ちらほら咲き始めた紅梅、馥郁たる香りを漂わせていた-
=思惟大橋公園で、カメラマンの高野俊一氏撮影
作家、吉村昭氏の出世作となった『星への旅』の舞台と
なった息をのむ鵜の巣断崖、屹立した岩場に足がすくむ。
DNDメディア局の出口です。深夜、小雨まじりの東北道をひた走り、距離約600キロ、ほぼ10時間の走行の間、一睡もできなかった。車中の会話が楽しかったというのもあるが、やや興奮状態にあって、岩手県田野畑村の梅の蕾にときめいていたらしい。遅咲きの梅の花、俳句で捉えるなら風にふるえてつんとした佇まいにどんな文字を添えようか、とかその情景を切りとってどんなレトリックで匂い立たせられるかなど、あれこれ思い描いていたら気持ちの高ぶりがおさまらなかった。きっと春の色に染まる淡い野山に梅の蕾が膨らんで、一輪、そしてまた一輪、楚々とした花を咲かせているに違いない。そんな夢想が次から次とめぐって心がざわめいていた。
花の開花が遅れがちでこの春はそれが幸いしてチャンスは今だろうとの確信があった。断崖が迫る陸中海岸の景観を思い浮かべると、寄せては返し岩場に砕けて散る白波ではないが、その村に心がさらわれてしまっていたらしい。かつての"陸の孤島"は"花笑みの村"と呼ばれているそうだ。知恵のある村長が、将来の乱開発を見越して海岸線一帯を買い上げて村有地にしたため、自然の景観が残り即物的な観光売店や淫らな看板や幟は見当たらないらしい。梅の花を愛して残したそんな人たちの思いを胸に、東北行きの車に便乗していたのだ。 わずか数時間の訪問、くるりと立ち寄る程度だったのだが、それでも心が躍った。梅がふくらんで少しずつほころびる、その一瞬のうつろいにちょっとでも居合わせればそれでよい。冬が厳しい田野畑村を舞台にした、村人らのうるわしい物語に紛れ込む追体験のひとときなのである。
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それは突然の誘いだった。近所に住む友人の岡田正さんと奈美子さん夫妻がお祝い事で親類の岩手県宮古市や、釜石市に車で行くというので、それならと先週金曜の20日夜、カメラマンの高野俊一さんを誘って便乗し東北道を盛岡南インターに向けて急いだ。深夜に走らせたのは、ぼくが田野畑村に行ってくれないか、と無理強いしたためで一旦宮古市に寄り、そこから国道45号線を北に入った田野畑村に立ち寄って再び宮古市内に午前10時に戻るためには、この"深夜急便"という強行軍を選択するしかなかった。予定では宮古市内に午前7時ごろ着くはずだが、少しでもずれ込んだら田野畑行きは諦める、つもりだった。岡田夫妻の予定を遅らせてしまってはならないからだ。
カメラマンの高野さんが、田野畑村に何があるのか、と聞いてきた。それと岡田さんが、誰かに取材するのか?行ったことあるのか?とたたみかけてきた。当然の疑問だ。その答えは、いずれもNoなのだ。田野畑村には彼らが期待したようなものはないかもしれない。取材のアポがあるわけでもなし、今回が初めての訪問なので宮古からその村までどのくらいかかるかもわからない。地理にも疎い。見知らぬ街のストレンジャーで、内陸の町役場周辺にこれといったポイントがなく海岸線とてどこを目指せばよいか、それも漠然としていた。彼らがうすうす気づいているのは、ぼくが田野畑村をメルマガにするのだろう、ということだ。
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やさしい仲間だから、ぼくのいうことは大概実現しようとしてくれる。その彼らになぜ田野畑村に行きたいのか、そろそろその理由を話した方がよいかもしれない。田野畑村に関係する本を漁っていたので、どこから始めようか少し頭を悩ませたが、まず吉村昭氏の初期の短編『梅の蕾』のモデルといわれる変わった名前の医師のことを紹介しなければならない、と思った。
