第2回 普通に見えて普通でないこと
−オランダから見えたこと (1)―



 もう10年ほど前のことになってしまいましたが、私たち家族は、オランダで3年間暮らしていました。いろいろなことがありました。そしていろいろなことを考えさせられました。オランダでの生活を通じて体験したこと考えたことなども、何回かに分けて、この連載の中で書いてみたいと思います。

 オランダは、人口1,600万人、九州ほどの面積しかない国です。ライン川の河口に位置し、ヨーロッパ大陸の辺境の低地(Nederlands)に住む人が居たところです。現在のオランダ王国となったのは19世紀初頭。歴史的には、毛織物やアジア貿易で栄えた都市が散在していたこの地域が国家としてまとまったのは、17世紀になってからと比較的新しく、スペインとの80年に渡る激しい独立戦争を戦い抜いた後のことでした。今でもオランダのあちこちに、古い要塞や高い城郭で囲まれた都市や建物を見ることができます。

 そんな歴史や地理的条件が、現在のオランダ王国という国の成り立ちに当然のことながら大きく影響しているのですが、オランダに住んでみると日本では当たり前のことが実は、当たり前でないことなのだと気づかされることがあります。

 私が住んでいたデン・ハーグは、オランダの事実上の首都(オランダの首都はアムステルダムとされている)で、女王のお住まい(ハウステンボス:森の中の家という意味)や執務宮殿、そして、司法、立法、行政の各機関があるだけでなく、各国の大使館や国際機関を数多く誘致している国際性豊かな都市です。立地条件も列車でも高速道路でもアムステルダムから約45分、欧州の空の玄関の一つであるスキポール空港から30分、欧州の最大の港湾ロッテルダムから20分というように、ヨーロッパの陸海空の交通の大動脈のまっただ中の地に位置しています。また、トルコやイスラムの国々からの移民や、オランダの海外領のカリブ海の島々から移り住んでいる人も街中では目立ちます。

 そんな地理的条件も影響しているのでしょうが、これらの都市ですれ違う人、もっと典型的にはアムステルダム中央駅から、頻繁に出ている国際急行列車の車内などでは、隣に座った人と会話が通じる保証はありません。まあ、これには私がオランダ語をしゃべれないということが多分に影響していることも事実ですが、オランダで広く通じるといわれている英語が通じないことだって珍しいことではありません。会話が通じないのだから、文化や慣習に影響を受けるコトの常識、モノの考え方などが違うのが当たり前です。少なくとも、人と人は違うのが当たり前と思って人と接しなければなりません。

 こんな「人と人は違うことが当たり前」の環境と、日本のようにどこへ行っても文化や慣習もほぼ共通の「人と人は同じなのが当たり前」の環境では、いろいろなことがいろいろ違います。そして、そうした経験を通じて、日本という国の、良い意味でも悪い意味でも、特別さというものに気づかされます。

 まず、「人と人は違うことが当たり前」の環境では、約束や合意は、紙に書いて確認しないと危なくてしようがありません。

 私は、10年ほど前にある国際機関に出向して3年間ほど働いたことがありますが、そこでは、文書の一言一句について各国代表が交わす議論に会議の事務局の一員として、毎日毎日、つきあわされることになりました。そこの文章は能動態で書くべき/いや受動態で書くべき;用いるべき単語が違う、evaluateだ、いやassessだ、そうではないexamineだ;そこはtheだ、いやaで良い;そこには「,(カンマ)」を入れるべきだ、いや入れるべきでない、など些末とも思える議論に辟易としながら、外交官や政府の人間は、これだから効率が悪いと言われるのだと、最初のうちはこうした状況を批判的な目で見ていました。何しろ、1週間の会議をやると全体でも5ページほどの一つの文書の原案が、まるまる5回以上も書き換わってしまうほど語句や文章にこだわるために、合意文書や議事録づくりに会議の会期のほとんどを使ってしまうのですから。

 しかし、今更ながらこうした体感をもって理解したことは、多様な出席者が参加する国際会議などにおける議論の要点や結論についての各参加者の理解は、きわめて多様なものとなりうるので、合意文書を作成することによって始めて、何が会議で話し合われ合意されたのかが明確になるのだということです。同じ会議の様子や結果について、出席者の報告によって強調されることが出席者によって異なると感じることは、日本でだってよくあることですね。いわんや、全く異質なバックグラウンドをもつ参加者で構成される国際会議をや、ということだと思います。いや、こうした会議のやり方にもっと積極的な意義づけをすれば、合意できる文書を作成するプロセス自体が、サブスタンスを議論していることとも言えるかもしれません。

 学校でも、一人一人の子供は違うことが前提の教育が行われます。私の娘は、デン・ハーグにあるブリティッシュ・スクールに通っていたので、オランダというよりは英国式の教育を受けたのですが、学業だけでなく、芸術、運動能力などのいろいろな面に子供の良いところを見つけ、○○ちゃんは算数ができてすごいねと言うのと全く同じ価値をおいて、△△ちゃんは絵がうまくてすごいね、ボール・ゲームがうまくてすごいね・・・、というように褒めて教育します。端から見ているとこれではまるで褒め殺しで、子供は勉強ができなくても全然気にしないといった、親としてはちょっと困った事態も起きるのではありますが・・・。だから、20人ぐらいのクラスの中でも、片や割り算をやっている子供があるかと思えば、まだ、足し算を勉強している子供もいるというように、学業においても子供の進捗度合いはまちまちで、それをきめ細かく見るために、そんな小さなサイズのクラスでも先生が2人ついて、子供の進度度合いにあった教育をしてくれます。子供は、小さい頃から「人と人は違うのが当たり前」であり、そんな環境の中で、それぞれに良いところを持つ個性豊かな子供が育つのだと思います。

 日本では、最近になって個性の重要性が叫ばれだしましたが、敢えて単純化して対比して言えば、教育においても、社会生活の常識としても「人と人は同じ」ことを暗黙の前提としているような気がします。そんな観念的な対比の是非はともかくとして、私が、とても深刻に感じた次のような出来事がありました。

 私の娘と同じブリティッシュ・スクールに通っていた日本人の中学生の男の子が、高校受験準備のために家族より一足早く日本に帰国し、彼はオランダに来る前に通っていた名門私立中学校に戻りました。おばあさんの家から通うことにしたのです。しばらくして、彼はイジメにあいました。親御さんは心配して、何回か日本とオランダの間を往復したそうです。幸いにして、彼はしっかりした性格であったこともあり、イジメを克服することができました。しかし、その時、彼は親御さんに何と言ったか。ちょっとショッキングです。「お母さん、僕はもう大丈夫。イジメにあわないようにする方法が分かったから。日本では、何でも思ったことを口に出して言っちゃダメなんだよね。」

 「人が人と違うのが当たり前」な社会と「人と人が同じなのが当たり前」な社会とでは、表面的には、お互いに価値観を共有し似たような生活を営んでいるように見えても、実は、個々の活動、行動の背景にある抽象的な概念についての理解や発想に異なるものがあるのではないでしょうか。こうした違いことさら際立たせることには、あまり価値はありませんが、違いを認識し理解することは重要だと思います。


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