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阿波の国のやさしさと、憂いの中の恩師(下)

DNDメディア局の出口です。「阿波の国のやさしさ…」は、岡田正さんが夢を見ているような遠い昔の物語でした。それが阿波の国でちょっとした話題になっているらしい。ぼくが気になるのは岡田正さんの感想である。彼が読んで、どんなことを口にするか、よくもわるくもそれが筆者冥利というもの。奥様の奈美子さんが、主人はすっごくうれしかったみたいです、と笑みを浮かべて耳打ちしてくれた。


なんど読んでも途中で目頭に熱いものがにじむ、ぼくでさえそうなのだから、と岡田さんに明かすと、どうしたのか、ふいに押し黙ってしまった。ほんの数秒、気まずい空気が流れる。原稿に不都合があったのだろうか、なんだか妙だなあ、といぶかって岡田さんの顔をのぞきこむと、伏し目がちに唇をふるわせている。


何か言おうとしているが、極まって言葉にならないのだ。もう66歳なのにね、その涙が、まるで真珠のようにポロロロッてひと筋落ちたら、照れ笑いした。ぼくの40年来の友人、純情な材木屋の彼と、夢の続きをみようかしらね。



岡田さんの生家があった美馬市木屋平、その土地の旧三ツ木中学の同級生らが集まることになった。久々の同窓会、そのために前夜泊まった阿南市から阿波市内のたらいうどんの里に行くという。


たらいうどんはこれで2度目になる。たらいうどん、と聞いて、あの時の記憶がよみがえった。もう8年ぐらい前になる。昨日、山を案内してくれた徳島大学の教授、佐竹弘さんに誘われたのだ。産学連携学会の徳島大会実行委員長として多忙を極めていた時である。


屋根つきの離れ座敷で沢の音を聞きながら、あつあつのうどんは、ほんまに盥に入って度肝を抜かれた。太目の麺はコシと艶があって、素で食してもうまい。薬味は少量のネギとショウガ、鰹だしの効いた汁で、盥からお椀にすくってお代わりした。季節がら炭火で焼いた鮎の塩焼きは、この上なかった。今回も行き先が同じだ。鮎の塩焼きがあるだろうか。それに内臓の塩漬け、うるかが堪能できたら申し分ない。食いしん坊の血が騒ぐ。



 :たらいうどんの老舗で、旧三ツ木中学の同窓会、右手、板東先生の隣が安丸さん


 :たらいうどんの里は、こういった川沿いにあって涼し気です。



やがて阿波市内に入って途中、谷川沿いを北上した。ダム湖の脇を抜けて辿り着いたのが老舗「新見屋」だった。ぼくらは集合時刻に少し遅れた。駐車場の外で出迎えたのは幹事の森本照之さんだった。徳島県警の敏腕刑事だったという。仲間を大切にする情の人だ、というのは岡田さんの評だ。


「もう先生はきてはる」と早口で言って石段を下った。彼の後について行った。そこは宴会用の広めの座敷でカラオケ用の舞台があった。そしてテーブルの前には岡田さんの同級生十人余り男女が行儀よく席についていた。旧三ツ木中時代の恩師がきている。岡田さんから事前に聞いていた。その先生は端座して涼しい表情をゆったりこちらに向けていた。どこか懐かしいような親しみを感じさせる。表情に憂いをたたえている。香気漂う、とはこういう人物を言うのだろう、と思った。



恩師の名は、板東正氏、地元、旧土成町の出身で84歳を迎えられていた。板東先生の隣に、ぼくの席が用意された。間近にご尊顔を仰ぎながらおだやかな人柄に接した。お酒は断らなかったがコップ一杯のビールがわずかに減った。たぶん泡が消えただけだったかもしれない。地鶏焼きや鮎の塩焼き、それにうどんに箸をつけただろうか。教え子の成長した姿に目を細めていた。


気さくにぼくの質問に答えてくれた。ご子息は、故郷を離れ医者や銀行員になって立派に活躍している。数年前、胃がんを患って東京のがんセンターで手術をした。同僚の教師だった愛妻は4年前に他界した。車の運転に自信がもてなくなった。運転の操作が、時に混乱する。少し記憶があやしくなってきた。現在は、炊事、洗濯をこなす自称、独居老人ということになる、と言った。


板東先生の話に耳を傾けていると、阿波の国のやさしさとは、そのもう一つの底流に無常ともいえる哀しみの奔流があるのではないか、と思ったら、ぼくの心がにわかに波立った。


英語の教師として県内の学校をいくつかまわった。教え子は2000人を数えた。教育一筋と思いきや、教師から教育委員会に移って定年を迎えたら、旧土成町の教育長に迎えられた。地元での勤務は初めてだった。3年勤めた頃、町長選に担がれた。満68歳の時だった。


