DNDメディア局の出口です。夏空に白い雲が岩のごとく湧く。その白さがピュアでまぶしい。周辺は蝉しぐれの大合唱です。何が悲しいのか、鳴き疲れることはないのだろうか。緑濃い木々を縫って風が走る。上州の高原に墓参りに。8月5日、あの日も暑かったわ。
もう少しね、親孝行なんていわないが、時間を気にせずにそばにいてやれなかったものか、思いつくままの昔語りを存分にさせてあげればよかった、と悔いる。あれから1年、家族の意味を今頃になって知るなんてねぇ。
家族で初めての墓参り、息子3人、嫁や初孫を連れ添ってみんなで行った。父の好物を供えた。スイカ、バナナ、ブドウ、和菓子、水菓子…我慢の病床でカルピスソーダーを欲しがったのね、と家内がそのシーンを切なく思い出すらしく、冷やしたカルピスソーダーを持参し、その真ん中にそえた。おじいちゃん、どうぞ、って…。
墓石の上から、細い柄のひしゃくに水を汲んで洗い流した。御影の台座の上に変色した個所をみつけた。水垢なのか、薄墨を流したような汚れ、さっと洗えば落ちるかと思ってタオルで力を込めてみたが、なかなか消えない。
考えてみれば、遺骨を納めたのは昨年9月の父のそれが初めて。若いころ、東京で所帯をもったらこれから先、故郷に帰ることはないだろうから、と30年前に無理して墓を購入した。地方からの上京組は、家、墓、そして親の介護等に苦慮することが多い。ずいぶん時間が経っているから、汚れるのもしょうがない、とゴシゴシやるのを途中でやめた。静けさの中で苔むしていくのなら、それでよいのかもしれない。これから果てしない時を刻んでどのくらいお世話になるか、わからないのだから。
父が亡くなって−1、初孫が生まれて+1、家族は全員で7人。身内、親族に縁の薄い父だったから、やあ、みんな大勢できてくれたのか、と喜んでいるに違いない。墓前で手を合わせていると、生々流転、生と死の不思議、命の尊さをあらためて考えさせられた。そして月並みだが、家族の大切さをしみじみ感じた。これまで大事にしてきただろうか。
墓参りと法要を終え、気分がすっきりした。そのあと、無垢な孫をあやしながら食事を取り、そして温泉に浸り、湯上り気分で道の駅やお土産屋に寄り道して夕方遅く帰宅した。ほどよい夏休み気分でした。家内が、うちのお嫁さんも孫も1等賞、と目を細めて嬉しそうだった。道の駅で、枝ぶりのいい柊南天の鉢を買った。レジで支払いをしていると、人のよさそうな中年の男性が近づいてきて、南天は縁起物、玄関わきに植えるとよい、南天を文字って難を転じる、というのですよ、と教えてくれた。後ろに並ぶ品の良いご婦人も声をかけてきた。すっとスタイルがいいわね、という。確かに。形が気に入ったし、葉の色も形もよし、1000円の贅沢である。花木が専門の父だったら、どういうコメントを残したか、植えるのは玄関付近、さて、どこにすればよいか。もうアドバイスはない。あの時、その時の父の何気ない語りが、かけがえないものに思えてくるのですね。
案外、こういうことなのかもしれませんね、幸せって。もうそんな多くのものを欲しいとは思いませんが、ごく普通の日常を尊び、できることなら人の幸せを祈る、そういう日々でありたい。父の1周忌、無事に勤めてきました。
東京は豪雨の報、関越道を南下していたら、予報通り雨がぱらついてきた。あちらで父は、さびしくないだろうか、そんなことを思いながら窓外に目をやると、東方に大きな虹がかかっていた。太くくっきりした虹でした。カメラを手元に手繰り寄せてシャッターを押すために大勢を変えると、虹はもう消えていた。誰ともなく、おじいちゃんは虹に縁があるね、と言った。みんなうなずいた。
