◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2012/11/21 http://dndi.jp/

夕張・真谷地西小の担任、岩本弘子先生のこと(後篇)

 ・岩本弘子先生の生い立ち    
 ・先生からの真心のプレゼント
 ・消えゆくぼくらの真谷地
 ・遠い日の父と母のこと

連載&コラム
■氏家豊氏の大学発ベンチャーの底力
第22回「細川信義氏を偲んで」
■松島克守氏の世界まるごと俯瞰経営学
第23回「米国大統領が決まり、中国の習近平主席も決まりました 」
■黒川清氏の学術の風
「台北へ、偶然の重なり」ほか

DNDメディア局の出口です。50年ぶりに再会した小学校の担任、岩本弘子先生のこと、その続編です。11月6日昼の同窓会には女性5人が顔をそろえ、幼いころの思い出が尽きなかった。なんというのだろうか、みんな同時に話しをはじめてもそれぞれにコミュニケーションが成立するのだから、恐れ入った。スタートから、楽しく笑って、懐かしくジーンと胸にきて、しみじみとした感慨にひたったものだ。


場所は、札幌駅南口の北海道読売ビル、ホテルグレイスリー2階の懐石料理「結」、つい先ごろオープンしたばかりで海鮮ランチはリーズナブルでサービスも行き届いていた。弘子先生と再会するほぼ3時間前のそんな模様から話を続けることにします。



◇ミネソタの卵売りと赤い手袋


 昼のミニ同窓会、昔に還ったみたいです。懐石『結』で

 ぼくらが生まれ育った炭鉱の街、夕張の真谷地は、うなぎの寝床のような川沿いに開けた山間一帯を1区、2区と呼んで区割りしていた。それが市街地を挟んで6区まであった。この日集まった吉田妙子ちゃん、石田佳奈子ちゃん、村井テル子ちゃん、それに戸村泰子ちゃんらは4区に住んでいた。佐藤祐子ちゃんは、お肉屋さんで商店街のある市街地だった。幹事役の妙子ちゃんが、あの頃ね、と回想した。


〜4区から学校に行くのに急な崖を下って橋を渡ったわよね、よくあんな危険なところを通学させたものだ、と思わない?と聞く。確かに、険しい渓谷を下って対岸の崖を登る。冬は、足元が凍って滑るから腰を低くして恐る恐る降りた。


それなのに男の子がね、雪玉を投げて意地悪するので、私たちも負けないでやり返したら、雪玉と一緒に手袋が脱げて飛んでいったの。手袋は、そのまま川に落ちて流されたしまった。お母さんが編んでくれた赤い手袋だった。叱られたわ、と言って懐かしがった。


そういえばさぁ、とそばにいた祐子ちゃんが、こんなことを思い出していた。佳奈ちゃんは歌が好きでよく歌っていたのが、あれよ、あれ、といって、その謎のコケッコの歌を口ずさんだ。最初は、メロディーをハミングしていたのだが、勢いづいて歌詞を思い出すらしく、コッコッコッココケッコと繰り返し歌った。


が、そうそう、と佳奈ちゃんが相づちを打って、親がその歌を歌っていたので憶えて歌っていたわよ、という。祐子ちゃんの歌につられて、コッコッコッコッと、みんな歌うのだ。滑稽な鶏小屋だわ、これは、と思わず吹き出していた。


わたしはミネソタの卵売り、街中で一番の人気者…コッコッコッコケッコ、コッコッコッコケット…。当時は、そんな歌しか聴いていなかったのだろうか。ネットで調べたら、確かに「ミネソタの卵売り」という歌だった。昭和26年にレコードが発売された。


解説では、ミネソタが卵の特産地と言う事は無く、作詞家の佐伯孝夫さんの家にミネソタからの客が来ているところへたまたま卵売りが来たので、この歌ができたというエピソードが紹介されていた。ほんとうか、どうかわからないが、まあ、一世を風靡したのは確かだ。ぼくら世代の最初の流行歌だったかもしれない。その当時、まだテレビがないもの。そもそもテレビ放送がなかった時代だ。そんな鉱山の奥にどんなふうに伝わったのだろうか。