町長選は、熾烈を極めた。結果は、132票の僅差で滑り込んだ。その選挙の時、教え子らが率先して応援してくれた。この日の同窓会にかけつけた美容師の安丸一代さんにはずいぶんと助けられた、と彼女の名前を口にした。


それから町長を3期務めた。任期中、広域の清掃工場建設や、町の合併協議など意見の対立が火花を散らす懸案事項を粘り強く押しすすめた。3期と書いたが、正確には3期の任期途中で辞めた。旧土成町を含む4町の合併協議が整って町が新たに阿波市に編入されることになったためだ。板東先生は市長選には出なかった。市制に移行するための調整役として奮闘した。そののち、市庁舎建設をめぐる公約違反を質すため市長のリコール運動の先頭にたつ気概をみせた。リコールの件は、ご本人の口から説明されたものではなくネットで知った。


先生が、幹事の森本さんに続いてあいさつにたった。抑制の利いた温かみのある声だった。数多い教え子の中で、三ツ木中学のみなさんが一番印象に残っている、と言ったら、みんな照れくさそうにお互いに顔を見合わせた。恩師の前では、いくつになっても無邪気な生徒のままなのであろう。


先生は、岡田さんが東京のがんセンターに見舞いに来てくれたことを紹介し感謝の気持ちを述べた。岡田さんが通信簿で4をもらったような気分だったに違いない。岡田さんに見舞いを伝えたのは安丸さんだった。気がきくというか、この人の存在は大きいと思った。先生が、最近運転がおぼつかぬ、運転の操作が不確かになった、と苦衷を吐露すると、いやあ、慣れない道はだれしもそうや、とか、夜だったから迷うのも無理はないわ、と小気味よく合いの手を入れていた。それには感心した。少しは、気が楽になる。親子二代の評判の美容師だという。さもありなんと思う。


締めに先生は、「出会いは人生の宝というがまさしくその意味をかみしめている」と結んだ。短いスピーチだが、切々とした心にしみいる内容だった。なんとも味のあるお人柄であろう。容貌に品が漂う、こんな風に年輪を重ねられたら、と思った。


ぼくに指名がまわったので、岡田さんとの40年のお付き合いの一端や、木屋平付近の峰々を探訪したこと、川井峠、それに旧三ツ木中跡地に植栽されたしだれ桜の佇まいに触れながら、ぼくは北海道の生まれなのだが、どこか、故郷に帰ってきたような懐かしい気持ちになった、木屋平が好きになったことを伝えた。これを胸中故郷というのかもしれない、と付け加えた。


すると、安丸さんが、出口さんと名前をお聞きしてすぐにひょっとしたら、ここ土成町の出身かと思った、違うのですか、と今度はぼくに合いの手をくれた。徳島の御所、つまり心穏やかな土御門上皇が承久の乱のあおりを受けて自ら土佐へ、そして阿波の国へ移った。その場所が、旧土成町御所のいわれなのだ。出口と言う地名は、土成町御所出口と言った。御所は吉田に変ったが現在もそこに町内会の名前があり、出口さんという名前の人が7〜8軒あるという。初めて聞く話だった。


安丸さんは、出口と言う場所は、ここの里からそんなに離れていません、と付け加えた。ああ、ぜひ、そのぼくのルーツかもしれない場所をこの目でみてみたい。この宴会が終わったなら、立ち寄ってもらおうかなあ、とひそかに心に仕舞い込んだ。



 :幹事の森本さんと、情報交換、お疲れ様でした。


 :僭越ながら、ぼくもご挨拶しました。


 :恩師と、岡田夫妻


寄り道になるが、徳島といえば、父方の祖母の故郷なのである。少なからず縁がある。亡父、俊博は生後すぐに東大阪の造園業の家に養子に迎えられた。父が懐かしむように語ってくれたのは、父が5歳の時の里帰りの思い出だった。


祖母の手に引かれて大阪湾の船着き場から船で徳島に着き、そこから汽車で行った先の駅から実家までは人力車に揺られた。船も汽車も、そして人力車も、自分を乗せて動くものが幼心を捉えたに違いない。その時の光景が、まぶたにしっかり焼き付けられているのだろう。そして長旅の果てにやっと到着した祖母の生家の入り口に見上げるような大きな石碑がふたつ建っていたことを憶えているのだ。


当時は、名東郡西黒田という地名だった。ぼくが初めて徳島に行った時、近在のお寺を訪ねて祖母の生家を突き止めたのである。父が見た大きな石碑について、地元の高校教師が定年後、そのいわれを調べていたが…とお寺の住職が教えてくれた。明治の頃の男女の墓碑のようでもあった。確かに苔むした石碑がふたつ並んで建っていた。しかし、見上げるような大きなものではなかった。今となってはしゃがんでいるような小さなものだった。幼い目線は、その多くが見上げる対象だったはずだから、大きな石碑と見えたのは間違いではなかった。幼い頃の記憶のまま、父はそれを後生大事にしまっていたのだろう。


