第59回 続々「90年比25%削減」、そして「事業仕分け」


 いよいよ秋が深まってきました。秋晴れに恵まれた11月28日の土曜日、神宮外苑では眼にまぶしいほど黄色に染まった銀杏並木が真っ青な空を背景に映え、絵画館に続く道を飾っていました。たた、結構な人出で周辺はまるで花見の時のような雑踏です。銀杏並木を見ついでに、赤坂までのんびりと小散歩を楽しみ、美味しい蕎麦でも食べて帰ってこようと出かけた私は、ややほうほうの体でそこから逃げ出しました。それでも、近くの赤坂御所や高橋是清記念公園の木々は色とりどりに色づいていて、すがすがしい都心の秋をそこここで楽しむことが出来ました。


 今回は、このような世事とは無縁の秋の風情でも書いてみようかとは思ったのですが、最近は、地球温暖化問題や「事業仕分け」など、気になる事が多すぎて、またまた時事評論のようなコラムになってしまいます。


【続々「90年比25%削減」について】


 11月25日の朝日新聞の1面トップの報道に加えて、30日の産経新聞で「地球温暖化問題に関する閣僚委員会」のタスクフォースの混迷ぶりが伝えられています。温室効果ガスの「90年比25%削減」の家計への影響の試算作業についてです。記事によると11月末を目標に行われた試算作業の結果が「思わしいものでなかった」ので、分析作業のメンバーを入れ替えて、再度、2月末までに「鳩山政権を応援してくれるみなさんと」試算作業をやるというのです。(朝日新聞は、同様の記事を12月4日の朝刊にも書いています。)


 これが本当だとしたら、とんでもないことです。2つ問題があります。一つは、科学的な分析作業が政治によって捻じ曲げられるという問題です。改めて言うまでもないことですが、いろいろな政治判断はあり得るとしても、科学的分析の結果をないがしろにしてはいけません。タスクフォースに参加した専門家からは、「政治に迎合することは『学者生命にかかわる』」との正しい危機感が出ているようです。そのとおり。専門家は、こうした圧力に屈してはなりません。それにしても、どうして日本の学界はこうした問題について、いつも寡黙なのでしょうか。科学的な評価や分析結果についての国民の関心が大きいとき、専門家集団としての責任ある見解の表明が、もっとあっても良いと思います。責任ある見解の表明とは、「こういう理由で分からない」ということでも良いのです。(言わずもがなの憎まれ口を付け加えれば、予算の削減の時にはいち早く声を上げる、あの機動的な対応が、こういった問題に対しても必要なのではないでしょうか。)


 二つ目の問題は、今週の7日から(18日までの予定で)始まったCOP15に、日本は何も判断材料を持たないまま出かけて行くことになりかねないことです。現状では「90年比25%削減」に国民の理解があるとはいえません。目標を達成するための国民負担、具体的な方策が何も示されていないからです。こんな大事な目標について国民の理解がないまま、交渉に臨んでよいのでしょうか。また、交渉に付き物の妥協策を考えるための材料もありません。地球温暖化問題という将来にわたる利益が絡む問題の交渉には、各国ともにしっかりとしたポジションをもち、自国の利益の確保のために全知全霊を傾けて交渉に臨んできます。加えて権謀術策も渦巻く国際交渉に、日本は徒手空拳で臨もうというのでしょうか。


 さらに、「90年比25%削減」の前提条件として掲げた「主要国の参加による意欲的な(排出削減)目標の合意」をどのように確保しようとしているのかも相変わらず分かりません。私は、前回、前々回のコラムで、いろいろとこの点について書きながらも、さすがに政府部内では総理が国内外に掲げた前提条件を確保するための真剣な検討が行われているのだろうと、これまでは信じて見ていました。しかし最近は、実は、何も検討が行われていないのではないかと心配になり始めています。「90年比25%削減」は、将来にわたって日本国民に大きな負担と影響を与える可能性のある数字です。そうした切り札を国際的に既に見せてしまっているのにもかかわらず、その使い方についての良く考えられた案がないとしたら、とんでもなく無責任なことです。


