第64回 「謎の鳥の正体」と総合力


 いやあ、先々週(4/14)の出口さんのメルマガの「ウェブで流行る『謎の鳥の正体』」には本当に笑ってしまいました。原作も、そしてネット上で改良(?)を加えられたバージョンも傑作です。家族を含め、職場の周囲の人たちに教えずにはいられなくなりました。出口さんが予想されていたように、こうやって、「謎の鳥の正体」と題した現代版落首は「燎原の火のごとく」日本中に拡散していくのでしょう。


 しかし、同時に悲しい感じもしないではありません。一国の総理大臣が、これまでにこれほど国民に揶揄され、笑い飛ばされたことはあったでしょうか?


 さらに、同じ4月14日のワシントンポストでは、とうとう「哀れでますますいかれた日本の鳩山由紀夫首相(読売新聞)」と書かれてしまいました。原文では"the hapless and increasingly loopy Japanese Prime Minister Yukio Hatoyama." となっていて、この訳は相当正確にそのニュアンスを伝えています。日本人としては、ここまで来るとさすがにもう笑ってばかりはいられませんね。


 まあ、私なりに今の政権の政策には、相当に呆れ、いろいろ意見を言いたいこともありますが、ここでそんな批判をいちいち書き連ねることはやめておきましょう。どんな政策にだって、いつも何らかの批判はある。そうした個別の批判はさておいて、ここしばらく、いったい鳩山政権の何がいけないのか、その原因を考えていました。その結果思い当たったのは、これは「総合力」の問題ではないかということです。


 最近では、鳩山政権の政策について日本の進む姿が見えないとか、政策の目指すものの全体像が示されていないという批判をよく目にするようになりました。「総合力」がないというのは、別の言い方をすればそういうことだと思います。政策がバラバラ(に見える)。子供手当てにせよ、高速道路無料化にせよ、「90年比25%削減」にせよ、普天間基地の移設問題にせよ、それらの政策を実施することにより、日本の将来はどのようになるのか。どのような日本を創りたいのか。その道のりはどのようなものか。こういったことが見えない。


 でも、そういった批判をもちつつも、私自身は、何故かその批判を口にしにくい感じがします。総合力の乏しさというのは、何も鳩山政権の専売特許ではなく、実は、自分を含め日本人共通の弱点のように感じるからです。ただ、今の政権は、それがひどいだけではないか。


 そういう思いつつ顧みると、そもそも「総合する」という日本語自体が、やや曖昧に使われています。本来、「総合する」とは、いろいろな異なるものを束ねることによって新たな価値を生み出すことだと思うのですが、私たちは単に物事を束ねるという意味でも「総合する」という言葉を使っています。例えば、総合することによって新たな価値を生んでいるかどうかということを問題にすることなく、いろいろな診療科目をもっている病院を総合病院、いろいろな化学製品、電機製品を扱っている会社を総合化学、総合電機企業と呼んでいる。本来は問題にすべきだと思うのですがね。


 言語は思考能力に大きな影響を与えますから、日本人というのは、総合する、いや、正確に言えば、異なるものを束ねることによって新たな価値を生み出すことが本来的に苦手なのではないか。そうであるのかないのかという点自体にも議論はあると思いますが、仮にそうだとしたら日本特有の理由があるはずです。思考は勝手に飛躍して、それならそういった理由とは何だろうとこのところ考えていました。そして、次のようなことに思い当たりました。


 ずっと以前、この連載の第2回「普通に見えて普通でないこと−オランダから見えたこと(1)−」で、日本は「人と人は同じなのが当たり前」という社会ではないかと書きました。これが影響しているのではないだろうかというのが私の仮説です。


 人と人が同じなのが当たり前であれば横並び意識もあり、それぞれの主張は、できれば優劣をつけずに同じように扱うことが、こういった社会では無難です。まとめるときも、個々の意見をあまり大きく変えることなく、束ねた方が無難でしょう。一方、意見が大きく異なる場合には、後に感情的しこりが残るほど相手を徹底的に折伏するような議論になりがちです。意見の対立が感情のもつれにまで発展してしまったというのは、多分、日本人の誰もが多かれ少なかれ経験していることでしょう。


 話は、少し横道に逸れますが、昔、通産省で働いていた時、仲間で会社を立ち上げたら相当なことができるのではないかと思ったことがあります。皆、一定水準以上の能力はある上に、それぞれ広い人脈をもっている。その上、お互いに気心も知れている。ですが、よく考えると、これはやはりうまく行かないでしょう。「皆、同じ」だから意見集約ができず、そういった組織は早晩、空中分解してしまいそうです。しかも、皆、相当に頑固だし・・・(笑)。


 組織が機能するためには、役割分担はもちろんのこと、上下関係も必要です。「人と人は違う」のを当たり前としても、組織では最後は上の言うことは聞かなければなりません。時には、上の人の考えが間違いだと思っても・・・。また、仕事の内容面での下働きの仕事も必要です。ところが、特に仕事の内容面における上下関係をつくることは、最近では変な平等意識が蔓延って、組織の中でも避けられるようになりつつあるように感じます。この大競争時代に仕事の効率性を追求するための組織のフラット化が必要だとしても、フラット化の中でこうした上下関係も失われつつあるのではないでしょうか。


