DNDメディア局の出口です。ひと夏の北海道は、夕張編。オホーツクの最東端・根室から生まれ故郷、かつての炭鉱の街、夕張へ。母校の向陽中学の仲よしが集まった。45年ぶりの遠い幻影が、息を吹き返した。また会うだろうから、「縄文石斧の会」と命名した。
■哀愁の夕張に入る
雨が降っていた。パジェロは札幌から夕張を目指した。ハンドルを握る同級生の三浦龍一とはこれで2度目の夕張訪問となる。泊まるのは今回が初めてだ。今夜は、ホテルの前庭で炭を起こしてバーベーキューと決めている。酒や焼酎、飲み物やつまみ、炭にいたるまで几帳面な三浦が手配してくれた。
札幌から小室眞一、函館から太田正章がそれぞれ車でやってくる。雨は大丈夫だろうか。一向に止む気配がないどころか、さらに激しくなってきた。雨でも外でやりたいねぇ、と無謀なことを言ったら、テントを用意してくれるらしいよ、と三浦がハンドルを切りながら笑った。これで大丈夫だ。
道道3号の札夕線、札幌と夕張を結ぶ42・5キロの道のりは、途中、長沼町から由仁町を南にかすめて栗山町を横切る。かつての二股峠から長い山のトンネルを抜けると、その先が哀愁の夕張だ。再興が急がれる故郷は、雨にけぶっていた。
ここはどうだろう、と三浦が車を止めた。駐車場は、昔、夕張一繁華な旧岡村デパートのそばで、雨の中を走って坂道を上ると、老舗のラーメン店「のんきや」。カウンターに5人も座れば満杯になる古風で小さな店だ。三浦が案内してくれた。細腕の女将さんは3代目、10年前に内地から戻って親の店を継いだ。お盆で、墓参り客がどっと押しかけていた。すぐ上に墓地があるからだ。
引き戸を開けて、あの〜と顔を出すと、午後2時過ぎだが満員御礼。色白の姉さんが、すみません、もうスープが切れちゃってねぇ、と腰を低くして詫びた。ムムッ、スープがなくなると店を閉める、そういう店を探していたのよね、わざわざ東京から、と恩着せがましく泣きを入れた。カウンターの中で姉さんはホーローの鍋をゆすりながら、何人ですか?と聞くので2人、たった2人とあわてると、どうぞ、なんとかなるかもしれないから、とぼくらを招き入れてくれた。
ややっ、9回裏の逆転ホーマみたいだ。うれしい、とっても気分がいいなあ、と言ったら、これが夕張の人の心意気よ、とそばの年輩の女性がこちらに顔を向けた。おばあちゃんは80歳、ご主人が炭鉱で働いていた。やはりお墓がこの上にある。お盆の時期は、墓参り客でにぎわう。お隣のおばあちゃんも、そうよ、と言った。なんかしみじみした懐かしい気持ちにひたった。スタートから縁起がいい。素朴でのんびり、この優しさと、ひと懐っこさはどこからくるのだろうか。
ラーメン600円、大盛り700円、ぼくの前に大盛りがドーンと。メンマにナルト、たっぷりネギ、それにチャーシューが大小とりまぜてどっさり。鶏ガラスープの旨味をきかせた昔ながらの味だ。おいしいね、といったら、お姉さん、いやあ、チャーシューが小さ目だから50円負けとくね、という。三浦が、いやいや、と拒んだ。姉さん、不揃いのチャーシューが気に入らないらしい。ひとり50円、定価から引くといってきかない。たかが50円、されど姉さんの精いっぱいの50円のサービスに、ついホロッときそうだった。
外は雨が降り続いている。川沿いの街を抜けて、清水沢、そして沼ノ沢を走った。沼ノ沢は、広い畑に恵まれている。夕張メロンの産地でもある。トウモロコシ、スイカ、長芋など良質の作物が獲れる。友達にメロン農家が多い。
夕張の再生は、険しい川沿いの市街地より、こちら沼ノ沢周辺に拠点をおけばよかったのに、と口数の少ない三浦が言った。そうかもしれないなあ、とうなずいた。沼ノ沢は、ぼくらの中学校があった思い出の場所だった。
パジェロは、ぼくらの母校を背に踏切を超えて真谷地の深山に入った。小学校は跡形もなかった。旧6区には4〜5階建ての真新しいアパートが並んでいた。友達はいるのだろうか。うっそうたる雑草に覆われた一本道の先の旧市街地に入った。生協や組合の寄合所は更地に雑草が覆い尽くしていた。5区の野球のグランドに通じる道はもう消えてない。
