出口俊一

デジタルニューディール研究所代表
DNDメディア編集長
金沢工業大学客員教授
ジャーナリスト

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5月13日
4:41 おはようございます。先ほど地震がありました。昨日のあさもそうでした。震源地に近いためか、小刻みながら振動が激しい。午前4時すぎ、地震で昨日、今日も目が覚めた。まだ余震が続いていることを、その恐れが止んでいないことに気づいた。 屋根で雨音がする。冷たい雨が降り続いています。さあ、さらに、南へ。午後には、石巻に入ります。どの街も、それぞれの悲しみがあります。絶望を超えた悲しみとでもいうのか、顔から表情を消した数人の被災者に直接会った。それらはメルマガに書きたいと思います。コミュニティの形成、再興、現実を前にすると、言葉の響きが軽い、虚しい。
4:57 被災現場には、やはり小川さんのアドバイス通り、長靴が重宝しています。瓦礫の街は、まだぬかるんでいる。川底のように石がゴロゴロし、板や柱に釘が突き出ていた。ガラスや鉄板の切れ端が散乱しています。軍手、それにマスク、マスクは必需品です。水を入れる自前の容器、ペットボトルで小まめに補給した。トイレがない。電気の充電がすぐにできない、そんな中で、iphoneは、抜群の威力を発揮しています。動画も撮りました。す。ご覧の通り、リアルタイムでfacebookでつながる。凄いと、感心した。S.ジョブズさん、M.ザッカーバーグくんに、こころから感謝。それとソフトバンクの孫正義氏に御礼、です。
5:11 あっ、また余震が、それにしても、こんなに涙腺がゆるいはずはないのに。辛い非日常が、不自由でやるせない苦難の日常に変わったままだ。どこを見て歩いても涙がとまらない。顔がひきつる。新聞の見出しに、涙をふいて、とあった。黙って一人になると、とめどなくながれてきます。黄色い首巻が離せません。
5:24 朝からよく歩きました。これから街にでよう、と思うが、どうか。傘は持参した。コートもある。iphoneのGPSを使えば、位置情報を知らせてくれるから、迷うことはない。足利さん宅にご迷惑だろうか。もう少し待とうか。その間、朝歩いて拾った写真をアップします。
5:31 羽美ちゃん、二歳。若いパパ、ママの悲しみの深さは…。
5:32 一面焼けた黒い街に、鯉のぼりの緋、藍。
5:34 窓、壁、柱が突き破られた校舎から、やはり鯉のぼりが。
5:36 瓦礫からすずらんのプランターがありました。花は咲いています。
5:43 釜石の鵜住居地区は壊滅的でした。三月初旬に完成した防災センターに住民2百人余りが避難した。そこに大津波が襲った。死者、行方不明者が150人に及んだ。入口に献花台がおかれていた。クマさんの縫いぐるみが、ありました。偶然、持ち主が現れた。やはり、ドラマがありました。これもメルマガで。
5:45 アルバムはドロの中から自衛隊員や、瓦礫撤去の作業員らの手で拾われています。
5:48 アルバムと同じく位牌、木彫りの置物、仏像なども集められています。根浜地区で。
5:55 安否確認の貼り紙、ホテル蓬莱館で。被災当日、ココに付近住民ら87人が避難した。電気、水道、電話なし、道路は遮断し数日孤立した。まだ二人が避難しています。食糧もなし、電気、水道もない。義援金は?まだ手続きしていない、と避難している中年の男性は、力なく話した。どうするの? 押し黙ったままでした。
5:58 高台の家も吹き飛んだ。赤ちゃん無事だったろうか。
6:01 安否確認、捜索情報が伝言板から消えない。
6:04 どこから流れ着いたのか、琉球人形とある。修学旅行の土産だろうか。
6:06 う〜む、こっちを向いてよ、ねぇ…。
6:10 お母さん、元気だろうか。両石町の津波慰霊碑付近で。
6:12 車椅子がこんなところに。両石町で。
6:17 …。孫をだくおじいちゃんだろうか、人形の手にある一枚のスナップは、偶然なのだろうか。瓦礫撤去の作業員が、一瞬に置いたのかもしれない。一瞬、ドキリとした。
6:22 仲の良い兄弟かもしれません。この一連の写真などは、釜石の両石町海岸から斜面に入ったところのがけ下で撮影しました。悲しみがおさまりません。
