◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2013/01/30 http://dndi.jp/

新聞はなぜ、人の死を報道するのか、アルジェリア人質事件に思う

 ・言論の自由のジレンマ
 ・人質はどういう状況で死亡したのか、の核心
 ・氏名公表を拒んだ「日揮」と暴いた「朝日」
 ・『64』に学ぶ組織の論理と個人の矜持
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 DNDメディア局の出口です。アルジェリアで起こった人質事件の発生から2週間余り、時間の経過につれて、あれほど大きく紙面をさいた新聞報道が今や1行もみあたらずやっと鎮まった印象がある。ふきあれた砂嵐が過ぎ去ったあとの静寂さだ。が、遺族や関係者らの深い悲しみは消えない。メディアの取材が終わったわけではない。事件の詳細がよく伝わらず、錯綜したままなのだ。


新聞は、かつてなく神経質な取材を余儀なくされた。ネットをはじめ遺族らから厳しい批判にさらされたからだ。ぼくのバイブルの一つ『知る権利』(東京大学出版会)の中にある「言論の自由と新聞記者」の項で、著者の千葉雄次郎氏は、「新聞記者は世の中で一番謙虚でなければならないのだ」と言った、ある外国の新聞界の大御所の自戒の言葉を引用しながら、ところが言論の自由、実名が原則だというので、「おおよそ謙虚とは正反対の思い上がった言論が横行しているのではないだろうか」と指摘した。ぼくが新聞記者を目指した時の学生の頃に買い求めた本だから、もう40年近い歳月が流れている。千葉氏の杞憂の通り、「言論の自由のジレンマ」が、ますます激しさを増してはいないか。


新聞が、今回の人質事件をその時々にどう報道したか、非公表の要請を無視して実名報道に踏み切ったメディアの有り様についても、新聞社自らが検証せざるを得ないだろう。アルジェリア人質事件がひと段落したら、スイス在住の資産家夫妻の失踪、殺害事件が次なる標的にさらされている。フェラーリ―だの、銀座の高級ステーキ店の常連だの、ペットや大間のマグロまでうわさ話のようなネタまで興味本位に暴かれる。週刊誌が、ワイドショーがスクラムを組んで過熱するのだ。守られるべき被害者が、メディアによってふたたび粛清されているかのようなおぞましさを憶える。


そもそも、新聞はなぜ、人の死を報道するのか、この問いに記者は自らの言葉で答える責任はある。


さて、アルジェリア人質事件の核心は、実はここではないか。つまりアルジェリア軍が具体的にどのような攻撃をして武装勢力を制圧したのか、人質はどういう状況で死亡したのかーだ。この27日にアルジェ入りした朝日の神田大介記者は28日の朝刊で「新たな情報はまったくといってない」と伝えた。記者が何か重大な情報に接したとしてもそれをストレートに記事にするほど、この人質事件の構図は単純ではない。


続く28日夕刊で、「日揮」のアルジェ事務所にアポなし訪問をするが、警備員に阻まれて門前払いにされたらしい。夕刻まで、粘ったのだろう。事務所を出て家路を急ぐ従業員らに次々と取材を敢行した。あんまり行儀のいい取材ではないが、そこで得られた確かな情報が、「事件については口外しないように会社から言われている」という箝口令だった。


カメラマンを同行して勇んだ海外取材、まさか領収証がわりに記事にしたということでもあるまい。書けばいいというものではない。


ガードが堅いのは当然だろう。捜査が始まっているのだ。「日揮」の箝口令は、捜査上の問題とか、アルジェリア政府との関係とか、またはビジネスパートナーで受注関係にある英石油メジャーBPとの約束事でコントロールされていることは想像に難くない。プラント施設に関わる従業員の証言が、安易な記事にされることによって新たなテロの標的にさらされる危険だってあるかもしれないじゃない。箝口令のことなんか、記事にしてはいけないわ。何か、重大な問題を抱えているような誤った印象を与えるじゃないの。足を使うのは記者の仕事だが、少しは頭を働かせてください。