我が家には、レコード針を取り付けるボックス型の蓄音機があり、レコードは結構な枚数だった。三橋美智也とか、春日八郎とかね。ぼくが憶えているのは童謡の「おさるのかごや」、エッサ エッサ エッサホイ サッサ おさるのかごやだ ホイサッサ…ひとりで聴いていたのだが、思うと、侘しいね。



◇3人娘の今昔グラフティー


 仲良し三人娘のスナップ発見


 あれから、ン十年、並んで比べたら、さてどうだろうか。

 さて、その場に、たくさんの古いアルバムや卒業写真をもってきてくれたのは、妙子ちゃんだった。その中の1枚がぼくの目に止まった。夏のハイキングのスナップで、テル子ちゃん、佳奈ちゃん、妙子ちゃんの仲良し3人娘が麦わら帽子を手に横一列に並んでいた。妙子ちゃんが、佳奈ちゃんは桜田淳子みたい、といった。妙子ちゃんはモデルさんみたい、テル子ちゃんは黒い大きな瞳の色白美人、と、誰かが言ったか、どうか。女の子の会話は毎度、実に楽しそうだ。梅干しと友達は、古いほど良いとはこのことだろう。


ねぇ、この写真の順番に並んでくれない? えっ? そうやって今と昔をくらべるってかい、と妙子ちゃん。そう、古い写真の順番に並んで今の写真を撮ったら、みんなが美しさに磨きがかかったことがよくわかるでしょう、と言ったら、今の方がほっそりしているじゃないかしら、と、笑いが弾けていた。



◇知らなかった岩本弘子先生の生い立ち
 弘子先生のことに話を戻しましょう。前篇で紹介したように、ぼくらは弘子先生を迎えるために札幌駅のJRタワー1階のレストランに場所を移していた。先生と再会、その短い時間のなかで、ぜひ、これは聞いておきたいと、思ったことがある。それは、なぜ真谷地西校の先生になったのか、だ。


弘子先生は、夕張の真谷地で生まれた。真谷地西小学校の卒業生だったというのは意外だった。4人姉妹の2番目で、その半生をたどると教育一筋だったことがわかる。お父様は真谷地炭鉱の爆発事故の犠牲となった。弘子先生が6歳の頃だった。


先生は、どこに住んでいたのですか、と質問した。すると、真谷地西小学校よ、という。みんないっせいに、えっ!と驚き声をあげた。小学校のグランドがあったところに住まいがあり、小学校の開校に伴って立ち退いていた。初耳だった。


真谷地西小のグランドで産声を上げて真谷地西小を卒業し、真谷地西小の教師となる。まさに戦前戦後の真谷地西校の歩みをリアルに体験されていた。なんという不覚、ぼくは自分の事に夢中になってばかりいて弘子先生のことは少しも理解していなかったことを思い知らされた。


真谷地西小学校の前身は、本校と呼んだ真谷地国民学校の分教場だった。資料によると、分教場の設置は1919年、大正8年にさかのぼる。真谷地国民学校から分離独立して新制の真谷地西国民学校としてスタートしたのが戦後の1946年10月、初代の校長は横路時雄氏だった。翌22年4月から全国一律に小学校と改称された。今度は逆に真谷地小を統合したのが1975年、その10年後に沼ノ沢小とともに緑小に統合されて真谷地西小は閉校となった。こんな目まぐるしい変遷をたどっていたのだ。いまは石碑が残るだけで跡形もない。


ぼくらが在校していた1959年(昭和34年)の入学時から1965年の卒業までの期間、校長は中津藤次郎氏、佐藤力男氏だった。きっと弘子先生の記憶に残っていることでしょう。


弘子先生への質問を続けた。質問と言うより、これは取材といってもいいのかもしれない。真谷地西小を卒業してからは、どうされたのですか。


夕張の女学校に入ったのよ。卒業すると、20歳前に真谷地西校の教員になった。「逃げていたのだけれど、横路先生らに強くすすめられた」という。その後、真谷地西小に17年間務め、1965年に紅葉山小移って10年、定年1年前に辞める時は夕張旭小に異動となっていた。1965年、つまり昭和40年はぼくらが真谷地西小を卒業した年だから、弘子先生はぼくらと一緒に真谷地西小を去っていたことになる。妙子ちゃんが、3つの小学校で教えた児童はどのくらいの人数になりますか?と聞いたが、いやあ、わかんないねぇ、とはっきり答えなかった。クラス替えとかを考慮して2年に一クラス教えたとすれば、一クラス50人とみて40年でざっと1000人となる。教師の記憶の中に、教え子の顔と名前がいつまでも残っていくものなのだろう、と思った。