 COP15に向けた交渉ゲームは既に始まっています。11月25、26日と米国、中国が相次いで2020年の「排出削減目標」についてのカードを切ってきました。見かけは派手ですが、中身はたいしたことはありません。まず、アメリカの「2005年比17%の削減」は、90年比では4%減にしか過ぎませんし、海外の排出枠の利用も含んでいる数字です。中国の「2005年比40〜45%削減」というのはGDP当たりの排出原単位です。だから中国のCO2排出量は、中国が目指す年率8%以上の急速な経済成長に伴って、これからも年率4%以上で増え続けることになります。中国のCO2排出量は、世界の20%。すでに米国を抜いて世界一、日本の5倍以上の排出量になっていますから、この「削減」による増加量は、日本の排出量が毎年20%以上増加するのと同じ規模です。そして何よりも、両国ともに、これらの目標を国際的な義務として受け入れることは約束していないことに注意しなければなりません。


 最近では、京都議定書の単純延長の可能性も語られ始めています。このままでは、全く性格も厳しさも異なる米国や中国の「目標」と、日本の「90年比25%削減(05年比30%削減に相当)」の目標が十羽ひとからげで「ピン留め」される一方で、中国も米国も排出削減義務を負わない国際的枠組み(これは、現京都議定書と同じです)に落ち着く危険性だってあります。実は、この各国の削減義務を見直した「京都議定書」の単純延長という可能性は十分にあり得るのです。細かいことには触れませんが、現在、国連で行われている交渉では、京都議定書に続く、より広範な国々の参加を得た新たな議定書をつくるなんていうことは実はどこにも約束されていません。一方で、京都議定書で排出削減義務を負っている先進国の新たな削減目標を交渉することは、交渉マンデートとして明記されているからです。


 「90年比25%削減」のカードを見せてしまった日本には、「主要国の参加による意欲的な(排出削減)目標の合意」という前提条件を交渉カードとしてフルに使うということしか残されていません。本当に地球温暖化対策として実効性があり、日本だけが過重な負担を負うことのない国際合意の実現のために、政府にはそれこそ全知全霊を傾けていただきたいものです。


【Climate gate事件】


 話は全く変わりますが、「Climate gate事件」ってご存知ですか。これについて日本で報道しているのは、今のところ朝日新聞だけのようですが(11月26日付け朝日新聞夕刊、環境エコロジーのコラム)、欧米メディアでは大騒ぎになっている話です。(余談ですが、先の「地球温暖化問題に関する閣僚委員会」のタスクフォースの混迷ぶりの報道といい、与党側の新聞となってしまった後も、これらの報道を見ると朝日新聞のマスコミとしての健全さが表れているように思います。)


 「Climate gate事件」とは、IPCCの報告書のとりまとめにあたった研究者が、20世紀初頭からの気温上昇カーブを推定する際にデータを恣意的に選択したり、修正係数を掛けたりして、地球温暖化を誇張したとの疑惑です。気象研究で有名なイギリスのイーストアングリア大学のコンピュータにハッカーが侵入し、大量のEメールが流出したことがきっかけとなりました。そのE-メールの中に国際的に著名な英国の気候学者から米国の古気候学者に宛てて「気温の低下を隠すtrickを終えたところだ」などと書いたメールなど、データの操作を疑わせる情報があったというのです。これに加えて、気温上昇の証拠とされたデータの公開要求が拒まれたとか、異なるデータを用いた追試では気温上昇の証拠は見出せなかったということも報道されています。そしてこの問題は、単なるネット上の騒ぎに終わることなく、米国上院でも取り上げられる可能性があるようです。


 この事実関係の真偽は真偽で大変に大きな問題ですが、関連の情報を見ていてちょっとびっくりしたのは、シベリアのヤマール半島にあるわずか10本の木の年輪資料が、IPCCの報告書で20世紀の気温上昇が急激なものだったとされている根拠だということです。この事件が起きた時期がCOP15の始まる直前という時期だけに、本件については陰謀説もささやかれているようですが、あたかも科学的事実のように理解されていることについても、原典と原データを当たってみないと危ないというやや悲しい話です。真偽も分からずにこんなことを言うのは乱暴ですが、もし、こうしたことが行われていたとしたら、政治化した科学者というのは、もっと始末が悪いですね。Professional Societyやピア・レビューの限界なのでしょうか。これも大変に寂しい話ですが・・・。


