5月には花を!希望をカーネーションを出荷する、と誓った花卉栽培の菅井俊悦さん(中央)、左は小林康雄さん、右が銀シャリ名人の鈴木英俊さん=名取市閖上の菅井さんのハウスで
DNDメディア局の出口です。あの東日本大震災から、まもなく1年を迎えます。各地で追悼の祈りや復興の行事が目白押しで、テレビの特集企画も目立ちます。被災地では、渡辺謙さんや、さだまさしさんら人気俳優らゲストが現地入りしてさぞ、東北がんばっぺ、のエールが響きわたることでしょう。3月に入って、被災地へ足を運びました。昨年5月は、盛岡から宮古、気仙沼、石巻、そして仙台へとまで海岸沿いを南下した。猛暑の8月は仙台へ、あるいは釜石へ。三度目となる今回は、逆に仙台から名取、南三陸、石巻、気仙沼、釜石と車で北上した。
あの人はどうしているだろう。会って、その奮闘を称えたい。それだけを胸に現場にむかった。梅の蕾がふくらんでいた。長い冬を耐えて足元に光が差し込んでいるらしい。その先々で再会を果たした。いやいや、どうも、と明るく声をかけた。そうしたら、ねっ、あの人の目頭に光るものがにじんでいた。それには心底、参った。この寡黙な憂い、その優しさをどう言葉にすればいいのだろうか。
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仙台は1日、青空が広がった。JR仙台駅で、EMみやぎの世話人で友人の小林康雄さんが、長靴姿の僕を出迎えた。のっそりその笑顔に屈託がない。肩に手をまわして再会を喜んだ。思わずスキップしたくなるような心地よさだ。数えるほどしか会っていないのに、かけがえのない友情を感じるのである。
車の窓から強い光があたる。汗ばむほどだった。運転は、U-ネットみやぎの安斎かずえさん、昨年は女川町にご一緒した。EMのボランティアのかたわら裁縫教室を開く。よく動くし、よく細かな気遣いのできるひとでもある。
車は、一路、仙台市東部へ。なんどか紹介したヘドロと塩害の田んぼから微生物で奇跡の米を収穫した鈴木英俊さん宅に向かった。
思い出せば、3・11の大津波で仙台の穀倉地帯は一変していた。海水やヘドロで作付けの見通しが立たない。約2万fの水田でがれき撤去や土中の塩分を取り除く作業が必要で、大半の水田は3年先まで作付けが困難になる、との見通しだった。この田畑を歩いた。津波の爪痕に息をのんで、瓦礫やヘドロ、油の悪臭が鼻をついた。これじゃあ、と、「絶望」の文字が脳裏をかすめていた。
しかし、銀シャリ名人は、いち早く立ち上がって自前で田植えを敢行した。秋に見事なお米を収穫して周辺をあっと言わせた。有用微生物、EMの効果を証明した瞬間だった。被災地に希望をつないだ。地元テレビをはじめ、NHKや民放の全国系列で放送された。全国からボランティアがかけつけたし、鈴木さんも知人の田んぼの指導に奔走した。意気軒昂な今年70歳の小さな巨人である。
その小さな巨人に会うために、仙台市宮城野区蒲生の自宅前の車を入れた。右側に納屋、その奥に牛小屋があるはずだ。手入れの行き届いた田んぼはところどころ残雪をかぶって春を待っている風だった。
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車を下りて、玄関先に歩いたらガラス戸が開いた。やや前かがみの鈴木さんだ。太陽をまぶしげに見て目を細めた。が、口を真一文字にしてじっと構えたままだった。いやあ、お元気でしたか、いやいや、やり切りましたね…と声をかけた。静かに顔を上げた。近づいて手を取った。暖かな分厚い手だ。強く握った。元気でよかった、と口にしようと思ったら、鈴木さんの目がきらきら光っていた。目頭に涙があふれていた。僕は、言葉をのみこんだ。胸に熱いものが込み上げていた。手を握り返すのが精いっぱいだった。肩に手をおいた。