弘子先生が最後に勤めた旭小は、夕張市内の夕張第2小、福住小、丁未小の3校を統廃合して1975年に開校した新築校だった。8年後には夕張第一小に統合され閉校となった。閉校後は、宿泊施設「ファミリースクールふれあい」として再利用された。もう20年以上前のことになるが、ぼくは家族でその施設に宿泊したことがあった。畳が敷かれた教室で枕を並べた。夜、体育館が自由に使えたことを憶えている。調べると、夕張の小中学校の統廃合の激しさは、炭鉱の閉山に伴う人口流出に原因があることはわかるが、いったいどういうことなのだろうか。迷走していたのではないだろうか。


弘子先生が務めた真谷地西小、紅葉山小、そして旭小とこの3つの小学校に共通するのは、なんだと思いますか。藤田貞雄氏という人物が、校歌の作詞を手がけていたこと、その歌詞をつぶさに見ると、共通のキーワードが浮かんできた。「山並み」というフレーズが連続しているのだった。


真谷地西小の校歌を忘れた、というのでぼくが、「仰ぐ山並み〜」と大声を張り上げて歌った。そういえば、といいつつもみんな首をかしげていた。


真谷地西小の歌詞の始めが「仰ぐ山並み陽に映えて」で、紅葉山小のそれが「明け暮れ仰ぐ山なみが」と「仰ぐ山なみ」が出てくる。旭小の歌詞の2番には「山なみの輝く雲に…」とあった。いずれも美しい山なみを仰ぐ小学校だったことは間違いない。


なぜ、こんなことに関心をもったのか、といえば、手元に夕張市内の小、中、高の49校の校歌を集めた歌詞集「なつかしき学舎」があるからだ。これは夕張北高合唱部OBが中心となって2003年にそれらをまとめ、CDに49校の歌を録音して残していた。


歌詞集の表紙をめくると、昭和30年代における炭鉱の全盛期で人口が11万6000人余り、学校は30数校に及んだが、今は人口が1万4000人、学校は14校を残すのみとなったことを伝え、夕張北高合唱部のOB会事務局長の上田敦子さんが、「次々と閉校するのを目の当たりにして、これでは校歌も忘れ去られてしまうとの危惧から保存を考えた」とその動機を語り、その後、須藤睦子さんらと校歌の楽譜を収集し、無くなった学校の楽譜は困難を極めたことなどが綴られていた。ぼくがそれをもっているのは、偶然だった。そのことは依然、メルマガで書いたのでここでは触れないことにする。



  参考にした歌詞集


 夕張北校合唱部OBの上田さんの熱いメッセージ

ともかく夕張の学校で藤田氏が校歌の作詞を手掛けたのが全部で17校を数えた。小学校は弘子先生が受け持った3校を含め小学校は若菜東、福住、沼ノ沢、南部、遠幌、楓、富野、のぞみ、登川、緑、夕張、若菜中央の15校で、中学は清水沢、夕張の2校あった。藤田氏を調べる時間的余裕はなかったが、『夕張こども盆踊り歌』の作詞も手掛けていたことが分かった。夏は、カンテラをぶら下げてこの盆踊りでよく踊ったものだ。作曲は外尾静子さんだった。旧向陽中学時の音楽の先生で放送部の顧問、ぼくがクラスの放送部員だったのでその当時の外尾先生のことを思い出した。外尾さんは、北海道の衆院選になんどか共産党から出馬されていました。いまはどうされているのだろうか。弘子先生のことに目を向けると、夕張の昔の風景がまざまざとよみがえるようだ。


さて、弘子先生が、その40年に及ぶ教師生活にピリオドを打ったのが定年1年前の59歳、ああ、いまのぼくらと一緒だ。この年に幼い頃を偲ぶというのも還暦と言う年回りなせる技かもしれない、と思った。



