DNDメディア局の出口です。花盛り、桜を愛でる譬えが豊かで先人の心憎いばかりの表現に胸が打たれる。花の雲とは、桜の花の群生が雲のように見える様をいう。名所のひとつ埼玉・幸手の権現堂は一斉に開花しお天気に恵まれてにぎわった。遠くから眺めると、延々と続く桜堤がたなびく雲のように淡く浮き上がっていた。みんな癒されるのだろうね、樹の下の花見客は表情に屈託がなかった。
その帰り道、花見気分が吹っ飛んでしまった。4号線バイパスを車で急いでいるうちに、不安がかま首をもたげてきた。それは首都圏にM7の直下型地震が襲ったら、と思って上空を見上げたからである。確実に電柱が倒れ電線が路上をふさぐに違いない。車が動けなくなる。立ち往生するクルマが一網打尽なのだ。被害は火災による焼死が多いと指摘されるのに、道路が電線でふさがれたら消防車も救急車も走れず消化が遅れる。また追突の玉突き事故が頻発し、そこに標識が落下したのなら巨大なマサカリの刃と化して車を真っ二つに切り裂くことだってありうる。考えると背筋が凍る。
震度6弱以上に見舞われる人約2500万人、木造家屋の倒壊39万棟…つい最近、東京湾北部で地震が起きると、首都圏はどうなるのか―文部科学省のプロジェクトチームが首都直下型M7を想定した被害のイメージを示した。これがその数字だ。
これとは別に内閣府の有識者検討会は先月31日、駿河湾から日向灘に続く水深4000m級の海底にある南海トラフの最大級地震の被害範囲を公表した。東日本大震災の教訓から「数百年に一度」の地震から「千年に一度の最大級」に変更し、想定震源域を従来の2倍に拡大しM9.0、津波は9.1と想定した。震度7の地域は10県153市町村に及ぶとしてこれまでの自治体や企業の防災見直しを迫った。この調査では、従来のそれより巨大地震を推計しているものの発生確率は示していない。
震災への備えは万全か、どうかを考えながら、地震の発生確率の数字をおさらいしましょうか。政府の地震調査委員会は今後30年以内に起こる確率はM8.1規模の東南海地震が70%とし、M8.4級の南海地震が60%、M8.0級の東海地震が88%と推定した。
今年1月に発表した東大地震研究所の発表によると、首都圏の直下型地震が今後4年以内に70%の確率で起こる。もう少し詳しく説明すると、M7 程度(具体的には、M6.7-M7.2)の地震の発生確率がどのくらい増えたかを計算すると、今後30年間に98%となり、発生確率が70%に達するのはこの先4年と算定した結果でした。
被害想定は、建物の全壊、焼失が約85万棟、死者は1万1000人でその主な内訳は、火災が最も多く6200人、建物倒壊が3100人、ブロック塀倒壊が800人、交通事故が200人となっていた。まあ、首都圏に直下型地震が襲う確率に差はあるが30年以内とか、4年以内とかいっても明日起こっても不思議ではないのである。
被害の想定はやや抑制気味で、首都圏の直下型地震がどんな時間帯に起こるか、昼か夜か、夏か冬か、など季節や時間、天候等によっても被害状況がまったく違ってくる。とくにどれだけ連続するか、という頻発する余震の回数が少しも想定されていないのは寒々しい気がする。画竜点睛を欠くから、死者1万1000人は、ほとんどあてにならない数字と思う。
M7の地震が襲ったら揺れが治まるまで待つというのが防災手引きの解説によくみられる。スーパーなら棚から離れた中央付近にしゃがんカゴを頭上にのせて身構える。地下鉄なら体を低くして係員の指示を待つとか、エレベータなら各階のボタンを全部押して防災用の非常マイクで連絡を待つということがかかれている。しかし、いちいち反論はしないが、実際はこうはいかないだろう。16両の地下鉄が地震の影響でストップしたら車掌か運転手が、電気が消えて情報が欠如しているなかで的確な指示を出せるとは思えない。超高層のエレベータは、各階ごとに表示のない高速のエレベータが主流だし、都内のエレベータが全部ストップしたら、電話は通じないし防災用の非常マイクの先は、だれも応答してくれない。3・11でエレベータに閉じ込められた経験から、それは確かです。