【事業仕分け】


 産学官連携推進予算が、「事業仕分け」で軒並み「廃止」や「大幅な縮減」と判定されました。産学官連携を推進し応援してきた者として、何故こうしたことが起きたのだろう。「事業仕分け」に参加した「一般の方」と、総合科学技術会議のような「専門家」の判断がどうしてこんなに異なるのだろうかと純粋に疑問に思い、「廃止」と仕分けされた文部科学省の「知的クラスター創成事業」、「都市エリア産学官連携促進事業」、「産学官民連携による地域イノベーションクラスター創成事業」に対する評価者のコメントを見てみました。


 コメントの一つは、「複数にまたがる複数の事業が未整備に乱立し、分かりにくいし、恐らく使いにくい」というものです。確かにこの指摘は分かります。使う方から見ると、どの制度はどの機関がいつ受付をしているのか分かりにくいし、また、制度間の違いも分かりにくい。これは、改善すべきでしょう。でも、この分かりにくさを改善するため、地域科学技術振興ポータルサイトというワンストップ情報サービスを提供しているはずです。そういった説明はしたのでしょうか。それにしても、分かりにくい、使いにくいから事業を廃止せよというのは、相当に乱暴ですね。ニーズはあるのだから使いやすくする方策を考えるというのが論理的な対応のはずです。


 「文部科学省が地域活性化策をする必要はない」という指摘もありました。大学のミッションは、教育、研究だけでなく、研究成果の社会還元にもあることをご存知ないのでしょうか(国立大学法人法第22条)。特に地域の大学では、大学の研究能力、成果を活用して地域の活性化に貢献することは、その重要な役割ではないでしょうか。「経済産業省や中小企業庁が考える分野」ということも指摘されています。それらの省庁の役割は否定しませんが、地域大学の持つシーズでイノベーションを起こし、地域活性化する可能性はないというのでしょうか。(費用対効果の議論なら、まだ主張としては理解できますが。)


 もちろん、私は地域の産学連携を推進するために、アプリオリに国の予算を投ずるべきだと言うつもりは全くありません。産学連携の事業にメリットがあるなら、メリットを感じる者が多少のリスクをとってでも自助努力するのが本来のあり方だからです。ただ、産学連携が当たり前と思われるようになったのは、ほんの5年ほど前からのことだという歴史も忘れてはなりません。それまでは、学は産から距離を置くべきという考え方が大学では普通の考え方だったのですから・・・。すなわち、国の政策的関与の必要性を判断する際には、現在の一般人の常識を振りかざすだけでなく、その分野の歴史的背景や事業の文脈も理解すべきです。


 また、「クラスター、集積はこのレベルでの事業規模では成果が生まれない」という言葉の定義にとらわれたような議論や、「各自治体の状況に違いがあり、現場に近い組織に判断させる事で効率が上がるのではないか」といった、事業の仕組みが分かっていないのではないかと思われる意味不明の評価もあります。


 そして、やや驚くことは、「廃止」と判断された理由は、以上に挙げた点で全てなのです。 実は、私は「仕分け」を批判しようと思ってこの文章を書き始めたのではありません。これまで、政策の企画立案が役人だけの論理や視点で行われてきたことの弊害を廃し、国民の目線に立った政策に変えていく上で、今回の「仕分け」は意義があったと思います。そして、確かに国の予算に無駄がないわけではありません。私も、予算に削減の余地はかなりあると思います。しかし、上述のように「仕分け」理由を冷静に見てみると、納得感が得られないことも事実です。さらに、こんな議論で「廃止」と判定された事業の担当者や関係者の方々の口惜しさも、よく理解できます。


 現場には、現場に行ってみないと分からない事情や問題があるものです。事業のコンセプトなどの説明は聴かぬ。余計な説明には聴く耳をもたぬといった姿勢は正し、施策の背景や文脈についても知ったうえで、国民の目線に立った議論をすべきです。そのためには、「公開処刑」のような品のないやり方は、まず止めて、そして、もう少し時間をかけて丁寧にやって欲しいと思います。予算要求内容に国民の目を入れていくということは、基本的には、私たち国民一人ひとりが、税金の使われ方について関心を持ち、声を上げていくという、民主主義国家として成熟していくための大事な活動なのですから・・・。



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