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大野伊三男さんのウィニングラン


 大野さんからのハガキ。



DNDメディア局の出口です。友達の大野伊三男さんからハガキが届いた。パソコンで打ち出した文面は退職を知らせるものでした。65歳、もうそんな年齢になったのだ、と感慨深く文字を追った。初秋の候の挨拶に続けて、7月末に東京みなと館の館長を辞し40余年のサラリーマン生活を卒業した、と綴る。マイクに立つご自身のスナップと並んでテーブルを囲んだ大野家のファミリー7人の写真が目を引いた。真ん中にお孫さんが愛らしく納まっている。素敵な家族じゃないですか。退職のお祝いかなにかだろうか。


 走り切って足がもつれる寸前で飛び込んだ。呼吸は荒いが、まずは無事にゴールを迎えた。この写真を見ると、そんな感じがした。ゆったりした自分の時間を取り戻してくれたらいい。あの頃、食べ物と写真には人一倍こだわった。大病をしたから、いまは、どうだろうか。


 大野さんは、サラリーマン生活と書くが正しくはそうではない。東京都の職員で港湾局の"必殺仕事人"でしたね。言われたことをやる。それはあたり前、気が付いたことをきちんと根回ししてやりきる。打席に立つと、毎回ホームランを打つ。周りもそれを期待し、本人もそれに答えてきた。そんなタイプです。やったことは役人の常識を超えた。普通のお役人さんならあんなことまでやらない。


 臨海波高し、その波浪を自らの勘と度量で乗り越えたのである。この人の胸の内に起業家っぽいマインドが燃えたぎっていたのかもしれない。あの当時、この先いったいどうなることか、焦燥と不安がよぎっていた。この私もそうだった。無定見なトップの言葉の遊びに付き合わされ、都港湾局ばかりか都の幹部らは眠られない日々が続いた。1995年春、東京港の臨海副都心計画の見直しを訴えたタレント候補が誕生し、これまで審議を重ね議会を通った案件がひっくり返った。都の方針が180度切り替わったのである。


 いわゆるお台場、その臨海副都心の開業を控え、バブル崩壊であれだけ競った民間の進出事態が雪崩を起こした。タレント知事が計画の見直しを迫り、開業時2000万人集客を見込んだ世界都市博覧会を無謀にも中止とした。そのため臨海副都心計画が暗転、秋に「ゆりかもめ」が開通したが、空気を運ぶと揶揄された。その秋の議会で計画は首の皮一枚でつながった。継続になったものの計画の半年の遅れは痛手となった。最悪は都市博の中止だった。その後始末に追われ、4月始動期の開業の対応は迫られる、その先行きの見通しはたたなかった。やはり依然、臨海波高し、の状態でした


 その行政からのブレーキと進出企業へのにぎわい創出というアクセルを使い分けながら、現場の最前線に立ったのが大野さんでした。東京都港湾局広報係長の肩書だが、石川雅巳港湾局長(現千代田区長)の特命を受けたミッションの司令塔を演じた。当初の年間予算12億円、スタッフ5人。それで都市博覧会の6ケ月の予算1000億円に負けないにぎわいをこの街に実現せよ、と。


 都市博が工事博と批判された。景気は悪くなる一方だ。臨海副都心開発は失敗という風評が独り歩きした。メディアがこぞって責め立てた。街は、幽霊都市になる、と噂された。


 しかし、ふたを開けたら、潮風、港、デッキ、浜辺、夜景、そこに都心をうかがう新しい異国情緒を見出した若者らがどっと押し寄せた。東京ビッグサイトがオープンし、そのプレイベントにゲームクリエーターの広井王子さん、声優の女性陣が5−6人かけつけたイベントにタレント知事が飛び入り参加して、「青島だーあ」とおどけていた。そのイベントに前夜から若者が列を作った。国内最大級のアミューズメント施設「デックス東京ビーチ」が7月に開業し、にぎわいを後押しした。


