◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2013/05/16 http://dndi.jp/

阿波の国のやさしさと、岡田家の人びと(上)

DNDメディア局の出口です。徳島に里帰りする岡田正さん夫妻の車に便乗した。この2泊4日の見聞は「徳島紀行」というより「阿波物語」の方が、ぼくはふさわしいと思う。この旅で出会いは人生の宝ということを強く教えられた。還暦になったのだから、じっくり人生を問い直してもいいではないか。



埼玉からセルシオに乗って徳島へ。GWの混雑を避けて夜遅くなってから新東名を走らせた。うず潮の鳴門海峡を抜けるのは翌朝の午前5時半の見込みだ。予定通りなら、穏やかな瀬戸内海の波間にちょうどまばゆい朝日が昇るころだ。写真家、緑川洋一氏の叙事的な世界が眼前に広がるのだろうか、そう思うと気持ちが高ぶった。


旅に出て、期待が裏切られたことはまず、ない。西日本への旅は、久しぶりだ。3.11の大震災以降、東北や北海道に軸足をおいてきたから、徳島への旅は、気持ちを切り替えるのには都合がよかった。


岡田さんは、徳島の旧木屋平村の生まれで、その奥深い標高800mの山の中に朽ち果てた生家が残っている。もうしばらく誰も住んではいない。家はどんな状態になっているものか。家屋ばかりか集落そのものが消滅の危機にさらされているらしい。戦後の生活風景を脳裏に刻み、その後の著しい変遷を経ながらも故郷を忘れない愚直さは、彼の特筆すべきところのひとつかもしれない。貧しい暮らしから抜け出るために都会にフックをかけてそれを命綱に親兄妹を手繰り寄せる一途さは、一篇のドラマを見るようで感動的ですらある。


家族思い、その一言に尽きる。あたり前のことだが、実はそれができていないのだ。家族を命がけで守っているだろうか、とおのれに問うた。地方から東京の大学を出てそのまんま、独りよがりの半生だったのではないか、と。彼の生き方はぼくには到底まねのできるものではない。根底に流れるのは、つきなみだが彼のやさしさ以外ないように思う。


岡田さんの生家を訪ねる道すがら、彼の生い立ちや当時の暮らしをのぞいてみようと思う。そこから、ぼくが忘れたていたもの、見失ったもの、そんな大切なものがぼんやりでも輪郭をみせてくれたらうれしい。



夜10時に埼玉をスタートした。午前零時前に息子に運転を交代し、岡田さん自慢のセルシオは、快調に走った。岡田さん夫妻、それにぼくの息子の4人、息子は四国が初めて。運転には自信がある。静かにハンドルを握った。


午前5時すぎ、ほぼ予定通りに明石海峡大橋を通った。天気はよさそうだが、東の方向は霞んでいた。淡路サービスエリアで車を止めて下りた。ここがビューポイントなのだ。いやあ、ひんやりして清々しい。見通しの利くガラス張りの店内から海側のテラスに出たら、一瞬、わーっお、と声を上げそうになった。眼前に、雄大なパノラマが広がっていたのである。思った通り緑川洋一氏の世界だった。高台から見下ろすアングルは、このような撮影位置がもたらすものなのか、と感心した。


刻々と変化する。雲が赤く染まり海が輝きはじめた。ファインダーの左手、大橋の方向から漁船が次々と距離をとりながら東の方向に走る。鏡のような海面に一直線の航跡を引きながら横切っていく。いい写真が撮れただろうか。岡田さんも写真には一家言がある。最近購入した一眼レフのデジカメが自慢だ。その愛機をのぞきこんだまま、海の方をしばらく見据えていた。どんな写真が撮れただろうか。



 :瀬戸内海のおだやかな海が金色に輝く

先を急ごう。淡路島を越えて大鳴門橋、鳴門海峡は渦潮が見えた。潮流れが急激なのだろう、泡を巻き上げているようだ。徳島に入った。まだ午前6時前だった。息子が素早くチェックした阿波街道ぞいの漁協食堂で朝食をとることにした。大きなアサリの味噌汁が名物だった。


