第104回 「OPCWのノーベル平和賞受賞に際して書き留めておきたいこと」
10月11日の金曜日、休暇をいただいて、お彼岸に行けなかった信州のお墓参りをひと月遅れですませた後、蓼科の宿でくつろぎながらFacebookのメッセージを見ていたら、英国人の友人、DanielのFacebookの投稿の内容がどうもおかしい・・・。
なぜ、D anielは20年も前の事務局長や同僚のことを書いているんだ?
寒空の中、オランダ、ハーグの彼のオフィスの周りにメディアが集まって来ているって・・・何があったんだ?
「O P C W (化学兵器禁止機関)が今年のノーベル平和賞を受賞」というニュースを知ったのは、彼が次に行った投稿によってでした。
ええっ、本当?
びっくりしてネット・ニュースを見てみました。何回か会ったことのあるウジュムチュ(Uzumcu)事務局長が、受賞会見している!
本当だ!本当に受賞したんだ!
それから数時間は、FacebookでつながっているO P C W 時代の昔の同僚の間で、時差と国境を越えて驚きとお祝いのメッセージが飛び交いました。かつて私と一緒にオランダのハーグに赴任した妻と娘にとっても、そのニュースは嬉しいもののようでした。そして、そのうちに−はなはだ厚かましい感想ではありますが−ノーベル賞のような賞に関係など出来る訳がないと思っていた自分も、ノーベル賞に多少の関わりを持つことが出来たのかもしれないという感慨が、私自身にもジワッと湧いてきました。
繰り返しになりますが、“O P C W が2013年のノーベル平和賞を受賞”しました。
【ノーベル平和賞受賞を発表するO P C W のウジュムチュ事務局長】
これまでこのコラムで何回か書いたとおり、私は、1993年から96年までの3年間、このO P C W という国際機関をつくる仕事に携わりました。そしてつい最近もウジュムチュ事務局長の諮問委員などを務めたこともあって、O P C W のことを何回かこのコラムに書いてきました。(たまたま前回(第103回「シリアの化学兵器とO P C W 」)でもO P C W のことを書きましたね。)
そんなこともあって、O P C W がノーベル平和賞を受賞したこの機会に、皆さんに改めてお伝えしておきたいと私が思うことを書かせて下さい。いずれも既に以前に書いた内容なので、しつこくなるようで申し訳ないのですが、この記念すべきイベントに免じてどうぞお許しを・・・。なお、O P C W の現在の状況については、前回に書いたばかりなので、さすがに今回は脚注に記すことにします(1)。
まず、書いておきたいのは、O P C W がその執行の責任を負っている化学兵器禁止条約(C W C化学兵器禁止条約: Chemical Weapons Convention)についてです。以前にも第79回「『O P C W 将来構想委員会』を終えて」で書きましたが、C W Cは、化学兵器という大量破壊兵器の一つのカテゴリー全体を全廃することを合意した、他に比類のない画期的な軍縮条約です。大量破壊兵器の軍縮といえば、他に核兵器に関する「核拡散防止条約」(N P T条約)が良く知られていますが、これは米、露、英、仏、中の5カ国の核兵器保有国の保有は認めたうえで、その他の国への核兵器の拡散を防止するという内容に留まっていて、C W Cとは異なり、これらの国が保有している核兵器の破壊は規定されていません。したがって、この世界の化学兵器をすべて破壊するというミッションは、O P C W を特徴づける重要な機能です。
そうしたこともあって、報道ではO P C W に関して化学兵器の破壊活動に関することばかりが伝えられていますが、国際社会がC W CによってO P C W に託したことはもっと幅広いことです。
C W Cの「化学兵器」の定義は広く、軍用の化学兵器だけでなく、毒性化学物質を平和利用目的以外の目的で製造、使用、保有、取引することを化学兵器関連活動ととらえ、C W Cはそれらの活動を禁止しています。その一方でC W Cは、世界の化学技術の発展に向けて、毒性化学物質を平和的に利用するための国際協力を推進することなども規定しています。したがってO P C W は、毒性化学物質の製造、使用、保有、取引の監視活動や、毒性化学物質の適正利用に向けた国際協力活動にも携わっています。
つまりO P C W は、有用物でありながら使い方を間違えると有害物質にもなりうる(つまり、文字どおり毒にも薬にもなり得る)化学技術の二面性の本質を捉え、化学技術の使用を適正に管理するといった役割を担う、化学技術に関する国際機関なのです。
