第10回 インド知財の行方を決める2つのイノベーション戦略の拮抗 その2
図1の写真に写っているのは、インドのニューデリーにあるアジア・太平洋技術移転センター(The Asian and Pacific Centre for Transfer of Technology :APCTT)です。このAPCTTは1977年にアジア太平洋地域の技術移転促進のために設立された国連の下部機関です。アジア、太平洋地域の経済社会開発のため地域協力プロジェクトなどを行っているアジア・太平洋経済社会委員会(United Nations Economic and Social Commission for Asia & The Pacific:ESCAP)と協力しながら、技術移転に関するいくつかの事業を実施しています。この機関のサービスは、ESCAPメンバー(2012年現在53カ国のメンバーと9カ国の準メンバー国からなる)に対して行われます。これらのメンバー国のナショナル・イノベーションシステムのマネジメントと、技術移転機能の開発、そして必要なセクターに必要な技術を提供する活動の促進が、ACPTTの事業目的として掲げられています。
ニューデリーの事務所のコアスタッフは10名程度のインド人で構成される、こじんまりとした組織ですが、中小企業向けの技術移転支援業務、技術移転支援者ネットワークの構築、に加え、ウェブサイト上での技術移転マッチング事業を行なっています。当初はすべて人手によるマッチングが行われていたようですが、徐々に情報技術を活用する手法に移行し、現在ではTechnology Marketと称するサービス(Technology Offer とTechnology Requestのそれぞれの情報提供を受け付けて、ウエブ上で公開する方式)が中心です。2012年5月の時点で811のTechnology Offer と383のTechnology Requestが掲載されていました。様々な国からのもので、Technology Offer には中国の技術をはじめ、インドやイランなど多くの国からのオファーが見受けられます。またTechnology Requestについては、発展途上国だけでなく、イギリスなどの先進国の案件も含まれていました。これらの技術移転のインパクトは、1996年時点で評価したところ6000万ドルであったとしていますが、その後調査は行われていないようです。かつてはノウハウがほとんどでしたが、最近は知的財産権が関与する案件が増えてきているということでした。
図1 インドニューデリーのAPCTT事務所(2012年著者撮影)
国連機関ということもあって、インドの案件を中心に扱っているわけではありませんが、インドに拠点を置き、インド政府の資金を用いたプロジェクトにも携わっていることから、APCTTのマネジャーはインドの技術移転や知的財産権の問題には精通しています。この組織がアジア太平洋地域の技術移転をさらに促進させようとするなかで、近年最も注目しているイノベーション戦略のひとつが、Grassroots innovation です。日本語に訳せば「草の根イノベーション」とも言うべきでしょうか。このイノベーションの概念を提唱しているのは、インドのグジャラート州アーメダバード(Ahmedabad)(@)にある、インド経営大学院(Indian Institute of Management、図2)の、アニル・グプタ(Anil K. Gupta)教授です。グプタ教授の考え方(A)は、「貧しい農村部にも、工夫を凝らした農機具や、乗り物、様々な道具など、イノベーションに結びつくような貴重な創意工夫があるが、それらは文章に表され、他者に伝えられることがないので、創作者のみが実施するだけで、その存在すら埋没している。このような貴重な創意工夫を、こまめに収集し文章に表して、その創作が必要な多くの人々と共有することによって、発展途上国においても持続的なイノベーションが成し遂げられる」という考え方です(B)。
グプタ教授は、インド国内の大学でバイオテクノロジーを学んだ後に、経営学で博士を取得した人物で、大学院では知的財産の授業なども担当しています。同時にGrassroots innovationのアイデアを実践するために、20年以上わたってインド各地6000kmを歩き、Grassroots innovationの発見の旅、"Shodh Yatra"を重ねてきたといいます(C)。このような考え方に基づき、埋もれた創意工夫を発掘し活用する事業を実践する組織として、1986年頃に自らHoney Bee Network(D)を創設しました。この組織はその後もボランティアのネットワークを広げて発展し、"Shodh Yatra"の主催などの活発な活動を行なって、インドで著名なNGOとなりました。ボランティア募集の文言には、この活動が「インドがその経済規模にふさわしいknowledge leader and a creative societyになるために、必ず求められる活動なのである」と記されていました。そのなかで見出された数多くの創意工夫の中には、実際に特許になったり、多くの人に知られるようになって、外国のユーザーに利用されるなどの優れたものも少なくなかったのです(E)。
図2 アーメダバードのインド経営大学院
このような活動をインド政府も支援しています。2000年にはインドの科学技術省によって、このGrassroots innovationを支援し発展させる組織であるNational Innovation Foundation - India (NIF) を設立しています。NIFの業務としては、@イノベーションを発見し文章化すること、Aそのイノベーションの価値を科学的知識に基づいて評価すること、Bそのイノベーションが起業家にライセンスされて商業化されることを支援するか、もしくは、イノベーター自身が起業する場合には、市場調査や試作品の生産さらには資金援助などを行うこと、Cこのようなイノベーションの他地域への普及を行うこと、に加えて、Dイノベーションの知的財産権の保護を支援することが含まれています。その内容としては、特許明細書の作成支援、出願権利化支援に加えて、紛争時の法的サポートにまで及ぶものです。このような活動から実際に2012年の時点で、475のインド特許庁登録特許と、10件程度の米国登録特許を権利化することに成功しています。