広い駐車場がある食堂の少し手前で白煙がもうもうとあがっていた。徐行しながら進むと、消防団員がふたり道路沿いに立っていた。「火事ですか?」と窓越しに訊ねると、「ハイ、火事なんです」と教えてくれた。火の手は、なんと消防署のすぐ近くの住宅のようだった。あんまりにのんびりした口調だったので、おかしかった。もう少しあわててもいいのではないの、火事なんだからねぇ、と言ったら、みんな笑った。


ぼくはこの日の午前中に、徳島大学の教授を退官された友人の佐竹弘さんと落ち合うことになっていた。彼は、産学連携学会の会長を務めた徳島大学の看板教授だ。彼もまた、おだやかな人柄で接していると気持ちがなごむ。岡田さんもそうだが、阿波の人は、なんともひとあたりがとてもよい。


産学連会学会の草創期、足りない資金を個人的に負担しながら執行部を支えた。そんな一緒に汗を流した仲だ。大学を辞してから段々の山を切り開いて畑仕事に精を出しているという。なんと、まあ、ぼくと同じようなことをやっている。


その山をぜひ、見せてほしい、と懇願した。いいよ、とこころよく受け入れてくれた。どんな樹が生えているのだろうか。イメージがふくらんで、夜も眠られないといったら誇張しすぎかもしれないが、ほんとなのよ。


午前9時に国道沿いの道の駅で合流した。ぼくは藍染の作務衣、それに祭り足袋という出立だ。そっと人の影を感じて顔をあげると、佐竹さんが目の前に立っていた。ぼくの風体をながめて言葉を失っていた。そして気持ちよく笑った。



 :佐竹さんの段々畑の頂上付近から遠望する


 :晴れやかな佐竹先生

ぼくは待ち時間に道の駅で、トマト3つとスイカ2つの苗を買った。これをこの先どうする、ずっと持ち歩くのかいな、と冷やかされた。佐竹さんは、トマトの苗は、ひとつあればよろしい、次はトマトの脇芽から育てるんよ、という。工学博士の佐竹さん、いつの間にかすっかり熟達のファーマーに変身したみたいだ。畑を耕して、いま愛妻と二人三脚だ。やはり人生の意味を問い直しているのだろうか。


ぼくは佐竹さんのに乗り換えて山を目指した。山は、阿南市の郊外だという。日亜化学の社屋の前を横切ったら、佐竹さんがこんなことをいう。昔、通った阿南工業高校がこの付近にあってな、通学の途中にみたのはみすぼらしい建物だった。それがいまの日亜化学だわ、と目を細めた。


車は、阿南市の西側の郊外に向かった。清流の那賀川に鯉のぼりがぎょうさん空に泳いでいたわ。その先の山道を左に折れて進んでいくと、急斜面に段々畑が開けていた。そこで漢方に重用される植物をひっそり栽培しているのだ。人に頼んで他の場所にも植えている。その場所を聞いて腰を抜かした。美馬市木屋平の標高800mの山だという。ぼくが次に目指す山だ。不思議なもんやなあ、偶然かどうか、わからんようになってしもうた。


漢方の植物栽培が主なる目的じゃなく、どちらかというと佐竹さんの意図は、抽出する機械を開発して地場の特産に役立てたい、というものだった。一線を退いても産と学の融合、産学連携のマインドはしっかりとお持ちのようだった。すごいなあ、感心した。


そこは急こう配の段々畑だった。竹藪がうっそうと攻め込んでいる。クワを振り上げて切り開いたのだ。ひと通り説明を終えたら、木に登って自生している八朔をもいでぼくに手渡した。川沿いに、にんにくや葉物を植えた小さな畑があった。奥さんが手入れしている畑だ。


夫婦が、おにぎりをもって山に入る。ピクニック気分で楽しそうやなあ、と勝手にその光景を想像した。幸せって、案外、そのようなものかもしれない、そう思うと、ほのぼのした気分になった。