「どうなるか、その先はわからないことが多い。が、うまくいけば奇跡が起こる。この塩害、ヘドロを分解する微生物の力を信じて、この記録を後世に伝えたいし、近在の農家にもノウハウを教えたいさ。そして収穫期に、みんな、全員に来てもらえれば、うれしい。そんな夢をもってやっている〜」「見ればわかると思うけどが、私の田んぼで凄いところがある。いや、被害がないどころか塩害とヘドロ、いまだ海水が溜まっている。もうそこは数年ダメかもしれないが、諦めないさ」。
鈴木さんはギブアップしなかった。作付けに意欲を燃やした。いまが、コメ作りの名人の腕の見せ所なのかもしれない。ヘドロと塩害、揚水排水ポンプの損壊という三重苦を乗り越えられるだろうか。鈴木さんは、これまで培った勘と経験、それに微生物の力を信じてどこまでやれるか、まずやってみなければ、はじまらない、と覚悟を決めていた。
鈴木さんの作付面積は、ざっと5町歩ほどでこのエリアでは1、2位を争う規模だ。年間収量は、60キロ入りの俵換算で450俵にもなる。銘柄は、ササニシキと、ひとめぼれ、有用微生物のEMを使った有機農業を続けてきた。年に1回除草剤を撒くので無農薬ではない。が、化学肥料は使わない。昔ながらの微生物による土作りに専心してきた。昨年、周辺農家の冷ややかな視線を浴びながら、5月下旬に田植えを敢行し、秋に見事に予定の収量を確保した。その希望の米は、秋に僕のところに届けられていた。日本一のお米、銀シャリでした。涙がでるほど、おいしかった。
■鈴木さんの立ち上がる動機は、EMとお客
玄関で写真を撮ったら、家に案内された。茶の間の掘炬燵でお茶をごちそうになった。東京の娘からだというカエルの顏みたいな最中、それにみかん、白菜の漬物、沢庵がふるまわれた。どれもおいしい。鈴木さんの奥さんが、コーヒーを、間をおいてお茶を入れてくれた。有難いなあ、と思った。写真を撮った。毎日、ブログを書くパソコン机をみせてもらった。僕のメルマガをファイルにとじ込んでいた。そうとう、分厚い。表紙に、ボランティアのてんつくまんのメッセージが綴られていた。これを、「わたしの財産です」、と言ってくれた。どこまでピュアなのだろうか。この人と知り合えてよかった。心がほんわり、あったまる。
何気に当時を振り返った。
それにしてもあの時の鈴木さんは表情が尋常じゃなかった。駐車場で初めてあって、軽トラックの助手席にのせてもらった。散々な田んぼの状態を見せられて「絶望」の言葉しか浮かばなかった。落ち込むというか、気が滅入るというか、これからどうするの、と正直思った。鈴木さんも確かに気構えはあった。が、実際、あの惨状を目の当たりにして、心の内はどうだったのか?
僕がそういうと、小林さんが、もうとっくに心が折れていても不思議はない。しかし、負けなかった。ひとり、瓦礫で埋まる田んぼから立ち上がったのは、凄いという。
よくやり切りましたね。ところでそう駆り立てたものはなんですか?と、あらためてその疑問をぶつけた。
結局は、なんていうのかなあ、やっぱEMをやっていたからだね。有用微生物、比嘉照夫先生の教えのままのEMでやれる、という自信があったというのが第一、ヘドロだってそれを宝物にできる、という確信でした。みんなが、ダメだダメだといったから余計燃えた、というのもあるね。それと、お客さん、ですかね。
全国に鈴木さんがつくるお米のファンが多い。大口では2店舗構えるすし店が年間で11トン、常連のうなぎ店は6トンも仕入れていた。いずれも銀シャリとして扱われている。価格も一般の倍近い。それだけ味には定評があるのだ。
お客?
