DNDメディア局の出口です。北海道でのひと夏。還暦を祝う高校の同期会に出席するために根室に行った。ついでに知床半島など海と森のオホーツク沿岸を訪ね歩いた。真夏と言うのにこの地特有の濃い霧に包まれた幻想的な自然の中で、ぼくは自分を見つめ直すたくさんの時間を過ごしたような気がする。時折、ふと昔に返って担任の先生の顏が浮かんで懐かしい声まで聞こえてくるようだった。これを追憶というのだろうか。
この最東端の根室は、ぼくにとって、未来への扉を開いた厚恩の地だったのではないか、と強く意識した。もう還暦だというのに今頃になって、としみじみとした感慨に襲われた。根室は、お盆に入ると町内のあちこちから祭り囃子が響いてくる。地元最大の金毘羅神社の祭りを控えて街の人の動きがせわしく気持ちの高ぶりが伝わってくるようだった。
返れ、北方領土!の色褪せた看板は、昔のままだ。看板が増えれば、島が遠のいていくような気がした。目と鼻の先に国境の海を抱え、ロシア警備艇に怯えながら操業を余儀なくされる緊迫の港町だが、この夏祭りの一時ぐらいは、過去の血なまぐさい拿捕の屈辱を忘れ、帰郷する家族や友人らとの再会で活気を取り戻してほしいと、願わずにいられなかった。
国境を越えたか、どうかのジャッジは、ロシアの警備艇が下す。超えた、と睨まれたら容赦しない。超えてなくても銃弾を浴びせられる。船や漁網、その一切を没収、船長が銃弾に倒れることも珍しくはない。漁協に勤める同級生の番匠悦雄が、血相変えてロシア側に抗議している様子が全国紙の社会面のトップに載った。その彼にどう声をかけようか、その言葉が浮かんでこない。森山敏、小倉啓一、中本弘ら親しい同級生は漁協関係だ。
■同期会始まる
夕刻、会場となったホテルの2階で受付を済ました。裏方を務めてくれた福島千鶴子や後藤幸雄らみんな元気そうだ。会場に「北海道立根室高校昭和46年卒の還暦記念同期会」の横断幕が目立った。全部で7クラス、約300人の同期生のうち80人余りが参加した。「誰?」って声が飛び交った。変らないねっていうのもあった。みんな懐かしい顔ぶれだ。 記念撮影のあと、クラスごとにテーブルを囲んだ。テーブルに旬の北海シマエビが大皿に盛られている。正木康児が幹事を代表してあいさつし、「本日は地方から大勢見えている…」と言った。ぼくらは地方組なのだ。違和感があったが、ごく普通に東京を「地方」と呼んでいる。来賓の柏原栄先生が祝辞を述べて41年ぶりの再会を祝した。北大教授になった山田貞三が乾杯の発声を行うと、よそよそしかった宴会場はたちまち喧騒と化した。
総合司会の小倉啓一が3年D組のクラスメートだ。野球部だった。歯舞漁協勤務で、日焼けした顔は変わらないが、人間的に大きくなっていた。いやあ、立派になったなあ、と肩に手を回したら、小倉のヤツ、押し黙って柄にもなく目頭を熱くしていた。こっちも参ったさ。
ビンゴの余興で当たったら、景品に「小倉賞」とあったから迷わず選んだ。後日、真っ赤な北洋の紅鮭が届いた。ご飯に合う魚だ。
所属したバスケットクラブから僕を入れて男女二名ずつ小林憲次、松本澄子、平原淑子の4人が参加した。担任の水上武先生にマンドリンクラブのベースをやらないか、と誘われたという理由でマンドリンクラブの佐々木明美、古橋奈々子、宮崎純子、高橋美智子、高橋香純ら女性陣5人と記念撮影した。根室産の新鮮なネタで回転ずしの「花まる」を大きく展開する清水鉄志を囲んで大家恵子、高橋美智子と写真に納まった。なんだか爺さんと婆さんの饗宴だなあ、との声が飛んだ。
