第79回 「OPCW将来構想委員会」を終えて


 「化学兵器禁止機構(OPCW)将来構想委員会」が、6月29日にその最後の会合を終えました。昨年の12月から計4回、正味10日間にわたってオランダのハーグにあるOPCWの本部に世界14カ国から有識者が集まり、熱心な検討を積み重ねたことになります。このコラムでもこれまでに2回ほど書かせていただいたので多くを繰り返すことはしませんが、この委員会は、世界に存在する化学兵器を破壊するという大きな仕事の達成にほぼ目途をつけたOPCWという国際機関が、化学兵器禁止条約(Chemical Weapons Convention: CWC)に規定されたそのさまざまな役割の中で、今後、どのような問題に重点をおいていくべきか、そのためにどのような組織や仕事の仕方の変更が必要かといった問題について、第三者の有識者としての見解を示すことがその使命でした(*1)。


 最後の会合ではちょっとしたハプニングもありました。実は、会合の終了までに議論を尽くすことができず、6月27日から29日までの会合期間内に委員会としての報告書をまとめることが出来なかったのです。このため、会合の最後の段階では8月末に追加の会合を持つ可能性まで示唆されました。その後、Ekeus委員長と報告書を受け取る側のOPCWのウジュムチュ(Uzumcu)事務局長 (*2)との調整の結果、報告書の内容はOPCWの2012年の予算案の検討に間に合うよう完成する必要があるということになり、残りの議論はメールでやりとりをするということになりました。結局、最終的に報告書がまとまり、事務局長に委員長から提出したのは7月15日のことです。


 こんな事情で、最後の会合が終わった後の達成感に欠ける面があったり、委員会メンバーとのお別れが中途半端になってしまったりしたことがやや残念だったのですが、それはともかくとして約20ページ、121パラグラフに渡る、前向きなアイデアに満ちた報告書をまとめることができたのはよかったと思っています。(もし、報告書をご覧になりたいという奇特な方がいらっしゃったら(笑)、DND事務局を通じて私にご連絡いただければ、お渡しできると思います。)


 何故、それほどまでに議論が尽きなかったのか。その背景には、委員会のメンバーのCWCという画期的な軍縮条約にかける思いが強かったということがあるでしょう。実際、委員会のメンバーのかなりの人たちが、CWCを実際に書き、交渉し、創り上げた人たちでした(*3)。私は、1993年に条約が署名された後、条約の実施の準備のためにOPCWという新たな国際機関を創る仕事に1993年から96年まで参加しましたが、条約の生みの親ともいえる人々が集まった今回の委員会に参加して、いまさらながらCWCの意義について認識を深めることが数多くありました。


 CWCは、化学兵器という大量破壊兵器の一つのカテゴリー全体を全廃することを合意した画期的な軍縮条約です。大量破壊兵器の軍縮といえば、他に核兵器に関する「核拡散防止条約」(NPT条約)が良く知られていますが、これは米、露、英、仏、中の5カ国の核兵器保有国の保有は認めたうえで、その他の国への核兵器の拡散を防止するための条約です。現在、保有されている核兵器の破壊も規定されていません。また、生物兵器の開発、生産、貯蔵等を禁止するとともに、既に保有されている兵器を廃棄することを目的する「生物化学兵器禁止条約」という条約もありますが、具体的な廃棄義務は規定されておらず、また、CWCに備わっているような新たな兵器の生産、使用の禁止措置の実効性を担保するための国際検証措置も規定されていません。


 CWCの「化学兵器」の定義は広く、軍用の化学兵器だけでなく、毒性化学物質を平和利用目的以外の目的で製造、使用、保有、取引することを禁止しています。その一方でCWCは、世界の化学技術の発展に向けて、毒性化学物質を平和的に利用するための国際協力を推進することなども規定しています。つまり、有用物でありながら使い方を間違えると有害物質にもなりうる(つまり、文字どおり毒にも薬にも成り得る)化学技術の二面性(デュアル・ユース・テクノロジー)の本質を捉えた内容となっています。そのように表現するのはちょっと大げさかもしれませんが、人類が化学技術を正しく使用していく上で、世界が遵守すべきルールを規定している条約といえるでしょう。


 そして、これまでのCWCの成果で最も重要なことは、各国が保有していた化学兵器を全て破壊するための作業が、若干遅れ気味ではあるとはいうものの、実際に着々と進んでいることでしょう。しかもその破壊作業は、OPCWの査察官の監視のもとで行われ、その破壊の方法の妥当性、破壊の確認がしっかりと検証されています。こうした軍縮条約の「成功例」(*4)を、是非、大事にしたいという思いが参加したメンバーにはありました。


 議論が尽きなかったもう一つの原因としては、委員会のメンバーは個人の資格で参加しているとはいうものの、本当に国益に関わる問題については、国の意見を主張せざるを得なかったということも背景にあったと思います。私自身も日本として譲れない問題を託されていましたし、実際、最終日の最後の2時間くらいは、国の意見と表立っては言わずとも、そうであると推察される意見のぶつかり合いがメンバーの間でありました。