小高い頂に案内してくれた。車で5分程度、曲がりくねった山道をのぼったら、遠望がきく見晴らしの場所につきあたった。ここも見事な景色だった。川沿いに清々たる風が吹き抜けている様子がうかがえた。のどかに鯉のぼりがひるがえる。周辺に枇杷の木があった。柑橘系の木がオレンジ色の実をたわわに実らせていた。山頂には山桃の巨木がずんと控えていた。思わず近づいて頬ずりしたくなった。どこものびのびしていた。


息子が、岡田さん夫婦と筍狩りに興じた。うれしそう。素敵な体験をさせられた。佐竹さん、ありがとうね。満面の笑顔が忘れません。帰りに、漢方の苗を頂戴した。すっごくうれしいのだ。その余韻をいまもって引きずっている。庭に植えたら、毎日、佐竹さんのことを思い出すだろうか。



 :筍狩りを体験した息子、後ろは奈美子さん


今夜、泊まるところはここからそんなに遠くない。阿南市大潟に住む、岡田さんの2番目の妹、栄子さん宅だ。移動に時間はかからなかった。栄子さんの家にはお昼過ぎに着いた。座敷に手料理が並んでいた。


栄子さんは、ぼくとそんなに歳が違わないのに美人で若々しい。幼い頃は、どんな兄妹だったのかな。栄子さんには、忘れられない思い出がある。それは兄さんが、小学校の遠足の途中でなぜか、鉢合わせした。すると、カメラを向けてくれる人がいて兄さんと並んで撮った。仕上がった写真を見ると、兄さんが半身になって顔をそらし、いかにも嫌な表情をしていたのよ、と訴えるような目をした。兄さんの岡田さんは、台所でタバコを吸いながら、えっ?そうだっけ、憶えてないよ、俺は!と、つれない。



 :岡田さんの妹さん、栄子さんを囲んで=阿南市大潟

それなら、とぼくはそん時の写真はないの?と聞いたら、古いアルバムをみせてくれた。二階建ての大きな建物が母屋、その先に離れが並んでいた。家の前は、すぐ崖のようだった。懐かしいセピアの写真から当時の生活の様子が垣間見られた。岡田さんの奥さん、奈美子さんが小さな子供を抱いている。山を登るのには、そうよ、荷物や子供は弟さんに頼んで、這って登ったわ、と言った。そっぽを向いた兄さんと栄子さんのツーショットはみあたらなかった。


でもね、兄さんは、父親、好美さんの晩酌のために山を下りて小田酒店に酒を買いに走ったんだってねぇと、話題を変えた。


そそう、子供の足で片道小一時間、山道をくだった樫原谷にある小田酒店にまで行った。酒屋は、父の姉、叔母の文子さんの嫁ぎ先だった。それもねぇ、酒は水枕に入れてもらって持ち運びしていたでしょう。一升瓶なんかだと、夜は道が見えないし、もともと足元が悪いから、転んだら割れちゃうよね、お父さんのお酒への執念よね、よく考えたものだわ。ゴム製の水枕なら、落としても、くねってなるだけで大丈夫だもの。


ゴム製の水枕なら、ゴムの臭いがするのじゃないか、と余計な心配をした。繰り返し使えば、そうか、ゴムから酒に臭いが移るのだろう。岡田さんから、水枕で酒を買いに走ったエピソードは聞いていたから、兄さんは、大変な思いをしたんだ、と栄子さんに再び念を押したら、そこで意外な事実が判明した。


いやね、兄さんがひとりで酒を買っていたように言うけれど、兄さんが中学を卒業したら、ふたつ違いの長女、京子さんの番、京子姉さんは数年後に徳島の縫製会社に就職して家を出たのよ。次々に上の兄さんや姉さんが家を出ると、水枕はわたしにまわってきたのよ、下の妹、弟はまだ小さいし、ね。いやあ、大変でした。あの頃の辛さを思うと、どんなことでもがまんできるわ、と言った。


