◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2010/09/23 http://dndi.jp/

続:この夏の終わりに

 ・82歳で逝った素敵な父への追悼
 ・家内に遺した「ありがとう」の文字
 ・葬送曲はツルノリヒロさんの旋律で
〜コラム・連載・一押し情報〜
 ・黒川清氏「モノを書く人の苦闘」
 ・祝、石黒さん!連載150回、5年半の"偉業"
 ・比嘉照夫氏「EM技術で甦る旧有名ホテルや礼拝堂」
 ・古川勇二氏「日本学術会議の勧告をめぐる論議へ」
〜【一押し情報】〜
 21世紀型のアジアを実現‐Asia Innovation Forum28日から

DNDメディア局の出口です。あの夏の暑さが嘘のようです。朝から雨がしきりと降って寒さが身にしみます。こんな風に夏が終わると、やけに寂しさがつのります。うまく符号するものですね。お彼岸が四十九日の法要と重なり関東近在の墓所からの道すがら雷雨に見舞われたが、関越道の高坂サービスエリアで休憩をとると雨が止んで、中天に煌々たる月。が、その満月は、旅芸人が舞台のそでにそそくさと消えるようにすぐさま雲の切れ間に隠れてしまった。時間は夕刻6時34分、ほんの一瞬でした。


父・俊博が、暑い盛りの8月5日逝去しました。享年82歳でした。すでに葬儀を終え、昨日22日がちょうど四十九日でした。法要と納骨を無事済ませました。これで父の葬送に伴う一連の儀式がすべて終わったような気がします。


今回も「この夏の終わりに」の続きです。周辺を見渡すと、そういう年齢ですから時期の差はあれ、やはり老齢の身内を亡くした同世代や知人が結構多かった年でした。家庭にあって育児、子育てという生活の軸がひと段落したと思ったら、次は当然のことながら親の老いと病に直面するわけです。それに伴う介護、看護という現実に向かい合わねばならない。時に、うろたえてしまいそうな時もある。若い時は、そんな事がくる、とわかっていても実感がないのでしょうね。そして葬送という人生の最終章に立ち会って初めて、家族の絆の意味を問い直すことになるのかも知れません。


今回は、不況が襲った昭和初期生まれで青春の頃は戦争の真っただ中という、時代に恵まれなかった父の話をさせてください。


父が日光市内で家族ぐるみのお付き合いがあったご近所のご婦人から、お悔やみの手紙をいただいた。その達筆な文面には、おしゃれで、やさしいお父様で、娘共々実の父親のように慕っていた。四十九日が仲秋の名月と重なって、お父様らしいと思いました、と綴られていました。


思えば、不肖、このひとり息子にすら、いつも変わらぬにこやかさで接していました。理由もなく不機嫌な顔をして周辺に気を遣わすことなんか、一度もありません。炭鉱の夕張、漁業で最東端の根室、乳牛の中標津など仕事で住居を転々としながら、しかしどこへいっても不思議とご近所から慕われる。いさかいごとのひとつも耳にしたことがない。


その生涯、ずっといい人を演じていたのだろうか。それならせめて家族には、偉ぶって難題をふっかければいい。そんな調子でわがままを言ってくれた方が、かえって気がまぎれたかもしれない、と心底、そう思う。身内を亡くした喪失感がこの歳になってやっと実感するなんて、ふがいない話じゃありませんか。あの時、ああすればよかった、なぜ、あのような言い方しかできなかったのか、とあれこれ思い出しては、後悔の念にかられる始末です。


振り返れば、ちょうど昨年のいま頃でした。日光の病院からの退院を機に埼玉県の私の家で同居を始めました。左足のつけ根が欠損する股関節変形症を患っているため、車椅子の生活を余儀なくされたからです。要介護1の認定でした。週に2回のリハビリに通って手足に力がついてきたため、杖をつきながらの散歩ができるまでになった。体力もついて徐々に回復してきました。すると、日光に戻れる日を信じて疑いません。不可能と思われた車の免許の更新も、その気力で可能にしていました。


それが6月30日朝、急に左足に強い痛みを訴え、高熱を出して救急車で病院に運ばれました。痛みは大腿骨の付け根に膿がたまったからでした。従来の抗生剤が効かなくなったらしい。手術は切開して膿を洗浄する。これは無事成功し、父は痛みから解放されました。点滴や傷口の洗浄、それに酸素吸入などの無数の管で体が覆われて身動きが取れない。これが苦痛らしい。


