DNDメディア局の出口です。あれからどうされていますか?
日光霧降高原の料金所にいた物静かな鴫原さんとか、控えめだった床屋のマスター、う〜む、名前を失念したけれどあの時ご一緒でしたでしょ、森さん? そう森さん、いまでも囲むのですか、あれを?
そんな懐かしい名前を口にすると、足立廣文さんは白くなった髪に手をやりながら、いやあ、出口さん、あれからいったい何年経っているのよ、もう30年、いや35年よ。いまは一般道になっているが、いろは坂や霧降の道路が有料だったのだからね、その鴫原さんも森さんもとっくに鬼籍に入られてすでにあれを囲むどころの騒ぎじゃない、と眉をひそめて、「考えてごらんよ、私も本日で満82歳になるのですから。歳月人を待たず、ですよ」と言葉をつなげた。そっか、時の流れは止められない。速いもんだ。
産経新聞の辞令をもらったのが確か24歳の頃、赴任先の日光通信部に5年間勤務した。足立さんとはそこで知り合った。輪王寺にお勤めしながら郷土写真家として名をはせていたのだ。日光の奥ノ院、そのすみずみまで教えを乞うたものだ。
もうすぐぼくは還暦なのだから、光陰矢のごとしをしみじみ実感する。驚きを通り過ぎて面食らってしまうほどだ。脳裏に昔の光景が刻まれたままだ。それをいきなり引っ張りだされるのだから迷惑なことかもしれない。だが、こんな風にあの当時の記憶が映像で映し出すように鮮明なのはどうしたことだろうか。
夏の朝は、日の出や赤紫のアザミの花を撮りにご一緒した。いろは坂を上る車のギアチェンジやブレーキ音が耳に残る。寒さ厳しい冬は、足立さんの地下の隠れ家で深夜遅くまで囲んだ。打ちっ放しのコンクリートの寒々しさや窓際の結露が目に焼きついている。麻雀仲間の鴫原さん、森さんらと熱く興じていた。つい昨日のことのようだ。日光を離れて30年、それ以来、ぼくの時計の針は、そこで止まったということなのだろうか。
足立さんに接していると、昔の記憶がリアルに甦る。年齢的には亡父と2〜3歳しか違わないのに兄貴のような打ち解けた当時の関係に戻る。心のひだにそっと触れるような安らぎを覚えるのだ。時間が過去にワープする錯覚は、そのためかもしれない。
節分祭を終えてまもなくして、久々にお声がかかった。足立さんのご自宅を訪ねるのは、たぶん日光を去って初めてのことだ。
◇
よく晴れ渡った。境内はキリリと底冷えがした。冠雪した男体山や女峰山が屏風岩のように連なる。遠望が視界に眩しい。2月11日昼前、社寺境内の一角に居を構える、足立さん宅に向かった。運転をかねて家人を同伴した。あの当時は、通いつめたところなのに一寸迷ってしまった。あっちこっち見回していると足立さんが、玄関先から庭の小道をこちらに向けて歩いてきた。人懐っこい笑顔をくれた。道端の沈丁花に目がとまった。
いやあ、懐かしいなあ。この屋敷の柱の数本は、ぼくが寄進したようなものだよね、足立さんは麻雀が強かったから、だいぶ授業料をお支払いした、という意味だ。足立さんは笑ってばかりいる。そんな冗談を飛ばしながら茶の間に招かれた。
炬燵に足を入れるなり、手紙にも書いたが、ぜひ、次に出す写真集のご協力を頼みたい、と切り出した。写真集の表紙裏の見開きページに載せる写真は、何を選ぶか、そこに文章を添えてほしい、と直裁的だ。
う〜む、これは参ったなあ。新聞社でもそうだったが、写真記者が撮った風景写真などを手渡されてそれに文章を添える、というイマジネーションを試される課題をこなしてはきた。簡単なようでこれが難しい。写真を超える文章を用意しろ、とデスクが言う。が、写真にかなわないのである。百聞は一見にしかず、の譬えの通り、百文は一見を超えないものだ。