雨の中を歩いた。シャッターをたくさん切った。数年前、やはり三浦とここにきた。その時より確実に人家がまばらになった感じがする。牛乳屋、テーラー、呉服屋、藤井さんの和菓子屋、梅内さんの駄菓子屋、村田床屋、佐藤精肉店、脇書店、その隣にぼくが住んでいた店舗兼住宅の2階建の家だ。近所の子らと遊んだ消防署の空き地もそのままだった。不思議な感覚だ。佐々木君の家の玄関に通じる3段の木製の階段が朽ちながら原形をとどめていた。佐々木君は、金魚のフンのようにぼくの後ろをついてまわった。どこ行くあても何する予定もない、まったりした子供の頃の記憶が甦ってきた。ファインダーが一気に曇ってきたのは、雨のせいだわ。
静寂だ。川の流れる音、雨の音しか聞こえてこない。この街は昔からサイレントシティーだったかもしれない。中学3年に進級する春休みに、ぼくは父のトラックでこの街を出た。ぼくは14歳になっていた。炭鉱の夕張からオホーツク海の根室に。まだ春遠い3月24日の夜だった。その夜のことをしみじみと思い出していた。見知らぬ街に放り出された転校生、その寂しさを慰めてくれたのが、クラスメートからの手紙だった。
青春の悩みを綴った手紙、それが束となって残っている。そのお蔭で、ぼくは寂しくはなかったのかもしれない。去っていったものより、残されて方が辛い思いをすることだってある。ぼくは三浦にその手紙のことを話し始めていた。
■小室眞一の"豆腐の角事件"
手紙は昭和42年5月から、つまり転校して2ケ月ほどたってから活発になった。まず小室眞一からの手紙、それが手元に3通ある。もっとあったと思うのだが、残念ながら散逸したらしい。小室とは仲良しだった。彼の家に泊まったり、札幌に遊びに行ったりもした。
忘れられないエピソードがある。担任で国語の足立先生が、なぜか嫌いな食べ物を言え、と小室を指名した。その物腰の柔らかさからは想像がつかないのだが、意外と頑固で主張を曲げないのだ。小室は、担任の好物がカレーと豆腐だったにもかかわらず、嫌いなものは豆腐です、とつい口を滑らせた。まずい、と思ったが、もう手遅れだ。担任は、豆腐の角に頭をぶっつけて死んじまえ、と怖い顔しながら冗談っぽく言った。小室は、それを真に受けて角に頭をぶっつけて試したらしい。死なないじゃん、と得意げになって翌日、担任に抗議しそうになったから、必死に止めた。これが"豆腐の角事件"である。
転校したぼくに小室から届いた最初の手紙は、消印が42年5月5日だった。
「デン、風邪なおったかい?きのう学校に手紙着いたぞ。先生が中々面白いってほめていたよ。みんなデンの手紙遅いから、デンの悪口ばっかり言っていたぞ。手紙がきたとたん、みんなはっちゃ気になって見ていたぞ。それだけみんなに好かれていたんだョ、ヨカッタネ。話はかわって、受験勉強のことなんだけれど、初めてでどんなことしていいのかわかんなかったんだ。計画表を作ってやるきだけれど、まだわかんないから、デンおしえてくれや、それからソンチン(園田君)が登川へ引っ越した。クラスに石倉君が入ってきたよ。おれんちのむかえ。元気でね、good by デン 馬どうもありがとう、予定表と一緒に大切にしまっておくぞ。五月五日こどもの日」
次に夏休みにはこんな手紙がきた。
「デン、手紙全然くれないけれども元気なのか?おれの手紙そっちについたはずなんだけれど、読まなかったべ。デンが手紙を何回もくれよっていったって、おまえからくれないんなら、だめでないか。
もう夏休みだね、デン勉強しているか。一学期の成績下がってしまったさ。夏休み中にもりかえすさ。あのな、加藤が引っ越していったよ。それから大友もいくようだ。
デンまたふたりで札幌に行ってみたいな では、元気でね。Good by」
三年後、高校2年の冬に、小室はこう書いてきた。抜粋。
「デン、手紙遅れてすまないな、元気でいるか。デンのことだからカゼなんか引いていないと思うが、気をつけてくれよ。俺は、デンのように何か一つの物に打ちこんでゆく気持ちが薄いが、自分自身の主張というものははっきりつかんでいるつもりだ。夕張北高では封鎖騒ぎが起こっているのにかかわらず南高では平和そのものだよ。同じ若者なのに、俺たちだけが取り残されていくような感じがしてくる。
デンもさすが読書したかいがあって、素晴らしいこと書いてあったし、字もうまくなって少々おどろいたぜ。でもよ、俺の事、まだ思っていてくれてありがとう。そのうち、会えるとことを願っているよ。 S 45 2月5日 good by」
