◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2011/11/09 http://dndi.jp/

塩沢文朗さんと信州・塩田平を歩く


 

DNDメディア局の出口です。友人の塩沢文朗さんが、菩提寺のある信州・塩田平をぜひご案内したいのだがどうか、と誘ってくれた。いざ、行くとなるとスケジュールが合わないという状況がしばらく続いた。塩田平、あこがれの土地です。何度か足を運んでいたし、親しい知人も少なくない。塩沢さんもその一人なのだが、気心の知れた彼らの共通した気質は、掌に包み込むようなこの街の恵まれた形状が影響しているのだろうか、気持ちがやさしいのである。


  最初の誘いから随分と月日がたった。夏頃に再び声をかけていただいた。今年こそは実現しましょう、私の菩提寺にもご案内しますね、と、毎度のことだが、塩沢さんの言葉はいつも丁寧でお優しい。塩田平と聞くと、そわそわと落ち着かない。そして特別の期待感を抱いてしまうのである。


 せっかくなので何度か調整を重ね、互いのスケジュールを詰めて、やっと先週、その念願を適えた。1泊2日、秋の信州路を満喫しました。小春日の好天に恵まれたのも幸いした。塩沢さんがハンドルを握る白いベンツを我が家の赤いプリウスが追う、その道すがら車窓からの光景にしばし見とれ息をのんだ。立ち寄った先々のビューポイントからアルプスの峰々が広がっていた。丘陵の奥にひっそり佇む寺院や御堂には、やわらかな光が射し込み紅葉が七色に映えていた。その一瞬を切り取るカメラの構図に十分な手応えを覚えたものでした。


 さて、私たちは、待ち合わせの予定より30〜40分早く着いていた。少し時間に余裕があるから、と言って塩沢さんは、上信越道を途中の佐久平インターで下りた。その道は、曲がりくねった坂道が続く。赤い実をつけたリンゴ園や収穫を終えたぶどう棚が点在する農道だが、それが「千曲ビューライン」でした。


 ゆるやかな坂道を上りきったら、360度周辺が見渡せる台地に出た。白いベンツが止まった。下りてきた塩沢さんの顔がやや渋い。


「こんな雲が覆っているとは思わなかった。雲がなかったら、あそこに浅間山が見えてこっちは蓼科、八ケ岳が見えて、正面にアルプスが見えるのだが…」と悔しがる。しかし、この辺りに立つとなんという気持ちよさなのだろう。


 塩沢さんによると、ここは平安時代から朝廷の馬を放牧してある由緒ある高原で御牧ヶ原という溶岩台地なんですよ。いやあ、残念だと言っている間にうっすら雲が晴れてきたように思えた。結構、荒々しい浅間の外輪山がその辺に望めるのに、と塩沢さんはしきりに悔しがった。


「御牧ケ原の牧は牧場を言うが、御牧となると朝廷の直轄牧場をさす。平安朝の御牧は甲斐、武蔵、信濃、上野の4ケ国に32ケ所あった。そのうち、信濃が16ケ所だから馬の放牧地としては第1等の国だったと言ってよい。日本一の高爽の地であることでやわらかい牧草を育てうるからであろう」と、司馬遼太郎はその著書『街道をゆく9』(信州佐久平みちなど)で記述していた。


 地図では、すぐ南に長野県農業大学校があり、北側に懐古園があることがわかる。小諸市から東御市、そして上田市へと続き、上信越道の高速も、長野新幹線も、千曲川の流れと伴走する格好で西北方向にベクトルを合わせていた。上田市内に入りしばらくすすむと千曲川の支流、依田川を超えた。もうこの辺一帯が塩田平だ。司馬氏は、塩田平のことを前出の著書の「千曲川点景」の項で、「塵取形の小さな平野」と譬え、奥の別所において高く、千曲川の方向に向かい、ゆくにつれて低くなる、と綴る。


 牧ケ原を出発してから、30分そこそこだろうか。上りつめた一角に狭い路地を挟んで温泉旅館が見えてきた。見慣れた温泉街だが、ここ別所温泉でした。温泉街を抜けて北側にハンドルを切ってややいくと、細い道を上った先の駐車場に車が止まった。


 塩沢さんの菩提寺、安楽寺である。いやあ、雰囲気がありますね。僕は、以前地元出身の宮沢敏夫さんに案内されて訪れていた。暑い夏で、入り口右手の蓮池に蓮の花が咲き誇っていた。いますっかり干しあがって少しの色気も残っていない。が、蓮池に花がない代わりに、周辺の木々が色取りを増していた。すっと正面に石段、下草が手入れされていた。ごみ一つ落ちてはいない。きれいなもんだ。石段を登りきると、正面に安楽寺の桧皮ぶきの本堂がどっしりと構えていた。