あの時、荼毘にふした父の遺骨を抱いて葬祭場のわき道を並んで歩いていると、温水シャワーのようなやさしい雨が降りそそいだ。猛暑の中の慈雨、あたりが清められたと思った。そこにも大きな虹が現れた。遠くに富士山がはっきり見えた。不思議だが、平凡で誠実な一生を寿ぐ天の恵みように思えた。父は幸せに逝ったと確信した瞬間でした。
ここ数年、親を亡くした友人、知人が、結構いることに気づきました。そういう年齢なのですね。父を、母を、どんな言葉で語り伝えるのだろうか、そのいずれにもかけがえのない人生があるはずです。皆様の珠玉のエピソードをお聞かせください。
※参考:No,387『続:この夏の終わりに・82歳で逝った素敵な父への追悼』http://dndi.jp/mailmaga/mm/mm100923.html
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■『三浦龍一と僕、そして上田達也…』のその後
3・11の東日本大震災の現場での覚悟の取材や必死の原稿書きの反動か、それ以来、何を書いていいのか戸惑うことが多い。書く意味がどこにあるのだろうか、と自問し悩んできた。人生にそのものに悩んでいる。一時、体重は常時82キロ前後だったものが、75キロまで減った。ようやく持ち直して78キロ〜79キロに戻している。どっちが健康でそうじゃないのか、そこが判然としないところがもどかしい。案外、こんなに態度が大きい割には、デリケートなのかもしれない。しかし、辛いことばかりじゃないのね。こんなメールをもらってなんだか、人生まんざらでもないような気になっているのも確かです。ご本人の了解を取ることができたので、ご紹介させてください。それは、2008年6月4日付で配信したDNDメルマガ『三浦龍一と僕、そして上田達也…』(No,277、http://dndi.jp/mailmaga/mm/mm080604.html)を読んでくれた方からの丁寧なメールでした。
≪出口俊 一様 はじめまして、上田渉といいます。
突然のメールを失礼いたします。古い話で恐縮ですが、メルマガを読み失礼を省みずメールを送らせていただきました。ご容赦願います。
さて、小生は、出口様の書かれたメルマガ内に登場した上田達也の兄でございます。偶々(たまたま)、ここに登場する達也の娘が来所しており、その節、お父さんのことを書いているブログがあると言った。彼女は自分のケイタイにそのメルマガを大切に保存していました。それを早速、読ませていただき、涙してしまいました。ありがとうございます。
自分の知らない弟の姿を垣間見ることができ、こんなに達也のことを思っている友達がいて彼も幸せだったと思います。
本文中に、数度お会いしたことのある方の名前を発見して、ますますその思いを強くしました。本文を印刷して仏前に報告させていただきます。取り急ぎお礼まで。本当にありがとうございます。≫
2011・5月6日の日付でした。東日本大地震の被災地に向かう3日前のことです。メルマガを書いてから3年近くになる。上田達也さんは、中学の同級生で同じバスケット部でした。同じ仲間で、札幌市役所に勤務する三浦龍一さんが上京するので、ひさびさに浅草橋の「百万石」で3人で飲もう、という段取りになっていた。メルマガは、その時の僕らの追憶を語ったもの。百万石に予約を入れ、その日を楽しみにしていたのです。
私は、渉さんからのメールに大変驚きました。上田君のお嬢さんが、私のメルマガを携帯にブックマークでしょうか、保存してくれていると知って不覚にも涙がこぼれてしまった。そして書くことの意味を教えられた気がしたのです。このメールを戴かなかったら、どうなっていたことやら、東日本大震災の5本の連載は書き終えなかったかもしれない。いつか、渉さんからのメール、そしてごお嬢さんのことを何かの機会をとらえてメルマガ等でご紹介できないか、また上田君のご令嬢のせめて年齢か、できれば名前を教えていただけないか、とお願いをしていました。