そう、お客が待っていてくれる。一年休んだら、ダメになると思った。お客がどこかえいってしまうよ、という心配もあった。だから、今年は、ダメですとはいえない。やるだけやってそれでできないのならしょうがないけれど、まずやってみなきゃわかんないが、私には誰が何といってもやれる、という
自信だなあ、それは。
収量は少しでも、ちゃんとやれるという、やったという思いを伝えたかった。そのために、みんなからたくさん応援をいただいた。つながったし、全国からどっと入ってきたんだと思うのさ。
小林さんが、鈴木さんの性格を分析して、そう簡単にものごとを諦めるタイプじゃないからね、といった。鈴木さんは、数年前の、火災のことを口にした。もみ殻を燃やしたものを袋に詰めた。田畑に撒くためだ。触ったら大丈夫と思った。それが納屋で自然発火してボヤになった。それで小屋がだめになった。小屋をばらしてもういちどやり直そう、もっといい機運にもっていこう、と前向きに考えた。何かあっと、それに立ち向かうというそういう何か、俺にあるのかなあ、と…。
ご自宅で、小林さんと鈴木さん、
可愛い最中は東京のお嬢さんから、だという。
今回もそうだった。いわばピンチはチャンス、そこをうまく切かわす術を体にしみこませているのだ。この震災で、大阪に若い彼女ができたでしょう、と言って笑った。みなさんとも知り合いになれた。しかし、残念というかね、可愛そうなことをした、と腕を組んだのは、亡くなった弟の英昭夫婦のことを思ってのことだった。
■鈴木さん、弟家族のあの時を語る。
鈴木さんが思い出すようにとつとつと語りだした。初めて聞く、身内の惨劇だった。弟は、鈴木さんの家よりやや南の海岸に近い岡田地区に住んで、やはりコメを作っていた。面積は、鈴木さんよりやや広い。
あの時、地震で家が傾いた。弟家族は、余震による家の倒壊を恐れて、庭 伝いのビニールハウスの中にひとまず逃げ込んだ。ハウスなら押し潰される心配はない、と考えたらしい。弟夫婦、爺さんと婆さん、それに弟の娘、息子の方は消防団ででかけていた。地震で5人がハウスにかけこんで、ひと息ついた時、娘が、ちょっと忘れ物をしたから取ってくる、と言ってハウスを出た。
危ないから、やめな、ってふだんの弟なら、そう注意して引き留めるはずだ。が、気をつけな、と声をかけて引き止めなかった。娘は、壊れかけた家に入った。ゆがんだ階段を上って二階の自分の部屋に入ろう、とした。その瞬間、激しい衝撃が走った。地響きとともに壮絶な勢いで家ごと飛ばされた。耕運機も、乾燥機も、その農具一式も流された。気が付いたら濁流の中を板につかまって溺れかけていた。
第一波の大津波が、襲ったのだ。家は、跡形もなく波間に消えた。家は、海岸からほぼ1キロの至近だった。娘さんが4〜500m流されたとき、近くの建物の2階に人影が見えた。まもなく救出のロープが投げられた。海水をのんで気持ち悪かったが、浮き沈みしながら必死にロープにつかまった。気が付いたら、毛布で覆われていた。そこでひと晩、寒さに震えながら過ごした。助かった、と思った。が、ハウスに逃げた両親と、祖父母のことが心配だった。後で遺体となって変わり果てていた。息子は、消防団の詰所にいて九死に一生を得た。
いやあ、それは、それは、辛いねぇ。悲しみがいっぱいあったのですね。しかし、娘さんは、よく助かったわ。流されたが、モノにぶつからなかったのが幸いした。それで無傷だった、という。
知人は消防車で逃げたが消防車ごと流されて死んだ。別な夫婦は、車にのって逃げているうちに津波にのまれたが、運よく流れてきた畳につかまって助かった。流されて死んでいった人らは、電柱につかまって助かっている人にむかって、○○○ちゃん、いいこだぁ、と叫んで命を失った者もいた。いいこだぁ、とは、助かってよがったなあ、という意味だ、と鈴木さん。
助かる人は、なんだかそういう風に運命的な偶然が重なるのね。学校に避難していて、誰それが助かった、という情報が入ると、よがったと言ってみんな手をたたいて喜んだものだ、と続けた。
ふ〜む、しばし、ハウスごと一瞬にして流された鈴木さんの弟、英昭さん家族の壮絶な最期を想像して言葉に詰まったままだった。
■名取の花卉栽培農家を訪問
鈴木さんの奥様に、自家製味噌のお礼を言った。鈴木さんと一緒に、次に向かったのが名取市閖上のカーネーション栽培農家だった。アポなしでもいいから、ハウスの周辺をのぞいてみたい、と無理を言った。鈴木さんが運転した。小林さんと僕が乗り込んだ。安斎さんは、主婦なのでひと足早く帰宅し、夜の宴に備えるのだという。