周囲の目を盗んで管を抜く。また、時には精神が不穏になる。部屋の天井に無いはずのものが見える、という幻覚を口にする。これが「せん妄」という入院後のお年寄りを襲う症状なのですね。このため、ずっと見張ってないといけない。手袋をはかせたり、手足を縛りつけたりするのは忍びない、と家内が24時間の覚悟で付き添いました。認知症に罹らせたくないという気持ちからでした。


その甲斐あって父は日増しに回復していきました。が、怖いのは肺に水がたまる症状でした。原因は心不全か、腎不全らしい。急に呼吸が苦しく、肩で息をするようにゼイゼイし始めたのです。「絶食絶水」の処方を余儀なくされました。残念ながらこれで一気に体力が減退した。急きょ、透析を始めこれで比較的安定した時間をとり戻りました。


しかし今度は、再び、抗生剤が効かなくなる。白血球の数値が跳ね上がり、調べると新たな膿が広がりを見せている、との診断でした。再手術の必要に迫られていました。が、再手術にはリスクが大きい。麻酔の場面、次に手術の最中、そして術後の体力の状態で常に危険が迫る、という。医師との面談である種の覚悟を求められました。また、「延命治療はするか、しないか」と再び迫られました。その時は気にしなかったが、父は抗生物質が効かない多剤耐性緑膿菌に冒されていたかもしれない。


が、たとえリスクがあっても手術をお願いするしかない。医師らもその準備に入って検討を始めた矢先のことでした。驚いたことに、父の病状の数値がみるみるよくなっていました。これじゃ、手術の必要はないかもしれないという。血液検査などの結果が8月5日に出るので、それによっては退院が近くなる、と聞いて家内は小躍りし、もうすぐ家に帰れるかもしれないよ、と父に言ったら、「そうか」と口元を緩めていた、という。


8月に退院するとしたら、病院で使っているような大きな介護ベッドを入れなければならない。そう思ったその日、急遽、父の畳敷きの和室にフローリングを張る工事を大工さんに頼んだ。少しでもスペースを確保するため家内が長年愛用してきたマホガニーのヤマハのピアノを処分した。父が車椅子でスムーズに移動できるようにと、リフォームは8月2日の月曜日から始まりました。


翌日の3日のことでした。北海道・小樽から妹が、学校の教師となった甥っ子を伴って見舞いに飛んで来てくれました。私に、この妹と一緒に生活した記憶が薄い。両親の離婚です。妹は4〜5歳でした。私は父と、妹は母と別々に暮らしました。が、まったく音信が途絶えていたわけではなく、私と妹は何度も行き来していましたし、父は携帯で連絡をとっていました。


妹の見舞いは、父にとって格別の感慨があったようです。空港に着いたその足で病室に顔をだすと、「ああ、よく、きたなぁ〜」と、これまでにない喜びようで、その顔をなぜか、毛布で覆ってすぐに嗚咽してしまった。妹も顔をくしゃくしゃにしていました。父親にとって娘の存在は、特別なのかもしれませんね。妹が、背中をさすって「お父さん、よくなったら小樽にきてね」というと、「そうだなあ」とうなづいていた、という。


別れて、親として何にもしてあげられなかった。すまない気持ちでいっぱいだぁ。背中さすってもらって有難いが、悪いぃ〜。いやあ、なんだか、すまなかったなあ〜。


父は妹に詫びた。親の事情で辛い思いをさせてしまった。長い間、そんな思いにさいなまれていたらしい。もう50年以上も遠い昔のことだから、とっくに忘れたっていいはずなのに〜。


律儀ながら気弱な父は、妹への思いをずっと胸にしまいこんでいたに違いない。私なんか、ずっと父のそばにいながら、そんな父の心の重さに少しも気づかない。不甲斐ないですね。妹が、見舞いに来てから、父の容体に変化が起こりました。これまで日に数時間しか眠らなかったのに、妹が来てからはぐっすり熟睡し続けたのです。わだかまりが氷解したのだろうか。妹に詫びて安心したのだろうか。


その夜、家内に看護をまかせて妹と甥っ子を病院近くのデニーズの店に誘いました。妹が、パスタやサラダを前にしながら、あの時のお兄ちゃんの行動があるから、わたし達の今があると思う、と神妙な口ぶりでいう。


それは私が19歳の大学2年の夏の頃でした。ヨーロッパ、ロシア、東欧の3ケ月の放浪から帰って、すぐ北海道の美唄に向かいました。小さな駅の待合室で10数年ぶりに見る母と妹の姿は眩しく映りました。病弱な母を労わりながら旅の土産を渡した。革の手袋や縫製セット、それにスイスで買った革製のオルゴールでした。頭のポッチを引くと、ポッチが引き戻されながらメロディーが流れる仕掛けでした。エーデルワイスの曲でした。