これまでの新聞報道をチェックすると、武装勢力の襲撃は16日午前5時半ごろ、リビア国境から45キロ付近のイナメナスの天然ガス施設で起こった。武装勢力の構成は8ケ国32人と伝えられた。まず重武装の車両3台に乗り込んだ武装勢力20人が、施設から空港に向かう外国人従業員を乗せたバスを襲撃した。警備要員と銃撃戦が繰り広げられ英国人1人が死亡した。武装勢力は、その後、施設居住区の外国人を人質にとって立てこもった。


読売新聞によると、17日午後、軍の攻勢がはじまると、武装勢力は人質に「日本人は名乗り出ろ」と呼びかけて国籍別に分け、7台の車に乗せてプラント区域に移動を始めた。フィリピン人は2台に分けて乗せられた。車列の台数については4〜6台とする別の証言や報道もある。


そこでアルジェリア軍のヘリ1機が、動き出した車列を銃撃しながら追跡を始めた。証言者の1人を乗せた1台は、積んであった爆弾がヘリからの銃撃で誘発して大破。証言者2人を乗せた車は横転した。証言者の1人(46)は「軍は攻撃時、人質の命を気にしている様子はなかった」と話す。3人は大やけどを負ったり体に銃弾を受けたりしながらも混乱に乗じて車から逃げ出し、軍の兵士に保護された。日本人を乗せた車がどうなったかは「分からない」という。事件に巻き込まれながらも無事だった日本人は、発生初日の16日から17日朝にかけて現場から脱出したとされ、車に乗せられた7人は犠牲になったとみられる、というものだった。


現場から脱出したアイルランド人が家族に語った内容だとしてロイター通信が伝えたところによると、施設内を走行中の人質を乗せた武装勢力の4輪駆動車5台にアルジェリア軍がヘリから爆撃、このうち4台が爆破された。このアイルランド人は、爆撃をまぬがれた車両に乗っていて助かった。爆破された4台に乗っていた人質はみな亡くなった。人質たちは口にテープでふさがれ首に爆発物を巻きつけられていた。1台の車両に人質が2〜3人連れ込まれていた。


これらの報道の通り、アルジェリア軍の爆撃で日本人を含めた人質が巻き添えとなったと伝えられていた。このため事件の一報に接した外遊中の安倍首相が、菅官房長官に「人命第一」を指示し、アルジェリア軍ヘリが空爆との報道に軍事作戦の中止をアルジェリア政府に要請したほどだ。つまり、軍が、人質の安否を考慮せずに強硬手段に出た可能性が捨てきれない。人質事件の核心は、この辺にあるのではないだろうか。


中東の衛星テレビ「アル・アラビーヤ」が、17日前後に携帯電話で撮られた映像を放映していたことを読売新聞が報じた。武装集団と軍幹部の無線でかわした緊迫のやり取りで、武装集団の幹部が「兵士を退かせろ、1人だけ人をよこせ。安全は保証する。(人質を)1人、2人、3人と殺すのは我々の本意じゃない」と軍に求めた。少なくても政府軍が軍事作戦を開始した17日の時点では、時間稼ぎのための交渉の糸口はあったかにみえる、と人質救出の可能性をにおわせた。が、そうはいっても武装勢力が犯行初日にバスや居住区域を襲撃した際、逃げようとする外国人を躊躇なく殺害しており、極めて危険な状況だったのには間違いない、とその残虐ぶりをも強調していた。人質救出の可能性がまったくなかった、と言い切れないのである。人質が乗った車両を爆撃するという行為は、それが事実ならば非難されてしかるべきだ。


しかし、城内実外務政務官がアルジェリアから帰国した26日に、これらの報道を否定する見解を示して、こう語った。


「テロリストの暴虐、非道な行為に憤りを禁じ得ない。(犠牲になった日本人10人の)大半がテロリストに銃殺されたと推察される。アルジェリア軍が日本人を攻撃したという情報はまったくない。軍事オペレーションについてはまったく情報がなかった。衛星情報を持つとされる米英仏も同じレベルで、錯綜した情報に翻弄された。断片的情報を手掛かりに英米などと照合した。」


