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復活日光!東京スカイツリーに”神頼み”


 脚光を浴びる日光東照宮の境内にある五重塔

DNDメディア局の出口です。今年のGWは、大型連休とかで9日間の長い休みに恵まれた方々も少なくなかったのではないか。ぼくもその一人だが、メルマガを一回飛ばして、日帰りで日光に何度か行った。いきつけのお店で冷たいそばに常宿での源泉かけ流しの湯、たまりませんね。ピンクのヤシオツツジが咲いて新緑が目にまぶしい季節でもある。


が、雨にたたられた。日光社寺の表参道の木立から雨をながめていた。杉の巨木が覆って辺りが薄暗いのだが静寂さに包まれて心が洗われるようだった。丸みを帯びた石畳が、濡れて光っていた。苔群が潤むように青々としていた。いつ止むとも知らぬ冷たい雨でさえ、緑のシャワーのように心地よいものだ。周辺には原生の自然が眠っている。

新緑の日の光よく雨もよし
日光の千年苔に皐月雨
五月雨やべんがら濡らし苔や萌え   俊楽



 苔の青さが映える雨の表参道


 雨の日光の風情、日光東照宮で。

iPhoneを構えてシャッターボタンを引いて、つらつらとこんな句を詠む。ひょいと浮かんだ言葉の字数を整えるだけで、ひねりも工夫もないものだが、写真のキャプションと思えば、まあ、平易でいいじゃない(笑い)。


木立に雨がけぶる。石積みに生える苔の青さが木柵のべんがらの紅に映えてまばゆい。雨粒が水玉となって柵の漆を潤していた。素朴で光沢のあるシルキーな透きうるしのようなしっとりとした雨の日光の風情なのである。


日光は、記者時代の最初の赴任地でした。若い日に5年間、滞在した。お祭りなどは毎年のことだから取材が面倒になっていた。早く本社に上がりたい、と苛立った。が、今思えばそれでよかった、としみじみ思う。忘れがたい第二の故郷になった気がします。結婚して所帯を持った。先輩から記者の矜持の多くを学んだのも日光でした。


◇五重塔の心柱がスカイツリー耐震モデル
 もう35年もの時を刻むが、人のにぎわいがいまほど深刻な状況は聞いたことがない。他の観光地もそうだろうが、東日本大震災や原発事故による放射能の影響で観光客の落ち込みが激しく例年の3割減という。いまだ痛めた足を引きずっている状態だ。が、ようやくだろうか、何か、ここにきて一条の光明を見出したかのような昂揚感に包まれている。東京スカイツリーの22日の開業に合わせて、日光東照宮の境内にある五重塔の内部を初めて公開するというアイディアが、内外から評判になっているからだ。日光に行った日に、知人が、みのもんたさんが取材にきてくれた、と喜んでいた。


東京スカイツリーの耐震に、五重塔の芯柱構造が採用されていることがマスコミに取り上げられ、にわかに脚光を浴びることになった。東照宮境内の石の鳥居のすぐ左手に、のそっと建っている。それまで誰も気に留めなかったし、七堂塔裁判でも双方なにがなんでも譲らないという認識が薄かったよう記憶している。


その五重塔が、日光の話題を独占しているのである。高さが約36m、肝心の心柱(しんばしら)は4階部分から鎖でつりさげられ、地面に近い礎石の中心部でわずかに浮く構造となっている。地震で塔が揺れても芯柱が振り子の役割を果たして振動を和らげるという。芯柱には金箔が施されて輝きを放っているらしい。ぼくはまだ見たことがない。公開前の内覧に行こうと思っている。

五重塔のある境内付近の標高がスカイツリーの高さ634mとピタリ一致していることも拍車をかけた。日光の観光の活性化になんとかつなげたい、と地元の業者の期待も膨らむ。この公開によって修学旅行の児童、生徒への日本建築の伝統やすぐれた耐震工法に関心をもってもらえれば、「学びと、気づき、それに感動を与えられる」と東照宮の稲葉久雄宮司も社会的意義を強調していた。


一方、お隣の日光山輪王寺は、こちらもスカイツリーにあやかって天空回廊と銘打った三仏堂修理の現場を公開し、地上26mの高さから眼下を一望するコースを昨年4月から実施している。これは大がかりな工事で平成32年度まで続く「本堂(三仏堂)平成大修理」の第一弾で、東日本最大の木造建築である三仏堂の大伽藍を覆う「素屋根」に特設の「展望見学通路」(天空回廊)を設置したものだ。東京スカイツリーと三仏堂の修理のどちらも施工が大林組という関係があるのかもしれない。東京スカイツリーの人気にあやかりたい、と願うのは神も仏も一緒ということか。


