第99回 「感謝で涙が出てしまいそう」−タイでの旧友との再会−


 ゴールデン・ウィークの連休を利用して、タイに行ってきました。このタイの旅は、きっと私たちにとって一生忘れられない旅となるでしょう。妻に言わせると、「感謝で涙が出てしまいそう」なほど、タイにいる旧友たちから暖かいおもてなしを受けた旅でした。


 その旧友のひとり、タイ人の女子学生Smittieに出会ったのは、今から31年前の1982年の夏、Stanford大学の大学院に留学した時のことです。初めての出会いは、まだ学期が始まる前、9月末から始まる新学期に備えて、学部の事務室に書類を取りに行った時のことでした。アメリカの大学で迎える初めての授業の前、期待と不安が入り混じっていました。一人でアメリカに来て、同じような心持ちだったに違いないその20代後半の女子学生は、学部の前の芝生の明るい陽射しの中で、しかし、人なつっこい笑顔で自己紹介してくれました。それから2年間、彼女とは同じコミュニケーション学部のクラスメートとして、ともに学ぶことになります。

 私が入った大学院のコースは、Applied Communications Researchといって、コミュニケーション理論を使いながら、新たな習慣や技術を社会に普及させる実践者を育成するコースです。コースは、学生10人ほどのこぢんまりとしたコースで、アメリカ人5人、タイ、インド、中国、台湾、グァテマラ、日本からそれぞれ一人ずつといった構成でした。


 そのうち自然と英語が母国語でないアジアの学生が、授業で課されたHomeworkや予習などをこなすために図書館や教室に集まり、助け合うようになりました。Smittieは、タイの地方の農村の栄養状態を改善するという高い志をもってStanford大学に学びに来ていたこともあって、英語もうまく、とても熱心に勉強をしていました。一人で大学の学生寮に入り、きっと心細いことも数多くあったと思いますが、あの可愛い顔の女の子のどこにこんなに強い意志が隠されているのだろうかと思うほど、大学で一生懸命に勉強していた姿を思い出します。


 彼女とは、その後、1988年に東京で再会したのを最後に、ずっと会う機会がありませんでした。そのころ、彼女に大きな転機が訪れていたことは、今回の再会で知りました。


 Smittieは私たちのために、今回のタイ旅行の旅程をすべてアレンジしてくれただけでなく、バンコク市内とアユタヤの観光ガイドの手配、さらにはその費用まですべて持ってくれました。さらには、彼女の勤めるMahidol大学と自宅のあるバンコク郊外の観光地を見せるために大学の公用バスを一日借り上げて案内してくれたのです。


 彼女は現在、バンコク市内の喧騒を離れて、バンコク郊外のゴルフ場のコンドミニアムの1フロアの4室を買い上げ、God Mother, Half Sister (異母姉), 養女の娘さんと一緒に暮らしていました。これまでまったく知らなかったのですが、現在、一緒に住んでいる方とは別の異母姉が1988年ころ亡くなり、その娘さんを養子に迎えたようです。Smittie自身は結婚していません。こうした変化は、彼女がSatnford大学で修士号を取得してタイに帰った4年ほど後に起きたようです。ですから、東京で再会した時は、彼女にとって大変な試練の時期だったと思われます。


 彼女は多くを語りませんが、彼女のご両親は、タイの大変な名士であったようです。お二人とも亡くなっていますが、お父様はバンコクの知事、お母様はチェンマイ王室の血を引く方だったようです。God Motherとして一緒に暮らしている方も、以前、Mahidol大学の要職にあられた方で、タイの"Lady"の称号をもたれている方ということが分かりました。


 彼女は、その後、オーストラリアのQueensland大学から論文で博士号を取り、研究成果を積み重ねて、自身もMohidol大学の要職を務める立派な研究者となりました。シリントーン(Sirindhom)王女にも目をかけられる存在であるようですが、彼女は、タイの王室や政府をとりまくPoliticsからはできるだけ距離を置いて、研究に取り組みたいといった気持ちのようです。「これからは、できるだけ自宅でゆっくりと静かに研究生活を送りたい」と言っていました。それでも、私たちをあちこち案内してくれる彼女の携帯電話には、彼女の研究室の研究者から何回も電話がかかってきていました。



 写真は、Smittieとの再会の最後の日、夕食をともにしたレストランでの写真です。黄色のブラウスを着ているのがSmittieです。もう、"Smittie"と呼ぶほどお互いに若くはないですが、若いころの愛らしい顔の面影が残っています。気持ちの良い夕風に吹かれながら、みんなで食事を楽しんだ後、この場所を最後に今回の再会のお別れをしました。お別れをするとき、妻が"You make me cry."と言いました。本当にその言葉はあたっていると思いました。私も胸が熱くなりました。


 もう一人の旧友は、私が1993〜96年の間、OPCW(化学兵器禁止機関)という国際機関をつくる仕事に参加していた時の同僚、インド人のAnilです。以前、「第38回 記録に残しておきたい話(2)−国際機関をゼロからつくりあげたある英国人の話−」で書きましたが、このときは、決められた期間内に、条約の執行のために必要となる機能を備えた国際機関を作り上げることで皆が必死でしたから、出来上がった国際機関にありがちな功名の奪い合いというものとは程遠い、出身国を超えたスタッフ間の結束がありました。お互いに助け合い、皆、朝早くから夜遅くまでよく働いたものです。ですから当時の同僚とは、今も国境を越えた"戦友"としてのお付き合いが続いています。その"戦友"の一人のAnilが、在タイのインド大使となっているのです。


 Anilも会うたびに、自分がタイにいるうちに、是非、タイに来いと言ってくれていました。(彼は、奥様のDeepaが現在、駐日インド大使であることから、彼は、最近、何回か日本に遊びに来ていたのです。)そして、タイに来たら自分の公邸に泊まれと。それでも、さすがにずっと公邸にお世話になるのは気が引けるし、ずっと英語、毎日インド料理というのも、正直ちょっと気が重かったので、2日ほどお世話になりたいと連絡したら、バンコクにいる間は泊まれ、と命令口調です。じたばたしてもしようがないので、結局4泊5日の旅行中、ずっと泊めていただくことになりました。


 実際にタイに行ってみると、公邸では気持ちの良いゲストルームに加えて、執事や料理人を始めとする公邸のスタッフには、ティータイムのお茶や、毎朝、異なるインド・スタイルの朝食を、また、大使館のスタッフには、公用車での送迎だけでなく、空港の搭乗口から搭乗口までの出迎え、見送りまでしていただいて、入出国管理や税関の行列に並ぶこともなし。まるでVIP外交官のような待遇です。Anil自身も、週末や彼の公務のない時間には、大使の車でレストラン、ショッピングセンターやタイ・マッサージまで同行してくれて、大変なおもてなしを受けました。そして、何故かAnilが招待されたパーティにも連れていかれました。



 このように、今回のタイの旅は、本当に「幸せ者」の旅となりました。国籍を越えた友情のありがたさと同時に、「友情」の普遍性といったようなものを感じたものです。日本に帰ってきてからも、何日間も心の中に何か暖かいものが残っていました。


 また、今回の旅行で、今後の人生でずっと心がけておくべきことをSmittieの口にした一言から学んだように思います。彼女は、こう言いました。「この歳になると、友人との一回一回の出会いを、かけがいのないものとして大事にしないといけないと思う。後悔のないおもてなしをしたい。」


 Smittieから、また一つ、大事なことを学びました。





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