今回、岡田さんが5人兄妹の長男だと知った。もうかれこれ40年のつきあいなのに、知らないことばかりで驚いた。中学を卒業して東京の深川は木場の材木問屋に就職できたのは、中学の武市先生が世話してくれたお蔭だ、という。そうか、それで材木商をやっているんだ。徳島出身の材木問屋は、数多いと聞く。関東の材木商の半分は、徳島出身で占められているというのは根拠のないことでもないらしい。先人が東京で成功すると、次から次と兄弟や親類を東京に呼び寄せるのだ。それで広がったのかもしれない。岡田さんもその一人だ。



岡田さんは、15歳の春、餞別がわりに親が買ってくれたボストンバッグひとつ持って家をでた。身長150センチと小柄だった。単身、東京へ出向くのだから心細かっただろうに。有難いことに武市先生も一緒に上京してくれた。小田酒店付近に樫原谷のバス停があり、そこで武市先生と合流した。穴吹駅から汽車に揺られて故郷を後にした。見送りはなかった。


住み込みで月給5000円、ひと月でたくさん蓄えができた。東京は、生活が楽だと思った。以来、材木を担いで50年、頭は使えないから体を動かすしか能がない、とご本人は照れ隠しをするが、いやあ、要領がいいし気が利く。なかなか地頭がいいのだ。それで兄妹思いなのだ。


貧しい暮らしから抜け出るために都会にフックをかけてそれを命綱に親兄妹を手繰り寄せる一途さと、冒頭に書いた。それは次のようなことなのである。


長女、京子さんが寮に住んで徳島の縫製工場に勤め出したが、岡田さんが里帰りした時、美容師がいいんじゃないか、と彼女を東京に誘った。京子さんも兄を信じて、兄さんが務める材木商に住み込みで入った。そこで夜間の美容師専門学校に通って、免除を取った。現在、岡田さんの家の近くで警察を定年したご主人とひとり息子の3人で幸せに暮らしている。とても仲がいい。


大阪・寝屋川に住む末の妹、道子さんは、中学3年に進級する直前に、岡田さんが呼んだ。学校まで歩いて片道2時間もかかる実家の木屋平からでは、高校は通えないと心配したのだ。岡田さんは、当時住んでいた草加のアパートに住まわせて学校に通わせた。高校は、都内にある私立桜ヶ丘女子高に入れた。成績がよかった道子さんは、高校を卒業すると三和銀行に入行した。


道子さんは、上司に大阪勤務を申し入れて適えた。大阪では、出稼ぎの父親と一緒に暮らした。縁があって、故郷の木屋平近辺に住んでいた顔見知りの青年と結婚し、現在は、寝屋川に住んでいる。実弟の太さんもご近所だ。


いやあ、あれこれと岡田家の歴史をかけあしで触れてみた。自分が満足に学校にいけなかったから、せめて妹らにはまともな教育をうけさせてあげなきゃいけない、と思ったのだろうか。岡田さんが、とても立派に見えてくるじゃありませんか。



さて、妹の栄子さん宅で小一時間ほどひとやすみしたら、運転疲れの残る息子を残して、そう、もうひとつの山に向かうことになった。ここからが本番なのだ。セルシオは、再び、徳島の県央部、美馬市に向けて走り出した。まず徳島市内に行って、そこから南西に進路を変え、県内唯一の村である佐那河内村を突っ切って、卑弥呼伝説のある神山町を貫いた。神山町は、温泉が湧くし、雨乞いの滝なんかがある。そこにはすだちや藍が自生するらしい。余裕があれば、そんな山を歩いてみたかった。


しかし、もう2時間以上も走っている。地図を見ると南に流れる川は、鮎食川という。その川が途切れると、斜面が北に南に入り組んで足下の崖際も右左に入れ替わった。凄い山だ、といったらまだ序の口だと岡田さんがすまし顔だ。どこまでいくのだろうか。道は、険しさを増してきた。


登って下って峠を越え、右に左に曲がって坂を下り、渓谷沿いを縫ってさらに先を上って九十九折に揺られてまわって…みたいな感じなのだ。神山町から南方向に山を越え、山頂付近から一気に下りに変った。方角も北上に進路をとっているようだ。トンネルを越えると、視界が開けた。


しだれ桜で知られる川井峠だという。車を下りた。西側の崖は大きく窪んでいる。谷底なのだろうか。正面に日本百山の剣山を挟んで一の森、赤帽子山、丸笹山がなだらかな稜線を形成していた。幾重にも連なる峰々は、淡く青みを帯びて霞んでいた。



 :川井峠から剣山をのぞむ、岡田さんの生家は、どのへんだろうか

どこ、木屋平はどこ?