 

塩沢さんは、ここは禅寺で、鎌倉時代の学僧が多く訪れたそうで、細い石段をのぼるとその当時の創建、国宝、八角三重塔だ。住職さんにご挨拶し、その足で先祖の墓に参りますので、本堂裏手の近くで落ち合いましょう、と言い残して本堂の方向に消えた。私は、木戸銭を払って本堂のわきを通ったら、はらはらと銀杏の葉がしきりと舞い落ちてきた。木々の間を縫うように細い道が山頂の方に続いていた。そちらの方に気が向かず、立ち止まってアングルを確かめていた。右の石碑と立札の位置とバランスとか、日を受けるモミジの枝の入り具合とか、ね。しゃくなげの葉が薄暗い中で存在感をもって迫る。iPhoneを片手に構図を決め、光の方向を確かめながらボタンを押して、離した。ふ〜む、これが一押しだろうか。




 

次に八角三重塔も撮った。塩沢さんが墓参りを終えて姿を見せた。こちらのアングルがいい、と教えてくれた。見事な構えですね。この10月に修復が終わったばかりだという。日がさしてきた。スポットライトあたったみたいに真新しい杉板が金色に輝いてみえた。木造なのだが、そうは見えない。下のお堂に木彫のご本尊と開祖の木造が立っていた。ここで経を唱えるのだろうか、ご本尊のまえに座布団が敷かれていた。

塩沢さんらの姿がみえない。写真を撮って寄り道していると、だんだんと置いてきぼりにされてしまいそうだ。が、お堂の正面にかかる白い麻のような暖簾にモミジの影が写っていた。かすかに風に揺れている。まさに一幅の名画のようで、"一期一絵"というのはどうだろうか。美しい、としばしみとれてしまった。


 


 

次に向かったのは、同じ丘陵地にある常楽寺でした。山のわきを舗装し、崖際には百日紅の木が数メートル間隔で植えられていた。葉は赤く色づき、枝先におびただしい数の実をつけていた。そこから塩田平の街を一望できた。


 


 常楽寺は、天台宗で北向き観音をお守りする本坊と資料にある。入り口に赤松、右手に五葉松など手入れの行き届いた庭木が枝を広げていた。樹齢350年というのもある。正面に構えの大きい本堂がある。カメラを抱えながら周辺を眺めていると、品のあるご婦人が近寄ってきた。


 あれがねぇ、と本堂と併設の庫裡のわきに立ち枯れている百日紅を指さしながら、「今年は花が咲かないのよね、こんなこと初めてだわ」、とひとり言のようにつぶやいていた。
どうしたのですか、枯れた? なんだかがんに侵されたみたい。いぜんから瘤があって気になっていたのだけれど、と表情を曇らせる。高さが4〜5メートルはありそうだ。枝を力なく四方に広げて無残ではある。
一時はすっごくきれいだったのですよ。
樹齢はどのくらいですか?
わかんないです。
そうとうの風格ですね。
そうなんですよ、
100年じゃきかないでしょう?
そうね、100年ちょっとは経っているかもしれないですね。

ご婦人とのやりとりが続く。

道々、ここに来る途中の木も百日紅ですか?
そうです。昔、あそこには桜が植えてあったのですが、戦争中に切られたのです。松は使い道があったのね。まさか桜は切られることはないだろうと思ってましたが、切られた。切られたら案の定、土手が崩れたりいろいろ被害がでました…。

このかやぶき屋根の本堂はどのくらいになるのですか、
10年まえに全面的に修復しまして、300年も前のもものだと大きな石の上に乗っているだけなので、30、40年前になるかなあ、その台座の石が真っ二つに割れていることが判って応急処置をしたのだけれど、傾むいたりしたので全面修復に取り組んだのです。

おいくら?
1200万円

安いですね
いや、間違いでした1億2000万円でした。市の文化財の指定をうけているので市の補助は1割なのね。国なら9割だけど…。


 ご婦人は、半田はつ子さん、ここのご住職のご母堂でした。御年85歳という。若々しくお美しい。表情になんともいえぬやさしさを浮かべている。ご主人は、半田孝淳氏で第二百五十六世天台座主なのだという。


 ネットで調べると、半田座主猊下は父であり師僧でもあった孝海住職が残した「おまえは、人々が安楽に暮らせるよう世界平和に尽くして生きよ」という遺言を守り、修業の傍ら世界平和の運動に尽くしているそうだ。天台宗きっての国際派とも知られ、ローマ教皇に謁見し、まさに平和への祈りを捧げる比叡山宗教サミットを実現に導いた。「世界平和を求める同士に言葉はいらない」を持論とし何度もバチカンを訪問され、ヨハネ・パウロII世ローマ教皇と親交を深められている、という。さしずめ、東京・浅草寺の貫首は、半田猊下の実弟という。


