DNDメディア局の出口です。耄碌、もうろく。その意味を問われて、老いぼれること、脳や体の働きが衰えること、という答えがベストアンサーとして採用されているのをネットで読んで、そうかなあ、と首をかしげた。耄碌の耄は、老の下に毛と書く。鏡の中のおのれの髪の毛の侘しさを恨みながら、ひとくさり、何かにつけて文句のひとつも言わないと気が済まない、そういう意固地な御仁の物言いを耄碌する、と呼ぶのではないか、と思っていた。衰えそれ自体を老いぼれと決めつけるのは乱暴だ。老いぼれと難癖を付けられては、気の弱いぼくなんか生きていはいけないかもしれない。老いぼれ、なんとわびし響きだだろう。
俯瞰工学研究所長で東大名誉教授の松島克守氏がご推薦のアンドルー・ワイル著『ヘルシーエイジング』(上野圭一訳」によると、人間の価値は、老いとともに消滅してしまうのだろうか、と疑問を呈して、「歳を取るということは、人間のいのちの価値を低めるものではなく、高めるものである」と論を進める。年代物のウイスキーやワイン、それにチーズなどの熟成を譬えに、粗野で未成熟な人間の味を、洗練された、まろやかなものにし、望ましい特質を加算していって、コクを深めるものなのだ、と述べて、老いに対する認識を覆してあまりある生命観を提示した。
たとえば貴腐、つまり高貴な腐敗とよばれるワインのその作用の薄黒くしなび、水分をうしなって、内部の糖が濃縮していくという製造のプロセスを克明に描きながら、延々と続く酵母、バクテリア、発酵の変化に言及しそれを微生物の生きたシステムと讃嘆するのである。研究者の鋭い分析力と逞しい創造力にひれ伏すばかりだ。翻訳も平明でわかりやすい。
足腰が弱って動きが鈍くなるにつれて、じっと観察する眼が研ぎ澄まされていくのだろうか。表にでてこない深いところの本質が透けて見えてくるのかもしれない。お年寄りの特性とは、若さが知ったかぶりを強いて恥をさらすのに、老いは見て見ぬふりをしてそれを悟らないことがない。若気の至りといえば許せるが、老婆心ながらといわれると控え見ながらズシンと心に響く。老人を見くびってはいけない。人生の達人、それはおとなしそうに見えるが、表面をつくろっているだけでただ者ではないことを知るべきだ。
ワイル氏の指摘で、ぼくなんか単純だから、お年寄りの見方が変ってしまった。老いぼれをむしろ積極的に評価する側に宗旨替えした。この世から、耄碌や老いぼれという言葉が消えてなくなることはない。が、老いぼれは、"老い耄れ"じゃなく"老い惚れ"と進化していく、そんな気がしてきた。そういうぼくも還暦が近い。
◇山本夏彦&久世光彦『昭和恋々』のエレジー
山本夏彦といえば、辛口コラムが身上といわれるが、昭和の東京下町の風景を語らせると、それが一級の読み物となる。ふと横丁から顔見知りの古老が現れて意味ありげに薀蓄を傾けるよう風情がある。そのさりげないことばが魅力で、さらっとかわしてとりあわなければよいのだが、気にするとのどにささった骨のようで違和感が持続して困る。
わき道にそれるが、『とかくこの世はダメとムダ』(講談社)の著書の中に「老人のいない家庭は家庭ではない」というコラムがある。昔話というものがあって、以前は、年寄りのひとりに巧みに其れを話すものがいて、孫は耳からそれを聞いた。それは先祖伝来の昔話であった。だから抑揚あり頓挫あり、話に血が通っていた、と年寄りの昔話を再現できなくなっていることを嘆く。わかったようなそうじゃないような、たぶんぼくなんか騙されているに違いない。山本夏彦こそ、若い世代にはとうてい気づかない深遠で本質的な何かが見える、ある種の老い惚れなのだろう、と思う。
山本を尊敬してやまない久世光彦によると、山本夏彦というのは変な老人で、死んだ人間しか褒めないので通っていたらしい。それは別段深い考えがあってのことではなく、単にひねくれているのである、と、両氏の共著『昭和恋々』で語っているのを面白く読んだ。これは青森で立ち寄った古本屋で買った。まあ、それはどうでもよい。
『昭和恋々』は副題に、「あのころ、こんな暮らしがあった」とある。ページをめくって目次に入る前の「はじめに」で、久世が昭和のあの頃に、何か大きな忘れ物をしてきたような気がしてならない、とその本の狙いに触れ、恵まれすぎて、安逸を貪るのに慣れ、いつか馬鹿になっていく不思議な「平和」への痛烈な一句だと、辛亥革命を待たず刑死した、秋瑾(しゅうきん)という中国の女性闘士の次の句を取り上げた。『秋風秋雨、人を愁殺す』。その解説は省くが、その9文字の意味するところは小さくはない。