乾杯の音頭をとった北大でドイツ文学の教授になった山田貞三が、やあやあ、と顔を出した。中学3年の当時、同じクラスだった。大学評価に携わる現場の苦労を聞いた。そして、1次会のお開きに東京から参加した弁護士の杉本文男が、幹事にやさしいことばをかけながら謝辞を述べた。年齢とともにいい味を醸し出してきた。
漁協に勤めるクラスメートらが、根室の衰退を憂いながら「何かやんなきゃなんねぇ」と苛立ちを口にしていた。どんなふうに大変なのか想像がつかない。新聞に写真が載った番匠から事情を聞いた。根室ブランドをアピールしたい。根室産の魚を全国に売りたい、と言った。秋に定年を迎えるが、それまでに何か置き土産を残したい、とさらに言葉をつないだ。
この街になにひとつ恩返ししていない。振り返ると、胸が痛んだ。番匠の気持ちがこちらに伝わった。DNDサイトで何が考えようか、と真剣に思った。
同期会はまず全員で記念撮影、
清水、杉本、小倉らの元気な顔が見える。
■なぜ、根室に。
中学3年への進級を控えた春先に、突如、炭鉱の夕張から港町の根室に引っ越すことになった。西から東へ400キロ、山から海への変容、父の仕事がりんご屋から運送業へと大きく変わり始めていた。父の仕事の変化が、ぼくに大きな転機をもたらすことになろう、とは少しも思わなかった。今頃になって気づくとは、ねぇ。還暦に近づくと、これまで見えなかったものが見えてくるのかもしれない。
ぼくは、元の中学に残っていたら4月から生徒会の書記として動き出すことになっていた。入学時から続けてきたバスケットクラブ活動も新人戦など公式戦が控えていた。切ないね、なんにもなくなってしまう。幼なじみとの別れも辛かった。
父に無理を言って、レース用の鳩を飼う小屋をトラックに積み込んだ。それが唯一のわがままだった。ぼくの家は、小学校の時に父母が離婚をした。父子家庭になった。だから根室に行くと言っても父とぼくだけだ。
運送用の2トントラックに荷物をうず高く積んで、父の運転で夕張の家を出た。春まだ浅い3月中旬の深夜だった。その記憶がかすかに残る。真谷地の小学校を見送って夕張鉄道の踏切を超えて中学校の正門前の道を曲がったら胸が詰まって涙がとまらなかった。みんなに見送られて駅のホームで手を振りながら夕張を去る、ぼくの場合は、そんな他の転校生と違っていた。
■ふたりの恩師の存在
根室は、柏陵中学3年生の1年間と、高校を卒業するまでのあわせて4年間、暮らしたにすぎない。しかし、多感な十代の思春期をどう過ごしたか、で人生は決まる、といったら大げさだろうか。根室にきたら、次々と生活の局面が変った。少しずつだが着実に未来への扉が開いて行った。不思議なことだが、中、高のふたりの恩師のお陰なのである。その担任は、いまでは信じられないことをやってしまうのである。
根室に転校してまもなく中学の担任との面談があった。英語を教える東峰照明先生だ。家庭の事情や趣味、将来のことなどを質問された。そして、高校への進学か、あるいは就職か、を聞かれた。迷わず、口をついて出たのが就職だった。なぜ、ただなんとなく。気楽なものだった。
夏休みは、父の運転する助手席に乗って買い付けに行った。りんごの配達も進んでこなした。それだから、卒業したら父の仕事を手伝うのは当然と疑わなかった。就職に少しもためらいはなかった。父もそれを期待しているはずだ。
ところが、進学か、就職か、その選択で英語の授業のクラス編成が行われたのはいささか気落ちした。担任の東峰先生は英語の担当なのに就職組のクラスは若い女性の先生に変った。就職組のテストは、基礎的な内容で物足りなかった。満点とっても面白くもない。進学組は、難しい問題が出されるのだろうなあ、と思った。