昨年5月の最初に訪れた時、ガラスのハウスが軒並み津波で流れた建物に押し潰されていた。ハウスの中は、ヘドロと海水で無残だった。なにせ、2mもの津波が襲ったのだから。配電盤やモーターの機械が損壊し、水回りのポンプやパイプが流された。ハウスの畝は、枯れた花に混じって、息絶え絶えのカーネーションが赤い花を小さく咲かせていた。花卉栽培農家は、肩を落として茫然としていた。
夏8月の訪問では、名取市小塚原の花卉生産組合の組合長、菅井俊悦さんのご自宅に直接伺った。組合員は8世帯、それに数軒加わって律儀に10人ほど集まっていてくれた。津波で壊滅的な被害を受けた温室を見てまわり、その後、場所をJA名取の会議室に移して意見交換した。
ヘドロの中から、丹精込めた祈りの花が甦る。それが壊滅的な惨状を招いた名取市閖上の希望になるだろうし、ひいては被災地東北の復興のシンボルになるにちがいないから。なんとか、クリスマスには希望の花を咲かせたい、と思った。
そうはうまく筋書通りにいくものでもなかった。塩害対策を講じて花を植えればよし、って、容易じゃないことにすぐに気づかされることになる。菅井さんは、「ただ、おれたちも、みんな収入なくなってしまったんで、建設会社がきて、この辺のがれきとか、温室の解体をやっているんですよ、それで何人か、作業員として働きに出ているもんで。結局、仕事ないし、収入もないしね、ほかに働きにでるっていっても、おれたち結構、年も年なもので…」と表情を曇らせた。
自宅前のカーネーションの温室は、それでも3ケ月前の惨状とはうってかわり、泥は除去されて畑に苗が植えられていた。温室といってもガラスは割れて外されているため、吹き抜け状態だ。
7月上旬に苗を400本植えた。順調に生育すれば、10月上旬か11月には出荷ができるかもしれない。試験的でも挑戦する姿勢は、涙ぐましい。そののち、組合長の菅井さんのお宅に電話して、あのカーネーションの苗の生育状態をお聞きした。やはり塩害なのか、暑さのせいなのか、苗の問題なのか、その辺の原因はわかりませんが、生育も悪く一部で枯れ始めている、と、声が沈んでいた。
さて、いまはどうなっているだろうか。それから半年、菅井さんの自宅周辺をおそるおそる見てまわった。ハウスは、どれも見違えるようになっていた。少し安心した。アポを取っていなかったが、ハウスに面した菅井さん宅の茶の間を外からのぞくと、菅井さんがお客さんと話していた。僕が、会釈すると、右手をぐるりまわして、上りな、という仕草のように思えたが、遠慮した。菅井さんが、すぐに外に出てきてくれた。
菅井さんのハウスに山土がダンプ台入り、
苗の植え込みの準備が急ピッチだ。
菅井さんの表情は、明るかった。自宅前のハウスに土を入れ込んだ。津波で流されて、土がなくなったため、園芸用の土をダンプ2台分運んで、入れているところだった。それは交付金でまかなった。組合員8世帯が、動き始めていた。菅井さんの声に張りがあった。ハウスの中を見て回った。ボイラーは入れかえた。モーターも自前で新品を入れた。耕運機やポンプも何とか整えた、と目を輝かせていた。
■カーネーション栽培が復活する
これからのことを質問した。力強い、そしてうれしい返事がかえってきた。菅井さんとのやり取りには、みんなよかったよかったを連発し名取市閖上の花卉栽培農家にも淡い光が差し込んできたことを実感した。僕が菅井さんに聞いた。
◇ ◇
いつごろから栽培できそうですか?
やります、今年、4月下旬に植えます。
カーネーション?
ハイ…
よかったね。
※菅井さんの手を取って喜びあった。
ほんとうに、どうも…。残った温室全部、植えます。残っているハウスなど、
農家8軒で全部やります。
えーよかった。苗はどこから?
苗は、種苗会社二社から。
提供してくれる、買うの?
買います。交付金が名取市や県の方で手当てしてもらった。銀行さんも、今
日、決定がでたんですよ。融資がきまった、と。一応、6日に契約します。
よかったね。無利子?
無利子です。地震と津波、それに伴う支援策で政策投資銀行などから借りら
れることになりました。
よかったねぇ。
なんとか、かんとか生き延びることができます。
あの、5月の母の日のカーネーションの出荷は間に合いますか?
いまから除塩する。山土を入れて除塩資材を加え、水をだすんさ。
配電盤などは大丈夫?
まずモーターは修理した。ええ、直しました。
それも復興資金?
いや、それは自分でだちゃ。
カーネーションは何種類?
うちは10種類やります。
どうしたら、菅井さんのカーネーションは買えるの?
売ることはしませんよ。最初のうちは、みんな配りますから。
花はどこにもっていくの?