小室眞一も夕張に向かっている。こんな優しい友達に会えるなんて、なにより幸せだ。
■太田正章との文通は、手紙の束に。
さて、ひと呼吸おいて、次に紹介したいのが太田正章だ。いや彼からの手紙は、数十通束になってある、封筒から便箋を取り出してクリップで止め、日付順にならべてみた。パソコンのデスクが埋もれそうになった。
一番多く、そして長い間文通のやり取りをしたのが太田だった。太田には、包み隠さず率直に心模様を綴って、確かな友情を育んだ。お蔭で幸せな時間をたくさん共有したし、書くことの楽しさと難しさをいっぱい知った。いまとなっては、芸の肥やしである。
シベリア鉄道でヨーロッパに行く、と知らせたら、脱日本か、とすぐ反応してくれた。ジャーナリストになりたい、と大学2年の時に知らせた。太田はそれにも人一倍興味を示したが、進む道が違う、と背を向けたことがあった。彼は理系で国立大学に進み化学の道を選んだ。が、かれこそ、ジャーナリストに向いていたのではないか、と思った。本人も文系向きだったのではないかなあ、と悩む時期もあった。
彼の手紙の文面は、いま読むと中学の時からある水準を超えていたように思う。本を読み、そして書き綴った量だけ文章が上達するのだろう。手紙は、その本人の成長の証でもあった。今残る一番古い手紙は、42年5月4日付のもので夜九時20分、と時間まで書かれてあった。小室の最初の手紙とほぼ同着だったようだ。
「出口、元気か、おまえからの手紙がいつくるか首を長くしてまっていた。(手紙の着いた日は5月4日)。
茶色だった松の葉が濃緑の葉になり、ヒバリが草わらから飛び立ち、青い木の芽がのびていく。
おまえと別れたのは3月24日金曜日だった。約6週間も便りがなかったわけだ。バスケット部はやめた。兄が農高に入ったのでどうしても続けているわけにいかなくなってしまった。バスケットを離れて4週間、クラブは新しく発足した図書クラブ(読書クラブ)に入った。始めは、おれと青木とC組の女子2人だったが、2人増えた。学校が終わってすぐに家に帰ると仕事、夜になってから勉強だが、なかなか計画通りに勉強が進まなくて苦心している。苦しい時に笑いをもらす人、苦しい時には考え込んでしまう人、人それぞれ道があるらしい。書けば書くほど文章が尽きない。後から後からでてくる。まあ、お互い手紙の交換をして友情を深めていこうじゃないか。体に気をつけてな。」
太田正章14歳、これが最初の手紙だった。 その10日後に以下のような2通目が届いた。抜粋。
「出口 手紙ありがとう。おまえからのミレーの落ち穂拾いのワッペンと、切手までもありがとう。今日は学校から複雑な気持ちで帰ってきたんだ。学級委員だから、H・Rの時間に面白くないことがあった。そんな時におまえからの手紙が届いた。おまえの手紙は、おれにとって最高のなぐさめのことばのように感じた。
おまえの手紙を見て、農家に下宿しているということに驚いたり感心したりした。おれもなんで農家なんかに生まれてきたのだろうか、と以前はよく思った。市街のやつらが遊んでいる時に仕事をし、寝ている時に勉強をしなければならない。そのことに悩んだ。だが、そういう生活の繰り返しが人間を強くしていくのだと思う。
ところで、英語の良い勉強法を栗原先生から教わったのでしらせる。まず、英語の教科書を日本語に訳し、その訳したものをまた英語になおす。英語の教科書が虎の巻になるわけだ。この方法でやると、単語は無理なく覚えるし、文法、長文解読の役にたつ。
数学は復習も大切だが、予習をしておくとその日の授業が楽しくなる。数学も無理なく消化できる。これがおれの勉強方法の一部だ。おまえもよい勉強方法があったらしらせてくれ。おれはこの通り字も文もへたくそなので、前の手紙が上手く全部読めたかどうか心配だ。おれはやるぞ。きさまなんかに負けてたまるか。
1967年5月14日日曜(天気、曇り。雨が降り出しそう、うれしいな) 手紙くれ Good by」
これは丁寧な文字で便箋4枚にびっしり書かれていた。文通は、こんな調子で始まっていったのだ。8月24日の手紙には、ぼくが贈った万年筆で書かれた。
「いまこの手紙を万年筆で書いている。万年筆は持っていなかったのでうれしかった。この万年筆をおまえだと思って勉強にがんばりたいと思う」