考えあぐねていると、この写真集に「足立廣文」と「出口俊一」の名を刻んで、ふたりが生きた歴史の証明にしたい、と熱っぽい。足立さんは昨夏、胃がんを手術し定期的に放射線治療を続ける療養の身だ。年齢が82歳、この写真集にカメラ人生60年の魂魄をとどめようとしているかのような気構えだ。
だから、ふたつ返事で安請け合いできる代物ではないことを察して怖じ気づいた。足立さんが撮った数万枚を超えるリバーサルFilmスライドの中から、たった1枚を選んで文章を添えよ、というオファーは、ぼくには難し過ぎた。
あなたが文章のプロなら私は写真のプロ、真剣勝負といきませんか。どの写真でも構わない。写真vs文、さあ、勝負してください、と言い迫るような緊張が走った。これは果たし状だと思った。
ぼくは身構えたさ。少し腰が引けたのだ。断るなら早い方がいいと、用意された写真集の校正刷りに目を落としながら、断るタイミングをうかがって返事を渋っていた。その気おくれしたぼくの迷いを見抜いてか、足立さんは隙を突くように、こう言った。どうぞ、この私を、美しい日光を、助ける、励ますという気持ちでよろしく、と頭を下げたのだ。う〜む、参った。
その気迫に圧倒されたのか、戸惑いが吹き飛んでいた。ぼくは1枚の写真を指差して、う〜む、これが一押しでしょうかねぇ、と顔を上げた。すると、足立さんが、「いやあ、さすがだ…」と、ひと言口にして、押し黙った。ぼくもジーンと熱いものが込み上げてくるようだった。歳をとるって辛いことかもしれないが、付き合いの長い友人がいるということは有難い、と胸に沁みた。
◇
足立さんはこれまで2回、写真集を発刊した。昭和57年(1982年)、「東の聖地日光、日の豊穣、光の回廊」が処女作で装丁がしっかりした豪華本だ。定価は1万8000円。「花の会」の写真家、秋山庄太郎さんが、「郷土愛を写真という媒体を通し発表し続けた情熱の人」と発刊の辞を寄せた。「風の会」の写真家、緑川洋一さんは「この作品はただ単なる風景の引き写しではなく、そこには音楽家の父上から引き継ぐ美の旋律がある」と賛辞を贈っていた。
この年は、足立家にとって節目を迎えていた。ご自身の輪王寺奉職30年、ご夫妻の銀婚式、長女の成人式、そしてご長男、誠さんの宇都宮大学工学部卒業、就職とお祝い事がまとまって押し寄せていた。気がつけば、それからちょうど30年になる。不思議な巡り合わせだ。
2冊目は、写真集「NIKKO」足立廣文作品集で、紫紺の箱に朱の豪華な布張りの装丁だ。宇都宮のホテルで出版会を開いた。2007年10月21日だった。足立さんが77歳を迎えていた。ぼくは夫婦で参加した。
写真は選りすぐりの98点、ドキドキしながらページを開くと、錦秋の奥日光は中禅寺湖畔、兜の金色が映える武者行列、雨上がりに咲く石楠花、静寂な朱に染まる回廊、淡い八汐ツツジの微笑み、法要後の僧侶と雪の三仏堂、コントラストが映える杉並木、石畳が光る雨の境内、雪をかぶった野猿、 悠々たる雲と山の霧降高原など自然の美しさといったらその言葉がみあたらない。東照宮、輪王寺、二荒山など世界遺産の歴史的建造物や伽藍、彫刻などの人工美、それに伝統の祭りや行事を取り込んだ珠玉のアルバムだ。季節に咲く花々も風景にとけ込んで艶やかだ。こちらも定価が1万8000円だった。
