第65回 専門家の責任


 このところ乱読が激しすぎて、情けないことに、最近、まともに読み終えたという本がありません。書斎に数冊、枕元にも数冊、背広のポケットとカバンの中に数冊といった具合で、まあ、自分でも呆れるほど落ち着きの無い読書態度です。しかもここしばらくは、近頃すっかり使う機会の少なくなった英語のメンテナンスを兼ねて、電車の中でBBC World ServiceのGlobal NewsやThe Economistの音声版を聞いているので、なかなか読書が進みません。さらにこのThe Economistの書評で知ったリーマン・ショックについてのドキュメンタリー、"Too Big to Fail - Inside the battle to save Wall Street - Andrew Ross Sorkin著、2009、Allen Lane)を読み出してからは、またまた、乱読の対象が増えてしまいました。この本は、個人の電話やメールの記録を含む圧倒的な量の取材と記録の蓄積をもとに書かれていて本当に面白い。普通ならハマッてしまうのですが、600ページもあって持ち歩くには大きすぎ、毎晩、就寝する前の時間にしか読めないものですから、読み終えるまでには少し時間がかかりそうです。


 そんな乱読の中の一冊に「文章の書き方 」(辰濃和男著、岩波新書No.1095)があります。上述のように、この本も読み散らしの状況になっているのですが、その「まえがき」にこんなことが書いてありました。「いい文章の条件には、平明、正確、具体性、独自性、抑制、品格など、大切な要素があります。・・・・同時に、私がいつも思うのはいい文章のいちばんの条件は、これをこそ書きたい、これをこそ伝えたいという書き手の心の静かな炎のようなものだということです。」


 この「これをこそ書きたい、これをこそ伝えたいという書き手の心の静かな炎」という一節は、本当にそのとおりだと思いました。文章論などを論ずるつもりはありませんし、そんな資格も能力も全くありませんが、このコラムで書く機会を与えていただいてから感じるようになったのはこのことです。そういった「心の静かな炎」が灯っていない状態で文章を書ことはなかなかできない。やはり、幅広い問題に関心を持ち、そして関心を持つだけではなく、その問題について自分なりに思いをめぐらし考えを深め、最低限、心の炎の火種を作っておく。文章を書き続けるためには、そういったエクササイズの繰り返しが必要と思います。


 そんな炎の火種に火が点くといったようなことが、最近、いくつかありました。


 参議院選挙に向けたタレント候補の擁立が続いています。別に擁立された個々のタレントの方々の資質がどうのこうのということではありません。タレントとして世の中に名前を知られるだけあって、潜在的資質は平均以上の方が多いのでしょう、きっと。でも、今ほど日本の将来のあり方についての政策論が求められているときは無いにもかかわらず、政治的信条も、掲げる政策内容も不明なこうした方々を国会議員の候補者として擁立するのは、その知名度への期待以外の何ものでもないと受け取られてもしようがないでしょう。


 今や、候補者の知名度にでもすがって支持を増やすしかない、そして何よりも数が全てと考えているように見える民主党がそうした選挙戦術をとるのは、学級投票レベルの戦術論としてはまだ分かります。しかし、健全な緊張関係に立った「二大政党」の一翼を担うはずの自民党や、既存政党の批判勢力として政策面で対立軸を打ち出していくはずの新興政党までもが、そういった挙に出ているのは全く理解に苦しみます。選挙を人気投票と見ているとしか思えない。こうした政党の行動を見ていると、どうせ政策論は国民には分からない、と国民をバカにしているとしか思えません。


 国民はもっと利口です。政党が国民をバカにしていることや、政党の企んでいることなんかはちゃんと肌で感じとっています。ですから、このような政党の行動は、国民の政治に対する失望を増すだけです。これで政治家が困るだけならぜんぜん気にしません。しかし、国際関係を律するシステムが未成熟な中で、これだけグローバル化が進み、国家システム機能の強靭さと時代への対応力が国民の生活に直接的に影響するようになると、好むと好まざるとにかかわらず、政治しか果たせない役割はますます大きくなっています。そんな中で国民が政治に失望するということは、どれほど日本の将来にダメージを及ぼすことになるでしょうか。暗澹たる気分になります。