手紙は月1から2回のペースで続いた。高校2年の8月10日付の手紙に、三浦の事が書かれている。中学の時は、太田と三浦は、同じクラスでクラブもバスケット部だった。が、夕張北高に進学してから、どうしたことか、太田は三浦との関係がギクシャクしたこと胸を痛めていた。
「三浦のことはなんとしても友情を回復したい、と思う。同じ汽車通なのだが、入学以来、一度も同じ場所に乗ったことがないのもひとつの原因だろう。自然と焦らず回復していきたいと思う。よい手紙ありがとう。月1度ぐらいは手紙を出す」
つらい日々が続いていたらしい。
「おれは友達をもたない。心から話し合える友がいない」と綴り、そして三浦のことに触れる。「三浦と気まずくなって以来、おれの心の中には、化学反応をおこして沈殿していく物質のように透明な水溶液中から突然、白い化合物が出現しては心の中に積もっていく。その重みに耐えきれなくなる時があった。心が、心が、巨大な巨人の手によって握りつぶされそうになった。しかし、思った。時が、時がやがてすべてを解決してくれると思った」とその気持ちを明かした。
46年2月25日の手紙。このころと言えば、もう受験シーズンの大詰めだ。が、心を寄せた彼女のことに悩んでいた。文面は、潔いというか、開き直りと言うか、「今日は全部書くぞ」といつになく気負いが感じられた。よかったのは、その1月に開催した中学時代のクラス会でやっと三浦と言葉をかわすことができた。そのことを素直に喜んでいた。
「クラス会で三浦と話し始めてからは、話せるようになった。しかし、空白の2年間はあまりに大きく、おれと三浦の間の谷を悲しげにみているおれがいた」と。大学の合否の発表が近づいていた。
太田は、仲良しでやはりバスケ仲間だった上田達也と第一志望の北見工大に合格して進学した。が、46年の5月19日付の手紙は、こんな書き出しだった。
「出口元気かな。北見にきたぜ。室蘭工大も北見工大も合格した」と威勢はよかったが、内容はきわめて深刻なものだった。大学に入学したものの受験などの疲れで虚脱状態、その先の目標を一時失っていた。5月病だったかもしれない。専攻に実験が多いと書いて、実験は好きだが、そうなると好きな本が読めなくなる、と心配してこう書いた。
「頭の中の豆腐が石と化するかな。花が造花にしか見えなくなるかな。おれは今になって考えるんだ。おれは理系じゃなくて文系にむいていたのじゃないか、と。本当のところ、俺自身もよくわからない。時々、詩を書いていた。でももうだめだ。波が立たないんだ。むし暑く風のない夕凪の海のようなものなんだ。忘れてしまった、詩を書く気持ちを」と切ない気持ちを隠さない。最後は、「何をすべきだろうか」で締めた。この1行は胸にジーンと響いた。その年の暮れ。
「夏が知らない間に通り過ぎて、秋風がアカシアの落ち葉を散らせる。冬将軍はいままさにオホーツクの海より到来しようとする鉛色の空…」との書き出しで、前期の試験が予想以上に悪く、勉強への意欲をうしないかけていたことを綴った。どうしたのだろうか。
ぼくが新聞記者の道を進むことを彼に伝えた。すると、大学2年の冬、48年の1月3日付の手紙には「出口、おまえの姿が長い忘却の彼方から今また浮き上がってきている。ジャーナリストの道を進む決心をした動機はなんなのだろうか。ジャーナリストとはいったいなんなのだろうか」と疑問を投げかけた。続けて、「おれは化学屋への道を進んでいる。有機・無機・分析・物理化学・etc、まだ入り口にしかすぎない。でもおぼろげな体系をつかみ始めている。まるで底なし沼のようだ。北見工大における実験設備・教授の不足はこれから徐々によくなるかもしれないけれど、現在の状態では自分で学びとる以外に道はない。数学と物理学に力を入れて量子化学の分野に手を伸ばすことが当面の目的だ。大学を出るまで何年を要するか未定だ。大学に入学して約2年、ようやく自分を見つめられるようになった」と書いていた。少し調子を戻していた。が、心は揺れた。まだ本調子ではない。
48年4月、大学2年の手紙には、肝臓を壊して春に通院していたことを明かした。そして「自信喪失」の文字、手紙もそれまで便箋に4〜5枚びっしり書いていたものが、この時はノート1枚に10行程度の短さだった。
