塩 沢 文 朗

前内閣府大臣官房審議官
(科学技術政策担当)



イノベーションと安全と安心



 イノベーションの推進に当って、安全と安心の確保が重要なことは改めて指摘するまでもないが、それを両立させるために必要となる科学技術面の取組みについて考えてみたい。

 最近、「安全と安心」への人々の関心がかつてないほど高まっているが、この背景には何があるのだろうか。治安の悪化、安全保障上の脅威の増大、環境問題や食の安全に対する懸念の高まりなどをその要因として挙げることは可能であろうが、私は、それにとどまらない大きな社会潮流の変化があるのではないかと思う。

 安全の確保を「お上」に任せ安心して生活することができた、やや逆説的だが、「平和な時代」は過ぎてしまった。「お上」に任せず、自分の頭で判断し、自分の判断と選択に基づいて、社会の中で行動をしようとする人々が確実に増えている。こうした変化は、わが国における民主主義が一層の成熟化を遂げてきた証左ととらえるべきではないかと私は思う。

 もっと言葉を選んで問題提起を進めよう。私たちは、どんなものにも100%安全ということがないことを知っている。だから、「安全の確保」という言い方はやめ、「リスクの管理」という言葉を使いたい。ちなみに、リスク概念の誕生は、人間が旧来からの因習から解き放たれ、神秘主義を科学と論理で打破するようになったルネッサンス時代だそうだ。リスクをどのレベルで管理することが適切かという議論は、近代1958年に米国のFDA (Food and Drag Administration)が、食品添加物に起因するリスクをゼロ・レベルで管理するという考え方の規制(デレニー条項)を導入したことをきっかけとして、ゼロ・レベルの管理は不可能であり現実的でないとの議論が巻き起こり、それ以降、特に米国を中心に活発に行われてきた。リスクとの付き合い方は、科学技術の発展に影響されることはもちろんのこと、個人と社会との関係の進化によっても大きく変わってきたのである。現代では、日本を含め、多くの人為的リスクは可能な限り科学的なデータに基づいて10-4から10-6のレベル(*i)で管理されるのが一般的となっている。

 当然のことながら、目標とするリスクレベルでリスクを管理するためには、リスクの計測(リスク評価)が必要となる。このためには、多大な科学的な努力が必要となる。一定の試験法に基づいて、計測を繰り返し、データを積み上げ、分析評価する地道な作業だ。化学物質の発がん性などを調べるためには、多くの動物を使い、長期にわたって試験物質を投与し、解剖、分析、評価などが必要となる。もちろん、学術研究なども同様の地道な努力を必要とするものも多いが、学術研究と決定的に異なることはそうした努力が学術論文とはならず、社会から賞賛を浴び、評価されることがないことだ。

 こうしたことも一因となって、日本では、こうした分野の人材がほとんど育たない。わが国では、これまで食品添加物、農薬、医薬品、化学物質等からもたらされる可能性のあるリスクは、それぞれの関係法令の規定に基づいて、省庁の職員がリスク評価に必要となる情報を整理し、その情報をもとに審議会や専門家委員会に集められた学識経験者に意見を聴き、評価されたリスクのレベルに応じてリスク管理措置を決定してきた。しかし、省庁の職員は定期異動があるから、専門的知識が蓄積されにくい。学識経験者にとってもこうした仕事は業績として評価されにくいから、高度の専門的知識は、一部の「功成り名遂げた」外部の学識経験者の片手間働きによって補完されてきたのが実情である。さらに、最近では、これまでこうした分野の人材育成を担ってきた大学の公衆衛生学、毒性学、安全工学、原子力工学等の講座がどんどん減少している。

 一方、米国では、多数の高学歴の専門家が行政機関に常勤職員として在職し、リスク評価活動を含む規制業務に携わっている。米国では、有害化学物質は、米国環境保護庁(EPA)のOPPT(Office of Pollution Prevention and Toxics), 農薬の規制は同庁のOPP(Office of Pesticide Programs)、医薬品の安全審査はFDAが担当しているが、これらの機関には常勤の専門家が多数在職し、日々のリスク評価活動にあたっている。これら各機関の職務内容は、日米間で関係する規制内容や規制組織内または間の責任分担関係が異なることもあって同じとは言えないが、これら機関の常勤職員の数を比較すると日米間でほぼ10倍程度の差がある。

 科学技術基本計画が策定され、まがりなりにも長期的観点に立って計画的な科学技術政策が進められるようになって10年を経て、科学研究費補助金を中心とするわが国の基礎研究費は着実に増加した。しかし、それらの研究費は、学術論文になるような新しいことの発見や発明につながる研究に使われたとしても、上記のようないわば定型的で地道な活動を要求される重要な科学技術活動には振り向けられることはなく、むしろ限られた予算のパイの中で逆に圧迫され、厳しい活動環境におかれ続けてきたのが実情だと思う。

 国民が安全と安心への希求を高める中で、社会が新たな科学技術成果で生まれた変化の可能性を受容し、イノベーションという社会変化に結実させていくためには、変化の受容に関する社会的合意の形成が必要である。そして、その合意は、できる限り合理的で、かつ、関係者の満足度の高い合意であることが望ましい 。(*ii)しかしながら、「合理的」な合意が、「関係者の満足度の高い」合意とはならない場合があり、また、「関係者の満足度の高い」合意が「合理的」な合意とならない場合があるために、新たな科学技術成果がイノベーションとして結実しない結果に終わることがあることに留意しなければならない。このことは多かれ少なかれ、全ての新たな科学技術成果について言えることだが、特にその変化が、利便性とうらはらに安全性に関わる問題を提起する可能性のある場合、合理的で、かつ、関係者の満足度の高い合意が形成できるかどうかがイノベーションの実現の鍵を握ることになる。

 冒頭に述べた民主主義の潮流の大きなうねりを考えるとき、科学技術活動に関する評価の視点をはっきりと変えるべき時期が来ているように思う。新たな発見、発明のみに高い賞賛を与えるのみでなく、社会の合意形成や利害の調整に資する科学技術活動に対しても光が当るようにしていかなければならない。

 実は、この科学技術活動は、自然科学分野にとどまらない科学技術活動を含むのだが、この点についての問題提起は、次の機会に譲りたい。


i.10-6のリスクとは、100万人に一人の人が、当該人為的リスクを原因とする危害によって、寿命(約70歳)をまっとうできずに死ぬ確率である。
ii.ここで「できる限り合理的」と書いたのは、社会で形成される合意には、科学的、経済的に見て合理的でない合意が十分にありうるからである。例えば、BSEを契機として起きた牛肉の安全性の確保策に関する現在の規制は、科学的、経済的観点からは、合理的な合意とは言えないとの批判がある。但し、この合意は、国内的には、「できる限り合理的で、かつ、関係者の満足度の高い合意」と言えよう。