第25回 安全・安心な社会づくりのためのアプローチ(その1)



 今回から2回にわたって、安全・安心な社会の創り方として、もっと政府に依存しない、そしてうまく機能すれば、もっと有効なリスク管理が可能となる社会の仕組みについて考えてみたいと思います。端的にいえば、様々なリスクの管理にあたって、規制的なアプローチから、関係者に自発的努力を促すようなアプローチに可能な限りシフトしていくような社会の仕組みについてです。

 以前にもこのDNDの「集中連載『イノベーション25戦略会議』への緊急提言」と題する特集の中で、「イノベーションと安全と安心」と題して2回にわたって書かせていただいたことがあるので、今回は結論だけ書きますが、私は、リスクの管理を規制的なアプローチに依存している限り、成熟した民主主義社会において必要となる、リスクに関わる判断を国民自身が主体的に行うといったことが定着することは望めないのではないかと考えています。また、小さな政府の実現も望めないでしょう。そういった意味で、このアプローチのシフトは、日本の社会にいろいろな発想の転換とイノベーションを生み出す原動力になりうるものの一つではないかと思います。なお、ここで「規制的アプローチ」とは、政府が法的強制力により、政府が定めるリスク管理対策の実施を関係者に対して求め、政府がその実施状況を監視するという、いわゆる一般的な「規制」による対応を指しています。あえて英語を出すこともありませんが、こうしたアプローチのことを英語では、Command and control approachと言って、その内容がよく表されています。

 議論に入る前に、しかし、「リスクの管理くらいは、間違いなく政府の責任でやってくれよ」という声が聞こえてきそうです。これは、極めてもっともな反応です。危害がほぼ確実に及ぶようなリスクについては、政府が責任を持って、規制によって公権力を行使してでも、被害が生じないよう万全のリスク管理対策をとってもらう必要があります。それは政府というものが、最低限果たすべき役割の一つです。

 しかし、現実には、絶対危険(クロ)、絶対安全(シロ)なんていうものはほとんどなく、全てのリスクは灰色の範囲にあり、危害がほぼ確実に及ぶようなリスク(クロに近い灰色)と科学的に判断できるものもごく僅かです。「クロに近い灰色」より濃い灰色、つまり、危害がほぼ確実に及ぶようなリスク・レベルにあると判断されるリスクについては、政府が規制によって、確実なリスク管理対策を講ずべきことは明らかだとしても、残りの多くの灰色のリスクの管理にどのようなアプローチで取り組むかという問題は、国民がその判断に関与すべき政策の選択の問題と思います。

 このリスク管理対策における政策の選択肢は、あえて二分法的に述べれば、規制的なアプローチと関係者に自発的努力を促すようなアプローチに分けられ、従来の政府の行政手法は、規制的アプローチが主流であったと思うのですが、それをもっと後者のアプローチに選択の際の重心をシフトしていくべきではないかということが、本稿で書きたいことです。ここで「重心をシフト」と書いているように、この二つのアプローチは、相互に排他的なものではありません。さらに、私は、リスク管理対策に係る「政策の姿勢」は、この二つのアプローチだけに限られることはないと考えています。その点は、最後に述べたいと思います。

 議論に入る前に、くどいようですが、議論の前提を、もう一回、明らかにしておきたいと思います。ここでは、危害がほぼ確実に及ぶようなリスク・レベルより低いリスク・レベルにある問題で、しかし、一定程度のリスク・レベルがあると科学的に認識されているリスク管理問題に対するアプローチのあり方について議論しようというものです。危害がほぼ確実に及ぶようなリスクに対しては、「規制」という手法に、以下に述べるような手法としての限界があったとしても、政府がそうした限界の克服に最大限努め、規制により、確実にリスク管理対策を講ずるべきです。

