◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2013/03/27 http://dndi.jp/

NYの「緑の風」

 ・丹下健三氏の生誕100年の佳節によせて
 ・震災の復興は、丹下氏の「都市軸」に学べ

〜連載〜
■塩沢文朗氏の「原点回帰の旅」
第98回「春が来て・・・」
■滝本徹氏の「つながり力で地域活性」
第24回「健幸まちづくりと観光交流」
■山城宗久氏の「一隅を照らすの記」
第53回「ふるさとの絆」の巻
■比嘉照夫氏の「甦れ!食と健康と地球環境」
第68回「EMコンクリートの耐久性について」
■松島克守氏の「世界まるごと俯瞰経営学」
第26回「アベノミクスの危うさ」
■黒川清氏の「学術の風」
日経「人間発見」のわたし:「「出る杭」が日本を変える」

DNDメディア局の出口です。「緑の風」というコラムを書いたのは、ニューヨークで聖パトリックデーに遭遇したからだ。パレードは春の訪れを告げる。冬枯れのセントラルパークの木々がこの日を境に一気に春めくのだ。


その日は終日、暖かかった。陽気なニューヨーカーらがコサージュや帽子、ジャケットなど緑色の好みのアイテムを身にまとって沿道を埋めた。緑、これがアイリッシュカラーなのだ。このパレードの歴史は古く、アイリッシュの兵隊が1762年の3月17日にニューヨークの町を行進したのが始まりで、ここが世界で一番大きなパレードが行われる場所である、という。常盤新平のいうニューヨーカーのパレード好きは本当だ、と感心した。


みんなうきうきして楽しそう。まあ、仮装行列もあれば、鼓笛隊のようなマーチンバンド、民族衣装の楽隊など、次から次と趣向を変えて繰り出すのだから、見ていて飽きないし、顔見知りがパレードに参加していたとしたら、沿道の人をかきわけて前列に陣取るというのはどこの国でも同じ人情というもの。路上パフォーマンスといえば、まあ、阿波踊りとか、ヨサコイ祭りと似ている、いや、ずいぶん趣が違うか。



 パレードのひとコマ


 あこがれのティファニー


 セントパトリックデーの少年と緑の風船


 新装のトランプタワー

5番街とセントラルパークに面した宿泊先のホテル「The Sherry Netherland」前は、格好のビューポイントらしく身動きが取れないほどごった返していた。ぼくは、アイリッシュカラーの一群にまぎれこんで遠慮がちにカメラチャンスをうかがっていた。目に止まったのは、白人の親子だった。男の子は、父親に手をひかれてうれしいそう。緑の帽子に緑のマフラー、風船を手にしている。が、沿道を幾重にも人垣が取り囲むので子供の身長では爪先立ちしてもパレードをみることが難しい。


父親がその子を肩車しようとした。その一瞬だった。男の子の手から風船がするりと抜けて飛んでしまったのだ。ああっ、という彼の声は楽隊の演奏にかき消されて父親の耳元に届かない。父親は、気づいていないのである。


パレードどころじゃなかったのだろう。男の子は、首を後ろにむけたまま緑の風船の行方をしばらく目で追っていた。すぐ横で、ぼくも同じ方向に顔を向けていたら、ファインダー越しに男の子と目があった。なんと愛くるしいのだろう。こちらを見ている。風船は遠くに行っちゃったけれど、風の勢いは凄かった、というような口ぶりだ。ぼくにナチュラルな笑顔をくれた。端正な顔立ちのいい子だ。


ビル風にあおられた風船が青い空にまばゆかった。ぼくのカメラは、ホテルの緑のファサードを背景にその男の子と上空に舞う風船をアングルに捉えていた。決定的瞬間かもしれない。やがて風船は吊り上げられるように鋭角的に舞い上がり、やがて新装のトランプタワー方向に吸い寄せられるように消えた。それがこの一枚の写真だ。澄み切った空に緑の風が見えたような気がした。



 冬枯れのセントラルパークはこの日から春めく


ニューヨーク訪問は、建築家、丹下健三氏の取材目的だった。建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞の受賞が決まり、その授賞式がニューヨークで行われた。