 同じことが政府にも言えるはずで、政府において総合力が発揮されるためには、各省横並びではダメです。お友達内閣ではダメなのです。官邸が本当の意味での「総合力」を発揮するだけでなく、政府の中で、問題毎に省庁間で上下関係を含む重層的な機能分担が行われることが必要です。そうでなくとも様々な利害対立の調整を経てまとめられた各省庁の意見は重いですから、そうした中でこうした重層的な機能分担をさせ、「総合」するためには、トップの極めて強いリーダーシップと個性が必要です。


 私は、総合科学技術会議の事務局にいたときに、小泉首相の比較的近くで官邸の様子を見聞きする機会がありましたが、小泉首相は、まさにそういった資質を持っていた方でした。小泉首相には事前の根回しが効かない。小泉首相が決断を口にされるまで、誰も決断内容が分からない。一旦、決断されたらブレない・・・。ですから、小泉首相が主宰して開かれる総合科学技術会議は、議員の各大臣を含め、皆が、いったい小泉首相は議論のとりまとめとして何を言われるかと、いつもピリピリした雰囲気に包まれていました。


 小泉首相は、マスコミなどでよく「変人」と言われていましたが、ああいった方が「変人」で、「人と人は同じ」なのが当たり前の社会では、なかなか「総合力」の発揮は難しそうです。現在の政府の姿は、ある意味、典型的な日本人の資質の問題点を映し出しているだけなのかもしれません。そういえば、ここでも「総合」という言葉が出てきました。「総合」と名を冠した組織を作るだけでは、日本人の「総合力」の欠如は補えないということでしょう。


 話題は変わりますが、また、事業仕分けが始まるようです。今度は、前回の事業仕分けのような乱暴な議論ではなく、もっと丁寧な検討をしてもらいたいものです。(前回の事業仕分けについて私が感じた問題点は、第59回の「続々『90年比25%削減』、そして『事業仕分け』」に書きました。)今回の事業仕分けは、前回の反省を踏まえたものになるはずですから、俎上に乗せる事業の内容、そうした事業が現在の形で行われている経緯や背景についても良く勉強した上で、仕分けの議論が行われると思います。しかし、それでもいささかの懸念を感じます。それは例えば次のようなことです。


 今回、研究開発に関与している独立行政法人のあり方が、事業仕分けの関心の一つになっていると報道されました。確かに、研究開発に関するものだけで38もの法人があるというのは、多すぎるでしょう。私も、総合科学技術会議の事務局に居たときに同じことを感じました。また、そのために天下りのポストが不必要に増えているということであれば、それは是正すべきでしょう。


 ただ、この38の研究開発法人が、いわゆる「研究開発」に特化している訳ではないことに留意することも必要と思います。これらの法人が研究開発法人として名前を挙げられたのは、これらの法人が「科学技術関係経費」として登録した予算を使用しているからだと記憶しています。ところが、この「科学技術関係経費」という経費に明確な定義があるわけではありません。各省で経費を最初に区分した時に、各省の自由裁量で「科学技術関係経費」と登録したものです。それでは、何故、「研究開発」に特化していなくても、「科学技術関係経費」と登録したのか。推測の域を出ませんが、「科学技術」の名前を冠しておいた方が予算をとりやすいという、今となっては自業自得と言えば言えないこともない事情があったからと考えられます。その程度の理由です。ですから「研究開発法人」とはいっても、その事業内容についてはあまり先入観をもつことなく、各法人の行っている事業の中身を良くみてもらって仕分け議論をしていただくことが重要です。


 実は、もっと心配していることがあります。「研究開発」といえば、とかく新発見や新技術の開発など科学や技術のフロンティアを切り拓くような活動を思い描きがちです。もちろんそうした活動は重要ですし、開発リスクの大きいそうした研究を行うのは国の重要な役割です。しかし、同時に社会の諸問題を解決するために、新規性はないが地味にデータをとり続け、蓄積していくといった活動も国の研究機関の役割としては極めて重要です。これは、「レギュラトリー・サイエンス」に特徴的な活動です。レギュラトリー・サイエンスの重要性については、DNDの集中連載「『イノベーション25戦略会議』への緊急提言」の第19回「イノベーションと安全と安心」で、少し詳しく書きました。こういった活動は地味で、一般の方が描く「研究開発」のイメージとは大きく異なる活動であるだけに、「仕分け人」の方々に国のやるべき立派な「研究開発活動」と理解していただけるかどうか大変に心配しています。


 是非、今回の研究開発に関与している独立行政法人の事業仕分けにあたっては、国の行うべき研究開発活動のあり方という議論にまで立ち返った、本質的で、内容のある仕分け議論をしていただきたいものです。




記事一覧へ