さて、この本は共著だから「はじめに」が久世なら、その最後のページの「あとがき」が山本で、山本は「もといた家も村もなく」と副題を加えて、生まれ育った下谷根岸、本郷周辺の記憶を丹念に辿る。
「根岸は鶯の里といわれ、明治年間まで家ごとに鶯を飼い、春にはその鳴きあわせを競って道行く人は聞き惚れた、という。文人墨客が住んだ」と書いた。「幾とせふるさと来てみれば、咲く花鳴く鳥、そよぐ風―私たちはふるさとを失ったのである。もう永遠に返らないのである」とため息まじりに"昭和変々"の有り様に想いを馳せるのである。
昭和39年の東京五輪から日本の社会は急激に様変わりした、というのはよく知られている。映画「ALWAYS三丁目の夕日'64」が、その辺の時代の空気をよく描いていると思う。子供らが走って辻を曲がる冒頭のシーンから、わくわくした昂揚感が伝わってきたものだ。東京五輪のあのファンファーレは"祝祭"であるとともに"弔鐘"だったという人がいる、と書いたのは『昭和恋々』を書評として取り上げた天声人語だった。そのコラムのコピーが、青森で入手したこの古本の中にはさんであった。
◇昭和の"祝祭"と"弔鐘"のはざま
昭和の"祝祭"が東京タワーの建設なら、平成のそれとは言わないが、その象徴的モニュメントが東京スカイツリーではないか。世界一の高さ634mのタワーが22日に開業し、メディア戦略が奏功してその特番が目白押しだ。各紙にお祝い広告が満載でした。あいにくの雨に冷たい風にもかかわらず早朝から5000人が並んだ。来場者は12万人となっていた。夕刻になって強風のため展望台エレベーターの運転が停止、停止案内板がなく、係員が口頭で説明する"ドタバタ"も起こった。"雨のちドタバタ"の狂想曲だった。23日は、朝から青空が広がり、絶好のスカイツリー日和りとなった。
年間2000万人を新たに呼ぶという。東京の、いや日本の観光地図を塗り替えることになるのだろうか。お台場の周辺はそれほど騒がなくても年間4000万人、こちらは堂々としたものだが、天王洲はパッとにぎわって沈んだ。恵比寿ガーデンプレイスもオープン当初は行列が途切れなかった。そして北海道の小樽、裕次郎記念館やホテル、シネマコンプレックスを入れ込んだマイカル小樽は数ケ月で一年の見込み客をクリアした、と当時耳にした。実際、母親の実家が小樽なのでちょくちょく行ったが、数年後、潮を引くように人波が消えて閑散とし、やがて破たんした。
日本人の新しいもの好きに翻弄されてはならない。東京スカイツリーも3年後にどうなっているか、その辺の見通しを誤ってはいけないのである。
◇東京スカイツリー狂騒、メディアの功罪
それにしても、なんだか気に障る。なんか気に入らない。少し嫌われてもいいから耄碌ぶりを発揮したいと思う。メディアは救いようがないはしゃぎぶりじゃないか。ぼくからいわせると、なにをやっているのだろうか、新聞は!なのだ。
NHKラジオは数日前から、トップ級の扱いでスカイツリー情報を執拗に流している。まあ、電波塔なのだから親せきみたいなものなのだろう。新聞も、「全身に技術の結晶」(朝日)との見出しで、足元からてっぺんまで日本企業の最新技術に支えられている、と日本企業の技術力を強調した。特集を組んだ。夕刊も朝刊も…各紙が競って記事にした。チケットの入手方法の裏技を解説する記事もあった。
妹尾堅一郎・一橋大学客員教授が、NHKラジオにゲスト出演して、東京スカイツリー開業にあわせて不確かなモノづくり大国についての持論を展開した。「あれは工芸品」と喝破し、技術で勝てない日本の製造業の抱えるビジネスモデルの課題を解いた。
妹尾さんの指摘を裏付けるように朝日の特集では、最上部の制振装置が三菱重工、風に強いアンテナが日立電線、超高層エレベーターが東芝エレベータ、五重塔をヒントにした「心柱」が日建設計、大林組、4万トンの鋼材は従来より強いものを製鐵各社が納めたといって「世界最高レベルの技術が証明された」と絶賛した。三菱重工は19年ぶりにツリーがらみでテレビに広告を流している、と付け加えた。新聞各紙に、それらの広告が掲載され、カラー見開きという広告も目立った。