ニューヨークに着いた翌朝のニューヨークタイムズ紙は、1面の左肩に「隣人がまたひとり死んだ」というようなルポが掲載されていた。流行のエイズで友人を失ったという内容で、原因不明の死の病に対する恐怖感が綴られていたのだ。


1981年の最初の発見からわずか10年で感染者が世界に100万人まで広がったのだから無理もない。日本でエイズが大きく取り上げられるのはそれからまだ先の事だった。


1面の真ん中の囲み記事は、Cyber-cop登場の記事だった。電脳警察がチャットを巡回して見回る、という内容だった。パソコン通信上に設置された子供向けのチャットに大人がなりすまして参加し、悪さをしているという告発に対して、ニューヨーク市警が取締りに乗り出すのだとあった。画面を破る握り拳に手錠というイラストが印象的だった。インターネットの普及以前に、パソコン通信上のチャットで日常的に意見交換のコミュニティが存在していたのである。




 建築家、丹下健三氏

1987年3月中旬の頃である。ニューヨークに事務所を置く丹下健三都市建築研究所のNYオフィスを訪ねていた。取材といっても、事件取材のような難しい何かをするわけでもない。フジサンケイグループが丹下氏をフォローしていた。産経の編集局長もお祝いにかけつけた。フジテレビのニューヨーク支社駐在のアナウンサー、松尾紀子さんがカメラクルーを従えてインタビューに来ていた。そのコーディネートもした。

インタビューは、米国向けの番組で流れた。日本のメディアは、ぼくらだけだったが、ニューズ・ウィーク誌は、丹下氏の過去の作品を紹介しながら、「日本の小さな巨人」と評した。小さな巨人とは、うまい表現だと感心した。日本のメディアは、建築文化をないがしろにしているように思えた。



 ニューヨークの丹下先生の事務所で、丹下先生とフジテレビの松尾紀子アナ

当時、プリツカー賞といっても社会部のデスクは、えっ?プリッツ?なんて口にして、説明に窮した。いやあ、手強い存在だった。わからないことは人の責任で、わかりやすく説明しろ、と息巻くのだ。そっちが勉強すれば、と言ってやりたかった。なんでニューヨークなんかに行っているんだ、そんな冷ややかな態度が露骨だった。電話で吹き込んだ原稿は夕刊用で、65行ほど送ったのに20行に削られてベタ記事扱いだった。


ニューヨーク発、それも世界級の記事は、無念にも不発に終わった。同じ夕刊に栃木県の民家全焼の記事と扱いが同じだった。それはどう考えてもおかしい。その結果、「ニューヨーク=出口俊一記者」のゴシックだけが目立つことになった。ニューヨークまで飛んでわずか20行足らずの記事に不満を口にしたことを憶えている。ニューヨーク発も地方発の豚小屋の火事も同じレベルなんですか、と皮肉を言った。事件がもっぱらの先輩記者らが、だんだんアホに見えてきた時期でもあった。


プリツカー賞は、プリツカー家のハイアット財団が授与する表彰制度で1979年の第1回のフィリップ・ジョンソン氏から数えて丹下氏が9人目、丹下氏は日本人初の受賞となった。日本人の建築家としては、東大丹下研究室の流れを汲む槇文彦氏が1993年に、安藤忠雄氏が1995年、金沢21世紀美術館を手がけた妹島和代さん・西沢立衛氏がパートナーとして2010年、そして本年の受賞は、被災地に「こどもみんなの家」を設計した遅咲きの建築家、伊東豊雄氏に贈られた。



さて、今年は、丹下先生の生誕100年にあたる。終生、ご自宅を設計せず自宅という建物に住むことがなかった。思えば、新聞記者として多くの人にお会いする機会を得た。そのなかでも丹下先生は、一級の人格者でした。90歳を超えて体調を崩されながらも夜遅くまで図面に向かって線を引いていた。これがぼくの一番の楽しみなんだ、と奥様にお話しされていた。


「建築家は、その時々の都合で仕事をするものではない。都市の未来に責任がある」。お静かな丹下先生のささやくような物言いだが、その中身は毅然として揺るぎがない。他人の言動に惑わされるような毀誉褒貶はなく、常に本質を見抜いていらっしゃったように思えるのだ。ご自分の価値観を持つ、それは知識人の要諦のひとつと思うのだがどうだろうか。