徳島の実家からは年末になると決まってたくあんの漬物が樽ごといくつも送られてきた。家族や住み込み職人のお膳にのぼった。大阪湾の船着き場に荷受に祖父と一緒に行った帰りはシチューの専門店に立ち寄った、という。当時、ビーフシチューなんてあったのだろうか。父の、たった一度切りの里帰り、あつあつのビーフシチュー、幼い頃の思い出のひとコマなのだが、父にとっては輝くような家族の営みだったに違いない。祖父の死去とか、本人の離婚とか、父は家庭に縁が薄かった。いくつになっても祖父母との思い出が脳裏を駆け巡るのかもしれない。徳島と聞くと、ぼくの場合、そうした父のことで胸の中がうずき始める。この穏やかならざる心模様はどうしたものか。



旧土成町の御所出口の在にいってみたい。しかし、である。宴会は午前11時半から始まって、もう5時間近くたっているのにお開きの気配が一向にない。別れ難いのか、それはついに夕刻6時すぎまで続いた。その合間、ぼくのところに森本さんが来た。徳島県警、記憶に残る事件は、いくつか質問したら、暴力団がらみのエピソードを披露してくれた。もう時効である。ぼくも社会部記者の時、警視庁の仕切りをやって暴力団関係の4課の経験があるので会話が弾んだ。


話題が、木造校舎の焼失事件に及んだ。当時の校舎の全景が、15歳のかれらの記念撮影の写真のコピーと一緒にテーブルに置かれていた。火事は中学卒業の二年後、昭和38年ごろだった。原因は、ストーブの過熱だったと板東先生が言った。



 :旧三ツ木中学校舎、焼失前のもの


 :卒業時の記念写真。撮影が森本さんだったという。五十年前のものです。

そんな折り、今度は、今も三ツ木に住む手塚孝二さんが酒をつぎにきた。控えめな方である。地元なので、なぜ、しだれ桜が村中に咲いているのか、と聞いた。川井峠は見事だろうし、三木家住宅の庭にもあったし、中学校跡地には周囲を縁取るようにぐるり数十本のしだれ桜が植栽されていたからだ。手塚さん家の入り口にも3本あった。


もう20数年前のこと、三ツ木平の上の方で200本近いしだれ桜の苗木が育てられていた。しだれ桜を植える運動がすすめられていた。地元の原田組が請け負っていた。その苗木が欲しかったのよね。市内の植木屋を数軒のぞいた。が、地元産の桜の苗木はみあたらなかった。岡田さんは、埼玉に帰ればそんなのいくらでもある、と言った。その通りなのね。それでも埼玉のしだれ桜じゃだめなのよ、木屋平のそれじゃないとね、と言い張った。


ぼくは、それで沿道のしだれ桜の葉先を数本、失敬して持ち帰えりたい衝動にかられた。三木家住宅の正面にあった見事なしだれ桜は、当主の了解を得て枝先を持ち帰ろうと思ったが、それにはカッターがないとうまく採取できないと知って断念した。ぼくの日光の山に植えたらどうかな、という夢はたちまち萎えてしまった。



 :旧三ツ木中学の跡地、周辺はしだれ桜が植えられ、急病人の救急ヘリポートに なる



ところで、最初は神妙に挨拶にたっていた殊勲の岡田さんは、陽気にはしゃいで勢いのまま、ついには酒に呑まれてしまった。こんなことは滅多にないのである。酔って、手を大きく回して話すから、それが災いしてテーブルのビール瓶を倒すこと2度、3度、テーブルの上にひっくりかえったビール瓶の口から泡立ったビールが、板東先生の方にはねてズボンを濡らしてしまった。先生は、まあ、まあ、と笑っていた。岡田さんはほとんど記憶が飛んでいたから、後日、その失態を知らされて青ざめた。もう酒を止める、と言いかけたが、そのまま口をつぐんだ。


そして泥酔してしまうのをどうして止めないのか、というのは大酒呑みの身勝手な釈明であろう。ねぇ、それ以上飲むと、ダメよって再三注意したのにさ。まあ、楽しかったのだろうね。止められない、やめられないものである。次に興じてカラオケがはじまった。演歌がボリュームいっぱいにノイズとなって流れた。ぼくは舞台のそでの緞帳に隠れるようにして横になっていた。さわやかな夢を見ていたのに、突然の大音声に跳ね起きてしまった。


見渡すと、板東先生は涼しい顔のままだった。変ったのは先生に椅子が用意されていたことだ。先生思いの安丸さんか、佐藤美恵子さんか、阿部信子さんか、赤滝テル子さんら美人ぞろいの女性陣が気遣いをみせたに違いない。椅子に腰かけても姿勢を崩さなかった。教え子らのはしゃぎぶりとは対照的に、先生はやはり静かに温かいまなざしを向けていた。先生は、長い、長い、時間、何を想い描いていたのだろうか。旧三ツ木中学時代の木造校舎での数々の記憶がかけめぐるのかもしれない。


出会いは人生の宝、ぼくは板東先生のその言葉を生涯の宝にしよう、と心に収めた。先生との出会いは、岡田さんらと同じくぼくの宝になったのは確かだ。



 :恩師、板東正先生と岡田正さん、おなじ正なのである。


 :お開きになったら夕刻6時をまわっていた。恩師と教え子さんら.