 メンバーに多くの元大使、外交官の方々がいたということも影響していたと思います。さすがに文書をまとめる段になるといろいろな修文案が出てくる。ただ、私はそうした外交官の「習性」を必ずしも困ったものだとは思っていません。文書のメッセージを紛れがなく明確なものにするためには、特に文化も言語も意見も異なる人が集まる国際会議では極めて大事なことですから。(でも、どっちでもいいじゃない?と思うことも正直言って多々あったことも否定は出来ませんがね(笑)。)


 「OPCW将来構想委員会」の報告書では、やや皮肉なことに、国が批准して参加するCWCの将来の役割として、非国家主体、特にテロリストによる化学兵器(この場合、いわゆる兵器だけではなく毒性化学物質の意図的悪用を含む)への対応が、今後の重要課題として示されました。委員会の議論を通じて、世界の安全保障専門家のこうした脅威に対する懸念には、かなり大きいものがあることを感じたところです。世界の専門家が最近の安全保障環境をどう見ているか。ご参考までに、この懸念に関する報告書の関連部分を抜書きして見ましょう。


 "「紛争」は、もはや二極化した対抗軍事同盟の下で起きるものとは限られない。国家間の紛争は減っても凶暴さの程度は減じてはいない。戦争、内紛、大規模な人権侵害、革命、反乱、暴動、テロ、そして組織犯罪の間の区別がつきにくくなっている。従来型の軍隊の形態に加えて、戦場には、軍隊もどきの集団、武賊長と武賊集団、傭兵、私的戦闘企業、テロリスト、犯罪集団などの非国家主体の戦闘部隊が出現している。この結果、現代の脅威は、従来型の国家間で発生する脅威に加えて、住民や重要施設に対する攻撃に関する脅威へと広がっている。こうした紛争では、これまで武力紛争においても遵守すべきとされている国際法や人権に関する国際ルールの遵守がないがしろにされる懸念もある。
 化学兵器の特徴(*5)から考えて、化学兵器は以上のような現代型の紛争において効果が大きいものと考えられる可能性がある。実際にはCWCの施行以降、伝統的な化学兵器による大量殺戮の脅威はかなり減じているが、化学兵器が人々の恐怖を呼び起こす能力、または、ある地域から住民を強制移動させ、社会的経済的混乱を巻き起こす能力をもつ点で、化学兵器が魅力的なものと見えるかもしれない。実際、悪意を持って毒性化学物質を意図的に散布した例が、東京で引き起こされたオウム真理教によるサリン事件、イラクで起きた塩素を積載したトラックによる自爆テロなどで見られている。"


 平和な社会に住み慣れた私たちにとっては、実感を持ってこうした認識を共有することはなかなか難しいと思いますが、世界の安全保障専門家はこんな見方をしているのです。日本の自衛隊、警察や公安当局が、テロリストによる化学兵器の使用リスクに関してどのような認識を持っているのか、私には知りませんが、日本では、これまで国内では起こりようもないと考えられていた(上記の引用部分でも言及されている)「サリン事件」や福島第一原子力発電所の事故(*6)が、呆気ないほど簡単に起きています。こうしたことを思い起こすと、報告書で提起されている化学兵器を使用したテロ事件などのリスクも、日本には余り関係がないリスクなどと「平和ボケ」の頭で考えることなく、真剣に評価し管理されていかなければならないと思います。


  化学産業分野の「専門家」ということで参加した私にとっては、報告書に化学産業のCWCに対する思いがきちんと反映されたことは収穫でした。


 多くの化学企業、特に日本の化学企業が、意図的に化学兵器の拡散に加担することはありえないにもかかわらず、化学兵器の拡散の防止のためにCWCの規定に従って毎年の活動状況の届出及びOPCWの査察官による工場査察の受入等を行う負担を強いられています。しかしその一方で、一部のCWCの加盟国では、国内実施法の整備、執行は未だに不十分な状況にとどまっていて、規制の抜け穴となりかねない状況が続いています。これは、化学兵器の拡散の防止に向けた取組みの効果を大きく損なう可能性があります。また、産業間の公平な国際競争条件といった観点からも問題です。こうした事態は、直ちに是正されなければなりません。当たり前といえば当たり前のことですが、報告書ではこうした問題の是正が喫緊の重要課題であることが明記されました。


 また、OPCWの工場査察対象の選定にあたって、様々な化学物質のリスク管理活動が化学企業によって自主的に行われていることを考慮すべきことが明記されたことは、そうした活動に真剣に取組んでいる化学企業にとって、OPCWの査察の受け入れ機会を減らす可能性が開かれることになりました。


 同時に、日本の化学産業で、今後、取り組みを強化していかなければならない課題も見えています。報告書では化学兵器の拡散の防止対策を今後とも継続していくために、化学産業界とOPCWの関係を再度、強化していくことの重要性が指摘されています。しかし、欧米の化学産業界に比して、日本では化学兵器の拡散防止対策及びCWCに関する産業界の問題認識が低いようにみえることが気になります。