夏休みを終えて、2学期が始まったある日のことだった。東峰先生が夜、家にやってきた。家庭訪問である。家の状況を聞いた上で、東峰先生は、ぼくがクラスの人気者で明るくて成績もよい、いい子だという意味のことを父に説明してくれた。父はやや緊張しながらうれしそうに照れていた。
すると、東峰先生が「お父さん、俊一君を高校に行かせてあげてくれませんか?」と唐突に切り出した。父は、面食らった様子で、言葉に窮した。やや間をおいてこれまた照れながら、「勉強できるうちは勉強した方がいい」と進学をあっさり認めた。まあ、最初から反対していたわけでなく、ぼくが早く働きたいと思っていただけなのだ。東峰先生は丸く大きな目をこちらにむけて、しっかり勉強するように、明日、職員室においで、と言って笑顔で帰って行った。
父は、どうするか、大丈夫か、いやあ、それにしても偉い先生だな、と、とりとめないことを口にした。自分にとって不都合でも人に悪く思われることを避ける性格だ。父はそれでいいのだろうか。そっちの方がぼくには心配だった。
■2度目の説得
根室高校に進学した。高校ではバスケットに打ちこんだ。根室、釧路管内の根釧地区で優勝した。地元の新聞に、根室高校バスケ部男女アベックで全道大会へ出場、と大きく載った。室蘭で開催のその大会では、4回戦まで勝ち進み準々決勝で対戦した札幌西高にダブルスコア―で敗れた。2年生のぼくは地区予選からレギュラーだった。札幌西高は勢いのまま全道大会で優勝した。スピードが違った。外からロングシュートが決められるのでハーフのマンツーマンのフォーメーションをとれば、次に長身のポストプレイでディフェンスが乱された。ゾーンを狭めれば外から、外に広がれば中から、と手におえなかった。恐ろしいほどのレベルの違いを見せつけられた。どうしたらあんなプレーができるのか、落ち込んだ。
その札幌西高が北海道を代表して全国大会へ出場した。その初戦の結果を聞いて腰が抜けそうになった。札幌西高が1回戦で敗退した。バスケを続ける自信がゆらいだのはこの時だった。上には上がいるとはいえ、札幌西高を寄せ付けないチームとは、どんなレベルなのか想像がつかなかった。
試合の場面で、右45度から放ったジャンプシュートの数々、弧を描いてパサッとネットを揺らす瞬間の快感が脳裏に焼き付いたままだ。同僚や先輩、後輩、クラブを通じて多くの信頼関係を育んだ。嫌な面もあった。
2年生のその年の暮れ、郵便局員採用の試験があると聞かされて応募した。地元に残ってバイクで郵便の配達業務もいいかなあ、とぼんやり考えた。簡単な筆記試験だった。受験したクラスの十数名全員が合格した。担任の水上武先生が、合格者の名前を読み上げた。自慢じゃないけれど、クラスの成績は1番、2番のぼくが呼ばれないわけがない、とその順番を待っていたら、ぼくだけ名前が呼ばれなかった。不合格だという。この時のショックは大きかった。まさか、担任が合格通知を破り捨てたわけじゃあるまい。それほど、この合否には疑問を抱いた。
それからしばらくたってのことだった。担任の水上武先生が、家庭訪問と称して我が家に父を訪ねてやってきた。父と向かうなり、先生は、「あのこんなこと言っていいか、どうかわかりませんが、俊一君を大学に行かせてください」と単刀直入に切り出した。成績は、もう少し努力すれば合格ラインにいけると思います。お願いします、と父に頭を下げた。親が先生に頼むならわかるが、担任が親に願い出る、なんてあるのだろうか。