地震は、頻発する。ひとたび天地を揺るがす地震が発生すると、その前後、また初めの一発目のマグニチュードよりさらに大きい地震が襲うことを肝に銘じなければならないのだが、どうも地震の予知の想定ではM7規模の地震というのみで、あたかもそれが単発で襲う一回きりの恐怖のようにとらえる傾向がある。それが首都圏を襲う直下型の巨大地震の最大の落とし穴であることを指摘したい。
例えば、中国四川省周辺で起きた世界最大規模の四川大地震を参考にしたい。昨年8月、震源地に近い文せん県の山岳地帯を視察し、四川省地震局の説明を聞いた。それはメルマガにシリーズで報告した通りです。
四川大地震の概略をざっと、おさらいをすると、2008年5月12日午後2時28分、震源地は四川省ぶん川県映秀鎮で、M8の巨大地震が襲った。M7クラスの余震も連続した。被害者4624万人、死者6万9227人、行方不明者1万7923人、重傷者37万4463人、そして救助された人数8万7000人、避難者の数1510万人という桁外れの災害でした。被害損額は、8452億元と事前の調査で知った。が、四川省民生局や発展改革員会での説明では、7717億元と言った。いずれにしての日本円で10兆円近い規模ではある。
注目すべきはこの地震が、4つの大きな地震が微妙に場所を変えて複合的に起きていたことである。最初がM7.5、時間をおいて次がM8.0 、そしてM7.5、M7.7という具合だった。このことはあまり知られていない。その回数も震度6から6.9が8回襲った。5〜5.9が32回、4〜4.9が200回以上繰り返し、わずか1ケ月余りで1000回を超える地震が頻発していた。山の地表が上下にずれる、当局は「破裂」と表現した断層の亀裂が最大幅241キロも走っていたことが四川省の地震研究院の調べで判明した。地滑り、土砂崩れ、岩盤崩壊、山崩れ、それにせき止め湖という二次災害が相次いだ。川に崩落した土砂が堆積してできたのがせき止め湖だ。北川県・曲水鎮の北川渓谷にできた唐家山のせき止め湖は、水位の上昇が80mになり、下流域の綿陽市など100万人の住民が避難した。人民解放軍によるダムの開削が功を奏し大惨事を直前に防いだ。これが決壊していたら、下流の住民に多大な被害をもたらしたことは間違いない。直下型の地震は繰り返し頻発するという事実、それによる恐怖は二次災害にあると言われるゆえんです。
また関東大震災の当時の状況をみましょう。
朝日新聞出版が刊行した『完全復刻アサヒグラフ 関東大震災/昭和三陸大津波』を参考にしました。史上最悪の地震被害となった大正12年9月1日の関東大震災と、東北地方の太平洋岸を大津波が襲った昭和8年3月3日の昭和三陸地震の模様をアサヒグラフが当時、写真と記事で詳細に伝えた特別号と臨時増刊を合本し復刻したものだ。
広げると、「大画面」のモノクロ写真が伝える惨状にまず圧倒された。一緒に掲載されている記事やデータの数々も興味深い。これは、関東大震災編が圧巻で、記事の本数は185本に達し、発行が震災翌月の10月28日なので、リアルタイムの記事であり、自然災害により首都が壊滅状態になったというこの未曾有の、おそらくは世界史上でも希有な震災にまつわる最初の1カ月間の、政治、経済、社会、教育、文化、相撲界や歌舞伎界など興行界、外交などあらゆる分野の動きをまとめている。
こうした中、正確な情報が消えた社会で、このような大震災が起きると、どのようなことが起きるのか。そもそも地震の発生を、被害の規模を、どのような形で地元や全国、さらには世界に伝えたのか。正確な情報がないと、人々はどのような行動をとるのか―などが克明に書かれていた。貴重な史料である。