そのオルゴールのポッチを引きながら、母に懇願した。今思えば、どうしてあんなことが出来たのか、不思議な気がします。


私は母に、「もう一度、父とよりを戻してくれないか」と頼んだのです。一瞬、沈黙が流れました。次の言葉は、なかなか返ってこない。母は、うつむきながらハンケチで目頭を押さえたままでした。妹は、声を絞り出すように泣きだすじゃありませんか。周囲には私が二人を泣かしたみたいに見えたかもしれません。汽車はまだホームに入ってこない。母と幼い妹が家を出てそのまま二人で暮らしているとは限らないものね。20歳のそこそこの学生には、それは思いもよらないことでした。


妹が、今の年齢になって繰り返し口にする。あの時、お兄ちゃんが美唄にきてくれたから、母が再婚しても今のように気兼ねなく行き来できるようになったのだと思う、と。あれからお母さんが見違えるように元気になった。それもお兄ちゃんのお陰だよぉ〜、と。妹と私が、家族のことでこんなに長く話したのは、この食事が初めてでした。離婚の原因は、ついぞ知らない。お父さんは、いっさい言い訳なんかしないぃ。そうでしょう、お兄ちゃん…と、妹は店内で何度もしゃくりあげていました。パスタもピザも冷めてしまうでしょう。


さて、埼玉の家で父の介護は10ケ月余りに及び、そして病院での看護が1 ケ月を過ぎていました。正直なところ、介護、看護と続いて家内の体調が心配でした。介護疲れで倒れる。その兆候が出ていました。家内の体重が3キロ減っていました。神経を擦りきり、食事がのどを通らないらしい。「絶食状態」の父のそばで食べ物の匂いはさせられない。父に気兼ねして部屋を出て灯りが消えたエレベータ付近で食べていた、という。看護をする人は、きっと誰でもそんな人目のつかないところで苦労をしているのかもしれません。


さて、家のリフォームは予定の4日夕刻に終わりました。その夜の看護の当番は私でした。が、妹が4日夜もやらせてほしいという。その4日は水曜日で、メルマガの日でした。メルマガを終えると、疲労困憊になるから、妹に交代してもらって心底ホッとしていたのは事実です。


それがねぇ、思いもよらぬことになるのですね。この看護の交代は、深い意味があったのです。いま考えても不思議に思えてなりません。5日の午前中に血液検査の結果がでる、きっと朗報になるはず、という医師の言葉を信じた家内の口調に明るさが感じられました。が、淡い期待が暗転する。その朝は午前8時を少し回り、NHKの連続ドラマが始まっていました。私の携帯に電話が入りました。


「お兄ちゃん、お父さんの様子が変なの。すぐに来てくれないかい」。妹の声が暗く沈んでいました。要件を伝えると、すぐに電話をきった。万が一の事態を念頭に、病院に車を走らせました。


病院への車中で、家内が珍しく奇妙なことを口にする。明け方、家の呼び鈴がピンポン、ピンポンと2回鳴るのでこんな時間になにかなあ、と不審に思いながら玄関に出てみたが、誰の姿もない。時計を見ると、午前4時過ぎだった、というのです。これがその暗示だったに違いない。


病室では、医師や看護師ら数人がベッドの上の父を囲んでいました。私たちが到着すると、若い医師は時計を見ながら臨終を告げました。いったい何が起きたのだろうか、数値が良好で今日の検査の結果次第では退院が近い、と期待していたはずなのに…。妹が、目を赤く腫らしながら、その前夜から朝までの一部始終を話してくれました。


妹によると、ベッドに仰向けになりながら、昼間熟睡していた父は深夜に目が冴えていろいろ語り出した。が、口ごもって父の意思が思うように妹に伝わらない、と知ると、「えっちゃんは、えっちゃんは、いない?」と家内の名前を呼ぶ。妹が、「お姉さんは、明日朝に来てくれるよ」と言うと納得し、少し落ち着きを取り戻した。午前3時頃だったらしい。突然、胸に手を合わせて題目を唱え始めた。肘を左右に張って声に力を込めていったという。病室で初めて見聞きする光景でした。父は、何を祈ったのだろうか。


そして、午前4時ごろになって、今度は何を思いついたのか、そばに用意してある筆談用のノートとペンを所望して、やおらペンを走らせた。どのように書いたのだろうか。仰向けに寝ながら、果たしてペンは使えるのだろうか。文字は眼鏡もしないで見えていたのだろうか。