◇小さな先生からの大きなサプライズ


弘子先生に薔薇をプレゼントした。


 マフラーを巻いて、弘子先生と記念のツーショット


 弘子先生の真心のマフラー



 その時間が近づいていた。弘子先生は午後3時には席を外すことになっていた。先生は、ご自宅での介護を知人に頼んできていた。そのため余裕がないのだ。妙子ちゃんが時計を気にしている。


みんなから、と言って妙子ちゃんが黄色いバラの花束をプレゼントした。そして大丸の地下で買ったロールケーキをお土産に手渡した。佳奈ちゃんが、お家で食べてください、と言葉を付け加えた。


弘子先生は、いやあ、ありがとうねって、とってもうれしそう。妙子ちゃんが、テル子ちゃんからといって山形のお土産と手紙を渡した。そんなことをしていると、帰る段になって急にさみしくなってきた。先生、また会おうね、と言おうとしたら、弘子先生がバッグから包み紙を取り出してなにかを配り始めたのだ。


佳奈ちゃんが、いやあ、先生、と言って包み紙を開けたら暖かそうなニットの手袋が入っていた。妙子ちゃんにも、泰子ちゃんにも…それを感心して眺めていると、弘子先生は、箱入りの大き目の包み紙をぼくに差し出した。


えっ、先生、なんですか、いやいや、ぼくもですか、申し訳ない。なんだか、せつないくらいにうれしい。


見てもいいですか、と断って開いたら、上品な柄のマフラーだった。グレーの地にワインカラーのチェックが入っていた。カシミヤ100%のPiere Cardin。いやあ、先生、こんな高価なのも申し訳ないですよ、と恐縮したら、いやね、俊ちゃんに何年も会っていないから、顔もみていないし柄とか色とかわかんないのよ、と、恥ずかしそうにしていた。


箱から出して首に巻いたら、妙子ちゃんが凄〜い、素敵だわ、と言ってくれた。佳奈ちゃんが、タグ外してね、と笑った。先生は、似合うかしら、となんだか照れながら、小さな体をさらに小さくしていた。そんな仕草をされると、心がときめくじゃありませんか。どうして先生は、ぼくのお気に入りのブランドがわかったのだろうか。


せんせい、PiereCardinのマフラーを一生大事にするね、って申し上げた。そうしたら弘子先生が、「俊ちゃん、風邪ひかないでね」っていうのよ、いやあ、それには心底、参った。先生の真心に、胸が詰まった。


ぼくは佳奈ちゃんに席を代ってもらって、先生の横に座り直して写真を撮った。先生の肩に手をまわして自分でスマートフォンをかざしたのだ。先生は、少女のようだった。ぼくは体に暖かいものが流れるのを意識した。こんなに身近に弘子先生を感じるのは、たぶん、初めてだと思う。なんということだろうか。恩師をもつことの素晴らしさと、しみじみとした幸せをかみしめた。目の奥がジーンとしてきたさ。


もう時間が残されていない。帰る段になってみんな席を立ちあがったら、弘子先生が今度は、みんなでラーメンでも食べてって、とお年玉の袋を差し出した。そんなことしちゃダメダメと女の子から悲鳴に近い制止の声があがった。いいじゃないの、と先生はにこやかにしていた。ああ、お小遣いをまで心配かけてしまった。先生の愛情はどこまで深いのだろうか。後日、秋田に戻ったテル子ちゃんの自宅には、先生からニットの手袋が届き、丁寧な字で先生からのメッセージが添えられていた、という。その場にいられなかったテル子ちゃんにまで気配りを忘れないのだ。誰にも平等に向き合って些細なことも見逃さない弘子先生は、教師である以上に一流の人格者なのだ、と感心した。


ところでこのお小遣いはどうしようか。これは使えそうにないなあ。みんなでラーメン屋に入ったら、涙でメガネが曇ってラーメン食べたられないもの。後日、先生にプレゼントでも送ろう、ということになっている。足元の悪い、寒い日にわざわざお越しくださって数々のご配慮を賜った。本当にありがたい。



◇あったかなマフラーは、母親のぬくもり


  ぼくには母親のような存在の弘子先生、笑顔がまぶし。

 弘子先生とご一緒していると、その昔にタイムスリップしたような錯覚に陥る。いま正直に言えば、まあ、ここだけの話だけれど、教室で弘子先生のことを思わず、「母さん」って言ってしまったように、またそう呼んでしまいかねない衝動にかられた。