徳島から無事に埼玉に帰って、ぼくはメルマガを書く作業に専心した。最初の原稿を書き上げるのに2週間を要した。岡田さんが、2週間原稿を書いていながら生活ができるのだからうらやましい、と言うから、材木担ぎと代ってもいいよ、と返した。どうよ、岡田さん、どっちがいい?肩は凝るし、目はしょぼつくのさ、15時間もパソコンに向かう、結構、これも重労働だ。


常日頃、マメな岡田さんは、徳島探訪で撮った写真をプリントアウトして同級生やお世話になった方々に手紙を添えて郵送した。メルマガもプリントして送付したところもある。彼の携帯にお礼の電話が鳴り響いた。板東先生からはまもなくして岡田さんに丁重なお手紙が届いた。達筆な文面には、語りかけるような恩師の情愛があふれていた。先生の温かみのある声が耳元で聞こえてきそうだった。ああ、手紙とはこういう風に書くものなのか、と教えられた。それを紹介したい。



岡田君 この度は、写真を沢山お送り下さって有難う 二十一枚の写真を 一枚ずつ じっくり見ていると 先日の会合の有様が思い出され
あらためて楽しい思い出がこみ上げてきました
そして 更に その奥にある五十年前の
三ツ木の生徒諸君の明るく活発な様子が
亡き妻の姿と重なるなどして  本当に
懐かしい思い出に浸ることができました
少々 感傷にすぎますかね?
またお会いしたいと思います
小生 人生終盤を迎えていますが
皆さんにお会いして元気を頂き
今少し前向きに生きたいと思っています
奥様に よろしくお伝えください
 平成二十五年 五月八日

          板東 正

 岡田 正様





う〜む、いのちを刻む248文字、至宝の手紙というべきか、この手紙は大切に保管しなければならない。手紙で、先生は奥様、和子さんのことに触れられていた。


あれは4年前の12月下旬ことだった。土成町のこの近くで夕刻の6時から会合があり、その会合を終えて夜10時に帰ったら和子さんがトイレの前で倒れていた。急いで119番を回し、救急隊の指示通りの手当てを施して到着を待った。病院に搬送したが、緊急処置の甲斐なく帰らぬ人となった。クモ膜下出血だった。


もっと早く家に帰っていれば、なんとか一命はとりとめられてのだろうに、と悔やんだ。しかし、医者の所見では、そうではなかったようだ。和子さんは友だちと長く電話していたことを後で知った。受話器をおいたのは午後7時25分頃、午後7時25分から発見する10時までの2時間半に何が起こったというのか、とそれでも板東先生の気持ちは揺れているのである。


町長を辞してから、ようやく生活に時間的余裕が生まれたので、かねてよりの計画通り、ふたりで旅行に出た。四国巡礼八十八か所、お遍路に行った。旅先で素敵な思い出を刻むことができた。和子さんとは旧三ツ木中学で同じく教壇にたった。岡田さんらは板東先生夫妻に教わったのだ。和子さんが元気でいたら、きっとこの場所にかけつけて、そして懐かしいひとときを一緒に過ごしたに違いない。


でもね、あの時の先生のおだやかな表情をみていると、どうも和子さんとご一緒に楽しんでいるように見えた。教え子の元気な姿に和子さんを重ね合わせていた、というのだから。恩師は、やはり阿波の国の人なのである。教え子らにその魂がしっかり伝わっているように思えてならない。



阿波の国のやさしさは、無常の哀しみと背中合わせなのだろうか。是もまた夢、非もまた夢、そんな沢庵禅師の言葉じゃないが、過ぎてみれば夢の如しなのだが、生徒らの活発な様子に亡き妻の姿を重ねていたのだと知って、あの静かでやわらかな眼差しの先に見えていたものは、そうだったのか、と気がつくと、不覚にも再び文字がかすんだ。ハラハラと涙が汲めどもなく落ちた。しばしパソコンを打つ手を止めざるをえなかったのだ。今度は、ぼくの唇がふるえるのだった。



その夜は、脇町の岡田さんの親せきの家に泊まりました。中央の上品なお母さんは、御年84歳、板東先生と同じ年齢でした。奇遇ですね。



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