震える手で、「一番世話になり、なにかとありがとう」と書き出し、「出口ちかこ、心づかい、ありがとう、書きたい事はたくさんある、頭がいっぱいで書けません」という文字が読める。その文面のおしまいの行のところで、家内への気持ちを表していた。


「出口えつよさん、特別にありがとう」。


渾身の力を込めて綴ったのでしょう。文字は、激しく震えていました。強くノートに打ち付けるような筆致でした。こんなことってあるのですね。これが最後の文面で、「ありがとう」の文字が絶筆となりました。


妹が、そこで「お姉さん、これっ!」と差し出すと、そのノートに目をやった家内は、くぎ付けとなっていました。最後のところで自分の名前を見つけるや、「おじいちゃん…」と声を上げて泣き崩れてしまいました。父が最後の最後に書き遺したのが「ありがとう」の言葉でした。精一杯の家内とって、この「ありがとう」は、かけがえのない宝物になったのだと思います。


この父の臨終の話には続きがあります。父は、このメッセージを書き終えて妹にノートとペンを渡すと、「寝る…」、そして「寝れ」と短く言って目を閉じた。妹も「じゃあ、寝るからね、お父さん、おやすみ」と返事して、部屋のライトを消しました。


妹は、すぐに夢の中に入っていきました。6畳間の奥の部屋に布団が敷かれている。家族4人が川の字で寝ていました。妹のそばに若い頃の父がいる。父が、いつものように昔噺を聞かせてくれた後、「もう寝れ」と髪をなでる。が、怖くて寝付かれない。父の細い長い指の感触がリアルだった。が、このまま寝て起きてみたら、いつもそばにいるはずの父がいない。そんな夢をなんど見たことか。このまま父と一緒にいられるのならたとえ夢の中だっていい。夢ならその夢を覚まさないで欲しかった〜。


やはり、父と一緒の夢を見て目が覚めると、父がいない。が、その朝は違った。父はベッドの上でやすらかな寝顔のままだった。しかし…。


朝6時半すぎに、いつもの検診が始まりました。看護師さんらが来てまず、父の手が冷たいので温かいタオルで手を温めた。出口さんの手が冷たいでしょう、と一人の看護師がいう。するといや、温かいよ、と遅れたきたもう一人の看護師が答えた。それはいま私がタオルで温めたからよ、とのやり取りが自然に行われていました。妹も、おじいちゃん、オハヨーと声をかけ、手をふっておどけてみせていた。父のその表情は、いつもの朝と変わりなかった。


ただ、薄目を開けて目を遠くにぼんやり投げやって、まだ父はまどろみの中にあるのではないか、と誰もが思ってしまうほどでした。それから1時間ほどすぎて、父のその表情に変化がない。つまり瞬きしていないことに妹が気づいてドキリとした。心臓が高鳴ってきた。妹は、それで、父の様子が変かも知れないと、私に電話を入れてきたのです。


父が逝った。そのことに誰も気がつきませんでした。きっと、父自身も自分が死んだことに気がついていないのではないか、と思われるほど、その表情はやすらかでした。父は、いつものように心電図などのデータを取る、胸の機器をすべて外していたから、ナースステーションでも父の異常に気付かなかったらしい。


父が死んだ、といってもそれがどういう意味なのか。涙もないし、不思議と感情が覚めている。私は声を出して話しかけていた。父さん、がんばったね、一所懸命だったしょ、偉いぃ〜。


そして、人一倍身なりを気にする性質なのだから、せめてヒゲを剃ってあげなくては、と、口元に指をあて電動カミソリをあてました。あごの回りも上下しました。次にハサミで白いものが混じる鼻毛の処理をしました。グレーの豊富な髪に櫛を入れました。髪は、いつものオールバックに流しました。あんなに器用できれいな指が、痛々しく変色していました。ようやく父が死んだのだなあ、と感じました。


父はやさしかった。家内はそんな父のエピソードが忘れられない。ある深夜の病室でのこと。ソファーにすわってうとうとしていると、看護師さんがすでに部屋に入っていて、父と看護師さんが何か話をしていた。家内が起き上がってどうしましたか、と尋ねたら、ナースコールが鳴ったので病室に行ってみると、お父さんが、ソファーに体を預けている家内を指さして、「あれでは風邪をひく。毛布をかけてあげて」と言った、という。普段着のまま何もかけずに寝ている家内を心配してナースコールしたらしい。この入院中、父がナースコールを押したのは、後にも先にもこの1回だけでした。