そこで関東大地震後に頻発した余震の記録が5ページの下段にベタ記事であるのを見つけた。「大震後の一月に余震千八百余回」の見出しで、9月1日以来関東地方は余震が絶え間なく襲来し、第一日の856回、第二日の289回を初めその回数があまりに多かったので住民は生きた心地もなく、震度の度数が減じてもう一安心と思う頃、また強烈な余震がくる…とその驚きを伝えていた。とくに9月26日夜は大震以来の強震があり、その後幾度も市民を脅かし殊に10月3日夜半は最も強かった、とあるから関東大震災は9月1日に発生したが、最も強かったのは9月26日と10月3日だったということがわかる。一発目に地震がきてそれがおさまると安心ということはないことを裏付けた。1日から2週間は2ケタの強い余震が襲ったことを示す回数も細かに記載されていた。
余談だが、掲載されている証言も、凄まじい。関東大震災と言えば、本所区横網町の軍服工場跡地(現在の墨田区横網町公園)の惨劇が有名だが、地震で避難して来た住民たちに、猛烈な火災旋風が襲いかかり、4万人が焼死した。この模様を、生々しい証言で綴っている。
「髪と半面を焼いた上等兵の妹が秩父宮さまの前で言上した」という見出しの記事は、この場所で奇跡的に助かった一人の上等兵の妹弟の話を、手記の形で記している。
12日に妹が痛ましい姿で連隊を訪ねてきたのだ。以下が、当時18歳のこの妹の聞き書きだ。
「避難所には洪水のように人が押し寄せていた。一面火の海、荷物に火が移り、すべて捨てた。隅田川を超えて柱や板がうなりをあげて飛んでくる。地に伏しても熱い。倒れた人の上に次々と折り重なって倒れる。苦しい、熱いよ、の声、奈落の底の叫びが聞こえるようだ。火に驚いた馬が暴走、何人もひずめで踏み殺された。
人々は火の力で高くめぐらした塀に吹き付けられ、寄りかかったまま死んでいた。髪に燃え移った。後の人が土をかけもみ消してくれた。頬は焼けただれた。夜、のどが渇く。水たまりらしいものがあったので、手当たり次第飲んで寝た。夜が明けたら、4、5人の遺体の上で寝ていた。飲んだのは血と涙の混じったものだった。『俺は生き残った!』と裸で踊る男がいた……。」 上等兵が所属する連隊付きの秩父宮がこの話を聞き、兄妹を御前に招いて慰められたという。
驚愕したのは、「愛児の顔見て彼女は狂った」という記事だ。死んだと思った愛児二人が生きているのを見て、絶望のどん底から喜悦の絶頂に押しあげられた女教師が、一瞬後に発狂。監視の目を逃れて自殺したという横浜市の悲劇を記していた。復興支援策なども詳細に報じている。これを読むと、東日本大震災における政府との対応の違い、スピードの違いがよくわかる。
話しを最初に戻しましょう。
電柱が路上にこれほど林立すると、ことごとく電柱が倒れ道をふさぐことは自明の理だ。3・11の東日本大震災では、地震から1時間後の余震で釜石・両石町のトンネル付近で電柱が倒れ、電柱と引き込み線でつながっている街灯があやうく近くにいた地元の佐々木雪雄さんのワゴン車を直撃しそうになった。危うくその場をかわしたが街灯はその後、トンネルわきの道をふさいだ。
気仙沼の湾内で遊漁船を避難させようと、津波をかわして湾外にでようとしていた旅館、大鍋屋の熊谷浩典さんは、岸壁から高さ50m高圧線の鉄塔が倒れてぶつかりそうになった。その後、太さ10cm以上ある送電線のケーブルが、外の海と湾内とに横たわり船の出入りをさえぎってしまった。
さて、頻発する余震、それも相当規模の地震が次から次に襲うということにたいする備えがなっていない。住宅や公共施設の耐震は強調されるが、路上の看板や標識が落下したら車ごと命の危険につながるという懸念や、ひとたび電柱が倒れると、それにつられて周辺の電柱、引き込み線、街灯などが一斉に横倒しになり、それらをつなぐ電線や通信のケーブルが路上に落下したり、宙ぶらりんに通行をふさいだりという事態に対しては、話題にすらなっていない。なんら手をうてていないのは心もとない。
電柱や電線は地下埋設に、標識や看板は極力撤去し、マサカリの刃のような厚い鉄板から危険の少ない材質に変えるなどして、歩道や道路の安全確保を急ぐべきである。