千葉県がんセンターで婦人科医長の要職にあった医師の将基面誠さんが、若い頃に雪深い無医村の岩手県沢内村の深沢晟雄という村長の奮闘に感銘を受けていつか自分も僻地医療に生涯をささげたいと思っていた。深沢さんという村長は、悲劇を生んだ赤ん坊の死亡率をゼロにする運動とか、冬場でも医者にかかれるように豪雪で埋まる道路の除雪に力を入れるなどで昭和38年に「第16回保健文化賞」を受賞した。その2年後にガンで亡くなったが、その半生は僻地医療の問題を浮き彫りにし多くの人に感動を与えた。『村長ありき―沢内村深沢晟雄の生涯』(及川和夫著・新潮社)などに詳しい。
村人のいのちを守る、という健気だが一途にこの重い使命を背負った深沢村長の遺志を継ぐ思いで、将基面さんは岩手県庁に「医者がいなくて苦労しているところで働いてみたい。できたら海の見えるところがあれば」と手紙を出した。間髪を入れずに紹介されたのが田野畑村で、昭和56年(1981年)11月半ばのことだった。暮れも押し詰まった12月23日に、その後深い信頼関係を結ぶことになる早野仙平村長と東京・赤坂で面談し、村長から「やってほしいことは病人を治すことではなく病人をつくらないことです」と治療より予防医学の重要性を指摘された。村長は、熱心に一方的に3時間、しゃべりまくった。その時の村長の言葉は、「私の田野畑村への決心を揺るぎないものにして余りあるものだった」と、将基面さんは自著の『無医村に花は微笑む』(ごま書房)に述懐していた。早野村長52歳、将基面さん45歳、火花が散るような劇的な初対面の出来事だったようだ。
そしてその翌年、いまからちょうど30年前にさかのぼるが田野畑村の国保診療所長及び田野畑村保健センター長となり、妻の春代さん、子供3人の家族で田野畑村に移り住んだ。下見に訪れた春代さんが、田野畑村に花が少ないわ、と感じたらしく、寒さにも耐えて花もきれいで、それに実もなるし…と梅の木を植えることを思いついた。引っ越しの時に、トラックの荷台には梅の木の苗木でいっぱいだったそうだ。苗木は15年生のものは枯れることが多かったが3年生ものは気候に順応してよく育った。それから4年後の春には、「奥さんにもらった梅の花が咲いたよ」といううれしい便りが届くようになった。「あらそう、見にいかなくちゃね」と言ったがなかなか出向かれずいると花をつけた梅の枝を切ってもってきてくれた人もいて春代さんはそれをいとおしむように手のひらで包んで目を細めていらっしゃったという。
野山の散策が好きな春代さんが、まもなく村人の多くの談笑の輪の中にいて親しまれ、多くの村人らと散策を楽しんだり、梅の木の植栽にかけ回ったりしていた。将基面さんは、病人に温かく接した。看護師たちは、医師の人柄に感激し、診察を受けた村人たちは感謝の言葉を口にした。村長も喜んでいた。
気がかりだった春代さんだが、体調がすぐれずやがて白血病と診断された。数年後には田野畑村に戻れない状態となった。そして7年後の平成元年1月に死去した。
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吉村昭さんの『梅の蕾』には、夫人の告別式の模様が詳しく描かれていた。NHKのラジオ文芸館の再放送で朗読された。今年の2月のことで、持参したiPhoneに録音したものを車内で再生して、岡田さんらに聞いてもらった。みんな押し黙ったままだった。
…年が明けて村長は、東京に出張した折、千葉のがんセンターに見舞いにおもむいた。夫人は、やせこけてベッドに横になっていたが、嬉しそうに目を輝かせて半身を起こした。
声は明るく澄んでいて、村の人たちや山野植物のことを口にする。早く元気になって、雪どけの山の中に村人たちを入りたい、と繰り返し言った。その張りのある声に、村長は、夫人は病状が好転するかもしれない、と思った。
村は、時折り、吹雪に見舞われ、観光船は岸にもやわれたままであった。ホテルに客は耐えていた。やがて寒気がゆるみ、庭の梅の蕾がふくらんだ。