ぼくは弘子先生を無意識に「母さん」と呼んであわてて回りを見渡したことが何度かあった。気が付いたら、「母さん」が口をついていた。言葉は、取り戻せないもの。先生は特段、気に留めずいつも通りの笑みを浮かべていたように思う。気づかぬふりをしてくれていたのかもしれない。このあったかいマフラーは、ぼくにとっての「母さん」のぬくもりだと思った。


ぼくは、レストランを出たら弘子先生をご自宅のマンションまで送る、と決めていた。外は雨、冷え込んできた。弘子先生は、大丈夫よ、となんども遠慮がちに断った。が、先生をひとりで帰すわけにはいかない。妙子ちゃんが一緒についてきてくれた。先生のご自宅までタクシーでほんの5〜6分の至近だった。


タクシーを降りてマンションの1階の階段付近に差し掛かったところで、じゃあ、先生、お元気で、また会いましょうね、とお別れを口にしようと思ったら、先生が目に涙をためて立ちすくんでいた。思わず弘子先生をハグして再び、お礼を伝えたら、先生が「俊ちゃん、風邪をひかないで…」と声をふるわせた。語尾は聞き取れないほど声がかすれていた。ぼくも涙があふれてきた。何を言ったか、唇がふるえてもう言葉にならなかった。そばで妙子ちゃんが、ハンケチで目頭を押さえていた。さっきまであんなに笑っていたのに。


先生は、妙子ちゃんに抱きかかえられるようにマンションの入り口に消えた。ぼくは、その入り口をながめながらぼんやりしていた。タクシーを待たしたままだ。雨脚がいっそう早くなっていた。



  夕暮れの札幌、雨が降り続けた。


◇懐かしい顔ぶれが集った夜の同窓会


松岡君、岩山さん、大山君も駆けつけた、


 大場さん、 小室君、三浦君、奥に笠松さん、


 桜庭君と再会。いやあ、懐かしい。

その日の札幌は、終日、切ないような雨が降り続いた。これは涙雨だと思った。夜の同窓会の場所は、三浦龍一君が用意したすすき野のビルの7階で、夕張の人が経営する居酒屋だった。まずビールで乾杯したが、ぼくは最初から青森の銘酒、田酒を冷やで飲んだ。懐かしい顔があつまった。岡本律子さん、岩山理津子さん、桜庭剛君、松岡龍彦君、中学の同級生の三浦龍一君、小室眞一君、澁谷正弘君、笠松美千代さん、大場雅子さん、それに妙子ちゃん、佳奈ちゃんも参加して全員で15人ほどになった。久しぶりにあの頃に返った気分だった。挨拶したり、歌を歌ったり、ひとりはしゃいでいたように思う。


こんな日はいくら飲んでも酔いが回らない。冴えた頭の中は、弘子先生のことでいっぱいだった。



◇消えかかるぼくたちの真谷地


 5区の高台から炭住をのぞむ。遠くの線路ぎわにグランド
 が見える。いまは立ち入り禁止。


 二十年前の真谷地の市街地



ぼくたちの真谷地、切ないくらいの郷愁を抱かせるのは、街が消えかかって懐かしさが込み上げるからだろうか。弘子先生の存在のお陰だろうか。


真谷地、この地名を知る人はそれほど多くはない。炭鉱の夕張市内の中心地からさらに分け入った山奥のどん詰まりだった。険しい川沿いに開けた北炭真谷地炭鉱なのである。それは1987年10月9日に82年の歴史を閉じた。この閉山に伴って鉄道が廃線になり、学校が統合されてやがてぼくらの真谷地西小学校もその前年に廃校に。当然ながら潮が引いていくように大勢の人が鉱山を去った。学校の統廃合が加速した。電球の橙色が煌々としていた炭鉱住宅の長屋から、次々に灯が消えた。