これは日光をよく知る足立さんならではの作品というのは誰もが口にする。写真家の大竹省二さんは、「日光の津々浦々まで熟知した業績を印画紙の上にそれを焼きつけて記録した。作品の一枚一枚から日光への氏の愛情が感じられる」と絶賛した。日本を代表する写真界の大御所らが、巨匠の眼で足立さんの写真を論じていたのだ。大切にされている、と言った方がふさわしいかもしれない。
中禅寺湖の西端の千手ケ浜、夏の日にテントを張って家族で数日過ごしたという記憶を呼び覚ます1枚がある。兄妹二人が朝日を受けて手を結ぶシルエットが微笑ましい。
「人はどこからきてどこへいくの…」と、か細く呼ぶ娘の声が湖畔を微かに波立たせているかのようだ。いつまでも、おだやかに、と願うのだろうか。このゆるやかな瞬間が永遠に止まりませぬように、との祈りにも似てなぜか心を揺さぶるのだ。いのちは、ひょっとしたら写真の中に生き続けられるものなのかもしれない。
壮大な夏雲、渡る涼風、山裾に霞む大気、無数の生の鼓動、岩場を走るせせらぎ、湖畔の陰影、いずれも遠近を巧に取り込んだスケールは圧倒的だ。写真は、刻々と変化する自然の揺らぎの一瞬を切り取る、そんな神々しいほどの一期一会だ。つい見惚れて、その世界に引き込まれてしまいそうな錯覚に陥ることもしばしばだ。立つ波、吹く風、その瞬間、刻々と変化するのがこの世の常だが、変わらないものがあるとすれば、それは何か、と哲学的な命題を投げかけているようにも思えるのだ。
小田代ケ原を舞台にした「朝霧の中のアザミ」もインパクトがある1枚だ。陽が昇れば、朝霧がいっせいに立ち上る。その流れに数万本の野アザミが揺らいでいる。まもなく視界が開けくると、ひときわ目立つあの貴婦人がそばにズミの低木を従えて、 強い光の帯の中で金色に浮き上がるのだ。この妖しげな光の幻影を捉えるチャンス、足立さんの勘の冴えと技量のすべてがその瞬間に凝縮されている。
大竹さんは女性の美しさを捉えた第一人者だった。秋山さんは「花の写真家」、緑川さんは「風の写真家」というのなら、足立さんはさしずめ「光の写真家」だろう。そう確信すると、足立さんへのメッセージにピュアなイメージが強く広がっていく感じがしてきた。
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さて、それからがあわただしくなった。表紙裏に見開きで載せる、それにふさわしい写真選びには迷いはなかった。選んだのがこの写真だ。さあ、ゴングが鳴った。写真vs文、その戦いが始まったのだ。文章は呻吟した。が、弾むような気持ちでペンが走るように動いた。1枚の写真から、ある種の幻想に支えられていくつかの文字が紡ぎだされていった。
幾億千万年の古代、その残像をひきずる奥日光・戦場ケ原に夜明けは近い。光の恵みを渇望する白いワタスゲの群生、輪郭を現わした1本の鮮烈なツツジ、その華やかさは圧巻だ。悠久の時の流れに抗せず、その瞬間を待ち続ける永遠のいのち、生の躍動、その息遣い、か細いささやきが聞こえてくる、という謎かけなのだ。「古代からの伝言」という題名を添えた。
【古代からの伝言】
この写真集は、二社一寺の建築や彫刻の、内なる極彩の世界を堂々と正面から捉えた作品がおさめられている。被写体が、東照宮の陽明門などの国宝、彩色の回廊、由緒ある輪王寺の雪の三仏堂、家光公の廟所で典雅な佇まいの大猷院をはじめ、春を告げる二荒山神社の弥生祭り、勇壮な千人行列、的を射る一瞬を捉えた流鏑といった伝統行事、さらにお堂でのご僧侶、境内の巫女、神輿をかつぐ氏子らの日常を活写し、目を凝らせば天空の唐獅子、謎めいた木目の虎、天地に響く鳴き竜、物語としての三猿など、どれも上質感をたたえた傑作をそろえた。