…村長は、道の端に収入役たちと立っていたが、車が近づく気配にその方向に眼を向けた。大型バスがゆっくりと近づいてきて眼の前を過ぎ、その後から六台のマイクロバスがつづいていて、家の前を過ぎて停止した。村長は、それらのバスの後部のナンバープレートに岩手とあるのに気づいた。どのバスにも多くの人が乗っている。それらの顔を見た村長は、茫然とした。それらは見慣れた村の者たちだった。
村人たちは、夫人の死を耳にして誰いうとなくバスを手配し、夜を徹してこの地にきたのだろう。少なくとも200名を超える数であった。夫人と山歩きをした老人や女の姿も見える。
…葬儀社の人にうながされ、村長は祭壇の前に行き、弔辞の紙を開いた。後方には村人たちがひしめくように立っていた。
村長は、梅の蕾、とそこまで読んだ時、絶句した。すすり泣きが背後で起こった。かれは弔辞の紙を手にしたまま立ち尽くしていた。
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『梅の蕾』は、別冊文藝春秋に掲載され、その後、短編を集めた『遠い幻影』(文春文庫)におさめられている。将基面さんの『無医村に花は微笑む』には、まえがきに「本書に寄せて」と題した吉村氏の一文が載っている。短い文面だが、将基面さんとの出会いに触れながら、吉村氏と田野畑村の縁が深く、昭和41年に田野畑村の三陸海岸を背景にして書いた『星への旅』という小説で太宰治賞を受賞し、本格的な作家活動に入るきっかけとなったことを明かした。村長の早野仙平氏からの招きで加わった宴席で、医師の将基面さんを紹介された。千葉県のがんセンターの要職をなげうって無医村に赴任してきた将基面さんのいきさつや、奥様のことなどを聞いて「これは小説になる」と直感しさっそく執筆に入った。そもそも東京の酒場で意気投合した友人、渡辺耕平氏が田野畑村の出身で、彼から「おれの故郷は小説になる」と言われて田野畑を訪れた、というのが始まりだった。まえがきの書き出しが、「思わぬ人との出会いというものがある」というものだった。
将基面さんの19年に及ぶ村での生活記録を綴った『無医村に花は微笑む』について、無医村で過ごした歳月は、一人の人間、医師として決して無駄なものではなく、むしろ余人では経験できぬ貴重なものを氏に与えたことを知った、と述べ、田野畑村にあってこそ、氏は医学とはなにか、人間とは、ということを知り得て、それをしかと見につけた、とその生きざまを称えた。
『梅の蕾』の中でクライマックスとなった、夫人の葬儀に際して遠く三陸海岸から千葉県木更津まで村民がバスを連ねて参列したことについて、「氏と村人たちの美しい心の交流が感じられる」と印象を語った。将基面さんは、単行本になったと知らされる吉村氏からのハガキの文面を紹介し、「校閲で読み直すたびに、葬儀にかけつけた村民がバスを降りてくるところでは、どうしても涙がでてきます。作者のくせに」と書いてあったという。
吉村昭氏は、田野畑村の名誉村長になり、出世作となった『星への旅』の舞台となった鵜の巣断崖には、吉村氏の文学碑が建つ。田野畑村は、作家としての原点と述べられているそうだが、3・11東日本大地震でにわかに脚光を浴びることになった吉村氏の明治39年の三陸津波を題材にした『三陸海岸大津波』とか、『幕末軍艦「回天」始末』など田野畑村と縁の深い作品を発表されている、とそれは将基面さんも書いている通りです。
ご存知のように吉村昭氏は2006年7月31日に死去、舌がんやすい臓がんへの転移で闘病の床にあって、自らの点滴の管を引き抜いて「もういいです」と看護師に言ったとされる。その一年半の闘病の経緯をご夫人で作家の津村節子さんがその著書『紅梅』で克明に書いた。
吉村氏もまた紅梅が好きだったらしく、離れの書斎の前の植え込みと、塀に沿って植えたものが二本ある。満開になると、母屋にいる夫人に「鶯がきているよ」と知らせていたことなどが紹介されていた。
津村さんには新聞で連載した『合わせ鏡』(朝日新聞)と題した随筆集があり、そこの「花笑みの村」というエッセイのなかで田野畑村を取り上げていた。