病室は、シーンと静まり返っていました。看護師さんが浴衣着を持ってきてださい、と言うので一旦家に引き返した。その道すがら、病院の近くに小さな葬儀屋の看板が目にとまった。看板にあった葬儀屋の電話番号を回したら、留守電だったが、要件を伝えてこちらの携帯を教えた。すぐに対応してくれた。祭壇は父の好きな花で埋めたいし、棺はシンプルな白木がいいとか、通夜振る舞いはやらない。戒名はいらない…。


正午すぎに、家に父を迎えました。フローリングの真新しい部屋は、今考えれば、父を迎える、ほどよいタイミングで整っていた、といえるかもしれません。7日夕刻の出棺までの丸2日間、父と向かい合いました。子供のころの思い出が浮かんできました。こんなことあったね、と。


夕張の真谷地炭鉱。その山の奥の、さらに奥まったどんづまりにあった町唯一の映画館で、すっかり寝てしまった私を揺り動かして、「しゅん、ほら観てごらん、凄いよ」と父がいう。スクリーンは、海が二つに割れて波が逆流していくところでした。大勢の人が海底を歩きはじめていました。ひげを生やした仙人が杖をふりあげて呪文を唱えている。『モーゼの十戒』でしたね。小学校低学年だったと思います。その帰り道、寿司屋に寄ったよね、あの時、海苔巻でした。生の寿司はあったのだろうか、山深い炭鉱の寒村に、まだ冷蔵庫なんかない。


根室の海に近い定基町の家の前に2トントラックが止まっていた。中学3年の夏でした。ついエンジンをかけたら動いた。動いてすぐ止めたら、交差点の真ん中で通行の邪魔になると思いそのまま動かした。国道をまっすぐ走れば、青物市場に父がいるはずだ。数キロの道のりを走った。やがて市場の広い駐車場が目に入った。父がめざとくトラックを見つけて近寄ってきた。大きくハンドルを切って車を止めたら、父が「よくきたなあ〜。大丈夫だったか」と笑って言った。叱られたことはなかった。


父の仕事を手伝うため、中学を卒業したらすぐ働くつもりだった。就職することにいささかの迷いもなかった。すると、中学の担任の東峰先生が家にやってきた。「せめて高校へ進学させてください」と頭を下げていた。父は、別に就職を強要したわけではなかった。「なるべく勉強できる内に勉強した方がいい」とにこやかに先生に同意した。今度は、高校3年の春、担任の水上先生が自宅にやってきた。「大学へ行かせてあげてくれないでしょうか」と父に懇願した。いつものように「なるべく勉強できる内に勉強した方がいい」と中学の時と同じ言葉を伝えた。が、父は、大学へ行ったらもう運送業の家業を継ぐことは考えない方がいい、と言った。社会のために役立つ存在にならないとなあ、と言った。本心は、口にしない。ひとり息子を働き手として欲しかったに違いない。それは痛いほどわかっていたから、大学を受験してみんな合格したら逆に進学を諦めて、家業を継ごうと決めていた。が、父が家のことは心配要らない、と言ってくれた。


蝉しぐれ、戸外は猛暑。長く父と対峙し、言葉をかわした。孫が6人、妹夫婦と私たち、それに義兄が最後まで付き添ってくれました。静かな葬儀でしたが、満足のいくものでした。いっぱい泣いた。7日夜の通夜、翌8日朝の告別式を無事終えた。葬送の曲に、ツルノリヒロさんのメロディーを流しました。キーの高いピアノの音がひとつ弾けるだけで、切なさが込み上げてくるようでした。


葬儀には、ご近所のご婦人方が力になってくれました。越谷市の斎場で、骨壷を抱いて外にでると、陽が照りつけているのにわずかな間、シャワーのような生温かい霧雨が降り注ぎました。慈雨と思った。送迎のバスの中から、西の方角に富士山がくっきり浮かんでいた。静かな車内に、富士山って、あんなに大きかったかしら、と誰かがつぶやいたら、みんな窓に顔をつけていた。翌9日は、久しぶりの雨でした。涙雨になりました。葬儀を終えて気が抜けたのか、愛犬の散歩のふとした時や、窓辺で外を眺めている時など、なんの脈絡も意味もなく涙があふれてきました。


父は、花が好きで、俳句も好きでした。俳句というより五七五にとらわれない自由詩というのでしょうか。流れるような筆使いで部屋の障子にいくつもの詩を遺しました。詩は、自慢できるほどのではないが、和服姿で筆をとる父が一番カッコいい。