すると、渉さんから連絡が入り、メルマガ掲載の了解をいただいた、とのことでした。僕のメルマガを携帯に保存していてくれたのは、長女のサヤカさん、26歳でした。女子大を卒業して、保険会社に勤務しているということでした。上田君には、娘さんが二人、もう一人は次女のマホさん、いま看護士として奮戦中ということでした。
そのメルマガの一部をここに再録します。
≪その悲報は、あまりに突然でした。三浦がこの夜に誘うため、彼の携帯に電話すると、電話口に出たのは上田のお嬢さんでした。ほんの数日前に父は他界し、葬儀が済んだとこです、という話だった。享年57歳、大腸がんでした。上田の訃報と三浦からの誘いのメール、どうも履歴をみると相前後している。 う〜む、何か、虫の知らせというのか、きっと上田が旅立つ前に知らせてくれたのか、いずれにしてもいささか奇遇な感じがしてきます。三浦から3人で飲もうというのも思えば珍しいことだ。携帯の電話帳を順番にスクロールすると、上田の番号は残っていた。もう使われていないだろうが、なぜか消去するのにためらいがある。しばらくそのままにしておくことに。
店の座敷で、3人から2人に変更になった、という事情を聞き及んだ「百万石」の女将が同郷のよしみからか、ビールのジョッ キーをひとつ差し入れてくれました。せめて、ご一緒に飲んであげてください、その方の分だといって、さっと隣に席を設けてくれる。なんだか、そうすればふと、その座布団に温もりが戻ってくるような錯覚になるじゃないですかね、心優しい女将の心配りに少し言葉が詰まった。上田とは何度か二人で飲む機会があった。が、彼はいつも静かに飲んで、もっぱら聞き役に回っていた。三浦が上京すると、上田に連絡を入れ3人で飲もこともあった。やはり人数が増えても口数は変わらない。
その場の身の処し方は、はるかに彼は大人でした。しかし…これまでどうやってきたのか、今の楽しみは何か、子供はどうだ、これからどうする、などと彼の話をもっとちゃんと聞いてあげていればよかった、と今になってそう思う。その夜は上田の話ばかりでした。こんなに長く話題の中心に なってたぶん素面ではいられなかったのではないか、ジョッキーが泡の方から少しずつ減っていく、いつも静かだからこの日も3人で飲んでいる気になってしまう。せっかくなら冷酒の方が彼の好みだったのかもしれない。今夜は、お別れだから好きな銘柄を選んで遠慮なく心行くまで飲んでくれればいい。≫
しかし、なぜ、もっと人の言うところに気を回し、しっかり耳を傾けこなかったのだろうか。悔しいが、情けない気がしてならない。
その渉さんのメールの件を札幌の三浦さんに転送すると、彼からこんなメールが帰ってきた。
≪俊ちゃんへ
つくづく、記すこと、発信することの力を思いしらされました。ご家族の心にも届き、上田君へのよい供養になったのだと思います。ほんとうにありがとう。≫
以上
■経済産業省人事異動(12日付)
更迭人事で窮地の経済産業省に新しい顔ぶれ。ここは心機一転、逆風の中を突き抜けてもらいたい。
経済産業省人事:事務次官・安達健祐(経済産業政策局長)▽官房長・立岡恒良(内閣官房内閣審議官)▽経済産業政策局長・石黒憲彦(商務情報政策局長)▽製造産業局長・上田隆之(官房長)…原子力安全保安院長・深野弘行、資源エネルギー庁長官・高原一郎、中小企業庁長官・鈴木正徳、特許庁長官・岩井良行
※「お断り」
8月のメルマガは原則、お休みします。東日本大震災の現場取材(8月11日から14日)、四川大地震の復興状況取材(8月22日から27日)のためです。視察の動向は、またお知らせいたします。
DNDメディア局編集長 出口俊一 2011・8・5日