…田野畑村は、東京23区の約4分の1の広さに、人口5000人の過疎の村である、と概略を述べて、隆起した断崖が迫り、川は深い谷となって村を寸断している、とその険しい様子を捉えていた。ようやく谷底まで下って急な崖を登ったかと思えば、その先に次の谷越えを覚悟しなければならない。譬えて、村役場に就職する者が、最初の谷を見て、これを越えられるか、と思案するので思案坂、現在は槇木沢にかかる思案坂大橋がかかっているから平気だが、さらにそこから村の中心部に進むと松前川の渓谷で、それを越える気力を失って辞職を考えるから辞職坂と名付けられた。そこも現在は、思惟大橋として立派なアーチ形の橋が架かり周辺が整備されている。思案坂、辞職坂のいずれも田野畑村の厳しさを語って余りある。冬場の豪雪、霧が覆う3月のヤマセ、秋口の台風などその行程は命がけだったのだろうと想像する。地域医療の解決は、道路の問題でもある、とはよくいわれることでもある。
まあ、その半面、四季折々の自然の恵み、山菜や海の幸が豊富だし、アカシアの蜂蜜や採れたての田野畑牛乳は絶品らしい。春先の間引き若芽は、熱いお湯としょう油で食するのだが、これもこの三陸海岸の恩恵なのだろうと、思う。
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さて、田野畑村のあれこれを述べたら、岡田さんやらカメラマンの高野さんも、それは楽しみだと言った。カメラマンの高野さんは、その梅の木はどこにあるのか、と聞いてきた。診療所とか、村長の家とか、あっちこっちにあるのだろうと思うが、その後、地域医療への貢献が評価されて、将基面さんが平成8年度の「保健文化賞」を受賞する。副賞250万円は、「亡くなった妻が、梅の花をこよなく愛していた。村を梅の花でいっぱいにしたかったと言う妻の気持を受け継ぎ、このお金を活用していただければ幸いだ」と村長に言って渡したという。
村長は、これで「花笑みの村基金」をつくり、故・春代夫人の梅の里構想はその実現に一歩踏み出すことになる。平成9年のその最初の事業は、辞職坂と言われた渓谷にかかる思惟大橋わきの公園に梅の苗木を10本、診療所、老人ホームに30本、その裏側の「農民一揆の像」や「田野畑民族資料館」が併設されている「四方見(よもみ)公園」に50本をそれぞれ植えた、と将基面さんの本にあるのを記憶していたから、思惟大橋の公園に行けばまず間違いはなさそうだった。
公園の植樹には記念行事として、吉村昭さん、津村節子さん夫妻が列席し、田野畑の北側の橋のたもとに津村さんの詩碑があるのだという。
この思惟大橋が完成したのが昭和59年、将基面さん家族が田野畑に赴任したのが57年のことだから、赴任した当時は、まだ橋がかかっていなかったことになる。橋は、着工から4年の歳月と38億円を投じてつくられた。高さ120mもあり、欄干から下をのぞくと吸い込まれそうなくらい恐怖を感じる。この橋のお陰で、「もう言葉に尽くせないほど村の交通はよくなった」と将基面さんは述懐する。36歳の若さで当選し8期32年の任期を務めた早野元村長の政治への志のひとつに松前沢に橋を架ける、と亡き父親に誓ったそうだ。ご尊父の死去に際して火葬場からの帰り道には遺骨を抱いて突如、帰路を変更して思惟大橋をゆっくりわたり、回り道して自宅に戻ったというエピソードがある。早野村長は、数々の業績を残し平成9年に68歳で勇退した。企業誘致はいらない、と喝破していた。
将基面さんによると、彼は「30年間一生懸命努力したけど、これでいいという状態だとはとても言えない。村民が文化的な生活をしているとは思えない。30年ではまだまだダメだなあ」と言ったという。