日光東照宮も、輪王寺のいずれも新たな誘客策として地元の観光の一助になればとの思いが強いのだろう。日光といえば、社寺紛争が絶えず輪王寺が仕掛けた東照宮境内の七堂塔の所有権登記に端を発した"宗教100年戦争"は、最高裁の和解調停で一応の決着をみた。裁判の行方は、当時、ぼくら取材記者の特ダネ競争の関心事でもあった。和解の最終段階でスクープしたのはぼくだった。人並み以上に双方に食い込んで記事をものにした。


それから30年、日光の平穏は取り戻された。それぞれが地元の活性化のために知恵を絞り、アイディアを出して協調してやっていく姿勢が、なによりのぞましい。五重塔の芯柱の公開めぐっては新たな紛争の火種にならなければよい、心配する地元の古老のつぶやきを耳にした。原発、放射能汚染、不景気、外国人離れなど不都合な要因が渦巻く中、もはやそんな争いを繰り返している場合じゃない、というのが日光35年ウオッチしてきたぼくの率直な感想である。


◇30年前の切り抜き『戦場ヶ原賛歌』
 さて、休日の過ごし方が、だんだん地味になっていくのは年齢のせいだろうか。いやあ、スタッフが一日も休みなしで働いているのを尻目に、遊び歩くわけにはいかないのである。そのため、庭の手入れと書斎の片付けに費やした。不要なものは捨て、関連のものはひとまとめに。作家別や、分野別に書棚の本を入れかえた。これまで書き溜めた資料や原稿も整理した。書斎といってもどこに何があるかが薄ぼんやりしていたものが、くっきり見えてきたのはなにより気分のいいことだった。


部屋の隅に亡父の遺したフレアな彩りのアザレアの鉢を、机の上にハリガネソウの緑の鉢を置いた。昔の写真や、手紙、CDなどはとりあえず、スチールの収納棚に。後日、大切なもののみを残して捨てる。まだそんなことをやっているの、と笑われそうだ。過去の新聞の切り抜きは、3・11東日本大震災の以前のものはおおよそ廃棄した。使わないものはどんどん捨てる、と相当、気合を入れてやった。年齢とともに、物が知らぬ間に増殖していく、その怖さを思い知らされた。また整理していくと、思わぬ宝物に遭遇するものだ。


そのひとつが、『戦場ヶ原賛歌』と題した新聞連載の切り抜きでした。すっかり忘れていたものだ。ぼくが暗室で紙焼きしたモノトーンの写真と一緒にファイルの中からでてきた。切り抜きは薄茶色に変色し、かび臭かった。


記事の日付は、昭和56年6月と確認できた。産経新聞の日光通信部記者として赴任して4年近くたっていた。当時、28歳、数えればいまから31年前のことになる。デスクから指示があった企画だった。その連載の題材には事欠くこともなくスムーズにはじまったことを思い出した。『戦場ケ原賛歌』、その冒頭はこんな書き出しでした。


「奥日光・戦場ヶ原に、遅い春がやってきた。雪が舞い、氷も張るが、野鳥はさえずり、木々に若芽が萌えている。早春の湿原に、戦場ヶ原で生活し魅せられた人々を訪ねてみた」と。(出口俊一記者)と署名がある。


第1回が「冬を耐えて」、戦場ヶ原のシバザクラを愛でる三本松茶屋の鶴巻喜六さん(当時72)、鶴巻さんが戦場ヶ原にきたのが大正5年、5歳の時だった。生活が苦しかったことに触れている。


写真家の秋山庄太郎さん(当時59歳)は、主宰していた「花の会」の栃木支部の招きで毎年、この時期に戦場ヶ原に訪れていた。ご一緒させてもらった。ライカの500ミリの望遠をなんどかのぞかせてもらった。雄大で野性的な風景に向けられたフィンダーの先に写るのは、青みを帯びたネコヤナギだったり、修学旅行生の後れ毛が涼やかな女子生徒の表情だったり、と、拍子抜けするようなアングルで、撮影地が戦場ヶ原かどうか、その辺が判然としないものばかりだった。それを「巨匠の眼」と見出しをつけた。




秋山さんとツーショットの写真が四つ切り大にプリントされて手元に残っている。いまあの当時の秋山さんの年齢に追いついて今ではぼくの表情の老け具合が秋山さんと重ねって見える。これは第5回目。全部で10回のシリーズでした。


忘れがたいのは、小田代ケ原の一本の白樺の樹を「貴婦人」と呼んで最初に世に送り出し、それ一本を撮り続けた有田洋さん、ぼくのこの記事が白樺の樹のメディアのデビューとなった。洋画家で詩人、奥日光をモチーフに数多くの国際賞に輝いた小山市の岡田昌壽さんらも登場した。