ひとのいい父は、まず、大学と聞いてオロオロしてしまった。そして照れながら、「勉強できるうちは勉強した方がいい」と、中学の東峰先生に言ったのと同じセリフを吐いた。ひとつ違ったのは、ぼくに向かって「大学に行ったら、家の仕事を継ぐことはない。社会のために役立つことを考えた方がいい」と言った。
父親の精いっぱいの見栄だったように思う。男でひとつで手塩にかけたひとり息子を手放す、親の辛さが痛いほどわかった。どうあがいても抵抗しきれないなにか、目に見えない強い力が働いているように思えてならなかった。
今回、根室の街を歩いていると、根室駅前の国道沿いに「あずま旅館」の看板が見えた。ここが柏陵中学の担任、東峰先生の実家だ。が、先生はもうこの世にいない。卒業して社会人になったら、ひとことでもお礼をいうべきだった。それができていないのを情けなく思った。
高校3年間の担任で数学を担当した水上先生は、札幌に在住し教鞭をとっているという。根室に転校しなかったら、さて、担任の先生が進学を勧めてくれなかったら、郵便局の試験に合格していたら、といくつものifが奇妙に連続する。根室に転校したお蔭で、ぼくの未来の扉が開いた、と確信した。
何度も繰り返すが、卒業して41年。担任は、英語や数学だけを教えたのではなかった。生徒の人生と向き合ったのだ。どんな思いで我が家に足を運んできてくれたのだろうか。根室は、ぼくにとって厚恩の地なのである。
■
さて、同期会は会場をホテルから街中のバーの2階に移った。酒がついに人を呑んで大いなる賑わい。みんな昔に戻っていた。薄暗いカラオケバーじゃなくて、還暦らしい落ち着いたやり方があるだろう、と思ったが、これでよかったのかもしれない。そんなことを思っていたらいきなり、宴会の冒頭で指名があり3分という時間を与えられて挨拶した。席に戻ったら、小倉が、よかったぞ、と言ってくれた。何はともあれ、生きていればいいのさ、と挨拶で口にしたのは本心だった。
席に千葉誠二、高梨英紀、大家恵子らが並んで座っていた。昔語りに花が咲いた。大家は家業を継いで新聞販売店を経営していた。ぼくは新聞社で販売部長の経験があるので、新聞販売店の実情はよく理解しているつもりだ。その大家が、出口君の住んでいた家の前に、前田商店があったしょ、と聞いてきた。
そう、道路挟んで真正面だった、といったら、そこと懇意で奥さんが紅鮭の飯ずしづくりの名人なのだという。飯ずしづくりか、それは凄いね。大根もキャベツも自前で栽培している。なんだか同じことをやっている。にんにく栽培のことを自慢しようと思ったら、にんにくもやっていた。限りある人生をゆったり、のんびり、自分らしく暮らせればいい。
ところで新聞販売店なら地理に詳しいはずだ。西浜町に金沢さんという牛を飼っていた農家を知らないだろうか、と聞いた。後日、調べてくれた。
■下宿先を45年ぶりに訪問
根室市西浜町の金沢さん宅は、夕張から根室に引っ越してきた一時期、お世話になった。市内の自宅が建築中で、家が完成するまでの間、父とふたりで3ケ月間、下宿した。50代半ばの両親に子供が8人の大所帯だった。そこに転がり込んだのだから、どんなに迷惑だったことだろうか。父が仕事することになる青果市場勤務の友人が金沢さんの何番目かの息子さんだった。
どうして今頃、思い起こされるのだろうか。思い出しただけでも胸が熱くなる。電話番号を頼って電話してみた。「照夫」、「隆夫」の名前に憶えがあった。「照夫」さんに電話した。
あの、出口といいます。もう45年も前のことですが、ぼくが下宿したことがある金沢さんでしょうか、と切り出した。電話口に出た相手の声で、すぐに確信していた。照夫さんは、あの父さんが市場で仕事して兄貴の晴夫と親しかった出口さんだよね、いやあ、いやあ、憶えてるよ、懐かしいね、と声を弾ませていた。
