第72回 中西準子先生の文化功労者受章に思う


 10月の末にうれしいニュースが飛び込んできました。それは、平成22年度文化功労者に中西準子先生が選ばれたことです。


 中西先生は、現在、独立行政法人産業技術総合研究所の安全科学研究部門長を務めていらっしゃいますが、これまで産総研、横浜国立大学、東京大学を通じて、有害物質が人の健康や環境にもたらす可能性のあるリスクを科学的に評価し、より合理的にリスク管理を行うための方法論を開拓、普及されてこられた方です。代表的な著作には「水の環境戦略」(岩波新書No.324、1994年)、「環境リスク論」(岩波書店、1995年)、「環境リスク学−不安の海の羅針盤」(日本評論社 2004年) (第59回毎日出版文化賞、第5回日経BP・BizTech図書賞受賞) などがあります。


 これまで、とかく「危険」、「安全」の二分法的な考え方に立って、「危険」となると極端な対応をしがちであった日本の有害物質の安全対策に、中西先生は科学的合理性を導入するさきがけとしての役割を果たしてこられました。「人の命は地球よりも重い」と科学的思考を止めるのではなく、「人の損失余命」という、それまではタブーとも思われていたようなことに科学合理性を導入して、リスクの大きさに応じた対策や対策間の優先順位の検討を可能にされました。安全対策をリスク管理対策へと進化させたとも言えるでしょう。


 私は、かつて(1996年)経済産業省で化学物質のリスク管理政策に携わったときから、中西先生とお付き合いさせていただいていますが、リスク管理研究において、科学的に中立、公正な評価を行うことに妥協を許すことなく、真摯に追求されている中西先生の姿にはいつも感銘を受けてきました。さらに、化学物質のリスク管理問題について、専門家として科学的に中立、公正な情報や見解を発信することに、時には愚直とも思えるほど誠実に取り組んでおられる姿勢は、まさに「専門家」の鑑であると思います。(専門家としてそうした発信を続けることがどれほど大変なことかについては、連載第65回「専門家の責任」をご覧下さい。)


 そうした尊敬する身近の方が、栄えある賞を受章されたということだけでもうれしいことですが、中西先生を文化功労者に推した文化審議会の推薦文の内容も、「より合理的で、かつ、満足度の高い合意を実現していくために必要となる科学」、あるいは、「レギュラトリー・サイエンス」、「政策科学」へ科学技術活動の重点をシフトさせていくことが重要と考えている(※1)私にとって、とてもうれしいものでした。推薦文の全文は、関係の資料を見ていただくこととして、そこにはこんなことが書かれています。


 「環境リスク管理学の分野において、『人の損失余命』と『生物種の絶滅確率』という人の健康と自然環境に対するリスク評価軸を提案・確立するなど、定量的な環境リスク評価と環境リスクマネジメントの研究において優れた業績を挙げ、斯学の発展に多大な貢献をした。

< 氏は、永年にわたって環境問題の解決を目指した実際的な研究を行い、その成果を社会に対し提言し、かつ、実践してきた。・・・(中略)・・・同時に、これら実践的な研究や経験に基づいて、新しい環境リスクマネジメントの考え方ができる人材の育成にも熱心に取り組み、多くの人材を社会に送り出してきた。・・・(後略)」


 推薦文には定量的な環境リスク評価と環境リスク管理の研究、そして環境問題の解決を目指した実際的な研究の重要性がきちんと認知されています。また、新しい環境リスクマネジメントの考え方ができる人材の育成についての功績も述べられています。文化功労者が、「日本において、文化の向上発達に関し特に功績顕著な者」に対して贈られるものであることを考えると、国が環境リスク管理学についてこうした認識をもつまでになったのは、本当に大きな進歩であると思います。


 人に教えられて、中西先生が自分のブログ(homepage3.nifty.com/junko-nakanishi/)で文化功労者の受章のニュースについて語っておられるのを知り、久しぶりにブログをのぞいて見たら、中西先生はこんなことを書かれていました。


 「私が選ばれたことも驚きですが、それ以上に、環境リスク評価・管理という研究分野でこのような権威あるものに選ばれたことに、ただただ、驚いています。

私の行ってきた研究は、在来の伝統ある学問とはひどくかけ離れています。一つのことを突き詰めて、新しい発見に至るというのではなく、多くの知識を集めてそれを体系化し、我々が進むべき道の指針にしようとする研究です。

