名人だから、微生物を使った鈴木さんの考えを尊重してやってほしい、と思うが、と言いながら伊藤市議の怒りは収まらない。確かにね。


 新聞は、塩害になったところは土壌を何度も洗浄しても4〜5年後になる。また洗浄するには莫大な費用が掛かるし、1台数十億円する排水機を新たに購入しなければ農業が開始できない。国や県が援助(融資?)するにしても、どこまでできるのか、宮城県の米農家は厳しい現実が突きつけられている、と伝えているのだが、土壌の洗浄に4〜5年後とぼやかし、具体的な方策を示めさないメディアもいささか無責任な気がした。


 鈴木さんがとっとと先を行く。それに同行の小林さんらと後を追う。鈴木さんは、なぎ倒された松林の中を通りぬけて海岸に出た。青い空、白い砂、海風、美しい海岸なのだが、それが余計に恨めしい感じがした。再び車に分乗して鈴木有機農園に向かった。ご自宅わきの田んぼは、海水で50センチ冠水した。水が引いて黒いヘドロが一面、溜まっていた。手に取ったらやわらかな粘土状だった。割って断面に鼻をつけた。油と汚泥の悪臭がした。


 海風、青い空、白い砂の蒲生海岸


 がれきが覆う鈴木さんの田んぼ、海水が茶色く溜まっていた。

もうお手上げ、と思ったら鈴木さんは諦めていない。作付けに意欲を燃やしていた。いまがコメ作りの名人の腕の見せ所なのかもしれない。ヘドロと塩害、揚水排水ポンプの損壊という三重苦を乗り越えられるだろうか。鈴木さんは、こんなことでへこたれては百姓の名に恥じる、とでも言いたげだ。これまで培った勘と経験、それに微生物の力を信じてどこまでやれるか、まずやってみなければ、はじまらない。


が、鈴木さんが怒りを込めて言う。


ヘドロを除去するって、簡単に言うけれど、厚い場所で10センチ、平均的には5〜6センチもある。ヘドロを取れって、どうやってとんの?そんなねぇ、現実味がないでしょうな。昔、ヘドロで汚れた川をEMの活性液を撒いてきれいになり、シジミまで育てた経験を思い出した。だから、EMでやればヘドロは除去しなくてもいい。ただ、水がないと田んぼはどうにもならない。水をどこから引いてくるか。


 提案してくれたのがEMの仲間でした。井戸を掘って地下水をくみ上げる方式だ。自宅わきの畑から、地下水をポンプでくみ上げるプラント工事を急いだ。私が訪ねた数日後に、地下51mの掘削地点から塩ビ管を通して水が噴きあがった。私が訪ねた時は、もう井戸掘りが大詰めを迎えていました。次に、下流のポンプ場が津波で全壊したため、落水した水を下流に流せない。そのため、今度は排水堀を堰止めて自前でポンプ排水する方式にした。朝晩、フォークリフトを動かし発電機と水中ポンプを送り迎えしているのは、盗難防止のため、という。


 鈴木さんの緻密な挑戦は、その後、順調に展開していました。大阪からNPOの「てんつくマン」のご一行やボランティアが、田んぼの砂利をトラック数台分も取り除いてくれて助かった。酵素や微生物、セラミックなど塩害対策に効き目がありそうな資材を提供してくれる人が増えて行った。水が張った田んぼにEMボカシ肥料を散布し、EM活性液を入れながら代掻きを2回やった。鈴木さんのブログをみて、テレビ局が3社取材にきた。毎晩、就寝前にブログを書いているのです。先日、私がお邪魔した時のことも写真入りで取り上げてくださっていました。器用でマメで懸命な人なのですね。その動機も「農業を多くの人に知ってほしいし、農家の人にも自立してほしいと願っての事で、2年前の12月に始めた」という。以来、震災の一時期をのぞいて原則、毎日更新しています。人気もあるのですね。偉いです。


http://suzuki-yuukinouen.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/06/
http://suzuki-yuukinouen.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/05/


 さて、いよいよ24日に田植えを敢行し、EM活性液を流し込んだ。微生物がヘドロを分解してミネラルの養分に変えてくれる。県農業普及センターからの協力で塩害対応試験も開始しました。塩分濃度を変えないで、塩害そのままの水田の4ヶ所で採土し、EM活性液の効果を見る。同じ条件で宮城の主力品種「ひとめぼれ」を植えました。


 苗の育成にも海水を使った。塩分濃度を変えた育苗箱での実験です。塩害に強い苗を想定し、最初から海水という環境で強くなれば、塩害の田んぼで田植えしても抵抗なく育つであろう、という親心でもある。抵抗力か、免疫力か、いずれにしても新しい試みです。


 昨日、夕方、鈴木さんに電話したら、こんな明るい声が返ってきた。


「塩分濃度が高いのにもかかわらず、ササニシキの新根が出て5ミリになっていた。遅い田植えで、しかも悪条件のなかで、どれほどがんばってくれるか、祈るような気持ちです。それと、田んぼが臭わない。泥の臭いも薄まってきた。微生物が、稲と一緒に戦っているような気がしています。がんばれ、がんばれ、と朝晩、声をかけて見回っています」。