 なにもかもが、どんでん返しだった。レストランは列をなし、大野さんが仕掛けたイベントが次々とヒットした。


 有明コロシアムではボルグら往年の選手を招いたテニストーナメントを開催し、大相撲の巡業も呼んだ。有明がゴジラの最後の場所という触れ込みでゴジラブームを巻き起こした。海浜公園に台船を浮かべて水上ステージを設置し、毎夜、ジャズやハワイアンなどのライブをやった。近隣からうるさいとのクレームが入るほどだった。トライアスロンもバレーもやった。坂東玉三郎の幽玄な舞台もやった。女性週刊誌、旅のガイドブックが次々と特集を組んだ。ゴールデンウィークの期間中、73万人が訪れてディズニーランドを17万人超えた。3月12日に一足早く開業し、お先真っ暗だったホテル日航東京が息を吹き返した。うれしい誤算に連日湧いた。ゆりかもめでくる客が殺到した。夜間照明に浮かぶレインボーブリッジの下に赤い提灯の屋形船がひしめいた。近未来と江戸情緒、新しい名所となり、全国各地から大型バスで観光客が雪崩をうったのである。


 メディアが手のひらを返すように媚を売って近づいてきた。大野さんは、広報という立場で対等につきあった。「かれらにも事情があるのでしょうよ。それにしても右手に論語、左に算盤じゃないが、編集の連中が臨海を容赦なくあることないこと書きなぐって、その片方で営業の連中が腰を低くして広告を迫る、なんという構図か!」と呆れていたことを昨日の事のように思い出します。


 東京都の記者クラブで産経のキャップを4年務めた関係で大野さんと顔なじみだった。都庁の後、下町支局のデスクを1年、フジサンケイグループ事務局のあるフジテレビに2年出向し、戻った先が総合企画室という戦略部門でした。43歳ごろでした。そこでインターネットの普及を予期したように電子メディア研究会を立ち上げた。電子メディアの取り組みを2年やったあとに私が手がけたのが、臨海副都心に向けた新しい媒体の創刊でした。フリーペーパー『東京シーサイドストーリー』の誕生は、ホテル日航東京の開業間もない3月24日でした。その時、大野さんと事前にタッグを組み、これは東京都港湾局の広報誌という格好でスタートした。イベントカレンダー、臨海マップなどは私と大野さんとのアイディアでした。紙面づくり、広告営業、それより大変なのがデリバリーでした。都営地下鉄や臨海の各拠点に配置し、一時60万部を誇った。


そんな関係でこの臨海副都心の開業前夜を大野さんと二人三脚で突っ走っていたのです。これも大野さんの提案で写真コンテストを企画した。臨海の写真を毎月公募し、商品券をプレゼントし毎月1点に特賞をあげてその中から年間のグランプリを選ぶ、という趣向でした。その第1回のグランプリは耳の不自由な女性が撮った「夢の大橋」が選ばれました。審査委員長は、写真家、熊切圭介さんでした。毎月の審査会でご一緒し、その後も個人的にお付き合いさせていただいています。熊切さんと言えば、社会派写真家の走りで先ごろ死んだリビアのカダフィ大佐の若いころの勇士を日本人でただひとり撮影した。東京港50周年の記念行事では、「東京港」のタイトルで撮りおろしした写真集を手掛けました。その時の編集担当が大野さんだったのですね。大野さんの写真熱はどうもこのころに原点がありそうです。


 写真コンテストで審査する関係者、 高橋信龍副知事、花田一憲専務(東京臨海副都心建設)、今沢時雄局長ら、 東京ファッションタウンの幹部の方々の顔も見える。


 表彰式であいさつに立つ今沢局長、参加さの顔ぶれに、産経新聞の清原専務(現会長)ら役員が勢ぞろいしていた。懐かしい顔ぶれもある。左手に審査委員長の熊切圭介氏がいます。



 年間のグランプリの受賞式の後、写真は竹芝桟橋、国際展示場前駅などのホールで巡回展を開きました。大野さんは当時、まだ50歳に少し届かなかった。脂がのりきった充実の日々だったと思う。打ち合わせと称して、毎晩、お台場の現場に足を運び、そのついでに一杯やった。言い争いは、日常茶飯事だった。営業の仕方が悪い、と怒る。だいたい出口さんは、頭の下げ方を知らない。紹介した営業の先で、足を組みふんぞり返って、コーヒーある?はないでしょう。きちっとこういう用件できました。お時間を頂戴しありがとうございます、ってなぜ、できないのかなあ、といぶかる。もう新聞記者じゃないのだから、心入れかえてもらわないと紹介できないよ、と呆れた様子なのだ。