50年1月6日の手紙。太田は就職先が内定した。道内の段ボール製造会社だった。ぼくが、産経新聞社に入社する旨を知らせた。太田は、おれたちの進む道の異なりを感じた、と産経新聞に違和感があることを遠慮なく口にした。
「空白の期間にお互いが変化し、それぞれの道を目指して歩み始めたらしい」と結ぶ。
文通は、この辺でひと区切りとなった。中学3年の14歳から大卒の22歳まで濃密な8年間の軌跡が、その手紙の束に凝縮されていた。が、いまだ封印されたままだ。それから数年後、昭和54年の年賀状が届いた。見事なまでの獅子舞を絵柄にした版画が刷られていた。文面には、我が家も今年6月には家族がひとり増える予定です。本年もよき年でありますよう、お祈り申し上げます、と書かれていた。結婚をし、幸せな生活をしていることをうれしく思ったものだ。
■縄文石斧の会と命名
そしてこの夏、夕張・沼ノ沢で開いたクラス会によって、あの色褪せた封書がやっと封を解いたかのような思いがした。過去の思いが一気に噴き出した。とりとめない会話が弾んだ。
ホテルの外は、ザーザーと激しい雨が降り続いていた。夕刻、ぼくと三浦が一番乗りだった。三浦は慣れた手つきで炭を起こした。まもなく、"豆腐の角事件"の小室が元気な姿を見せた。日焼けした顔は若々しい。やや、やや、と懐かしんで、さっそく一升瓶の封を切った。いまか、いまかと待ち望んだ太田正章が愛妻を伴って雨の向こうから、やってきた。細い目、太い眉、熊腰、間違いない太田正章だ。眉が弧を描いて柔和になっていた。出迎えて抱き合ったさ。
懐かしさと切なさが重なった遠い幻影が、45年ぶりに息を吹き返した。そして、リアルで生々しいこの物語をどこからはじめればよいか、ぼくは戸惑った。うれしくて舞い上がりそうだった。
三浦龍一、小室眞一、太田正章、もうひとり、そこに上田達也がいてほしかった。上田のことについては、以前のメルマガで書いた。しかし、いつしか小室の隣にイスが用意されていた。太田夫妻を入れて5人なのに、6人分の小皿や紙コップがあった。まあ、上田が騒ぎを聞いてかけつけたんだわ、と小室が言った。みんな納得してうなずいた。
それぞれ人生の道は違ったが、ともあれ無事にこの故郷、沼ノ沢の地で再会できたことは、なによりうれしい。生きていりゃ、いいのさ。
手紙の文脈に、ぼくらの青春の痕跡が読み取れた。このわずかな断片をつなぎ合わせると、まるで8ミリの映写機で映し出すようなセピアの物語になるであろう。太田と三浦は、やはり無二の親友であることは、いうまでもなかった。太田がいきなり、これは三浦に、と手渡したものがあった。細長い石、いや、文鎮と思った。が、さすが考古学者の三浦は、石斧と言いその材質を特定し、縄文後期、紀元前3000年ぐらいものだ、と見立てた。北海道の古代史は鎌倉時代の13世紀頃まで、縄文文化に彩られていることはあまり知られていない。我々も縄文人の血を引いているのではないか、と思った。
石斧(せきふ)と聞いてすぐにはわからなかった。手に取るとずしりと重い。なめらかで艶やかだ。不思議なパワーがみなぎってくる。太田の父親が、太田が小学生の頃、畑で見つけたものだ。以来、大事に持ち続けてきた。考古学が専門の三浦が持っていた方がふさわしい、と太田は言った。そして、細い目をさらに細くして屈託のない笑いを浮かべていた。太田は、この機をずっと伺っていたのだろうか。これは友情の証だ。そう思うと、胸に熱いものが込み上げた。そして、涙があふれて止まらなかった。
病気がちな正章のことが気がかりだった。奥さんが立派だ。美しい人だ。太田は、この奥さんに救われたと思った。太田からの手紙の束の事を口にしたら、奥さんが、うちの人も出口さんからの手紙の束を大切に持ち続けているんですよ、と明るく笑った。
そんなことがあろうとは夢にも思わない。それを聞いて素直にうれしくなった。ぼくは何を書いていたのだろうか。また会いたいね、って、みんなが言った。幹事役の三浦は、珍しく酔いつぶれていた。小室は夢心地だった。ぼくは意識が薄れていくのを堪えながら、この集まりを「縄文石斧の会」と心に決めた。なぜか、その石斧に心がときめいた。
宿泊の夕張ユースホステル、左のテント内でバーベキューを開いた