晩秋から一気に冬に向かえば、やがてすっぽり雪に覆われるのだろう。狭隘な山間にのびる炭鉱の町は、ある時は炭鉱住宅一帯の街頭無線から労働歌が流れ、額に鉢巻姿の組合幹部が争議の先頭に立って叫び、こぶしを突き上げていた。坑内の落盤や爆発事故が相次いでいたし、空を赤く焦がす大火も頻発した。朝、昼、晩と三交代で汗を流す粉塵まみれの大人たちの煤けた顔がどこか苦しげに見えた。予期しない親の離婚で、砂嵐のような嫌な夢をよくみていた。鉱山一帯は不穏な空気が漂っていたように映った。


だが、炭鉱の陰鬱さが無垢な子供の心に影を落とすことはなかった。それはきっと担任の弘子先生や教師らが精いっぱいの愛情をふりまいて守ってくれたからだろう。陽だまりの中でのびやかに育まれたに違いない。それから半世紀、ひとりの担任教師に見守られ続けている、と思うと、気持ちが安らぐようだ。この幸せをかみしめている。



◇小学校の入学式の写真に若き日の父


奈保子ちゃんからの昭和34年春、真谷地西小の入学式の写真、弘子先生と一緒に写った唯一の写真だ

 真谷地西小学校の入学式の時の写真をだれか持っていないだろうか、とみんなにアナウンスしていた。そうしたら、札幌から東京に帰ってまもなく神奈川県平塚に住む同級生の松谷奈保子さんから封書が届いた。達筆なペン字の手紙と写真が同封されていた。これが私で、それが出口君と付箋があった。しばらく眺めていた。写真の左端にきりっとした表情の20代の弘子先生がいた。



ぼくの隣が佳奈ちゃん、わかるだろうか。

ぼくの隣が、佳奈ちゃんだ。すぐ後ろに岡本律子さんがいる。それから55年近く経っているのに、再びこうして会えるというのも不思議なことだ。戸村泰子ちゃんも、諸沢信子ちゃんも、後藤聖子ちゃんも、大竹美紀ちゃんもいる。河島康君も、桜庭剛君も、工藤雅志君も、橋本辰彦君も、松岡龍彦君も、田川光夫君も、井上晃君も、清水昭雄君も、山浦冨美男君も、片山孝史君も…この写真を送ってくれた奈保子ちゃんも確認できた。妙子ちゃん、テル子ちゃんはクラスが違っていたが、彼女らは3年の時に弘子先生が担任となったのだ。



◇最後に、父と母のこと


 若き日の父、俊博がいた。

さて、入学式の写真をみると、弘子先生の記憶の通り、ぼくは後ろの列だった。父兄が児童の後ろ側に立って一緒にカメラに納まっていた。赤ちゃんをおぶっているのは泰子ちゃんのお母さんに違いない。佳奈ちゃんのお母さんは着物姿だった。幼なじみの信ちゃんのお父さんもいる。


上段付近の右端、そこに背広姿の父がいた。31歳の若き日の父である。スマートで端正な顔立ちの父がまぶしく写っていた。父は、3年前に他界した。この写真をみせてあげたかった。しかし、上下左右に目を移して繰り返し見たが、そこに母らしき姿は確認できなかった。親は一人しか参加できなかったのだろうか。子供の頃も、そんなふうに母はどこか、と、うつろに目を泳がせていたような気がする。坂道の建物のわきからふいに現れてくれるようなあてのない期待を抱いた。他人を母と間違えたこともあった。幼いころの思い出と一緒に、家を出た母の辛い記憶も引っ張りだされてしまった。


ぼくは、弘子先生に母を重ねていたのかもしれない。母さん、と呼んでも気づかぬふりをしてその場をかわしてくれた。些細なことだが、ぼくにとっては重大事件だ。危ういところだった。母のいない子供、それを知られることを恐れていたからだ。気づかぬふりをしてくれた先生の機転のお蔭だ。それで何もかも救われたのだ。つぎに弘子先生にあったら、そのことを確かめてもいいだろうか。


敬愛する弘子先生に心からの感謝を込めつつ、ひとまずこの項を終える。


【お断り】このメルマガに登場した女性の名前は、旧姓で書かせてもらいました。ご了承ください。



※参考
※『夕張・真谷地西小の担任、岩本弘子先生のこと(前篇)
※『ひと夏の北海道、夕張の続編』
※『ひと夏の北海道、夕張その1』
※『続・ひと夏の終わりに』
※『三浦龍一と僕、そして上田達也』






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