 さっそく翌日、当時の第三セクターの臨海副都心建設に総務部長のNさんを訪ねた。よく知っている間柄だ。大野さんが言うとおりに頭を下げて、お時間を頂戴し…とやったら、Nさん、出口さん、仰々しいのはやめてください、どうかしたのですか、と言われた。ふ〜む、だよね。報告すると、そこでまたふんぞり返ったら駄目でしょう、いえいえ、今日はお願いごとだから、と謙虚にやらないと、たとえ顔なじみだって一応取材じゃなくて営業でしょう、営業には営業のやり方があるじゃないですか、という。


 ある時、編集をまかせている社会部上がりの年輩二人が、総括担当の僕の所へ来て、あのさ、その東京都の窓口の大野さんを紹介してくれないかなあ、こっちで一席もってもいいから、と打診された。社会部の大先輩だが嫌な予感がした。大野さんはそんな宴席に招かれて喜ぶ人じゃない。それで頼んでみた。案の定、嫌だよ、そっちでやってよ、面倒くさいのは出口さんひとりで懲り懲りなんだから…といいながら会費制という条件で浅草のなじみの「寄り道」の2階の座敷を抑えた。直属部下の高橋和彦さん(現在夕刊フジ局長)は、止めた方が無難ですよ、と忠告する。


 編集長とデスク、この先輩格の二人、高橋さんとこちらは4人、大野さんはぷらりひとりでやってきた。名刺交換してビールを飲んで、さて、という段になってひと悶着が起きた。すぐ嫌な予感がした。


 大野さんがわざわざ坂東玉三郎の観劇のチケットを読者プレゼントにどうぞ、と20枚くれた。直属の高橋さんが、10組20人の扱いですね、というと大野さんはそう、と軽く流したのを編集長は聞き漏らしたらしく、いやあ、そうじゃないだろう、とむきになった。


 10人の当選者より20人の方が多く喜んでもらえるのじゃないか、10組じゃなくて20人にしよう、といいのけた。部下のデスクも、そうですよね、当然、とやった。その辺で大野さんの表情が変わった。


 あのね、映画とかさ、歌舞伎の観劇ってね、だいたいひとりで行くものじゃなのよ。だからチケットのプレゼントはどこもペアが当たり前なの。分かりますか?1枚チケットあたっても楽しくないでしょう、というと、デスクが私は映画はひとりでいくのが好きですね、という。


 大野さんの顔が歪んでくる。いえね、あなたの個人的な都合はどうでもよいの、チケットをプレゼントするというのは2枚あげるのが常識でしょうよ、わかりますか?と語気を強めた。腕組みしていた編集長が、しかしね、それでも20人にあげた方が喜ばれるでしょう、と同じことを言って譲らない。少しも大野さんの話を聞いていないようなのだ。


 そこで大野さんが、わかりました、もう結構です。この話はやめましょう。申し訳ないですけれど、一緒に酒を飲む気分じゃありませんので、帰りますから!と席を蹴って店を出てしまった。店の主人に5000円を預けていた。僕は、高橋さんの腕をとって追いかけるように席を立った。すると、手をかざして編集長が、ねぇ、出口君、勘定、勘定は…と叫ぶじゃないですか、恥ずかしいやら、情けないやら、えっそれは自分でやってください、と言い残して外に出たが大野さんを見失ってしまった。どうしょうもないですね、あそこでそうですね、って相槌打てばいいだけの話じゃないですか、なんであそこで頑張るのですか、意味わかんないですよ、と高橋さんがふくれっ面する。


 その年の暮れ、大野さん自身に一大事が起こる。山形在住のご尊父が倒れた。その付添いの看病に大野さんの兄弟がローテーションを決めてつくことになった。雪がたくさん降った年でした。容体が思わしくない。大野さんが山形から疲れて帰ってくる。大晦日からお正月、お台場のイベントも手が抜けない。休みが少しもとれないのである。酒量がかさんでいた。手帳を見ると、年が明けた1月17日の金曜日の事でした。その日も深々と雪が降った。夕刻から、浅草は観音裏の料亭、瓢庵に席を取っていた。女将にいつものように安い料金でやってもらった。父上の話をたくさん聞いた。山梨県の生まれで東京育ち、麻布獣医学校を出た獣医だったという。仕事の関係で山形に移った。山形の高畠、まほろばの里だ。有機農業が盛んな豊かなところですね。その大野さんは、山形でバスケの選手だった。僕もバスケ一途だったから。いくら盃を重ねてもこんな夜は酔わないものだ。大野さんは、やはり父上の容体が気になるらしい。その夜は、長男が看護にあたっている。ここ数日が山かもしれない、といった。万が一の時は、連絡ちょうだいね、といって早めに切り上げた。戸外は雪が積もっていた。