 こうしたことを政治のプロがやっているということは、政治家が政治の専門家としての責任を放棄しているということではないでしょうか。


 専門家の責任という問題については、私の心の中にはずっと「静かな炎」が灯っています。


 これは、約10年前、経済産業省で「ダイオキシン問題」や「環境ホルモン問題」を担当した時に感じたことがきっかけで灯った火です。あの時も「専門家」と称する人々が雨後のタケノコのように出てきて、これらの問題に関し、あたかも問題を煽りたてるような発言を繰り返し、騒ぎの中で増額された国の研究費の恩恵にあずかりました。その後、そういった「専門家」の多くは問題の沈静化とともに、どこかへ消えてしまっています。今でも地道に研究を続けている(本物の)専門家もいますが、あの「専門家」の人たちは今何をしているのでしょう。有害物質に起因するリスク管理問題だけをとってみても他にも重要な問題が数ある中で、国の限られたリスク対策資源の配分の優先順位を誤らせた責任は決して小さくないと思うのですが・・・。それ以来、専門家としての科学者に対して一定の責任をもとめる社会的システムがきちんと機能することが必要ではないかと考えています。(このことは、DNDの集中連載「『イノベーション25戦略』への緊急提言」のNo.24、「イノベーションの安心と安全 その2」でも書きました。)


 最近では第59回「続々『90年比25%削減』、そして『事業仕分け』」で書いた"Climate gate事件"が、IPCCの報告書を書いた古気候学者の専門家としての責任問題を提起しています。 欧米ではこの"Climate gate事件"を契機として、「地球の温暖化には疑う余地はない」としたIPCCの報告書の結論が、科学的に妥当なものと評価できるのかが大問題となっています。疑問を呈されているのは、この結論に至るまでのプロセスの妥当性−データの収集、解析方法と結論を出すまでのピアレビュー・プロセス(第三者の立場にある科学者による論文評価の手続き)の妥当性です(*i)。そしてこの問題は、ついに国連事務総長とIPCCの議長がInterAcademy Council(IAC)に、「IPCCの評価プロセスの独立レビュー」を今年の8月末までに行うことを要請するといった事態に発展しました。


 科学の定説が覆されることはよくありますし、科学者といえども間違うことはある訳で、結果として科学者の理解が間違っていたことを責めるべきではありません。問題は、科学の専門家としての責任を自覚し、自らが主張する仮説に関わるデータや客観的事実を公正、中立に収集、分析、整理した上で、その仮説の妥当性を科学的論理的に説明しているのかどうかということです。そうした結論に至るプロセスの妥当性をチェックするためのピアレビューがきちんと機能しているのかどうかが、研究成果の質を決定する重要な視点となっています。ちなみに、IACがIPCCの報告書に対して行うのも、「IPCCの評価プロセスの独立レビュー」です。


 そういった意味では科学者は、「結果」の妥当性のみが問われる職業が多い中で、珍しく「プロセス」の妥当性が問われる専門家集団といえるでしょう。


 通常はこのプロセスの妥当性の評価は、学会誌などに論文を掲載する際のピアレビューによって行われることになっています。ただ、日本には日本学術会議の「協力学術研究団体」として登録されている学会・研究会だけでも、約1,600もの数の団体があります。(登録されていない団体も相当数あるようです。)これほどの数の団体が存在し、同様の研究分野と思われる分野の中にもいくつもの学会・研究会が並存している状況の下で、日本のピアレビュー・システムは専門家の責任をまっとうできるほどのチェック機能を発揮しているのでしょうか。


 さらにあの「環境ホルモン問題」騒ぎの時は、(本物の)専門家の多くは、「環境ホルモン」が引き起こすという生体の内分泌系の異常は、格別に騒ぎ立てるような問題ではなく、通常の毒性学の範囲で処理できる問題なのでコメントするに値せずという態度をとりました。すなわち、科学的観点から批判的にレビューする能力をもっていた方々は、(ちょっとそう言うのは酷すぎるかもしれませんが)ピアレビューを行うことを忌避したのです。


 何故、(本物の)専門家がそうした態度をとるのか。一つには、面倒くさいからです。「環境ホルモン問題」は専門的に見ればノン・イッシューだというようなことを公言した瞬間から、その発言に対する抗議のメールや電話、手紙が山のように来たそうです。ですから、問題となっていることについて「問題でない」ということには大変なエネルギーがいる。先日、あるところで「『地球温暖化』論に騙されるな!」講談社(2008年)などを書いた東京工業大学の丸山茂徳先生のお話を聞く機会がありましたが、地球温暖化問題についても国内では同様のことが起きているようです。


 最近では残念なことに、行政の分野でも専門家としての責任感を疑うようなことが起きています。(こう書くと行政官、役人、官僚のやっていることはあきれることばかりで、そんな生易しい状況ではない、といった声も聞こえてきそうです。ただ、私は、最近の役人をめぐる批判は、見方があまりにも一面的になり過ぎているのではないかと感じています。いつか機会を見て、この問題については書いてみたいと思います。)


 私は、中央政府の行政官の重要な役割の一つは、現状と問題点をきちんと分析した上で、将来の政策のあり方に関する提案を示すことだと思っています。その意味では「政治主導」でまとめられた提案はともかくとして、省庁が関与する新たな政策の提案は、一定以上の質を備えていなければなりません。あまりに偏った分析に基づく提案や実現可能性のない提案であってはいけない。行政の専門家としては当たり前のことですね。