世界遺産に輝く日光が、この一冊に凝縮されている、と言えよう。ページを進めば、わくわくするような四季折々の風景、花や野草の群落が迫り、外へと開く心躍るような大自然の営みに息をのむことだろう。ぼくが選んだのは、迷うことなくこの一枚だ。
自然にひれ伏しながら天を突くような気魄、それが実は足立さんの真骨頂なのだが、三冊目となるこの写真集は、それを控えめにしたのはなぜなのだろうか。空白の美を生かした構図、そのたおやかな花木の風姿、刻一刻と変幻する光の妙、さて、何万回と通いつめたポイントで秘かに何十時間も息を詰めてチャンスを待ったことだろう。その艱難辛苦のそぶりもみせない。愉しんでいるのだ。
奥日光・小田代ケ原の初夏の朝、象牙を薄くそいだような灰白色の霧が流れ、冷気が覆う湿原に夥しいワタスゲの花がなびく。その静謐を切り裂いたのはほかでもない。冴えたシャッター音だった。
物語は、黒髪山の夜明けから始まる。妖艶に肢体をくねらせる赤い花が、その時、揺れた。それは俗人がとらわれるという幻想か、神々からの祝福のか細い囁きかもしれない。その一瞬をファインダーが捉えたのだ。野鳥たちのさえずり、高原を包むやわらかな日差し、小動物たちもまどろみから目覚めたようだ。
常住俗事に煩わされる心を、時に、やすらぎへと誘うのは、足立さんのMagicなのだ。写真は、撮る人の心象風景を写すものだ。幾億千万年の古代からの伝言、「人はどこからきてどこへいくの…」というそのか細い声を光の写真家には聞こえていたふしがある。
そう思うと、ぼくは言葉を失った。写真、それは撮る人の物語でもある。
◇
写真と文のマッチ、今回、無防備にもその真剣勝負のリングに立つことになった。足立さんからの35年目の果たし状だった。この勝負、どうも分が悪い。お互い手の内は知り抜いているはずだが、どの写真を選ぶか、そちらのご随意に、と足立さんが恭順の構えを見せたからだ。プロならば、相手の指名を堂々と受けなければならなかったのだ。そういう配慮に欠けた。書き終えてホッとしていたら、ふと、足立さんの老獪な術中にはまったことに気づいた。もう校了だ。3月中旬の発行、印刷機はもう止められないのだ。
愛すべき足立さん、生涯の親友に感謝したい。写真vs文の果たし合いも大切な思い出になった。足立さんは、ぼくの文章を喜んでくれた。その後、ぼくが選んだ写真は大きく額装してプレゼントしてくれた。書斎の正面に飾って毎日眺めて満足している。この夏は、久々に奥日光の写真撮影にご一緒しましょうか。
この写真集「日光」は、3月中旬に発売が予定されている。定価は1000円程度として安く抑え、多くの人に手に取ってもらって日光の素晴らしさを再認識してもらいたいのだそうだ。
あとがきに、「四季に富んだ美しい日光を撮影できるのは私たち土地っ子の恵みの賜物です。今回は、長い付き合いの同志、出口俊一氏のご芳情に御礼申し上げたい」と名前を出してくれた。そして「男の財は友なり」との言葉を添えた。確かに、そうかもしれないなあ。
帰りに、沈丁花の鉢をいただいた。ぼくの庭で、春めいて大きく蕾がふくらんできた。やがて馥郁たる香りを漂わせれば、きっとまた足立さんのことを思い浮かべるはずだ。
【編集長から】
「写真が素晴らしいです。サイトトップのバックナンバーにアップされますのでそちらもご覧ください。ご感想をお待ちしております。」