父さん(健二)は? もう昭和43年に死んだ。55歳で…。
じゃあ、ぼくが下宿した翌年だったのですね。
母さん(清子)は? 平成10年に亡くなった。78歳でした。
あれこれ、兄弟の消息を細かく聞いた。すると、ぼくが下宿した場所には、長兄の娘夫妻が住み、そばに住む正史さんが両親の仏壇を守っているという。それでは、正史さん宅に線香をあげに伺いたいのですが、お声掛けしていただけないでしょうか、と無理を言った。照夫さんは62歳に、正史さんは63歳になる。弟分の隆夫さんは数年前に55歳で亡くなっていた。その下に利発な弟がいたはずだ。
金沢宅では、牛数頭、豚、鶏を飼育していた。子供らがそれぞれ家の仕事を分担した。ぼくは、馬に水を飲ませるのが日課だった。近くの小川まで連れて水を飲ませる。馬は、そうやすやすという事を聞いてくれない。しかし、それも1ケ月も経つと、慣れてきてリンゴ箱を踏み台にして馬に跨るまでになった。
裸馬である。鞍もあぶみもない。手綱一本で右左、前、後ろを、旋回させたり止めたりする。腰が高い馬は、坂道の登りは抱きつくしかなく、下りはのけぞるような危うい状態になった。国道に出て土手を上り、その先の広大な湿原をかけ回った。春先の空は青く澄んで、空高く舞い上がって急降下する雲雀の芸当にみとれることもしばしばだった。キツネやシカが姿を見せて伴走した。 懐かしい。
朝の食卓は戦争状態だった。お母さんの晴子さんが、釜でご飯を炊いて紅鮭を焼いて大皿にどっさり盛り付けた。自家製の卵をつかった卵焼きもあった。夜の食卓は、カニ、エビ、タコ、イカ、サンマ、カジカ、それに氷下魚もチカも、はたまたジンギスカンもやってくれた。魚のあら汁がうまかった。みんな競ってお代わりした。つられてぼくも食べた。紅鮭は、食べても、食べても次から次と焼いてくれた。遠慮なく食べて腹いっぱいだった。お父さんもお母さんも、食べれ、食べれ、遠慮はいらない、と少しも気を使わせなかった。
一人っ子のぼくは、この食卓がまばゆく見えた。なにひとつ遠慮や気兼ねをしなかった。部屋は1階の仏間をあてがわれた。窓際に勉強机が用意された。家で一番いい部屋なのである。なんという思いやりなのだろう。
この時の食事のお陰で、ぼくの身長はぐんぐん伸びた。中2で身長145p程度のぼくが高校を卒業する時は175pになっていた。並ぶと、前から2番目だったのに卒業時には後ろから2番目になった。
あの焼きたての紅鮭のお陰だ、と心底信じている。年に10cmも身長が伸びるから寝ていると、足のひざの関節が軋む鈍い音がして目を覚ました。たぶん…。
■45年ぶりの邂逅
世話になった金沢さんのご両親の仏壇に線香をあげたい。ヤンマーの営業所と美容室の間を入って下った先に、その場所はあった。ゆるやかなS字を描いた一本道を抜ける。立ち止まって周囲を見渡すと、あの頃の記憶が甦ってくる。鳩小屋をあそこにおいたわ。馬に水を飲ませた小川には土管が埋め込まれてもはや原形をとどめない。が、道路の下のくぼみに見覚えがあった。
次にめぼしをつけて正史さんが住む家に向かった。玄関先で、正史さんが出迎えてくれた。喉に指を差して、声が出ないのだ、という仕草をした。その事情は照夫さんから聞いていた。喉に小型の機械をあてると、電子音となって会話が普通にできた。
よくいらっしゃいました。立派になられて…。国道沿いの前田商店の前を通るたびに、出口さんのことを思い出していました。今日は、わざわざお出でくださりありがとうございました、と丁寧な言葉をいただいた。さっそく仏壇にむかって手を合わせた。