OPCWに関して、決して忘れられてはならないと思うことは、第38回「記録に残しておきたい話(2)−国際機関をゼロからつくりあげたある英国人の話−」に書いた故M r. Ian Kenyonのことです。Ianは、1993年にC W Cが合意されO P C W という機関を作ることが決まってから、97年にC W Cが条約の発効要件を満たして発効し、O P C W が発足するまでの間の準備作業のトップを務め、新たな国際機関をつくりあげた人です。この機会にO P C W のことをもっと知りたいと思われる方は、是非、同コラムを読んでいただいて、Ian Kenyon氏のことを知っていただきたいと思います。
【故Ian Kenyon氏:信州別所温泉安楽寺で】
なお、このほかにもO P C W という組織づくりに大きな貢献をしたが、既に亡くなられてしまった方が何人かいます。シリアの化学兵器に対するO P C W の査察活動に関連して、最近、TVなどでも査察官の査察機材の保管、整備と査察で採取したサンプルの分析を行う機材倉庫と分析施設(2)の様子が放映されていますが、この施設の準備に当たったのがブラジル人の同僚のM rs. M arta Laudaresです。第11回「普通に見えて普通でないこと−オランダから見えたこと (5)−」の最後に書きましたが、彼女は2007年の8月にサンパウロ国際空港で起きた飛行機事故で、不慮の死を遂げてしまいました。また、O P C W の査察検証体制づくりの全般にわたり、大きな貢献をした元検証局長(D irector for V erification D ivision)で私の上司だったD r. John G ee(3)は、2007年の1月に脳腫瘍で亡くなりました。まだ63歳の若さでした。
このほかにも1994年8月に作成された当時の組織図を見ると、名前を挙げるだけになりますが、 当時の主要メンバーの中でR on N elson(アメリカ)、Johan S antesson(スウェーデン)、S hahbaz (パキスタン)などの方々が既に鬼籍に入っています。O P C W とは直接の関係はありませんが、私の父は、私たち家族がオランダに赴任した際に、ともにオランダに来て一緒に暮らしていましたが、1994年の3月にハーグ市内で交通事故に遭い、亡くなりました。(このことは、第3回「普通に見えて普通でないこと−オランダから見えたこと (2)―」に書きました。)
もう多分、関係者の記憶からも消えてしまったと思われる歴史もあります。O P C W の査察官の訓練のために、実際の化学物質製造サイトを訓練場所として提供してくれた日本の化学会社、D社のことです。このことは、第13回「記録に残しておきたい話」で書きました。同コラムでは、名前を出しませんでしたが、あれからもう6年も経ったので名前を出しても良いでしょう。D社とはダイセル化学工業(株)(現、(株)ダイセル)、K社長とは当時の児島章郎社長、I常務とは市野昌彬常務のことですが、こういった経営者、会社が、日本のみならず世界のために役に立ちたいという立派な考えをもって、O P C W の査察体制の構築に大きな貢献をしたことは長く記憶に留めておきたいことです。
このほかO P C W の行う査察には、日本の陸上自衛隊化学学校の方々がO P C W の査察官として参加しているだけでなく、主体的な貢献をされていることを知っていただきたいと思います。特に秋山一郎元陸将補は、O P C W の発足後の初代査察局長(査察の実施計画の立案、実施の責任者)として活躍されました。そのほか、経済産業省、民間企業から、O P C W の事務局の幹部や査察官として日本人の人材が参加して働いています。
OPCWの外から、OPCWの活動を支えている日本の関係者もいます。在オランダ日本大使館の歴代大使、大使館の職員の方々は、OPCWの日本代表としてOPCWの運営に協力しています。私がOPCWの創設準備のため、OPCW準備委員会暫定技術事務局(Preparatory Commission for the OPCW, Provisional Technical Secretariat: OPCW-PTS、私が仕事をしていた機関の正式名称はこれです。)に着任したとき、オランダでの生活の立ち上げの面倒を見ていただいたのは、当時の有馬龍夫大使を始めとする大使館の皆さんでした。
思いがけず長くなってしまいましたが、以上が、私が「O P C W のノーベル平和賞受賞に際して書き留めておきたいこと」です。
(1)1 O P C W は、1993年に合意されたC W Cにより新設された国際機関です。O P C W は、条約の発効要件が整った1997年から正式にその活動を始めました。今では加盟国数が、今般のシリアの加盟を含めて190カ国となり、国際査察官170名を含む事務局員数約500名、年間予算規模7,500万ユーロの組織となっています。オランダのハーグに本部があります。
(2)この施設は、ハーグの隣町ライスワイク(Rijswijk)にあります。
(3)彼は、OPCWが正式に発足した後も残り、2003年までOPCWの事務次長を務めました。
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