もうこの辺も木屋平というのだけれど〜。木屋平でも三ツ木平の上、向こう樫原というところだから、あの辺かなあ、と遠くを指差すが、見当がつかない。まだまだ先を行く。日がだいぶ傾き始めてきた。


岡田さんが、語りだした。


いやあ、学校が遠いでしょ、山の尾根を上り下りしながら片道約2時間だもの、だから途中でいやになちゃうのよ、崖際を横にそれてさぼった。弁当を食った。弁当たって芋や麦飯、それでも贅沢だった。これからいくことになるが、学校は、木屋平にある三ツ木小・中の複合学校だった。クラスは26人、6人が死んだ。そのひとりの墓参りにいくつもりだ、という。



 :木々が美しい、美馬市木屋平付近


岡田さんの生家が残っている美馬市木屋平の「向樫原」、埼玉に戻ってGoogleマップで浮かび上がったのは、おおよそ地元の人でもそうそう足を踏み入れることのない勾配の急な峡谷だった。検索の窓に「木屋平三ツ木」と入力したら、入り組んだ道や幾筋もの川を描いた詳細な地図が浮かび上がった。ああ、これでやっと原稿が書けると、安堵したものだ。


西方に目を転じれば、さきほど確認した標高1955mの剣山の西側に「祖谷渓」(いやけい)が控えているのが俯瞰できた。平家落人伝説やかずら橋などでよく知られている。さて、反対の東側にある「向樫原」となると、険しい山岳の条件は似ているのだが、それが地図のどこにもみあたらない。「樫原」というのが出てきた。この位置の「向こう」なのだろうか、と思った。



 :友人の墓に花をたむける岡田さん、友達思いなのだ。

なだらかな斜面に、まばらな人家から現れた。そこに村の男衆数人と立ち話をした。岡田さんのことを覚えているらしい。どこか人懐っこさにあふれている。初対面と思えぬほど親しみを感じた。こんなところが阿波の人のやさしさなのだろうか。路上での話声が響いた。足が不自由な中年の女性が杖をついて坂をのぼってきた。岡田さんの姿を認めて、「向樫原の岡田さんかね」と興味深げに顔をのぞきこんでいた。


数分のやり取りだったが、別れ際、はっきりした口調で「元気にしぃーや」という言葉をなげかけた。京都弁かなあ、と耳を疑った。


このあたりが、「樫原」だという。すると、「向樫原」はどこ?


今度は、村の男衆が、あそこだよ、と正面の屏風のような岩山の8合目付近を指さした。なぜか、山の斜面が垂直に抉られている。白っぽく見えるのは、道路かも知れない。「樫原」から下って、谷合の川を越えて対岸に渡り、そこからジグザグに山道を駆け上がる。途中、国の重要文化財の三木家住宅に寄り、武家屋敷の建築様式や、三木家の由来など1700年も昔の故事を第28代の当主様から聞いた。ほのかにひとのよさそうな、もっと話がしたくなるようなそんな香気に満ちた印象だった。生粋の阿波人なのだろうか。そこの少し山の上に岡田さんが通った旧三ツ木小・中学校の跡地が整備されていた。花は終わったが、周辺にしだれ桜が植えられていた。



 :重要文化財の三木家住宅、武家屋敷だった

いい場所だ、と素直に思った。


岡田さんが住んでいた子供のころは、こんなに杉の木がそだっていなかった。道も開けていないのだ。皮肉だが、人が山から去って山に住まなくなったら、幅の広い道路がついた。公共工事なのだろか、森林の伐採の取り付け道路なのかもしれないが、と彼は複雑な表情を見せた。