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ほとんど車中は、ぼくの独壇場だったかもしれない。東北道は順調に進んで目的の盛岡南インターを降り、閉伊川沿いの106号線宮古街道を東に走っていたら、東側正面の空がしらじらと明けた。午前4時半ごろだった。この道は昨年5月に初めて震災現場に向かった時に走ったところだ。田野畑に向かうなら岩泉町から回った方が近道だったかもしれない。宮古に一旦、入って宮古から田野畑までの時間を知る必要があったからだが、まあ、このペースなら、田野畑村に行ってゆっくり回れるだろう、と踏んだ。実際、その通りになった。宮古市に入って直角に北にのぼる。小本大橋から道が二手に分かれた。時計は5時を少し回っていた。
まず、どこへ行きますか? 朝ご飯はどこで食べますか? 梅の花はどこですか?となにやら周辺が騒がしくなってきた。走行時間が分からないし、45号線の三陸北道路を指示してとりあえず、鵜の巣断崖ICと行先を告げた。岩泉トンネルを越えたらまもなくだった。標識に沿って海岸にむかった。村落を通って林を抜けると、こざっぱりした駐車場に着いた。山小屋風のトイレが一軒あるだけで、周辺はよく手入れされていた。車を降りて、そこから10分ほど歩いた。赤松の並木が朝日をあびて長い影を引いていた。
柔らかな歩道は、歩きやすかった。なんと清々しいのだろうか。好天に恵まれてとても気分がよい。右手に石碑がみえてきた。吉村昭氏の文学碑だった。表に『星への旅』の一節があり、裏側にも氏の力強い筆致で彫られていた。
「小説、星への旅は、田野畑村の空と海、そして星空のかぎりない美しさに感動して書いた小説だ」と読める。そこから海の方に目を向けたら、松林の木間から帯状の光が差し込んで幻想的にみえた。おだやかな海に陽光がまぶしいほどだった。断崖から海岸を覗き込む。屹立した断崖の海岸を波が寄せて砕け白いしぶきが立って散っていた。若者の集団自殺を描いたファンタジックな物語の舞台にしては、陰鬱な気配が微塵も感じられなかった。帰り際、文学碑のその先に赤い小さな祠が木の影に見えた。写真を撮った。カメラマンの高野さんが、断崖の周辺から動こうとしなかった。時間はまだ6時半すぎだった。
車は来た道を戻り、45号の三陸北道路に入った。「凄いなあ〜」と誰かが言った。道路のスピードをあげたら、すぐに思案坂大橋だった。あっという間に通り過ぎた。その先、数キロに、前に説明した思惟大橋だ。橋面を下から孤が支える「逆ローゼ型」と呼ばれる全国屈指の橋なのだという。橋の手前で車を止めた。橋のわきから下方をうかがった。120mの距離はつかめないが、切り立った渓谷だった。橋がない時にはどうやってくだり、そして這い上がったのか、これまた想像を絶するものだった。橋の欄干のすぐ下に淡い緑のふきのとうが顔を出していた。あれを持ち帰りたい、と言ったが、誰も反応を示さなかった。
橋を越えた先の、緩やかな丘陵地に梅の木をみつけた。4〜5本あった。手前の大きな紅梅は、凛として香しく、微笑んでいるように見えた。つぼみを膨らませたのだろうか、一輪、そして一輪、やっと花がほころび始めたばかりのようだ。馥郁たる花は、楚々として陽をいっぱい浴びていた。これが、花笑み村の基金で植えられた梅の木なのだろう。iPhoneで記念の"自撮自演"と構えていたら、帰って知ったのだが、その一枚をカメラマンの高野さんが見事にとらえてくれていた。
きっかけを作った春代さん、保健文化賞の副賞を寄付して梅の里を広げようと、行動した将基面さん、賛同した早野村長、紅梅を愛し「梅の蕾」を書いた名誉村民の吉村昭氏、「紅梅」というタイトルで吉村昭氏の最後を描いた津村節子さん、それに多くの村民、この一本の梅の木にこの村を愛する多くの人の魂が宿っているにちがいない、と思ったらなんだか無性に泣けてきた。いまごろ、満開になっていることだろう。