アルジェリア軍が日本人を攻撃したという情報はまったくない、と明言した。ここはもう少し捜査や検証をまたなければならないが、その発言の根拠は明らかにされなければならないと思う。


それとは別に、いち早く現地入りした城内政務官からの情報で官邸の動きも発信にそつがなかったようにみうけられる。菅官房長官の刻々と変化する状況に応じた発表や談話も的確で、情報が錯綜する状況下にありながら発表にぶれがなかった。犠牲者の名前公表では、「ご遺体が帰国後、私の記者会見で政府の責任のもとに公表する」と事前に伝えたことも好意的に受け止められた。


安倍首相が17日夜、バンコクからセラル首相と電話で協議し、「人質の生命を危険にさらす行動を強く懸念しており、厳に控えてほしい」と直接申し入れたことも絶妙なタイミングだった。これも現地などからの情報を収集し、分析した成果ではなかったか。第3者が用意した原稿を棒読みするような安易さは見受けられなかった。


安倍首相が発した「世界の最前線で活躍する10人の日本人が犠牲となったことは痛恨の極みだ。今回の卑劣なテロ行為を起こしたテロリスト集団を断固として非難する」とのメッセージも心に響くものだった。首相であれ、官房長官であれ、同胞の悲しみに真摯に向き合ったことはせめての救いだった。


現地に飛んだ「日揮」の川名浩一社長の帰国後の記者会見は、ひとことひとことが胸にしみた。横浜の本社で連日連夜、会見に立ち会った広報・IR部の遠藤毅部長の対応にも称賛の声も上がった。名前を非公表し、遺族宅への過熱報道に警告し続けた遠藤さんが、記者関係者から疎まれなかったのは、発言にごまかしがなかったからだろう。各社への対応が公平だったこともその理由かもしれない。


発表は、慎重を極めただろう。アルジェリア軍の強行突入に際して、「日揮」は日本で留守をあずかる家族に「拘束されていない模様だ」と誤った情報を伝えた。それから一転、悲しいお知らせを伝えなければならないという辛い体験もした。錯綜する情報、断片的で不確かな情報、書き飛ばすメディア、それらに一喜一憂し翻弄されたこともあったのではないか。が、それらの情報管理が、結果的にメディアを混乱に陥れるような最悪の事態を回避したといえるかもしれない。


産経新聞横浜総局の記者は、「慣れていないのはしょうがないが、精いっぱいこちらの質問に答えてくれていた、広報の評判はいいですよ」と語った。組織の論理と個人の矜持、そのバランスがうまく働いたのだろう。ここ数年、組織一辺倒の硬直した対応に終始する広報マンを見過ぎたせいか、ぼくには産経記者の感想が新鮮だった。実名主義の新聞記者を相手に、被害者の名前を出さないという民間企業があっただろうか。一つ間違えば、メディアから総攻撃にさらされる局面だが、「日揮」は筋を通した。メディアの中でそれに理解を示し受け入れる新聞社があったということだろう。


日本はまだ大丈夫だ、と気持ちを強くした。


その一方で、である。


記者の傲慢ぶりが指摘された。全国紙の元社会部長が、「亡くなった方のお名前は発表すべきだ。それがなによりの弔いになる。人が人として生きた証は、その名前にある。人生の重さとプライバシーを勘違いしてはいけない」とツイッターでやった。すかさず、批判の嵐にさらされた。


「変態新聞の鏡だ」、「下種の極み!ってやつだ」、「名前を公表されたらそれを元に、遺族のところに押しかけるわけですね。わかります。さすがマスゴミです」、「何が人生の重みだよ…」、「なんかもう世の中は何が正しくて、何が正しくないのかわからない」、「意味不明、どういう論理で言っているのかわからない」など、これは序の口、もっと辛辣なコメントがいっせいに書き込まれていたのだ。