これも、天声人語がいみじくも注釈を入れた東京五輪とおなじく"祝祭"なのであろうが、裏面に見え隠れする"弔鐘"のところは触れられていない。
夕刊の素粒子は、
「見上げたもんだよ…」と寅さんがいれば。
真下から見るとポカンと口が開く。
離れて愛でるべし下町の巨樹。
と、さすがの寸鉄ぶり。
メディアがこぞって東京スカイツリーの開業を煽るから、ヒマな老人から子供までがわれ先を競って350倍の抽選に応募し2500円もの入場料を払って有難がる。一日にここ周辺だけで10万人以上の人が押し寄せる事態に。それなのに、なんら警戒感が見受けられないのは、どうしたことか。これもメディアの責任だ。大げさなプロモーションに血道を上げる大手広告代理店の戦略がうまくいった。そののぼせぶりが目に浮かぶ。広告主導だから、メディアも気を使って悪いことは書かない。久々の大型広告なのである。
多く宣伝し、制限なしで人を集め、それで万が一の対応は大丈夫なのだろうか。首都圏への直下型地震の懸念は口にするのは野暮という雰囲気だ。タワーが倒壊することはないだろうが、何かの衝撃でわずかでも傾いたら、と思うとぞっとする。地下鉄や道路等でのパニックは避けられないだろう。3・11の夕刻、浅草まで歩いてギューギュー詰めの南千住行きの都バスに飛び乗った"悪夢"を思い出した。ぼくはそんなところにはいかない。頼まれてもいかない。高所恐怖症だし、まんじゅうも怖い。屋根より高いところにいってはいけない、というのは亡父の戒めだ。
メディアの煽り方は、老いぼれに言わせると異常だ。浅草界隈をご覧になってください。年間3000万人の観光客が訪れる都内有数の観光スポットだが、そこに降って湧いた東京スカイツリー効果が人出に拍車をかけた。連日、隅田川の花火大会並みの狂騒なのである。雷門から言問橋周辺、雷門通りや仲見世周辺は身動きがとれないほど、ごった返しているのだ。テレビやニュースでやれば理由なく飛びつく時代。付和雷同する大勢の人、それに無定見なメディア、それらのシナジーに危険を感じる。近隣に住む目の不自由な方や、体に障害を抱える人たちは、この人の渦の犠牲にならないとも限らないのだ。
◇暗黙のシグナルを察する力、心を読み取る力量
メディアが安易に流れていないだろうか。密着という名の癒着、WinWinに名を借りた利権、広告狙いでうごめく業界紙、企業の広告塔ぶりを発揮するなんたらジャーナリスト、もういちど、メディアの矜持とやらを問い直さないと、とんでもない方向に傾きかけていることを指摘したい。
レンタルDVDを立て続けに見た。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(原題:Dancer in the Dark)、アイスランドの人気女性歌手、ビョーク主演の、2000年製作のデンマーク映画。隣人のうそと、目が見えないハンディをひた隠しにする母親の心理が複雑に絡んで最悪の事態へと突き進んでいくストーリーは、恐ろしいほどだ。彼女の空想のシーンをミュージカルに仕立てたところが唯一の救いだろうか。
もう一本は、『愛を読むひと』(The Reader)、2008年のアメリカ・ドイツ合作映画。ベストセラーとなったベルンハルト・シュリンクの小説『朗読者』の映画化。主演のケイト・ウィンスレット演じる被告席のハンナの手元にメモ帳とペンが検察側から差し出されて観念してしまう。これもハンナが自らのハンディを告白しないためにすべての罪をかぶることになるのである。いずれの映画も切なさが極まっている。
耄碌ぶりは、映画というフィクションの世界にまで及ぶ。新聞記者は何をやっているのか、とスクリーンに向かって怒鳴りそうになった。政治家、行政組織、警察も法廷ですら常に真実の側に立つという保証はないのである。その最後の砦がメディアであり、ジャーナリストのミッションなのだが、いまは少しは機能しているのだろうか。
ふたつの映画をみれば、暗黙のシグナルを読み取る力、相手の心を察する力がなければジャーナリストなんか勤まらない、と思った。生物的に腐り始めた老いぼれだからこそ、遠慮なくモノをいうのが熟成の醍醐味なのであるが、一つ間違えるとただ加齢臭をまき散らすことになって孫に嫌われるから、用心深くしないといけない。