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梅を写真におさめて、ぼくの目的は終えたようなものだった。町役場や診療所のある中心部へ向かった。そして海岸方面に坂をくだって平井賀浜に出た。大きな津波が襲ったことは容易に想像できた。もう少し北側の入り江になっている村営のホテル羅賀荘に行った。瀟洒な建物だが、3から4階付近が津波で突き破られたらしくべニア板が打ちつけられて痛々しい痕跡を留めていた。津波は最高で29mもあった。最上階の10階に避難して全員無事だったという。万が一、そこで休憩や食事ができるならと思って事前に電話を入れたら、現在休館で、12月の再開を目指して復旧の工事を急いでいる、といった。
波打ち際の砂浜は、磯の匂いがした。きっと漁が再開されたのだろうか。アワビやウニの採る小型の舟が岸壁にならんでいた。浜に、細いわかめの切れ端が砂をかぶっていた。『梅の蕾』の冒頭は、確か、村長がこのホテルのロビーの椅子に背中をあずけて広い窓ガラスから海をながめているシーンから始まる。…海に突き出た岬の根には、砕け散る白い波が見えたり、消えたりしている、と描写した。その大きな窓から、同じように海をながめてみたい、と思っていた。それはかなわなかった。12月に再開したら、もう一度、行ってみたいと思った。
将基面さん家族が、田野畑村に訪れた当初、なんども通ったという旅館と思しき民宿に連絡してみた。呼び鈴だけで応答がなかったのであきらめた。みんなお腹がすいていた。朝食にお風呂、海が見えたらこれ以上の贅沢はない、と思ったが、波が岩に砕け散るようにぼくらの期待は、淡く消えた。
帰り道、岡田さんが、あの豆腐屋に寄りたい、と言った。あたりは、人家もまばらでひとの気配がしない殺風景なところだ。高台にある道路わきの一角に、「畠山とうふ店」が看板を掲げていた。もめんとうふ6丁、おぼろとうふ2個を買った。おぼろとうふはまだ温かかった。軒先にいた愛想のよいご婦人が、お店の壁を指さして床から1mぐらいのところまで津波に浸かった、と言った。再開は早く昨年の4月だった。それまでの情報では、お土産にイカせんべいは買いたかった。山地酪農の牛乳も飲みたかった。どこも開いているお店が見当たらない。時計は7時33分だった。
もうそろそろ引き上げた方が無難だ。三陸北道路を戻ったら、思惟大橋に産直のお店が開いていた。玄関を入ったらすぐのところにドラム缶を半分に切って逆さにした特製の囲炉裏があった。名物のとうふでんがくを食べさせるのだという。試食に用意されたニンニク味噌が美味だった。これをとうふにつけて焼くらしい。
注文したら、とうふがまだ届いていない、といった。とうふは、畠山とうふ店のものですか?とあてずっぽに聞いたら、そうだという。とうふはある、みそも試食用に用意してある。あとは火を起こせば食べられる。足りないのは、それをやろうとする勇気だ、といったら、岡田さんらが嫌だよ、と情けないことをいう。みんなそばを注文した。ぼくはラーメンにした。
畠山とうふ店でとうふを買った。右側が岡田正さん、左側か畠山真知子さん
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田野畑村を題材にしてメルマガを書きたい、と思ったのは、facebookのともだちで医師の宮田恵さんが田野畑村のご出身で、無医村と言われた田野畑村から医者が誕生し、村の診療所を預かる立場になっていた、という物語に興味がわいたからだ。将基面さんのブログを拝見していたら、19年間務めた田野畑村の医者をやめるきっかけになったのは、ひとつに住民の健康に対する意識も高まって健康診断も効率よく行われ、病気にかかる率も低下してきたこと、もうひとつが村で養成した若い女性の医者が戻ってきて彼女とも1年一緒にやってきて、いい後任の医者ができたこと、この機を逃すと、辞めるきっかけがなくなると思ったからだ、と述べていた。
この彼女こそ、宮田恵さんのことだとすぐに思った。無医村から後継の医者が育っていたのだ。さて通りがかりの旅人が、梅の蕾に吸い寄せられるように、2時間余り、田野畑村に立ち寄って、梅の花を確認しただけだったが、今度は、少し時間をつかってこの続きをフォローしたい。
思惟大橋のたもとに建てられた石碑、
思惟大橋の建設の意義に触れている