手伝ってもらった人に配ります。出口さんのところにも送りますよ。
えっー、うれしいなあ、ほんと。泣けちゃうなあ。
楽しみにしてください。希望の花ですから。
いやあ、春がやっときたみたいね。よかった。去年のことだと、もうあきら
めているのかと思った。
あん時はね、ガラスはぶっ壊れて天井まで水が来て、どうにもならなかった。
が、うちらは、どんなことがあっても絶対、花をつくるって決めていたから。
がれきを集めるアルバイトもやったが、ここから必ず花を復活させる、あき
らめない、そういう気持ちを持ち続けてきた。
◇ ◇
菅井さんの言葉に、鈴木さんも小林さんもうなずいた。やっぱりなあ、と鈴木さんが、あきらめない、どんなことがあっても作る、という気持ちが大事なんだ、としみじみ語った。
お客さんをまたしてはいけない、と思って、この辺で取材を終えた。がんばって、よかったねぇ、と菅井さんの手を取った。力強く握り返した。菅井さんの目にたくさんの涙があふれていた。うれしいやら、せつないやら、菅井さんの花にかける思いが、僕たちの心の琴線に触れた。小林さんも鈴木さんももらい泣きしていた。
車に乗り込んで、菅井さん宅を後にして庭先の道路を左に曲がった。菅井さんが、われわれの姿がみえなくなるまで腰を深く屈めていた。う〜む、車内は、感動の余韻でしばらく言葉にならなかった。
■夜の宴
夕暮れ時、そわそわと店じまいに取りかかる魚市場のわきを通って、小林康雄さんが手配した仙台駅の裏の居酒屋に入った。小林さんは、こんなことまでやってくれる。被災現場の難しい取材のナビゲータ役で、運転もやる。うまく運ぶのもスケジュール調整を綿密に組んでくれる、小林さんのお陰なのである。また、お世話になってしまった。今回は、奥様があいさつに見えた。物腰が柔らかで古風な人でした。
鈴木英俊さんが付き合ってくれた。安斎さん、八島静子さん、そしてEMみやぎの鈴木徹さんが加わった。
地酒を冷でずいぶんとのんだ。何杯のんでも頭が冴えて酔いがこない。のめば饒舌になる。小林さんが、鈴木英俊さんのコメ作りの現場によりそって、コメ作りの大変さを知ったといった。鈴木さんは、しみじみと飲んでいた。この一年を思い起こすような表情を浮かべて満足げだ。
僕が、小林さんなら、その饒舌な話しぶり、つまり口先だけで米ができそうだ、と言ったら、そっくりその言葉が僕に返ってきた。口先だけでやる農業、それを口先農業と言って面白く話題にした。小林さんは、僕よりひと回り先輩だ。70歳を超えたところです。
酔った勢いで、小林さんに恩返しするなら、僕は小林さんのお葬式で精いっぱいの弔辞を読む、と約束した。そばにいた八島さんが、かわいらしく、それは楽しみ、といって目を輝かせた。まあ、いくらなんでも「楽しみはないでしょう」とやんわりたしなめた。みんな笑った。でも、少し楽しみだね、といったら再び笑いが弾けた。
銀シャリ名人の鈴木さんもその時は、僕が弔辞を読ませていただきます、と約束した。ええ、ぜひ、お願いしますと、本気だった。町内会の会長や会社の上司もいいが、その人の人生の奥深いところを語ってあげたい、と素直に思ったからだ。うれしい、楽しい、ひと時でした。時間がきてお開きとなった。鈴木徹さんが、鈴木英俊さんを車で送ったから安心した。
僕と小林さん、それに安斎さんの3人でもう一軒立ち寄った。長靴のままだった。宿泊のホテルまでどうたどりついたかは定かじゃない。暗い道を独り歩くと、あの人たちの顏が浮かんで、せつないくらいだった。鈴木英俊さんが玄関先に姿を見せた時、くちびるが微かに動いていたし、僕をみつけて無言のまま立ち尽くしていた。うっすら涙が瞳ににじんでいた。その時の残像が脳裏をかすめていた。僕はドギマギしてしまった。切なくて、その頃になって込み上げてくるなんて、ねぇ。
その夜の鈴木さんのブログに、その時の模様がしっかり綴られていた。「久しぶりに出口俊一編集長が来宅してくれました。出口氏は金沢工業大学の客員教授でいろんな肩書を持った、会えば会うほど不思議な雰囲気を持った方です」と紹介し、今日の一番の収穫はとして、「出口氏から渾身の弔辞を小林さんと、私の葬儀の時にあげてくれる。私は死ぬのが楽しくなりました、と返礼をしておきました」と綴っていました。
http://suzuki-yuukinouen.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/03/post_2f1c.html
さて、3・11東日本大震災から1年、あの人に会いたいは、次回、石巻から気仙沼に向かいます。気仙沼で思わぬハプニングがありました。どうぞ、続きをご期待ください。
あの辺に弟の家があった、と指をさす鈴木さん
=仙台市宮城野区岡田付近で
ヘドロと塩害で田んぼは、10ケ月でこう変わった
(昨年5月撮影)
仙台藩ゆかりの貞山堀、松林もなぎ倒され運河に、
巨大なタンクが流れて突き刺さっていた。
(昨年5月撮影)
名取市閖上のカーネーションのハウス、
ヘドロが除かれ土も入った。
(昨年5月撮影)