これを他人事と見過ごすことができなかった。エイ、ヤーとばかりに社旗をはためかせた黒塗りのハイヤーに乗って意気揚々と取材現場へ、遺族宅に押しかけて、「これは弔いです」との口上をまくし立てたかどうか記憶にないが、せがんでアルバムから写真を頂戴する、そんなことをやった。各社が次々に訪れる。締め切りぎりぎりまで粘った。悲しみに沈む遺族の事情なんかお構いなしだった。そんな風に犠牲者の顔写真の数を競ったものだ。パッカードに乗った森の石松、とはよく言ったものだ。考えれば滑稽極まりない。もうそんなメディア環境ではないのである。


新聞はなぜ、人の死をなぜ報道するのか?ふたたび、問い質したい。



朝日は、政府が日本人犠牲者の氏名を遺体が帰国する25日に公表する、と伝えた25日朝刊で犠牲者の名前を掲載した。もう少し、待てばよいものを。それまで繰り返し書いているから、いまさら隠す意味がないと、勝手に判断しちゃったのだろうか。それまでの記事では年齢や名前が違った。


朝日は25日の朝刊で、自社の釈明ともとれる「実名公表に賛否」との見出しで、賛否を併記した。「報道と人権」に詳しい梓澤和幸弁護士は「治安の悪い現場で会社側が十分な安全対策を取っていたか検証するために、被害者や遺族の声が公になることが大切」と、会社側に瑕疵があったかどうか、その検証のためだという一方で、報道機関の過熱取材への自制を求めた。ネットに詳しい瀧本哲史・京都大学客員准教授のツイッターを取り上げて、「遺族の悲しみとか、関係者は報道されたくないだろうし、視聴者も報道してほしくない」とのコメントを紹介した。まあ、賛否、それはある。それでは、朝日新聞はどういうスタンスなのだろうか。


朝日新聞社は、と断って、「実名を報じることで人としての尊厳や存在感が伝わり、報道に真実性を担保する重要な手掛かりになる」と説明し、事件報道では容疑者、被害者ともに実名報道を原則にしている、と少しも揺らぎがない。少し、悩んではどうだろうか。これを読んで、凄いなあ、と納得する人はいるだろうか。


朝日新聞という組織の考えを押し付けているだけにすぎない。鉄面皮というか、頭が悪いというか、教条主義というか、ひょっとしたら自分たちに過ちがあるかもしれない、という認識がメディアに携わる最低限の条件だろう。実名報道が原則だ、というその一線を堅固するための理屈なのだ。遺族が、取材は困る、と言っている。そんな記事は読みたくない、という声が圧倒的だ。そのところに少しの理解もためらいもないのである。


極めつけは、担当の山中季広社会部長の談話だ。


「今回の事件でも実名報道を原則としつつ、取材現場では遺族や関係者の配慮しながら、読者からの意見や批判にも耳を傾け、『何が起きていたのか』を掘り起こす作業を悩みながら進めている」と、まあ、見事な名文で飾って見せた。ヒヤリとした金属的な冷たさに触れた不気味さだ。取材はやめて、と遺族が言っている。その叫びが届かないわけじゃなかろう。それでも書く、いや暴く。何様なのだろうか?新聞はなぜ、人の死を報道するのか、三度、問う。


政府も、日揮も、ぎりぎりのところで個人の心情をにじませた。悩みながら、痛みを感じながら、ね。しかし、山中部長のコメントは、部長のコメントだ。組織の釈明のようだ。朝日新聞と対峙すると、抗議文の回答が、こんな風になる。自らの正当性を強調し、ちっとも世間の主張に向き合わない。


実名報道が原則というのは、そちらの都合なのよ、それはね。取材現場では遺族や関係者に配慮しながら、と言ったって、なぜ報道するのか、の答えにならないですね。読者からの意見や批判に耳を傾けるのであれば、その教条的な原則という実名報道の看板をまず一旦下ろしたらどうでしょうか。