 かつてCWCの批准のため、国内法(「化学兵器禁止法」)の制定についての議論が行われたころ(1994〜95年)は、工場へのOPCWの国際査察団の受け入れ義務をめぐって、日本の化学産業界のCWCについての関心が高まったことがありました。化学兵器とはまったく関係のない用途向け(例えば、医薬や農薬向け)の化学物質を製造していても、CWCが規定するリストに該当する物質を製造している場合には、CWCの規定によって「化学兵器関連物質生産施設」とのレッテルを貼られ、外国人から成る国際査察団が工場に査察に入ります。化学兵器とは縁のない日本の化学企業にとって後ろめたいことは何もありませんから、査察の受け入れ自体はあまり問題がないのですが、日本の化学工場の多くは普通の町なかにもありますから、この査察によって風評被害が起きることが懸念されました。また、査察の受け入れ自体は問題ないと書きましたが、外国人査察官の受け入れのために工場側もそれなりの人手は割く必要がありますから、コスト削減に懸命に取り組んでいる日本の化学企業にとっては、受け入れの負担は決して小さいものではありません。


 しかしその後、喉もとを過ぎてということか、日本の化学企業のCWCへの関心は薄れていきました。これは、ある意味では日本政府と化学産業のCWCに関する義務の履行がうまく行っている証でもあります。国際査察の実施がややルーチン化してきたこともあるでしょう。実際、昨年だけでも日本では20回ほどの国際査察が行われていますが、懸念された風評被害はこれまでまったく起きていません。でもだからと言って、自社の製品である化学物質の悪用を防止する努力の重要性と、そのための一定の負担の必要性について日本の化学企業が忘れて良いということにはならないでしょう。


 日本の化学産業にとってのもう一つの課題は、化学物質生産施設の外部からの攻撃などに対するセキュリティ対策に関することです。「9.11」以降、日本でもこうした面のセキュリティ対策は強化されていますが、欧米の化学産業は、化学企業の自主的活動の一環としてテロリスト等による化学兵器関連物質の奪取、毒性化学物質生産施設に対する襲撃を防止するためのセキュリティ対策の一層の向上に取組んでいます。セキュリティ対策の分野では、まずは、日本の国家、地方政府(警察、海上保安庁等)による取り組みが重要となりますが、それを前提としつつ、産業界としての対策の強化を図っていく必要があります。


 さて、この報告書を受けてOPCWという国際機関がどう変わっていけるか。これが、これからのOPCWの大きな課題ですし、報告書をまとめた私たちの関心事です。OPCWを含め、どこの国際機関でも加盟国は、理事会や締約国会議でしかできない予算や重要な意思決定を人質にとって、自国の主張を国際機関の決定に反映しようとします。ですから、加盟国にとって都合の悪いような改革を行うことは、国際機関の長、事務局長といえどもなかなかできないのが実情です。全会一致で決定することを慣例とする国際会議での意思決定方法がそれを可能としてしまっています。そうした困難を乗り越える道具立てとして、事務局長は「将来構想委員会」という外部の有識者の意見を徴することにしたのだと思いますが、実際、この報告書を活用してOPCWをどのように変えて行けるかは、事務局長の腕の見せどころです。いや、より正確には事務局長のリーダーシップの下、OPCWの加盟国が、どれだけこの機関を新たな方向に変えていきたいと思うかにかかっているでしょう。


  6月のオランダは、さわやかな夏を迎えていました。空は夜の8時を過ぎてもまだ明るく、レストランはその裏庭にテーブルを出して食事を供してくれます。涼やかな風が吹き渡り、グラスの白ワインが夕方の太陽でキラリと黄金色に光る青空の下、ヨーロッパの贅沢な夕食の時間を楽しむこともできました。昨年の12月に降って沸いたようなお話で参加することになった今回の「OPCW将来構想委員会」は、私にとって、15年ぶりにオランダの冬、春、夏に出会う機会を与えてくれただけでなく、熱心に議論を交わした委員会のメンバーの方々との貴重な思い出を作ってくれました。初代の事務局長、故Ian Kenyon氏 のスタッフとして、このOPCWという国際機関を創る仕事に携わった私としては、OPCWがこの報告書を参考にして、世界の化学技術の健全な発展を担う国際機関として、一層の進化を遂げていただきたいと心から願っています。



1) 「OPCW将来構想委員会」のより詳しい目的、メンバー等については、第73回と第75回のコラムをご参照下さい。
2) トルコの方です。
3) 委員会のメンバーについては第75回に少し書きました。
4) ただ、化学兵器禁止条約がこうした「成功例」となった背景には、皮肉な見方ですが、化学兵器が、もはや軍事上の意義を失ったからだと言う人もいます。
5) 化学兵器は他の大量破壊兵器に比べて、比較的安価で入手しやすいといった特徴があるといわれている。
6) もちろん福島第一原子力発電所の事故はテロ事件ではありません。しかし、これまではこうした事故が日本で起こりうるとは、ほとんど誰も考えておらず、スリーマイル、チェルノブイリの事故などは他人事のように感じていたのではないかと思います。その意味でここでは、日本では起り得ないと考えられていた脅威の例として挙げました。


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