◇過ぎし日の北国偲ぶ冬景色、雪なき朝の幸を思う
◇花も咲かない紅葉さえ、風雪耐えて春を待つ
◇今日も待つ、ゆずの香りの浴槽に微笑み添える介護人
◇忙しい朝のひととき嫁が手をかす介護靴
◇我が家の犬は変わり者、夜中のいびきで目を覚ます


きっと今頃、粋な着流しで闊歩し、あれこれ季節の花を愛でながら、好きだった紅葉の詩でも作っていることでしょう。考えれば、大学進学で故郷を離れてからこれまでずっと父のことを心配し、どうか、懸命に働く父に幸せが訪れますように、と日々、祈るような思いでした。その父は、献身的で懸命な嫁と、心根の優しい妹の、ふたりの愛情に包まれて幸せな最後を迎えることができたのではないか。


親子とはなんなのか。その意味が、うすぼんやり見えてきたような気がしています。多くの人がそうであるように、一途で無名の父が誇りです。この父だったから、今日まで自分らしくいられたのだと思う。


父さん、お疲れ様でしたー。


■以上■


◇黒川氏のコラム「モノを書く人の苦闘」
【コラム】政策研究大学院大学教授の黒川清氏の『学術の風』は今週21日のアップで「この夏の終わりに」とのタイトルでした。私が前回書いたメルマガと同じ題名です。Michael Jacksonと黒川氏と取り上げた「アエラ」取材の裏話を書いた、その私についてコメントしてくれました。
 「ものを書く人の苦闘、調査、編集者とのやり取りの苦労などが感じ取ることが出来ます。編集側の苦労を推測することも出来ます」と。
 ありがとうございました。ちょっぴり恥ずかしいやら、うれしいやら。実のところ、人目を忍んで繰り返し読んでしまいました。
「この夏の終わりに」


◇祝、石黒さん!連載150回、5年と5ケ月の"偉業"
【連載】経済産業省商務情報政策局長の石黒憲彦氏の『志本主義のススメ』は回を重ねて150回の節目をむかえました。ご多忙の中で、毎回良質のコラムを投稿してくださいました。そのご努力に心から感謝したいと思います。DNDからいっさい報酬的なものはありません。他の執筆者同様、それなのに「志」のひとつでここまで継続してくださいました。ありがとうございました。引き続き、お願いしたいと思います。
  振り返れば、石黒さんの連載開始は、05年4月27日でした。その当時のいきさつをメルマガで紹介していました。
 〜DNDの提唱者で、大学発ベンチャー1000社計画の政策立案者の一人である、経済産業省大臣官房総務課長の石黒憲彦さんに無理を言って、本日から「志本主義のススメ〜大学発VB1000社達成」のコラムがスタートすることになりました。石黒さんは、常々、時代を創るイノベーションの原動力は、「夢・志・仲間」であると主張されています。そのコラム、その最終章で石黒さんは、ベンチャー企業のあり方に言及し、「イノベーティブなテクノロジー・ベンチャーが輩出せず、流通系、サービス系のベンチャーだけが日本のベンチャーという状況は何らかの構造問題があるといわざるを得ない」と断じ、必要な成功事例は、「大学や企業の研究者、技術者、経理・財務マンなどの経歴を持つ、普通の感覚の人がごく当たり前に起業し、地道に努力して成功するような事例」と定義して、「そうした環境を作らねば、質の良いベンチャーが輩出してくるような太い流れは起きません」と熱っぽく書いています〜と。
 メルマガでは、「普通の感覚の人がごく当たり前に起業し、地道に努力して成功する‥」の文節から石黒さんの見識の深さを感じます。こういう、平場のセンスが物事を確かな方向に導くものと思います、となんだかわかったようなコメントをしていました。ちょっと恥ずかしいですね。
 それにしてもこの日以来、5年と5ケ月に及び、その連載も回を重ねて150回の金字塔です。今となれば、読み返すのも大変なボリュームとなりました。が、その内容の確かさと質の高さはいまだに鮮度を失いません。ユーザーからは繰り返し読まれていますし、アクセスも常時トップランキングのところをキープしています。
 まあ、150回のお祝いということで回顧的になりましたが、やはり継続は力、そして継続は一種の才能である、ということを実感させられます。さて、記念の150回は「新たな段階に入った日中関係」。その書き出しで石黒さんは「新たなステージ」との見出しで率直にこう述べています。
 「記念すべき150回の節目に中国の発展と台頭をテーマに日本の進路を考えてみようかなと思っていたところ、折しも尖閣列島付近における海上保安庁の巡視船と中国漁船の衝突事件が起こりました。それ自身は偶発的な事件と考えますが、今後高まるであろう東シナ海と南シナ海を巡る緊張を象徴するものと感じました。但し、ここではその問題を議論するつもりはなく、中長期的な今後の日中関係を考えてみたいと思います」と。
 さて、石黒さんは、この緊迫する日中間の問題をにらんで、どんな切り口で今日の中国を捉えるか。タイムリーだが大変神経質なテーマに切り込み、それが見事に成功しています。現地への視察訪問やいくつかの書籍を紹介しながら今日の中国を多角的に読み解いています。日々劇的に変貌する中国をどう捉えるか、ここが重要と思いました。詳しくは本文をご覧ください。
第150回 新たな段階に入った日中関係