 月曜の朝である。気になって早めに行った。会社に着くと、伝言のメモが机に残っていた。朝8時15分、港湾局広報に電話ほしい、と。当時はまだ、携帯もないし、メールなんかやっていない。緊急の時の対応であわてることが多い。胸騒ぎがしていた。


 やっぱり、病気療養中の大野さんのご尊父・伊三郎氏が1月18日に死去、享年82歳でした。脳梗塞を患っていた。20日夕刻から耕福寺で通夜が営まれる。その日の事だった。上司に了解をとって通夜に向かった。東京から産経新聞ばかりじゃなくメディア各社の花輪が並んでいた。


 その後、僕が日本工業新聞に出向になって部長に昇進すると、今度は大野さんが僕の部長就任祝いをやってくれた。浅草の老舗料亭「浜清」でした。親しい都庁の部長級や若手が顔をそろえた。大野さんが司会をやってくれた。これには後日談があって、実は、その年の秋に管理職試験があり上司のススメで大野さんが受験した。その時の面接官が、僕のお祝いに参加していた人物のひとりだった。会場に入って顔を見上げたら目があった。バツが悪そうな顔だった、と大野さん。面接官に聞いたことがある。大野さんが入ってきた瞬間、出口さんの顔が浮かんだ、と冗談っぽく笑った。もう時効だからよいでしょう。


 管理職試験に受かると、現在の部署を出なければならず、大野さんの広報係長はそこでピリオドを打つ。今度は、ぼくが大野さんの管理職試験合格の祝いをメディアの関係者を集めて開いた。盛大で、大野さんは終始照れていた。そんな時、大野さんのお嬢さんが不慮の事故にあった。お別れの会で港湾局の上司らがたくさん参列していた。長い髪だった大野さんが頭を丸めたのはこの時である。どんなに辛かったことか。足元から崩れ落ちるようなショックだったらしい。


 仕事、仕事、そして仕事で家を、子供を顧みる余裕はなかった。その悲しみを背負ったまま、2000年7月に三宅島の大噴火、全島民避難の際、三宅島災害対策担当課長として三宅島に乗り込んだのが大野さん、1年間島民が帰島できるようにライフラインの確保に陣頭指揮を取ってきました。



 


 大野さんがライフワークとする東京の港、日本を代表するコンテナ港としての港湾振興ばかりじゃなくその過去と現在、未来を展望する「東京みなと館」の館長に就任するのが2005年でした。以来、今年の7月までの6年間、東京港のアーカイブの収集と整理、熊切圭介氏の写真など膨大な写真をデータベース化し、いつでも貸し出しができるようになっている。古い記録としては昭和40年代の工事記録16ミリフィルムの映像資料をDVD化した。趣味が高じたドラゴンボートは日本協会の一員として各国の大会に参加し、いまもその普及、振興に尽力を惜しまない。


 僕が大野さんと二人三脚で創刊した『東京シーサイドストーリー』は、臨海副都心のナビゲーターとしていまだに発行を続けています。創刊当時は、タブロイド版でした。それから15年を数え、通巻187号になる。大野さんが50歳、僕が43歳のメモリアルだと思う。その雑誌も東京みなと館の収納棚に保存されている、という。手がけた仕事が残っているというのはうれしいことです。客観的に大野さんという人物は、どうか。


 手元に当時の『AERA』、1996年8月19日‐26日合併号がある。「幻想の街 臨海副都心」と題した5ページの特集は、編集部の坂本哲史記者が書き、石川重弘記者が写真を撮った。坂本さんが、記事の冒頭で大野さんを評してこう書いていた。



 AERAが大野さんを取り上げた。


≪新聞記者として、いくつかの地方の自治体を担当した体験で言うと、どんなに小さな役場にも、「村おこし」、「町おこし」に情熱を傾ける行政マンがいるものだ。
 地縁血縁といった古い体制に、息を詰まらせたこともあっただろう。だが、そこを乗り越え、自分と、過疎に向かう自分の住む町の存在を一体化し、揺るぎないアイデンティティーを確立しているように見える彼らが、羨ましくなることもあった。
 東京の真ん中で、そんなにおいのする人物に出会うとは、思いも寄らなかった。 7月下旬、ハワイアンバンドが陽気なリズムを奏でる東京・台場の水上ステージの舞台裏。黒いポロシャツに、ジーンズというラフな格好で現れた大野伊三男さん(50)は、東京都港湾局総務課の広報係長である。≫