電話では、朝から石巻市の蛇田と鹿又地区に出向いて、津波で冠水した田んぼの除塩のために、EM活性液、EM3号を持参して水田へ流し込みを始めているはずです。除塩も大事、ヘドロの微生物による分解試験も大切大事なところです。鈴木さんは、EM農業指導員の肩書でも幅広く活動しているのですね。この様子は、地元のテレビ局が収録し、東日本大震災から3ケ月にあたる今週の11日に放映予定という。こんな風にメルマガを書いていると、また鈴木さんの田んぼに行きたくなってきました。


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 左から小林さん、八島さん、大谷さん、そして高橋さん

小林さんの車は、鈴木さんの農園を出て、次に名取市に進路を取りました。EM自然農法の八島静子さん、自然農食みやぎ代表の鈴木徹さんらが加わりました。お優しい方々です。


 名取市の花卉栽培農家の主力商品は、
 カーネーションとバラ。栽培は、出稼ぎ対策だった。


 名取市高柳、この辺がこの旅の前から気になっていた閖上地区だという。宿根リモニウムなど花卉栽培に10年の高橋恵美子さんが、津波による塩害とヘドロでやはり頭をかかえていました。「EMで、なんとか、ならないだろうか」とSOSを出していたのです。高橋さんは、花卉のビニールハウス栽培、野菜畑、それに田んぼの仕事を一人で切盛りされていました。大津波が家のすぐそばまで押し寄せた。ハウスや畑が海水に浸かった。田んぼは、ヘドロが10aはあった。ひび割れてすでに白く塩をふいていた。異様な光景に映った。花がひび割れた土の中で立ち枯れていました。胸が締め付けられそうでした。


 高橋さんは、一時は、「心が折れそうだった」と心情を語り、善意の協力を惜しまない小林さんや八島さんに感謝の言葉を口にされていました。スレンダーな美人でご近所の評判もよろしい。細腕ながら気丈に汗を流していました。


 高橋さんの案内で、カーネーション栽培、50年の針生恒男さん宅に出向いた。切り花用のカーネーションの苗が、無残にも枯れていた。ここでは今度は私の心が折れそうでした。EMみやぎ代表の小林さんが、「まあ、どんどん、じゃぶじゃぶとEMの活性液を何万倍にも薄めて繰り返し散布する。田畑を起こして流せば、大丈夫です」という。「大丈夫」という言葉がどんなに心強いか。


 名取市花卉生産組合の組合長、
 菅井俊悦さん宅前で記念撮影。

次に移動した先が、名取市花卉生産組合の菅井俊悦さん宅でした。この組合長で、8軒の栽培農家を束ねる。年間出荷額が9,000万円、近く農協で被害状況や対策の会議がある、が、いままでなにも具体策がない。先行きは、不安だ、という。この地域周辺の農家が、花卉栽培を始めたきっかけは、出稼ぎ対策だった。菅井さん、ふと、これでまた出稼ぎしなくてはならなくなるかも、と表情は沈痛だ。


 我々一行は、再び高柳に戻り、高橋さんが懇意にしている名取市高柳中北原の生産農家、丹野利幸さん宅にお邪魔した。出荷時期を迎えたベニバナだが、これも塩害で花が咲かない。そこで、丹野利幸さん夫妻、高橋さんと、お別れ。なんだか、後ろ髪がひかれます。


 名取市の丹野夫妻、高橋さんらと


 あの若い女性が路上で泣いていた写真の撮影地が、名取市閖上だったと思う。あの子に会いたい。その場所には行けなかったが、わたしの脳裏に、あのシーンがいまだ離れない。花の話ばかりしましたが、この周辺の津波の被害状況は、目を覆うばかりでした。がんばれ、なんて言えない。私たちの前では、決して心のうちは見せませんでした。逆に、私の冗談に付き合ってくださるほどでした。が、ふと、笑顔が途切れ、笑った顔がそんなに長く続かないのも無理はないと思った。私は、その場を去るからかえってしまうからいいが、その土地で生まれ育ち、そしてこれからも生きていかなければならないとしたら、私ならどうするだろうか、と考えてしまった。


 後日、小林さんに電話すると、高橋さんのコーディネートで研修会を開いたら、地元の花卉栽培農家の皆さん11人が参加してくれたという。EMみやぎとしては、本格的な協力をすすめていくことを決め、EM活性液のタンク2台を提供し、じゃぶじゃぶとEMを使うことを進めているという。高橋さんらは、元気を取り戻しただろうか。


「どうぞ、その進捗状況を見にぜひ、きてください」と小林さん。おおらかでやさしい人柄だ。その足で仙台駅まで送っていただいた。さて、EMとのお付き合いが15年と古い割には、それほどEM生活を実践しているわけではない。これを機に少し本格的に勉強しようかしら。


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 シリーズで連載してきた『東日本大震災2ケ月、現場からの報告余話』は、今回で4回目です。お許しを乞うて、もう一回、「忘れがたいあの人この人」を総括編として書く予定です。この1ケ月、ご意見、励ましを賜りました。ありがとうございました。





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