調べると、朝日はいつくかの過ちを侵していた。


朝日が非公表の要請を無視して、遺族の話として死亡した渕田六郎さんの記事を22日の朝刊で実名で掲載した。写真は、フェイスブックからの引用だった。ご本人が亡くなっているのだから、無断で盗用した疑いがある。引用先の明示もなかった。年齢も間違っていた。取材に応じた遺族は、名前は出さないという条件だったが、深夜担当記者から、写真を確認してほしい、と連絡があり、実名で書くと通告されたという。これは約束が違うとやり合ったが、午前2時半になってその記者の上司から電話が入り、悪く書いていないという趣旨の説明が一方的に行われたという。さて、これが朝日の実名報道の実態だ。だまし討ち、とは言わないが、どうしてこんなことを繰り返すのだろうか。



 名前を明かした朝日の記事、写真はフェイスブック
 から引用、引用先の記述がない

遺族や関係者に少しも配慮がみられない。読者からの意見や批判に耳を傾けていないじゃないの、社会部長のコメントは、虚妄という事になりませんか。朝日新聞が、個人の写真を無断で使う、またですか? ソーシャルネットといえど、著作権、肖像権が厳然と存在する。取材に対応した遺族は、親類からバッシングにさらされており、告別式の出席を拒否されたという。詳しくは以下のURLで。

※http://getnews.jp/archives/285782





「日揮」が犠牲者の名前を非公表にした、ということが波紋を広げた。昔の取材を競った読売社会部のOBに聞いた。「もうそんな時代じゃないよ、新聞と読者の距離、そこを真摯に埋める姿勢が求められる、いま新聞が標的にされていることを知らなければならない、公表しないでというなら、そこを突き破って書く理由は見当たらない」とまっとうな認識だった。アルジェリア人質事件に関する読売の記事は、抑えを効かせたものだった。毎日や産経の知人にも、アルジェリア人質事件の評価を聞いた。「ややこしいが、この現実は丁寧にやるしかない」との姿勢だった。が、「これが前例となって、非公表を宣言されると手出しができなくなる懸念がある」と心配も口にした。


断片的な事実を少しずつ積み重ねていけば、きっと真実がその輪郭を浮かび上がらせるにちがいないとの見込みは、容易く裏切られたようだ。アルジェリア人質事件は、メディア環境の変化に新聞が追いつかない事態を浮き彫りにした。新聞メディア周辺からため息が漏れ、それが敗北感のように暗い影を落としているように思えてならない。


報道の自由、表現の自由、知る権利とか、その背景を深めるつもりで書棚から関連の本を漁ったら、その多くが新聞メディアへの批判だった。40年前の『知る権利』ではないが、新聞が、世間から信用を失っているのだ。残念ながらその危機感が現在のメディア関係者から感じられないのはどういうことなのだろうか。


いくつか本を紹介する。


真実が伝えられているのか、日本の戦争報道を追った『メディアコントロール』(前坂俊之著)△「表現の自由」を社会学的に論じた『表現の自由の社会学‐差別的表現と管理社会をめぐる分析』(伊藤高史著)△過熱するマスコミを検証する『一極集中報道』(松本逸也著)△9・11後のジャーナリズム『アメリカ愛国報道の軌跡』(永島啓一著)△『マスメディアと国際政治』(渡邊光一編)△その確かさと危うさの構図『報道とマスメディア』(各務英明著)△マスコミの再生の鍵は「参加型ジャーナリズム」にある『ブログがジャーナリズムを変える』(湯川鶴章著)△『モンスター新聞が日本を滅ぼす』(高山正之著)△報道と人権の最大のテーマは真実を報道する自由と人権の尊重の両立という『マスコミ報道の責任』(前沢猛著)△新しいメディア批判のアプローチ『メディアと倫理』(和田伸一郎著)△『ジャーナリズムの起源』(別府三奈子著)△『ジャーナリズムの情理』(青木塾、山本泰夫編)などだ。



関連のメディア本

その中でも特に興味を引いたのが『メディア・リテラシーの社会史』(富山英彦著)だった。「なんで殺人事件って報道するんですか?」のフレーズが目に触れて、ぼくの思考はフリーズしてしまった。ごく普通の疑問に、答えがみつからなかった。なぜ、と問い考えることなしに現場に走っていたからだ。