あの節は、ほんとうに父とともに真心のお世話を賜り、ありがとうございました。もう45年も経ってしましました。その間、何ひとつ恩返しも出来ずじまいで、ほんとうに申し訳ございませんでした。父は2年前に82歳の天寿を全うしました。あの時の紅鮭は格別でしたね、と胸の内で語りかけた。
手を合わせて後ろを振り返ると、正史さんが満面笑みを浮かべながら目に涙をためていた。手を取ってお礼を述べた。
夕張から持参したつがいの鳩は、5月に卵を2個産んだ。孵化寸前で、猫に鳩小屋を荒らされた。学校から帰ると、鳩の羽が散乱し血がしたたり落ちていた。小屋の奥に卵が1つ残った。大事に抱えて世話をしたら、数日後にヒナがかえった。どうしていいかわからず、オロオロしていたら、お母さんの清子さんがゆで卵をつくってその黄身を口に含んでヒナのくちばしを軽く噛んだ。ヒナは健気に口の中の黄身をついばんだ。親鳥のように軽くくちばしを噛んでエサをあげるのよ、と教えてくれた。母親の優しさを知ってうれしかった。
ヒナは成長し、学校から帰ると、勢いよく飛んできてぼくの肩に止まった。
■自然の宝庫・オホーツク
車で周辺を回った。オホーツクの海をのぞむ知床半島だ。気温20度と快適だった。が、天気はすぐに崩れた。ウトロから羅臼へ。知床半島を縦断した。横殴りの雨が吹き付けていた。ヒグマが出没して、道路を封鎖したというニュースが流れた。山頂付近は、濃霧で視界が利かない。森の樹木が苦しげに幹をよじっていた。ダテカンバだろうか。
羅臼の街を抜けた。根室海峡に弧を描く野付半島、強風は容赦しません。凄い世界でした。気温11度、寒い。霧というより雨粒だ。どうも波しぶきが風にあおられて吹き付けているようだ。雨がしょっぱかった。海辺を歩いたら、カモメが一斉に飛び立った。あわててシャッターを切った。
野付半島を砂の半島という。海面と地表の高低差が感じられない。津波でも来たら、どうなるのかと思うと恐怖にかられた。もっと怖いのは国後島を不当に占拠するロシア警備艇だ。わずか16キロの至近に立ち塞がる。銃口をこちらに向けているような緊迫感が走った。
ネイチャーセンターに行ったら、野付半島の深刻さは地盤沈下にあるという。太平洋プレートがオホーツクプレートに入り込んで毎年、1・2センチも沈下が観測されている。100年後にこの砂の半島は海底に消えるらしい。その証拠に、海水が森や湿原に流れ込んで景色を一変させているのだ。樹々が立ち枯れる無機質な平原をトドワラ、ナラワラと呼んでいた。
草花の植物は、どれも可憐で美しい。根室半島は、連日ジリと呼ぶ霧雨に覆われていた。
ナチュラルでワイルド、霧の中の根室は、一面グリーンの野草の宝庫だった。香りが強いハマナス、それにフウロウソウ、ツリガネニンジ、ウドの花、レースフラワー、オレンジのクルマユリが緑の中に映えた。山葡萄の木が弦を伸ばしていた。たくさん実をつけているのがわかる。
森を散策していると、世界のガーディナーが憧れるターシャー・チューダーさんの言葉が浮かんできた。Heaven is here. 根室再発見、こんな素敵な場所はない。還暦に近づいてようやく周辺に目を配る余裕ができてきたのかもしれない、と知人が指摘した。ぼくもそう思った。森と海に囲まれた霧の街、きらきらした物語ばかりが尽きない。
野付半島をゆく、
その1、自転車のロードコースになっているのだろうか。
野付半島をゆく、その2、地盤沈下で森に海水が入って
木々が立ち枯れるトドワラの風景
野付半島をゆく、その3、ネイチャーセンターから
半島の先端をのぞむ。寒々しい光景が続く