◇自然を守る、久保田秀夫先生の叫び
 懐かしいのは、植物学者で山桜の研究の第一人者だった日光の自然を守る会会長、久保田秀夫先生である。第3回目にご登場願っていたことがわかった。「滅びゆく湿原」というタイトルで、「人災が乾燥化を早める」との見出し、その原因がまず国道の舗装にあり、湿原を東西に突っ切る国道120号線の拡張工事で国道わきに大きな側溝を掘ったため湿原に水が流れなくなった、と訴え、観光客が無断で湿原に入り込み、外来植物を運んでしまった、と嘆く。心無い観光客が食べ物を散らかして捨てるためネズミやキツネが繁殖し自然生態を狂わした、と不満を口にした。


カメラを首から下げた観察スタイルで、久保田先生と湿原を歩いたことを思い出した。消え入りそうなか細い声で、乾燥化が進めばやがてカラマツ林になってしまう、と懸念を表し、問題は、行政にある、と言い切った。




「戦場ヶ原は、縦割り行政の被害者です。調査して対策を提案しても取り合わないし、やってもその通りにならない。役人の冷淡さに胸が痛む」。冷静な久保田先生が、この時ばかりは表情を変えていた。よほど腹にすえかねることがあったのだろう、と推測した。


◇今なら言える、昭和天皇が見抜いた"視察秘話"
 久保田先生といえば、もうひとつ日光での記憶が甦ってきた。当時、昭和天皇、皇后両陛下が栃木県の植樹祭の行幸啓に際して植物観察などのため日光に訪れた時のことです。久保田先生が、昭和天皇へのご説明に立ち合うことになった。昭和57年(1982年)の5月21日夕刻のことでした。


両陛下は東照宮の旧社務所大玄関にご到着され、横山大観が壁や襖、天井一面に太陽と雲、それに月を描いた御座所でご休憩された後に、陽明門、唐門、そして眠り猫などをご覧になった。その後、陛下は、植物の観察に社務所裏手の北神苑から古道の仏岩付近まで歩かれた。ご説明役に久保田先生がご同行した。道すがら、ヤマブキソウ、メタカラコ、マムシ草、カメハヒキオコシ、ヤマシャクナゲをご覧になり、陛下はとても満足そうだった、と宮内庁担当記者らが記事を本社に送った。地元の記者は、陛下のそばには近寄れないので関係者から取材するしか方法はない。全国版には宮内庁担当の記者、地方版といわれるローカルニュースには、地元の記者が担当するという決まりになっている。昭和から平成に代る頃は、ぼくも宮内庁記者クラブや官邸クラブに出入りすることになるが、行幸啓の記事はほんの数行で扱いは小さい。

ここだけの話だが、ぼくの取材メモによると、仏岩の付近で急に立ち止まれた陛下が、久保田先生に向かって、こうおっしゃった。


「これらの植物は、自然にここに育ったものじゃない。これは移植したものじゃないですか。こういうことをしてはいけない。」


陛下は、その植栽の不自然さを見抜かれたそうだ。久保田先生は、恐縮して直立不動、平身低頭、心臓がとまりそうなくらい驚かれた。陛下は、植物学者としてよく知られた存在でした。那須野御用邸では、ナスノヒオラギアヤメとか、ケイムラサキニガナなどの新種の植物を発見されておられる。


これは陛下のご指摘の通りで、"白状"すると、その20日ほど前から県の関係者、地元の人の手伝いをもらって、日光の七里付近からヤマブキソウ、雲流の滝周辺からメタカラコという具合に5、6種類、10〜15株を採取して、北神苑から仏岩の道端に点々と植え込んだ。しかも杉の葉を覆っていかにも自然に生えているように完璧な細工をしたつもりだった。よかれと思ってやった"神の手は、あっさりと見破られてしまった。


陛下は、北神苑からの帰り際に社務所の近くの道坂で、杉の木の枝に絡まるように花を咲かせていたカラヤンの花を見つけられ、目の高さだったので顔を近づけて喜ばれたそうだ。振り返って、陛下は久保田先生の顔を一瞥されたらしいが、先生は顔を横に振って、思わずこれは天然です、と言いそうになったらしい。

数えれば、まもなくちょうど30年、久保田先生がご逝去されて10年の節目を刻む。戦場ヶ原賛歌に登場した方々は、いずれも物故者となってしまった。夏草や兵達が夢のあとーなのである。


さて、さっぱりした書斎で机に向かった。これが転校生みたいでそわそわして落ち着かないのである。そのうち、まもなく資料や本で散乱すれば、いつものペースを取り戻すことでしょう。リフレッシュした書斎での第1号が、この原稿である。





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