筆者で当時大学講師の富山さんが、ジャーナリズムのゼミで教え子から「なんで殺人事件って報道するんですか?」という質問を受けたことを紹介し、その一言がどのような論理で何と何が結びついてそこにたどり着いたのか、というの興味から、学生に「なんでそんなことを思うのか?」と、質したのだという。


すると、「だって、どこでだれが殺されたって、別にぼくたちは困らないじゃないですか。なんであえて、そんな関係のない世界のことをしらなくちゃいけないんですか?」と語った。これは、彼なりの疑問だと富山さんは理解を示すのだが、一歩引いて「正解」を避けて議論の前提とし仕掛けてみると、議論の場が他の学生の反論で沸騰する。


ジャーナリスト志望の学生が、「新聞やテレビで事件を伝えることで、その事件に対する世論を引き起こすんだよ。多くの人の感心を呼び起こすために報道するんだろう?」と、報道の世界を目指す彼らしい反論だったと評価し、「その反論はかなりの程度、『正解』を言い当てていた」と述べながら、ゼミで使っていたテキストには、「知らないことを知ることで安全を確保し、生活を設計し、うまく過ごすことが可能になる。情報を交換することが社会創設の基礎となり、人と人のつながりをつくる」とあった。富山さんの現実的でしかも鋭いところは、このジャーナリスト志望の学生にこんなことを囁いたところだ。


「世論を引き起こすことを意図して、現場のジャーナリストは日々仕事をしているのかなあ、ぼくたちは報道されるニュースを見て、面白がったり、面白くなかったりといった感想を持っているだけではないのだろうか。ぼくたちにとってテレビドラマもニュースも、本当は変わらないのではないか。そして現場のジャーナリストだって、本当は、自分たちの仕事をしているだけじゃないのかな?」と。


富山さんのメッセージは、学生らに対してのものではなくひょっとしたら、それは自分自身に向けられたものであることを告白し、そして、「よくわかんないね」と笑って、正解を保留にした、という。その疑問が、ぼくの胸のうちでアルジェリア人質事件と重なった。名前の非公表という事態で、あらためて新聞は、なぜ報道するのかというこの単純だが実はジャーナリズムの根本的な命題を突きつけているような気がするのだ。


実名によって人としての尊厳や存在感が伝わる、とか、実名報道が新聞の原則などというのは、書かれる側にとってなんの意味があろう。そもそも、アルジェリア人質事件の核心からほど遠い次元の問題なのではなかろうか。遺族の悲しみにどういう気分ですかと聞きますか。告別式の模様は必要か、お涙ちょうだい式の記事は、プライバシーに踏み込む言論の暴挙なのだ。



おしまいに、僕がファンの作家、横山秀夫氏の7年ぶりの作品『64』のことに触れたい。確かに読ませる。警察ミステリーというより、これはヒューマニズム小説と感じた。組織の論理と個人の矜恃、そこは相入れないものだと、ぼくもそう信じ込んでいたのだが、読めば答え以上の感動がえられた。何度か涙した。その持ち場で、組織の顏を崩さずにしかも、わずかでも自分らしさを残しながら振舞う場面を見つけることだ、と教えられた。もっと早く読んでいれば、ぼくも新聞社を辞めていなかったかもしれない、と思って苦笑した。



 心にしみた横山秀夫の渾身『64』

『64』でも、ある誘拐事件に端を発した記者クラブと広報の間で、実名か匿名かをめぐる報道協定が取り沙汰された。そんな経験もした。地方記者として栃木を舞台に10年余り動き回った。その時の県警本部のキャリアの刑事課長が警察庁長官になった佐藤英彦氏で、同郷のよしみでよく将棋をさした。警視庁で事件記者を経験した時の広報課長がやはり警察庁長官に上り詰めた安藤隆春氏だった。いずれも人格者だ。安藤氏とは毎年欠かさず年賀状を取り交わしている。そんな昔のことをふと思い出した。



事件記者、あの時はクライマーズハイというか、無我夢中だった。悪夢の日々だった。それでもまた事件記者に戻りたいような、思い出したくないような、実名報道が原則という認識に迷いはなかった。そう思うと心が波立った。





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