 さて、一般に、リスク管理対策というと政府の規制による対策が指向されがちですが、規制という手段には、いくつかの困難と限界があり、どんな場合でも最も有効で、効果的なものとは必ずしも言えません。まず、それについて考えて見ましょう。(なお、以下の議論で、具体的な例を示したほうが分かりやすいと思われるところには、「危害」の例として「発ガン性物質の環境汚染による人の健康への被害」を例として取り上げた場合の該当事象を (  )内に示しておきます。)

 まず、「規制」は、本来、自由が保障されている個人や企業の行動に対して、公権力により一定の制限を課す行為ですから、政府が「規制」という手段を発動するためには、国家権力の濫用にならないよう、規制内容の妥当性についての科学的、合理的根拠を説明することが必要です。絶対的に危険といったリスクはほとんどなく、危害となりうる要因の強度(発ガン性物質の発がん性の強さ)や危害の存在する状況(発ガン性物質の環境濃度)によって危害の発生するリスクは連続的に変化しますから、規制当局は、どのレベルの行為までを規制するか(環境基準や規制値等の妥当性)を示すために、その科学的な因果関係を明らかにすることが求められます。このためには、危害の原因と危害の影響の大きさの間の関係(用量反応関係)を明らかにすることが必要となりますが、用量反応関係を求めることには、相当の時間と専門的検討が必要となります。

 第二に、規制当局は、規制措置が遵守されていることを明瞭かつ確実に確認するための人的資源と設備機器等を用意することが必要となります。したがって政府に対して、さまざまなリスク管理問題について「規制」による関与を求めることは、それだけ大きな政府を求めることにつながります。また、残念ながら政府が、そうしたさまざまなリスク管理を間違いなくやり遂げる能力を十分に持っているとも思えません。

 第三に、(これは第二の点とも関係するのですが)「規制」の手段として利用できる方法は、規制措置が遵守されていることを明瞭かつ確実に、そしてできれば容易に確認することができる方法に限られます。例えば、発ガン性物質の排出規制を行う場合、工場の中では、実は多様な排出源があったとしても、規制措置を講ずることができる対象は、客観的、かつ、確実に計測することが可能な特定の排出口等における排出量や排出濃度といった特定の指標にならざるを得ないなどの制約も出てきます。

 第四に、大半の者が遵守することができないような「規制」は、現実問題として導入できませんから、規制措置や規制値の設定に当たっては、監視や計測の技術的可能性や対策に要するコストの負担可能性など実際的な制約を考慮せざるを得ません。また、規制値を導入した後は、規制値以上の管理を個人や企業に求めることは、規制レベルや内容の正当性に規制当局自身が疑義を呈することにもなり、実際問題として困難です。

 「規制」によらないリスク管理のやり方として、管理されることが望ましい危害のリスクの管理を、そういった危害の原因となりうるものを扱う個人や企業の自発的な管理対策に委ねるという方法があります。こうした方法をここでは「自主管理」と呼びましょう。実は、後で述べるように、「自主管理」については、さまざまなバリエーションがあり得ます。バリエーションはあり得るものの、まず、「自主管理」による管理対策の優れた点を見ていきましょう。

 第一に、生業として取扱う原料や製品について、それを扱う者が必要な知識をもっていることは、当然のことですから、危害の原因となりうるものを(原料や製品等として)生業として扱う者が、危害の性質や危害の発生リスクについて、一般的には最も熟知している者のはずです。こうした者は、特定の工程に限られることなく、リスク管理の面で最も合理的で、かつ、効果的なリスク管理対策を採用することができます。「規制」というリスク管理対策が、排出口での管理対策に限られてしまいがちになるといったような管理対策面での制約はありません。

 第二に、どのレベルまでリスクを管理すべきなのかという判断を、危害を有するものを扱う者に常に問い続けることになり、継続的な管理努力の改善・向上を促すことが出来ます。実は、こうした判断を常に求められ、かつ、管理対策の継続的な改善・向上を求められるといった事態は、危害の原因となりうるものを扱うものにとっては、大変に厳しいことです。何故なら、常に、現在の管理レベルが適当か、改善しなくて良いかの判断を自分で行う必要があるからです。「規制」の場合は、規制当局から命令されたことを遵守していれば良いわけですから、実際、「規制の方が楽」といった声も出てくるでしょう。