 在来の科学がかっちりした枠組の中で作られ、正しさが証明されるのとは異なり、枠組自体が研究対象であり、しかもそれは相当のやわらかさを持っています。それにも拘らずこの研究結果を認めて頂いた、そのことに驚き、感激します。

 同様に、科学はもっと現実の複雑な問題、人類が苦しんでいる現実問題に真正面から向き合い、その貢献に解決せよという強いメッセージを感じます。」


 中西先生は、上記のように世間の認識の進歩に素直に驚きを表されています。いかにも中西先生らしい。また、「(環境リスク評価・管理研究が)相当なやわらかさをもっています」なんていうところは、本当にいいですね。ご自分のやられていることをきちんと見つめられている。また、目上の方に向かって失礼な物言いになりますが、この文章全体には、中西先生の少女のように純粋なお人柄が表れています。


 また、ブログにはこんなことも書かれていました。


 「先日、野間口有理事長に報告に行きました。その際、理事長は『数年のうちに、ノーベル賞もこういう分野を選考対象にするだろう。時代は確実にその方向に進んでいる』と言いました。

 そうか、そういうことか、時代が必要としている研究として選ばれたのだとひとつ納得がいきました。

 私の研究は未熟です。どう見ても足りないところばかりで恥ずかしいです。しかし、今回文化功労者のような権威ある大きなものに選ばれることができました。科学は、もっとこういう問題に取り組めという意味で選ばれたと思います。」


 野間口理事長のコメントも良いですねえ。良いだけでなく、とても示唆に富んでいる。野間口理事長には、三菱電機(株)の社長、会長時代からお世話になっていますが、民間企業の研究者を経て日本を代表する企業のトップを務められ、そして、今や日本を代表する公的研究機関、産業技術総合研究所のトップになられた方が、学術研究の最高の賞と考えられているノーベル賞の将来の道行きをそのように見られていることは、日本の公的研究、ひいては学術研究のありように関する重要なメッセージだと思います。


 先述の脚注1に掲げた文章など、このDNDのサイトでも既に何回も書いていることの繰り返しになりますが、安全・安心な社会を作り上げていくためには、リスク管理問題に係る科学合理性の高い選択肢を国民に示し、より合理的で、社会的満足度の高いリスク管理対策に関する合意形成を積み重ねていくことが必要です。これは、民主主義が日本の社会で成熟し、リスク管理対策に係る選択に国民が主体的に関わっていこうとすればするほど高まるニーズです。


 科学(自然科学及び社会科学)は、こうしたニーズに応えていかなければなりません。レギュラトリー・サイエンス(社会的規制・調整ニーズに応えるための科学)がますます重要になります。同時に、社会の合意形成に大きな影響を及ぼす可能性のある「専門家の責任」を専門家一人ひとりが自覚するとともに、学会がそういった責任をきちんと認識し、専門家のsocietyに相応しい健全な相互批判(ピア・レビュー)機能を発揮しなければなりません。天然に存在する化学物質だから安全、人工物に作られた化学物質だから危険などといった科学的にも誤り(※2)であるだけでなく、安全・安心な社会を作り上げていく上で必要となる限りある対策資源の合理的な配分を誤らせかねない、「二分法」的な議論を展開する「専門家」がいまだに存在することは大変に残念なことです。


 今回の中西先生の文化功労者の受章は、安全・安心問題に携わる専門家のあるべき姿と、レギュラトリー・サイエンスの重要性に関する認識が、文化として日本の社会、そして学会にも芽生え始めているという証という意味で、大変にエポック・メーキングなことであったと思います。



1.何故、そのように考えているかについては、以下の文献等をご参照ください; 塩沢 文朗 「よりよいリスク管理を実現していくために」、Law & Technology、No.36 2007年7月、民事法研究会; DNDの「イノベーション25戦略会議」への緊急提言 No.19&24として書いた「イノベーションと安全と安心 その1、その2」、そして本連載第25,26回「安全・安心な社会づくりのためのアプローチ」など。
2.ちなみに、現在、知られている最強の発がん性物質は、ピーナッツに生えるカビ毒のアフラトキシンです。


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