◇EM技術で甦る沖縄の旧有名ホテルや礼拝堂
【連載】名桜大学教授、比嘉照夫氏の緊急提言『甦れ!食と健康と地球環境』は第32回「EM技術による建造文化財の保護」です。これは興味深いエピソードと事例が満載です。
 例えば、古代エジプトのピラミッドなどの遺跡調査で、必ずひそひそ話しで伝えられるのが、調査の後の謎の死。きっと石棺をいじくった祟りと恐れられたものです。そういう逸話は世界中に溢れています。が、その原因を比嘉先生の実践的考察で浮かび上がらせているのです。
 比嘉先生によると、アスペリギリス属の有害なカビと断じ、このカビと遺跡調査、そして不慮の死の謎を解き明かし、根本的な処方を提示しています。ここでもEM技術が活躍します。どうぞ、ご関心のある方は本文をお読みください。具体的には、文化的価値が高い盛岡市の保護庭園である「一之倉邸」の取り組みを紹介しています。
 歴史的建造物へのEM技術のアプローチは、北海道大学工学部、八戸工業大学、日大理工学部の土木建築関係者の協力でEMの土木建築資材の機能性や耐久性が向上し、EM技術の土木建築への応用が広がった。またEMウエルネスセンターの設立を機に古い建築物へのEM技術の活用が試みられた、という。
 ここで語られたEMウエルネスセンターとは、EM技術をその隅々まで施したホテル「コスタビスタ」の運営までの御苦労話が披瀝されているのだが、ここは沖縄の日本復帰直前の1971年に建てられた230室余の「沖縄ヒルトンホテル」でのちの「シェラトンホテル」です。現在、比嘉先生の指導でEM研究機構が中心となって改装しすっかりリニュアルされて人気のホテルに生まれ変わっています。高台にそびえる白亜の外観は、ひときわ輝いて見えます。このホテル「コスタビスタ」の機能や快適性について比嘉先生が多少説明していますが、ぜひ、機会をみてその全容をご紹介したいと思います。勿論、家族での宿泊も研修やセミナーなどでの利用も可能です。オープン当初、私も宿泊した経験からすると、ひと晩ホテルに泊まるだけ、体の隅々まで活性化してくるから不思議です。
 また事例として、沖縄県与那原町にあるカトリックの「聖クララ教会の礼拝堂」の改装は驚きです。老朽化しカビで汚染された一般住宅や歴史建造物の改装にEM技術がどれほど効果を発揮するか。ご関心がある方にぜひ、コスタビスタをお薦めです。
第32回 EM技術による建造文化財の保護


◇「日本学術会議の勧告をめぐる論議へ」
【連載】職業能力開発総合大学校長で、東京農工大学名誉教授の古川勇二氏が『技術経営立国の指標』の第9回として、日本学術会議が先に勧告した「科学・技術」をめぐる論議に一石を投じてくれました。
 古川先生は、冒頭、 8月25 日に発出された学術会議勧告「総合的な科学・技術政策の確立による科学・技術研究の持続的振興に向けて」に対してDNDのネットワークで諸所意見交換がなされているのは大変好ましい、と評価しつつ、ご自身が学術会議の2期目の現役であるという立場からご所見を展開されました。勧告の中身を個別に検証して「極めて重要な内容を包含しています。しかし問題は、 この勧告が内閣においてどのように処置されるかです」と一歩踏み込んだ意見を述べています。つまり、学術会議と総合科学技術会議が両輪になって我が国の科学技術政策を決定する、学術会議は学術視点からの意見を表明し、総合科学技術会議が具体の政策決定を行なう、という方針を支持していらっしゃる。また学術会議の存在に言及し、科学と技術、工学の定義と相互関係についても私見を述べています。
 興味深い点は、政権交代による余波として、一部に「学術会議不要論」が取り沙汰されたことも事実でした。このため「このままでは学術会議の存続は危うい、基礎科学予算をばっさりと削減されかねない」との危惧が起こり、この4月の総会で、金澤会長が「学術会議の役割を、Science for Societyにプラスして、Science for Policyを強調したい」と提案されたと思う、と古川先生は推察されていました。そして、「これは一種の政府への擦り寄りとも受け取られかねないが、会長としては当然の行動であると思量する」と賛意を唱えています。古川先生のお考えが、この短い紹介文では説明しきれない点が多々ありますので、ここもぜひ、本文でご確認されることを期待します。
第9回 日本学術会議からの勧告を巡る議論について