6:22 わがままな僕の取材に、どこでもついてきてくれた佐々木雪雄さん、クルマを降りてどんどん歩くから随分、クルマでまたせました。トイレタイムで、一度、家に帰り、用をすませてからまた現場に戻る。早朝は、朝4時すぎから8時ごろまで付き合わせた。滞在の2日間、本当に助かった。可愛い奥様同様、兄さんには感謝しきれません。彼は震災当日、率先して炊き出しをやり300人以上の世話をし、帰宅困難な方々を自宅に泊めた。その数、21人、気仙沼からの26歳の
女性は、一週間世話になった。両親と御礼にきたそうだ。雪雄さんが、これを縁に長い付き合いをお願いします、と頭を下げた。頭を下げるのは私の方ですよ。落ち着いたら、家内とくる約束をした。初対面なのに、有難い。涙、涙。
8:45 福島原発の事故をめぐる動きが、時系列で記述されている101ページの東電の非公開資料を朝日がスクープ、どうして早く公表しなかったのかね。ガスの充満し蒸気がもれている可能性を示唆、ベントの必要性を12日深夜0時12分に認識していたことが判明した。ベントのタイミングを午後3時ごろ予定と、午前2時35分にやはり確認していた。海江田さんの生の声、手動でベントせよ、が生々しい。この危険のシグナルをいつ発表したのか。
10:12 前夜来の雨があがり、少し青空が見え隠れしています。足利さん宅を後にしました。品のある奥様、賢いご子息に見送られました。EM栽培のトマト、ナス、それにとうがらしの苗を奥様からプレゼントされました。さあ、幼稚園を訪ねて、盛岡からの高橋比奈子さんらと合流、いよいよ石巻へ。
10:21 気仙沼の足利さんから、次に盛岡から迎えのEM岩手の高橋さん、蒲田さん、そして竹田さんらと合流し、石巻へ向かいます。
10:36 国道45号線を南下、沿岸部沿いに本吉町を目指し、さらに歌津、志津川に向かう。いやあ、気仙沼市内をクルマで5分走ると、国道をはさんで左右の民家がやられていた。すでに感覚がマヒしているのか、カメラを向ける気持ちにならない。
12:28 石巻 道の駅 上品の郷にいました。盛岡の高橋さんらから、宮城の斎藤義樹さん、斎藤さんは、神社の宮司です。若いイケメンです。これからお世話になります。出口リレーですね。
15:02 斎藤義樹さんの案内で、石巻市立湊小学校に向かいEMの散布による悪臭対策の現場を見ました。凄い効果です。
15:10 小学校のプールは、流れ着いた乗用車3台の油や泥水で悪臭がひどかった。斎藤らがEM活性液を流し込んだ。その効果で学校関係者から喜ばれています。プール、トイレ、学校周りにEMをまいた。
15:22 斎藤義樹さんから、次は、EMみやぎの会の安斎かずえさん、窪田正子さんにバトンタッチします。石巻から女川町、多賀城市へとむかいます。
16:07 宮城県女川町 万石浦にいました。息を呑む惨状でした。悲劇ひきずる女川町の女川町立病院から。高さ50mの高台まで津波がきた。かなわないなあ。
16:21 女川町立病院にいました。
16:22 凄まじい。なんでこんな高台まで。
16:49 う〜。
17:09 ビルが横倒しに。こんなのみたことない。積み木倒し。
17:15 根こそぎ、倒れた。周辺は暗澹たる風景が広がる。どうしたらよいのか。
23:00 仙台ホテルグリーンパシフィックにいました。
23:18 女川町の高台で、出会ったのは、japan TSUNAMI Disaster 2011 Expeditionary Humanitaran Assistance Team のGerald Scott Flintさん、California State Lands CommissionのAlex Augustinさん、それに港湾空港技術研究所の特別研究員の菅野高弘さん、かれらはこれまで幾多の津波震災現場を視察し、知見を積み重ねてきた。有意義な会話に花を咲かせた。
23:18 ALEXさん、右らと記念撮影しました。
彼らは日米土木学会の合同の視察チームとしてこの女川町にやってきた。
23:25 仙台市に入りました。仙台では、最後の出口リレーのアンカー役に、地球環境・共生ネットワーク宮城県代表の、小林康雄さんでした。明日、ご一緒します。それではおやすみなさい。

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