さて、そこからついに未踏の「向樫原」へいく。川底のような山道をのぼった。車だから30分ほどで着いた。岡田さんの家の周辺が一変していたようだ。這ってのぼった山道が消えてない。家があるはずの山の斜面が垂直に削られていた。斜面は45°の勾配があって、道路の脇から、どうやってのぼっていいのか見当がつかないのだ。這っても登れない。



 :樫原から向こう樫原を見る、右手寄りの8合目付近


 :険しい山道に、昔のバスが捨てられていた

岡田さんは、古巣を無くしたツバメのように下がってみたり、近づいたり、斜面に足をかけたりしてウロウロしていた。あそこ、あそこだよ、と指をさしても家の影すら見えないのである。しかし、振り返ったら、「樫原」の集落が眼下に西日をうけて輝いて見えた。


帰ろう、とぼくが言ったら、なんだか悲しそうな表情をする。なので、じゃあ、また来よう、と言ったらそれでも名残り惜しそうだった。石臼は、次回にしよう、よ、とダメをおしたら笑いが弾けた。静寂な木間をぬってぼくらの笑い声が、響いて木霊した。山の上のご尊父のお墓まで届いただろうか。



 :う〜む、這ってものぼれない。ここから登ったーと指を差す岡田さん


 :振りかえると、樫原の集落が西日をあびていた、のびやかな光景だ



岡田さんが父親のことについて話し始めた。奥さんの奈美子さんがその話をフォローした。


それがねぇ、喜平爺さんが数えで99歳になるので白寿のお祝いに、久しぶりでその年の暮れから兄妹や親せきが集まった。その時、父親は大阪での出稼ぎのため妹の道子のところに同居していたから、女房と子供2人を乗せた車で大阪にいた父親をピックアップして、この山の実家に戻った。


おじいちゃんのお祝いには親せき15人ほど集まってにぎやかだった。厳寒の真冬で薪ストーブを炊いていたが、人が大勢だと寒くはなかった、と美奈子さん。そして1月4日だった。近所で不幸があってその葬儀にみんな行ってしまった。すると、体調が思わしくなく伏せていた父親が、ゴーゴーと異常なほどのいびきを繰り返していたので、おかしいなあ、と感じた。意識もはっきりしない。


告別式から帰った男衆が、朦朧とした父親を木枠で組んだ荷台に乗せて山をくだった。酒店付近に止めていた岡田さんの車に乗せて徳島の救急に担ぎ込んだ。父は、1月7日に返らぬ人となった。享年52歳、肝硬変だった。病院から再び、車で山に戻った。遺体を木枠の荷台で担いで山を登った。爺さんに、ひと目あわせてやりたいと思った。昭和49年のことだ。葬儀には、その山をのぼって100人もの弔問客が列をなした。その爺さんは、それから3年後に100歳越えの長寿を全うした。水枕が残された家は、急に寂しくなってしまった。


さて、帰りは、穴吹町を通って道を急いだ。阿南の妹さんの家についたのは、夜9時半をまわっていた。埼玉から徳島まで8時間半、阿南市から木屋平までの往復が8時間半、長い一日が終わった。都合17時間を越えるロングドライブだった。


栄子さんの食卓には、サザエやカツオのたたき、珍しい鱧など海の幸や手作りの料理が並べられていた。好物ばかりだった。すだちは、どの料理にもあった。フレッシュなすだちで疲れが癒された。が、頭は冴えて眠られなかった。阿波の国、どこへいってもひとの優しさに満ちている。


明日も忙しくなりそうだ。みんなに挨拶をしなきゃならないでしょう、お墓参りや病気見舞い、親類の訪問など、スケジュールはどうなの、と妻の奈美子さんは気をもんだ。確かに、明日は、恩師を囲んで中学の同窓会が予定されている。さて、次にどんな出会いがあったことか、次回をおたのしみ。



 :穴吹を通って吉野川に出た、日が暮れかかっていた