ところが、先ごろ環境省が環境大臣の試案として発表した「地球温暖化対策に係る中長期ロードマップの提案」は、こうした観点から見ると残念ながらあきれるばかりの内容です。「ロードマップ」は、2020年で「90年比25%削減」を全て国内における排出削減対策で実施することが可能ということを示すために作成されたもので、環境大臣の試案という形をとっていますが、環境省の事務方が"一部の(社会科学の)専門家"の支援を受けて作成したことは明らかです(*ii) 。


 この内容が行政の専門家が作る資料の質を満たしたものとは言えないと、私が何故思うのか。素人の私でもちょっと調べれば分かるような、問題点や矛盾点を含むような提案だからです。いくつか例を挙げてみましょう(*iii)。


 「ロードマップ」では、太陽光の利用を大幅に拡大することが挙げられています。それは重要なことです。しかし、日本の太陽光発電パネルの導入限度は(戸建ての数や物理的限界から)1,000万世帯程度であるにもかかわらず、このロードマップでは、太陽熱温水器を1,000万台、太陽光発電パネルを990万世帯へ導入するとしています。一つの屋根に2つの設備を載せろというのですか。また、高効率給湯器の導入促進もいいことですが、2人以上の世帯は3,400万世帯しかないのに10年後に5,100万台を導入するというのはあまりに無理じゃあないですか。これだと高齢者や学生の単身世帯のほとんどに導入する必要がある。しかもこれらの設備は、基本的には各世帯が自費で設置ということのようです。経済的に見ても家計にそんな余裕なんかありませんね。


 また、風力発電の導入も結構なことですけれど、掲げられた導入目標量は風力資源の賦存状況からみて陸上での導入限界を超えています。これを実現するためには、国立公園、洋上での立地が必要となります。でも、国立公園内には立地規制があり、また、環境アセスメントを行う必要があるので、手続きに要する時間だけで2020年にはとても導入目標は達成できません。


 さらに、こうした温暖化対策全体を実施した場合の日本経済への影響が検討されていますが、その結論として経済成長は促進されると書かれているものの、その算定根拠が示されていない。それだけでなく、温暖化対策のプラスの面だけが分析されているのです。変ですね。


 こんな明々白々な問題点や矛盾点を含む提案を、行政庁として世の中に出すべきではありません。「政治主導」に悪乗りして、行政官としての責任を放棄したように見えます。私がここまで厳しく批判するのは、目標達成に向けて自分の責任でできることすら検討していないからです。特に風力発電については、ロードマップを公表した環境省自身がその立地の推進に大きく関わる環境アセスメント法や国立公園法などの法施行に責任を持っています。本当に導入目標を達成することが必要と考えるなら、必要となる法制度、運用の具体的改善提案を併せてロードマップに示すべきです。


 このコラムがまだ書きかけだった昨晩(5月29日)、普天間基地の移転問題についての閣議決定後の鳩山総理の記者会見がありました。私は、いろいろな思いをもってこの記者会見を聞いていましたが、総理がこの問題に関する自分の思い、今日の決定に至るまでに執ってこられたという「努力」の内容、そして思いが果たせなかった原因などを縷々説明されたことにはとても大きな違和感を覚えました。政治は結果がすべてです。ご本人の悩みや思いがいくら共感を呼ぶものだとしても、結果を出せずに国民を混乱と不幸に落とし込んでしまったら、残酷なようですが政治家としては失格です。


 結果がすべてのはずの政治がプロセスを言い訳がましく語り、プロセスを重んじるべき科学者が結果だけを言い立て、そして、きちんとした分析に基づいて政策の案を提示すべき行政官がその責任を疎かにして権力者におもねる。専門家の責任というものが、あちこちでないがしろにされているようで残念に思います。




i.この問題については、4月6日付けのドイツのシュピーゲル誌のオンライン版が、とてもよくまとまったサマリーを掲載しました。21世紀政策研究所の澤さんが、その和訳をWEBに掲載しているのでご覧下さい:http://www.21ppi.org/pdf/sawa/100427.pdf
ii.なお、この"一部の専門家"とは、第59回「続々『90年比25%削減』、そして『事業仕分け』」に書いたように、「11月末を目標に行われた試算作業の結果が『思わしいものでなかった』ので、分析作業のメンバーを入れ替えて、再度、2月末までに『鳩山政権を応援してくれるみなさんと』試算作業をやった」専門家の「みなさん」です。
iii.「地球温暖化対策に係る中長期ロードマップの提案」についてのより詳しい分析は、(財)日本エネルギー経済研究所のHP(http://eneken.ieej.or.jp/more_headline.php)に掲載された「環境省『中長期ロードマップ検討会』の分析について」をご覧下さい。なお、この分析は、上記注3に書いた顛末で分析作業から外された専門家によるものです。

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