 また、「自主管理」を促す場合には、もちろん危害の発生の可能性についての科学的知見は示すことが必要ですが、規制を導入する際に必要とされるような危害の原因と危害の影響の大きさの間の科学的因果関係まで明らかにする必要はありません。さらに、規制当局が、規制値や規制措置が遵守されていることを確認するための監視を行うことも必ずしも必要ではありません。こうしたことから、「規制」を本当に政府の関与が必要なものに限ることができ、小さな政府の実現にもつながります。但し、「自主管理」を効果的なものとするためには、政府として、「自主管理」に取り組む者のために、管理対策の企画立案に資する科学的データの収集や、管理対策の効果の評価を分析、推定する手法の開発に取り組むことは必要です。これは「規制」のために必要とされる研究開発活動とは異なる内容の研究開発活動となるでしょう。

 一方で、「自主管理」という手段には、大きな限界があることも事実です。

 最大の問題は、「自主管理」を実施しない、フリーライダーの存在を防ぐことが出来ないという問題でしょう。「自主管理」では、字義どおり、危害を有するものを扱う全ての者が、悉皆的に自発的な管理対策の実施に取り組むことを確保できません。そのために、真面目に管理努力を行った者が、結果的に損をしてしまうということが起こりえます。こんなモラルハザードを起こすようなことは避けなければなりません。また、一定のリスク管理レベルの達成を目指して、相当確実でしっかりしたリスク管理対策をとらなければならないような場合、「自主管理」に任せるわけにはいきません。(ただ、このような場合は、そもそも「規制」によって対応すべきでしょう。)

 この辺で「自主」とか言いつつ、自発的な行動を「促す」というのは何かおかしくないか?と思われるかもしれません。そうです。確かに、おかしいです。実は、お気づきのように、ここでは何の制約もない中での自発性を議論しているのではありません。議論の暗黙の前提として、「危害の原因となりうるものを扱う者は、それをきちんと管理して扱わなければならない」という(ある意味、当然の)社会からの強い要請を受けて行動していることが前提になっています。つまり、ここで「自主」とは、周囲から行動を起こすことが期待されている状況下で、リスク管理対策に係る行動の開始と内容に係る自主性、自発性のことです。したがって、そうした社会からの圧力を感じない、あるいは、感じてもそれに真面目に応えようとしない悪意の者が多い場合は、やはり「自主管理」という手段をリスク管理対策として採用することはできません。これは、上記のフリーライダーの存在する場合の部分ケースです。

 そういった社会からの強い要請を受けて実施する「自主管理」は、社会から管理を委任されているとも言えますから、「自主管理」の実施者は、(管理を実施しないことを含めて)その管理対策の内容と効果を社会に対して説明すべきということになります。つまり、「自主管理」によるリスク管理対策を採用する取り組みにおいては、実施される管理対策の透明性が確保され、その効果評価が客観的に分かる形で説明されるべきという社会からの要請が、ある意味、論理必然的に、付随して発生してきます。

 つまり、「自主管理」には、(1) 危害の原因となりうるものの管理を委任するという社会の要請、及び、(2) 委任を受けて、自主管理を実施する者の果たすべき説明責任という要因に起因するドライビング・フォースが働くことになります。このドライビング・フォースは、自主管理を行う企業や組織に対して、社会の要請に応えた行動をしなければ市場で評価されないという圧力と、他と差別化できるほどの立派な成果を上げて市場で評価されたいというインセンティブの両面の力として働きます。

 実は、このドライビング・フォースをさまざまな工夫によって設計、調節することで、リスク管理問題の性質に応じて、「自主管理」の長所を生かした関係者の自発的リスク管理活動を促すことができます。

次回は、この辺から議論を続けたいと思います。

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