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夕張・真谷地西小の担任、岩本弘子先生のこと(前篇)

 ・気品と奥ゆかしさ、花なら小菊
 ・斉藤辰也君と橋本辰彦君のこと
 ・涙ながらに投げたみんなの作品

連載&コラム
■黒川清氏 「国会事故調の私の考え方: 民主制度を機能させる 」ほか
■橋本正洋氏 第8回「技術革新学概論その0」
■塩沢文朗氏 第94回 古代文化が花開いた地、日向の旅
■山城宗久氏 第49回「2012米国大統領選挙」の巻


DNDメディア局の出口です。小学校の担任に再会することができた。ほぼ50年ぶりのことで、先生は80歳になられていた。教壇に立っていたころのお姿と変わっていないようにおみうけした。どこか乙女心を秘めたようなかわいらしさを称えている。その先生がやさしい眼差しを真っすぐに向けて、「俊ちゃん、みんなに思い出してもらって有難いね、幸せだね、いやあ、人柄だね」と囁くじゃないですか。ぼくは、たちまち胸に熱いものが込み上げて、しばらく返事に窮した。


炭鉱の街、夕張で教師ひと筋に生きた、そんな古風な担任のことを二回に分けて書こうと思う。



◇気品と奥ゆかしさ。花なら小菊。


 奥ゆかしい弘子先生とツーショット

 岩本弘子さん、北海道夕張の旧真谷地西小の入学時のぼくたちの担任だった。その日午後2時20分すぎ、約束より10分早く待ち合わせの札幌駅でレインコートに身を包んだ弘子先生を認めた。小さな歩みの後ろ姿だった。


幼なじみの吉田妙子ちゃんが、あっ、先生って叫ぶと、小走りに近づいてひと呼吸おいてから、その細い肩に手をおいた。ゆっくりとスローモーションのように振り返った弘子先生は、こぼれそうな笑み浮かべていた。


その気品と奥ゆかしさはどう譬えようか。秋霜に咲く楚々とした小菊だろうか。おだやかな表情に透明感のあるやさしい声は、慈愛そのものだ。そばにいるだけで心が和んでくる。やすらぎを感じるのだ。憧れの先生という存在は、いくつになっても心の落ち着き場所なのかもしれない。


弘子先生は、30分ほどしか時間がとれない、と前もっておっしゃっていた。それでも昔の懐かしいエピソードをいくつも披露してくれたから、充実していた。弘子先生は、もう少しいいわ、と10分ほど引き伸ばしてくれた。1分1秒を惜しむ貴重な時間だった。10分早く会って10分遅らせた。別れ難いのが、痛いほど伝わって心が揺らいだ。ほぼ50分の再会は、ドラマにするならまるで夕張版、北のカナリアたち、だった。しみじみとした感慨にひたる至福のひとときだった。


先生はいくつになっても先生なんだ、と思い知る。その記憶の確かさに驚かされ、優雅な物腰に目を奪われ、みんなにプレゼントや小遣いまで用意してくれたのには、心底、参った。弘子さんは、いつまで担任の先生役を演じるのだろうか。かなわないなあ、と痛み入った。



◇お昼の同窓会


 笑い声が絶えなかった昼間の同窓会、左側から、泰子ちゃん、テル子ちゃん、佳奈ちゃん、祐子ちゃん、妙子ちゃん

 11月6日の札幌で、お昼にはぼくにとっては初めての真谷地西小の同窓会だ。夜は中学のクラスメートも加わって15人ほどで小・中学合同の同窓会を開いた。同窓会のダブルヘッダーということになる。


その合間に、弘子先生との再会が実現したのだ。旭川から妙子ちゃん、千歳から石田佳奈子ちゃん、遅れて戸村泰子ちゃんも加わって札幌駅南口のJRタワーの瀟洒なレストランで、弘子先生を囲むことになった。


昼の会には秋田の酒田から村井テル子ちゃん、夕張の沼ノ沢から佐藤祐子ちゃんが参加した。テル子ちゃんは、その日のうちに酒田に帰らなくてはならず先生への土産と手紙を妙子ちゃんに託して、千歳空港に向かった。参加が危ぶまれた祐子さんは元気な姿を見せた。次回の再会を約束してご主人の迎えの車で帰った。



◇弘子先生の追憶


 弘子先生を囲んで

 さて、あらためて、弘子先生、大変、ご無沙汰しておりました。本日は、ご多忙のところお時間を取ってくださり、ほんとうにありがとうございます。お会いできるなんて夢のようで、とてもうれしいです、と、ぼくはかしこまった。


そうしたら、弘子先生が、いやあ、なんもなんもと、恐縮しながら、こんなことを語りはじめるのである。


最初はねぇ、家で介護があるでしょう、だから会えないわ、と諦めていたのだけれど、妙子ちゃんからなんども電話があって、俊ちゃんがそんなに会いたがっているなんて、「俊ちゃん、死ぬんじゃないかしら」っていうからさ…いやあ、これも同級生のいいところだなあ、と思ってかけつけたのよ、会えてうれしい。まあ、懐かしいねぇ、という。