世界のタンゲとの異名は、都政をはじめ、列島に吹き荒れた革新ブームのあおりで海外に活路を求めたことによる。苦しい冬の時代を耐えたのだ。世界のタンゲは、国内の公共的建築から締め出された怪我の功名だった。そのことはあまり知られていない。


パリやローマ、シンガポールなど海外をご一緒した。パリでの丹下健三展は、圧巻だっ た。シラク大統領夫人やジャックラング文化大臣が足を運んで、絶賛した。世界8ケ国のゴールドメダル受賞、こんな栄誉にひたる世界的建築家は数少ない。この話にひとつ加えると、先生が嫌いなものはなんだったか、赤いトマトと太った女性…太った女性は冗談にしても、これらの数々のエピソードは、ぼくの生涯の宝だ。もっと丹下先生に聞いておくべきことがあった。身近に接してもらっていると、その偉大さが見えなくなるのだろうか。


門前の小僧じゃないが、ある日、丹下先生が、ぼくを「Almost architecture」と称してくれた。有難いコメントだ。いくら感謝してもその感謝の言葉がみつからないのである。



もう少し丹下先生の事に触れたい。東日本大震災の復興に都市デザインの力量が問われているのだが、実際は少しもはかどらない苛立ちが先行する。安倍首相が、福島を訪れて漏らしたのが、この2年間、2011年のままだというコメントだった。


その一番の遅れは、震災被災地復興の都市デザインが描けていないからだ。政府筋にそのような計画がなかったからなのか、建築家にその提案力や能力が欠如していたからなのか、ぼくはとても残念に思う。


南北に走る三陸沿岸、内陸を東西につなぐ都市軸をベースにした丹下建築の手法をなぜ、参考にしないのか。震災被災地はひとつなのだから。丹下先生がご存命ならば、どのような計画を提案されたか。過去の都市プランから浮かぶのは、「都市軸」の概念である。


丹下氏の広島平和記念公園。通称100m道路といわれる広島市を東西に貫く平和大通りと南北軸線上に、慰霊碑と原爆ドームを配し、十字型に都市軸を通した都市的スケールの大きい復興計画を描いた。単に公園のみを図面に落としたわけではなかった。ここに震災被災地の復興の具体的なヒントがあるのではないか。


東大の丹下研究室が提案した「東京計画1960」は、いまの東京湾臨界副都心計画の原型だ。都市の発展スピードに合わせて計画されていた。


要約すると、その方策は東京湾上を東京から木更津へ直結するハイウエイ式の「都市軸」が基本とする。脊椎動物の背骨の成長プロセスを例に説明し、都市軸という新しい概念を導入することによって、東京の構造を求心型放射状から線型平行射状に変革してゆくという。そこで、都心のエネルギーを東京湾上に伸ばしていってその両サイドに住宅を建てていくという成長可能な都市のコンセプトを提案していたのだ。これも大いに参考にすべきだ。


海外事例では、スコピエの都市計画が知られている。1963年に起こった大地震でスコピエは都市の7割が崩壊し、死者1100人、負傷者4000人を数えた。国連のUNDP(国連開発計画)が復興計画の国際指名コンペを実施した。指名の6人であらそわれ丹下案が1等となった。


66年から72年にかけて丹下先生を中心とするチームの設計による再建事業が行われ、ビルの立ち並ぶ近代都市へと生まれ変わった。マザー・テレサがこの町で生まれたのはよく知られている。その時、MoMA新館や金沢の鈴木大拙館の設計で注目を浴びる建築家の谷口吉生氏、磯崎新氏、渡辺定夫氏らが現地スタッフとして派遣された建築家が都市計画を意識し始めた時代の快挙といえた。


ここでは「東京計画1960年」でも提案した高架プラットフォームにおける道路交通と歩行者の分離を採用した。通学の列に車が突っ込んで幼い児童が犠牲になるという愚はこれで防げるのである。東日本にぜひ生かしたいアイディアではないか。人のいのちを尊ぶ哲学的アプローチ、平和を愛し国境を越えて人類の共存を叶える都市建築プランは、それは丹下建築に学ぶべきなのである。