 はつ子さんとの語らいは、素敵な時間でした。記念撮影も快諾していただいた。


 

なんども紹介するのだが、司馬氏の『街道をゆく9』に、常楽寺のことが紹介されています。引用は控えますが、本坊境内にはコンクリート造りの美術館があり、先代が好きでここに集めたものを収蔵しておいてくれた、といって扉の錠をあけて司馬氏を招き入れるくだりが出てくる。当時の常楽寺の住職を務めてた半田孝淳氏でした。


 収蔵品の一つに家康が自ら筆を執って書いた『日課念仏』がある。司馬氏はこれを指して「かれは、念仏の徒であった」と記し、
厭離穢土
欣求浄土
 と大書した旗を本営でひるがえした。「ああ、こんな浮世はつくづく嫌だ。喜び勇んであの世に行きたい」などという文句を戦陣の旗に使う大将など、古今東西に家康しかいないと、続けていました。


 塩沢さんは、後日、はつ子さんに関して、「後ろの七色紅葉が自慢でしたね。楓は木が硬くて、接木するのが難しいのだけれど、接木を繰り返したとか。ご主人の弟さんも浅草寺の貫首さんとはびっくりしましたね。この田舎のお寺のご兄弟が、現在、日本の天台宗の屋台骨を支えていらっしゃいます」とfacebookに投稿されていました。



 

塩沢さんらは本堂裏にある国の重要文化財、石造多宝塔などを見にいった。僕は、足がすすまなかった。理由?だってはつ子さんのことでもう頭がいっぱい、キャパを超えてしまった。のんびりしずかに本堂のわきをうかがっていると、そこになんと藁葺き屋根にふりかかる深紅のモミジが目にとまった。



 息をひそめて、まるで獲物でも狙い澄まして撃ちとるように、慎重に撮った。一幅の絵のようでしょう。繰り返えしになりますが、"一期一絵"って、なんだかぴったしくるのね。


 これをfacebookで紹介した。すると、友人で先日、スペインとポルトガルの旅から帰国したばかりの小松沢秀志さんがこんなコメントをくれた。


「これぞ、日本の秋ですね。構図がおしゃれです」


 好きな作家のひとりに辻邦生氏がいる。辻氏の旧制松本高校の寮の同窓に先日亡くなった北杜夫がいる。辻氏の時々のエッセイをまとめた『風雅集』では、その北杜夫の面白いエピソードが満載なのだが、それはまた別の機会に譲るとして、この度、信州・塩田平を取り上げるにこの本のページをめくっていたら、こんな文章が目に留まった。


 芒の穂の銀の輝き、遠い山脈にかかる雲、黄葉する林から飛び立つ鳥の群れ―そうした風物を私は信州でみながら、この季節の中に同化して生きるすべを学んだように思う、と。


 ほんとうに晩秋の信州は、心にしみわたる風景が連続していました。これぞ、日本の秋とは、その通りかもしれません。



 

この日は、別所温泉、安楽寺、常楽寺とめぐり別所温泉街の院内地区、そして北向観音を散策し、無添加で信州の野趣をと詰め込んだ『七久里煮』を購入した。再び、県道82号線塩田北条氏の菩提寺、龍光院へ、そこで精進料理ごちそうになった。私は、そこで地元の、鶴首かぼちゃを買いました。次に前山寺の門前のケヤキの古木、大きな銀杏の樹を眺めた。名物は、くるみおはぎでした。


 


 

その山を下りる途中で、塩田平を遠望した。柿木の向こうに見事な山並みが視界に飛び込んできた。遠くにかすむのが美女ヶ原高原という。

続いて、県道82号線(別所丸子線)から、県道65号線(上田丸子線)⇒国道254号線⇒国道152号線(大門街道)をぬけて大門峠へ。大門峠からビーナスラインで、住友化学蓼科寮へというコースでした。

塩沢さんは、実にマメに立ち回ってくれた。ホテルの予約、食事やお酒の手配、周遊のルートなどその一切を段取りした。お蔭で、どこへいってもスムーズで満足いくものでした。多々ご負担をおかけしたに違いない。その日の工程も塩沢さんが整理してくれたものです。至れり尽くせり、とはまさにこういうことをさすのだと思います。


 塩沢文朗さんと私の『原点回帰の旅』はまだ続きます。


□塩沢文朗さんは、ご存知の通り、DNDの連載『原点回帰の旅』を執筆しています。連載は80回を超えています。元経済産業省の審議官でイノベーション、産学連携、科学技術がご専門です。こちらの連載もご覧になってください。
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