やさしい口調だが、よく聞くと穏やかではない。


俊ちゃんが死ぬんじゃないか、って、それでみんな心配して集まった?のではないか、と大笑いだ。そんな裏のストーリーがあるなんてね。ああ、驚いた。


出口君が夏に書いた夕張のメルマガを先生に送ってちょうだい、あれを読んだら、みんな会いたくなるはずだから、と妙案をひねりだしたのが妙子ちゃんだ。そして、メルマガが入った封筒が先生に届いた頃に、もう一度、お誘いの電話をしてみるから、と言った。これは妙子ちゃんの作戦勝ちだった。


それが同級生のいいところよね、と感想をのべながら弘子先生が、とつとつと回想を始めた。


俊ちゃんは、桜庭つよし君より大きな人だったよね。並ぶと後ろのほうだったから、だから今日は、踏み台をもってこなきゃと思ったくらいなの。


いやあ、先生、ぼくは小さい方だったのよ。まあ、確かに顔は昔から大きかった、と言ったら、間髪入れず、妙子ちゃんが目も人一倍大きかったわね、と目の大きさを指摘した。そこで弘子先生が、きれいな目をしてね、おとなしかったし、ケンカをしているところをみたことがない、と、フォローしてくださった。


が、そのほんわかムードに水をさしたのが佳奈ちゃんで、私のイメージだと、わけわかんない子だったじゃないの、とちゃちゃを入れてきた。そこでまた大笑い。いやあ、あんな気立てのやさしかった佳奈ちゃんが、堂々とあんなことを言う立派な女性になってね、昔はひと前で口がきけなかったのに、と返したら、また大笑い。


その佳奈ちゃんは、ご主人とご子息も加わって千歳市内に美容室を3店舗開いているうえに飲食のお店も繁盛している。社交ダンスが得意なのよね、と弘子先生はよくご存じでした。少し照れくさくて、お互いどこかぎこちなさを残しながらも、愉快な時間が静かに流れた。


オレンジジュースを注文した弘子先生にはロールケーキをごちそうした。先生は、どうやってたべるのかしら、と聞くので、お好きなところからガッツリ、フォークをいれてください、と言った。小さ目に切って口に運んで、こんなおいしいケーキは生まれて初めてだわ、と微笑んでいた。先生もうれしそうだった。 



◇小学校の入学式と戸村泰子ちゃんのお母さん
 そんな時、妙子ちゃんの携帯が鳴った。戸村泰子ちゃんからだった。それからまもなくレストランに姿をみせた。泰子ちゃん、よかった。間に合ってよかった、と妙子ちゃんが声をあげた。泰子ちゃんは、昼の同期会に参加したあと、秋田に帰るテル子ちゃんを千歳空港まで見送って、弘子先生にひと目会いたい、と札幌にとんぼ返りしたのだ。


やっちゃんねぇ、と弘子先生が、懐かしがった。泰子ちゃんを、やっちゃんと先生は呼んだ。そして入学式の日のことをふりかえった。


あの頃ね、やっちゃんのお母さんが、背中に弟をおぶって妹の手を引いて入学式に来ていたわよね。へぇーと、みんなが先生の話に感心し、昔から無口な泰子ちゃん自身は照れくさそうにしながら、コックリうなずくだけだった。


そういえば、おかしなことがあったのよね、あれは俊ちゃんたちが入学したすぐのことだった、と弘子先生が思い出しながら語ってくれた。


1年生のぼくらの教室に、3年生に進級したばかりの児童らが、先生を返せって、押しかけてきた。1、2年の時の担任が弘子先生だったから、3年になったら担任が代った。それで、弘子先生を取られたと思ったらしい。ケンカごしに1年生の教室にやってきて、先生を取ったべ、返せって。すると、佳奈ちゃんらが団結して、先生はやらないからっておっぱらったんだわ。あの頃から、みんな仲良しでまとまっていて、いいクラスだったもの、という。


へぇー、返せってね、そんなことあったなんて、みんな初耳だ。先生、よく覚えているわ、とその記憶力に驚いていたら、次に小学校1年の時に転校した子といまだに文通を続けているのだが、最近、昇進して単身で札幌に赴任したという。


その子の名前を口にだして、弘子先生が、知らない? 知らないの?って繰り返すのだが、だれも憶えがない。入学まもないころに転校したのだから、無理もない。それに名簿も入学式の写真も手元になかった。