 なかなかいい取り上げ方だと思う。記事のトーンはおおよそ臨海副都心の計画そのものに懐疑的なのだが、大野さんのくだりは率直で好感がもてた。メディア嫌いの大野さんが、この記事でAERAのファンとなった。僕にも買え、とすすめた。


 東京港に情熱を傾けた、そのタフで頑張り屋の大野さんが、それまでの無理がたたったのか、昨年夏、胃がんの摘出手術を行った。心配して見舞いにいった。それから1年が過ぎた。体重が落ち激やせした。食事が人並みにできるように回復した、とハガキに書いてあったので、安心した。ずいぶんとストレスで胃がやられたのだと、思った。元気になられて、ほんとうによかった。それでね、あれから15年、臨海エリアに年間どのくらいの賑わいをみせているか最近のデータでは4500万人が訪れているそうだ。ディズニーランドをはるかに超えてしまっているのだ。


 つい数日前、大野さんが住む江戸川区船堀で「産学連携学会」のリスクマネージメントの研究会があって参加した。研究会の場所は、大野さんの自宅と目と鼻の先だった。午後3時半に終わるからお茶でもどう、と電話した。いいよ、じゃ終わったら電話してと言って切った。研究会はのびて1時間遅れで待ち合わせの駅前で大野さんと合流した。大野さんは自慢の英国製のバイクに乗りながら、ちょっと家に寄ったら、どう、ねぇ、とやさしくいう。いや、時間がそんなにとれないのよ、せめて10分ぐらいいいじゃない、お酒の用意をしているし、10分か20分くらいならいいでしょう、と歩きながら大野さんのマンションに向かった。欅がうっそうと茂り、マンションの入り口の路上に桜の並木が構えていた。春、きれいだよ、という。そうかもしれないと思った。


 吟醸の酒が用意されていた。手料理が小鉢に入って並んでいた。iPad2を買って。これまでの紙焼き写真をスキャンしiPadに取り込んでいる。もう1000枚近く入れ込んだ、という。大野さんが都庁の国際交流部で15年、数々の国際会議をこなした。その時の記憶がよみがえってくる。都議会議員と一緒の海外視察の写真もあった。僕が世話になった橋本辰二郎さんの若き日の姿があった。書棚に知事だった鈴木俊一夫妻と一緒のスナップも飾ってあった。懐かしさが込み上げてきた。大野さんの写真の整理は始まったばかりだった。お台場で走り回っていた時のスナップはほとんどみあたらないのはなぜだろうか。いちいち写真なんか撮っていなかったものね。



 ひさびさの再会、元気でよかったわ。大野さんの自宅で。


 いやあ、それにしても酒がすすむ。吟醸が2本目に入ってもペースが落ちないのだ。大野さんは大丈夫だろうか、と油断しているとすぐつがれてしまう。飲むほどに、酔うほどに、なんだか砲弾をくぐり抜けた日々が思い出されてしょうがない。もう辛いことなんかなんにもないのに、つい目頭が熱くなる。声を上げて、元気に、そして未来を語ってきたあの時の自分に戻ってしまっていたのだ。うれしくてたまらなかったさ。


 夕刻、同じフロアのマンションに住む、娘さんが孫娘を連れて部屋を訪ねてきた。孫は2歳になる。じいちゃんと大野さんを呼ぶ。藍子さん、娘さんもきれいな人だ。ご長男は、治療院を開業していた。学校出たての頃、大野さんと飲んだ時紹介された。写真を見た。立派になったわ。素敵なお嫁さんをもらって幸せそのものだ。経営も順調だという。奥様は書道の先生で、その日は教室で留守だった。大野さんが家を守っていた。ずっと外に出ずっぱりの大野さんが、家で守りに徹していた。料理もこまめにやっていた。これまで美味しいものたくさんたべたのだから、料理のレシピは頭に詰まっているだろうし、舌の記憶も相当のものと思う。それでいいと思った。また遊びに行こう。そして昔の思い出を語り尽くそうよ。


 帰り際、もうこれ以上、仕事はやらない。いままで心配かけた分、家族の事を第1に考えていきたいと思っている、と言った。企業戦士だったから、体に鞭打って相当の負担をかけたけれど、ともかく生きていてくれてよかった。ゆっくり、のんびり、僕も憧れています。ごちそうさまでした。大野さん。





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