※なお、特許庁審査業務部長の橋本正洋氏の連載『イノベーション戦略と知財』の第31回「社会人博士の取り方、実践編その2」と、東京大学産学連携本部副本部長の『一隅を照らすの記』の第28回「大いなるジェットストリーム」、そして氏家豊氏の『大学発ベンチャーの底力』の第4回「体験的な研究開発フェーズの話」はそれぞれサイトにアップしていますが、メルマガでのコメントは次週になりますことをご容赦ください。


【一押し情報】21世紀型のアジアを実現‐Asia Innovation Forum28日からソニーの元社長でクオンタムリーブ代表の出井伸之氏らが主宰する、Asia Innovation Forumが今年も東京・大手町の日経ホール(日経ビル)を会場に28日から29日の2日にわたって、緒方貞子さん(JICA理事長)、黒川清氏ら内外から著名なゲストや世界を舞台に活躍する実力派の論客やイノベーターをそろえて盛大に開催されます。「産業構造の大転換と日本とアジアの成長戦略」(伊藤元重東大教授)の基調講演に象徴されるように、グローバル化の大きなうねりの中で何が、どう動いて何をどう変えねばならないか、というような意味の差し迫った現実的課題をテーマに議論するという。きっとイノベーション促進の新たな時代の起爆となることでしょう。私も一般参加者として傍聴する予定です。
 パネルディスカッションも多彩です。最終日の午後には、「アジアの時代と日本"第3の開国"、時代を生き抜く人材」では、DND「学術の風」の黒川清氏や企業戦略論で知られる一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授の石倉洋子さん、ドリス・マグサイサイ・ホー氏(マグサイサイグループ 社長兼CEO)が登壇、モデレータに石黒不二代さん(ネットイヤーグループ株式会社 代表取締役社長兼CEO)。投資家や若手起業家も登場します。主な内容は末尾に付けたURLからプログラムをご覧ください。参加お申し込みも可能です。
 サイトのトップには、こんな斬新なメッセージが掲げられていました。
 〜イノベーションには様々な「掛け算」が必要です。アジアを舞台に、イノベーションを起こし、新事業・ビジネスの創出、延いては新産業を創出するため、様々な「掛け算」を仕掛けてゆきたいと考えています。
 【アジア】x【日本】世界と競争してゆくためのアジア地域の有機的な連携を生み出す、アジアと日本の掛け算
 【熟練CEO】x【若手CEO】若手企業家を育て成功へ導くための、熟練経営者の「経験」「知恵」「ネットワーク」と若手企業家の「新技術」「新発想」「情熱」の掛け算
 【起業家】x【金融資本】若手起業家の「アイデア」「技術」を育て、花を咲かせるための有効な金融資本と若手企業家、エンジニアの掛け算
 【技術人材】x【金融資本】カーブアウトなどの手法を通じて業界活性化を促進する、企業に埋もれたハイテク技術系人材とプライベートエクイティなど金融資本の掛け算
 【ハイテク技術】x【金融資本】目先の利益のみにとらわれない、国や地域の根幹となる技術を育てるための、長期的視点に立った金融資本と技術の掛け算
 このような「掛け算」が実際に「化学反応」を起こすためには「場」が必要です。その「場」が、"Asia Innovation Forum"です。志を同じくする皆様と共に、本フォーラムでの活発な議論を通じて、21世紀型のアジアの産業競争力の向上、新産業の創出を実現するための、仮説を構築し、実行に移してゆきたいと考えております、と。
 難しい時代にあってこのフォーラムが、今後のアジアを展望する一条の光明となることを期待します。

記憶を記録に!DNDメディア塾
http://dndi.jp/media/index.html
このコラムへのご意見や、感想は以下のメールアドレスまでご連絡をお願いします。
DND(デジタル ニューディール事務局)メルマガ担当 dndmail@dndi.jp