◇斉藤辰也君と橋本辰彦君のこと
 弘子先生は、俊ちゃん、転校生っていえば、斉藤たっちゃんが東京にいるでしょう、とふいに、聞いてきた。


それは偶然にしてはできすぎていた。ぼくは、昔の写真を数枚、それにはがき2枚をファイルにいれて持参していた。その中の1枚を先生の前に差し出したのだ。


先生は、オッと短く声をあげたと思ったら、すぐに、俊ちゃん、ちゃんとしまってあるんだ。偉いね、こうやって残しているのね。弘子先生の目にうっすら涙がにじんでいた。 それは昭和46年の年賀状だった。差出人は、達筆な字で斉藤辰也とあり、住所は東京の豊島区と読める。


俊ちゃんのメルマガを読んだ時も思ったが、友達の古い手紙やはがきを大事にしているんだね。偉いわ、としきりに感心してくれた。これ7円だもの。はがき1枚の値段が7円と安いことに驚きを隠さない。ちょっと、7円よ、と言って笑った。みんなも、そうね、といって笑った。


大学に入学して東京に行った時に、豊島区の本郷学園に斉藤辰也君を訪ねていったことを伝えた。ご両親とお姉さんがいた、と言ったら、お姉さんはハルミちゃんと言ったのよね、と、弘子先生からすぐに名前がでてきた。教え子の名前を忘れないのだ。凄いなあ。


もう1枚のはがきは、橋本辰彦君のものだった。先生、えっ〜と身を乗り出して手に取った。ぼくと親しかった。高校を中退して茨城に行って自衛隊に入り、除隊後、茨城県内の製作所に就職した。はがきにその経緯が書かれていた。しかし、その後、自ら命を絶ったのだ。それは先生に語らなかった。彼は、中学1年でクラスの級長で秀才肌だった。放課後、物理の加賀先生の自宅に一緒に補習に通った。彼の家によく泊まったし、彼もぼくの家に泊まった。う〜む、残念だわ。生きていれば、いいのにさ、とつぶやいたら、佳奈ちゃんが、辰彦君は、きっとここにきているはずよ、と言った。ぼくもそんな気がしていた。



◇涙ながらに投げたみんなの作品


 若き日の弘子先生

 さて、先生らに橋本たっちゃんのそんな話をしたらみんながシーンとなった。弘子先生は、少し表情を曇らせたようにみえた。すると、唐突に、わたしは反省したよ、とつぶやくように言ったのである。


聞いてくれる、みんなの作品をずっと保管していたのだけれど、引っ越しの時にね、狭いマンションに移るときに、全部、涙ながらに投げてきたの。あれもこれも、申し訳ないわ、作文や絵とか、いやあ、辛かったわ。


引っ越しの時に捨てた、と言って肩を落としたが、それを誰が責められますか?ぼくは先生の悲しげな様子を見かねて、弘子先生はそういうけれど、しょうがないよね、と言ったら、みんなもそれは無理もないことだ、と先生に同情した。ぼくらの分だけでも段ボール箱で数箱あった。勿論、ぼくら以外の児童のものもあっただろうしね。先生がお元気でいらっしゃってくれているおかげで、消えかかった幼い日の残像がくっきり焦点を結び始めたことは確かだし、何より、ぼくたちを見守ってくれる弘子先生に感謝しても感謝しきれないというのが、みんなの本心なのだ。


ある時ね、幼なじみの信ちゃんと沼ノ沢の先生のご自宅に訪ねたら、茶の間で先生が、ぼくらに小学1年の頃、クラスのみんなに好きな人の名前を書かせたことを憶えているかい、と聞いてきた。憶えていない、と言ったら先生がクスクス笑って、その用紙が残っている、と言った。ぼくは、誰の名前を書いたか、気になった。


が、弘子先生は笑ってばかりで教えてくれなかった、とぼくが言ったら、先生はもうその紙もなくなったのね、としんみり。ぼくがだれの名前を書いたのか。その証拠が消えた。いまやもう迷宮入りだ。しかし、それでよかったのさ。いつまでも過去にこだわっては進歩がないもの、と女の子の誰かが言った。その通りだと思った。弘子先生はそれを聞いてホッとされたのか、もとの安堵の表情に戻った。それでよかったのだ。



◇昭和27年辰年と真谷地の大火災
 昭和27年は辰年だから、ぼくらの同級生の名前に辰や龍の字が多い。斉藤辰也、橋本辰彦、その夜の同窓会には、懐かしく会った松岡龍彦、それに交遊のある三浦龍一らがそうだ。余談だが、この年に真谷地に大火があった。


その5月18日午前11時ごろに真谷地の市街地の料理店大和家から出火し、折からの強風で近くの森林に燃え移り、夜6時までに3区の炭鉱住宅52戸をはじめ市街地の大半の70軒を焼いた。


この火事で、市街地から4区へ通じるつり橋の消化作業をしていた男性がつり橋のワイヤーが切れて転落死した。その他、重軽傷者は3名だった。森林も80町焼失した。市街地の火災で、郵便局が延焼したため、外部への連絡が遅れたのが大火になった原因のひとつとなった、と道新の記事にあった。


次回へ続く




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