ぼくは、東日本の震災復興について、丹下氏の「都市軸」の理念を引き継ぐ都市再生プランを国際コンペで実施してはどうか、と提案したい。三陸沿岸の被災地が、県市町の合成区域単位で練った計画をも反映させうるべく東西南北にダイナミックな「都市軸」を描いて明日への希望をつないでもらいたい。


「建築家は、その時々の都合で仕事をするものではない。都市の未来に責任がある」との丹下先生の言葉を忘れてはならないと思う。


これらのことは、2011年4月21日配信メルマガ「動け!東日本復興計画:丹下健三氏の『東京計画1960』に学ぶ」で主張した。



さて、冒頭の「緑の風」。確か、世田谷区か目黒区のタウン誌の編集長からの依頼だったと思う。NYの聖パトリックデーをモチーフにコラムを書いた。その原稿をもう一度、読んでみたい、と思い立って探したが、その原稿が見当たらないのだ。当時はワープロだしね。フロッピーのどこかを開けば原稿が見つかるだろうけれど、ワープロがないからお手上げだ。


どうしたことだろうか。ワープロで打った原稿と、掲載されたコラムの記憶が鮮明なのに、肝心の原稿が見つからない。書類棚を漁っていたら、たくさんの過去に引き戻された。新聞記者を目指していた学生の頃に書いた練習用の作文の束、添削の朱が入っていた。特選に入った学生論文や、英語のスピーチ原稿だって残っているし、栃木のタウン誌に月1回、3年間書いた36回分のコラムも収納されていた。記者時代に手がけた連載記事の切り抜きもファイルされている。雑誌やアルバイト原稿など、ペンネームで書いた本の原稿だって原稿用紙のままの体裁で保存されているのである。が、「緑の風」の行方が分からない。


一昨年6月に東京・東日本橋から越谷のマンションに引っ越しする前は、見た記憶がある。2ページ見開きで、右上段にニューヨーク市街のパレードの写真、その下にタイトル、そして肩書きと名前が配置されていた。


手掛かりは、都内のタウン誌、女性の編集長というキーワードだ。ネットで調べると、自由が丘のタウン誌「ぼんじゅーる」が浮かび上がった。編集長は、川島章子さん、そうだ、ぼんじゅーるかもしれない。電話してみた。ぼくのことを覚えていた。当時、産経新聞の都内版でタウン誌編集長のリレーコラムを連載した。その担当になった。月1回、懇談会も開いた。デスクは、アイディアがあふれる名編集長の阿部雅美さんだった。


そういえば、何度か、産経新聞社にお邪魔しましたね、こちらのタウン誌は7年前に廃刊し、いまは地元の商店街のタブロイド紙のお手伝いとしている、と川島さんは言った。あいさつはそのくらいにぼくの要件を伝えた。1987年の4、5、6、7号あたりだと思います、と告げた。書庫にバックナンバーが年代ごとにひとくくりになっているから、それを紐解いて調べてくれる、という。小一時間おいて再び電話した。


どこか、ほかのタウン誌じゃありませんか、見当たらないです、との返事。いやあ、もし、コラムを書いてもらったのなら、コラムのタイトルを聞いて頭をかすめるものなのですが…という。川島さんもご自身の記憶にこだわった。そうなのね、ひょっとしたら記録より頭をかすめる記憶の方が確かなのかもしれない。


「緑の風」の行方は、そこで潰えてしまった。



1987年という年は、日本経済がオイルショックから立ち直って土地高騰のバブルがひたひたと押し寄せていた。熱狂バブルまで秒読みだ。東京の地価上昇率は1年で87・5%、株価が2万5000円と急騰し、にわかに財テクブーム起こっていた。


円相場は1ドル121円台になり、外貨準備高が西ドイツを抜いて世界一になったのもこの年だ。国鉄の分割・民営化でJRグループが誕生した。その秋には、マイケル・ジャクソンが後楽園で来日コンサートを開きファンが熱狂した。世界の人口が50億人突破。中国の天安門事件はその1月に起きていた。花開く少し前の、力をためているような時代状況だった。なにやら、いまの景況と似ているかもしれない。



 テロの標的にされたツインタワー


 ツインタワーのエントランス周辺の彫刻


 ツインタワーの展望台周辺から




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