技術移転を促進する機関であるAPCTTも、Grassroots innovationに関連するこのような活動から、インドのみならずアジア太平洋地域の技術移転活動が促進されることを期待しているのでしょう。
実際に、このグプタ教授のGrassroots innovation は、インドだけでなく南アフリカ、ブラジル、中国などにも紹介されて反響を呼び、これらの国々で協力者を増やしています。南アフリカではGrassroots innovation を発掘して情報データベースをつくり特許で保護するHoney Bee Network と類似の活動が試みられています(International Network on Appropriate Technologyの活動と関連して進められている)。ブラジルではSocial Technologies Network - Brazil)が、同様のデータベースを構築しています。また中国の天津大学ではこの考え方に共鳴し、学生にShodh Yatraを経験させ、より多くのイノベーションの発掘に協力すると共に、グプタ教授を支援するインドの政府機関と協定を結び、中国におけるGrassroots innovationの普及を計画しています。
グプタ教授が着想したGrassroots innovation は、今やインドを超えて多くの新興国に広がっているのです。経済成長の著しいインドですが、依然としてその基盤は農業であることから、如何にして農村の貧困を解決するかが、インドの最も重要な政策課題の一つであるのは間違いないところです。その点、Grassroots innovationは、インドに相応しく、農村社会を基盤にしたイノベーション戦略であり、インドのウエブ情報に占めるGrassroots innovationのキーワードヒット数が著しく多いのも頷けます。そしてこのような考え方が受け入れられていくことが、インドの知的財産戦略に与える影響も少なくないと思われます。既に見てきたとおり、優れたアイデアを有する個人への手厚い知財面での支援施策はその一つですが、今後は知財の制度面でも影響を与えていく可能性もあると思われます。インド特許庁で公式に検討されているとは伝えられてはいませんが、インドでも中国での実用新案のような、考案的な発明の保護制度が検討される可能性があるのではないかと思われます。
日本ではほとんど紹介されていないGrassroots innovationですが、ここで見てきたとおり、インド発で、世界的広がりを見せている注目すべきイノベーション戦略であるといえます。日本にもこのような活動を参考として、インドの埋もれた発明の発掘活動に関心をもつ組織や個人があっても良さそうです。それは、インドのような新興国とのイノベーション面での様々な貴重なネットワークに発展していく可能性があると思われるからです。また日本国内でも、埋もれた発明や技術は少なくないので、その点でも参考になる活動かもしれません。
しかし、だからといって、現段階でインド政府の主要なイノベーション政策であるとも言い難い状況があるのです。それは、インドでは、もう一つ、製造業振興を中心に考えるイノベーション戦略が検討され、進められようとしているからです。この政策は、現在GDPに占める製造業の現在の割合16%を、10年以内に25%にまで引き上げ、1億人の雇用を創出するという計画に基づいています。製造業振興のための産学連携・技術移転制度やベンチャー育成のインキュベーション施策なども、今後検討が進むとみられており、その点日本の知財戦略と類似の方向性が予想されます。さらには、韓国などで実施されているようなインド中小企業向けの知財活動を支援する知財ファンドの設立も検討されています。しかしこれらの政策には、政府内でも反対意見もあるようで、例えば、製造業振興施策の促進のために、国内各地に設けられる予定の製造業の大規模集積地の創設は、既に2011年10月に閣議決定されたのにもかかわらず、森林環境省や労働省が未だに手続きを行なっていないために全く進んでいないという報道もありました 。
これらの施策によってさらに外資を呼び込み、農村や森林を切り開き、製造業を振興する考え方は、Grassroots innovationの方向性とは異なってくることも予想され、今後のインドの知財政策を占う上でも、この2つの方向のどちらに重点が置かれていくのか、拮抗し、あるいは共存していくのかは重要なポイントになります。インド現地の識者の意見を聞いても、インドでは従来の産業構造や文化的な背景もあり、製造業の発展はそれほど進まないだろうという見方と、インドにおいても製造業の急速な発展を予想する意見もあり、その見解は分かれているといったところです。
冒頭述べたように、日本とインドとの関係強化の中で、インドの知財の今後にも関心が高まっています。それは、インドがどのようなイノベーション戦略を選択し、あるいは共存させていくのかに大きく影響されることは間違いないと思われます。今後もインドのイノベーション戦略の動向に、より一層注目していく必要があるのです。
@)人口は537万人で農業、綿織物業が盛んな地域。イスラム教徒が比較的多い。
A)http://www.ted.com/talks/lang/ja/anil_gupta_india_s_hidden_hotbeds_of_invention.html
B)この考え方は、先住民の民謡,民芸品,薬学の知識や伝承の知恵等を総称した所謂「伝統的知識の保護」にも関係してはいるが、対象ははるかに広く発想としては異なる。農村部を中心とする貧困層をイノベーションが展開されるマーケットとして捉えるのがBOPビジネスであるとすると、このgrassroots innovationでは貧困層を、イノベーションの創作者として捉えていることに特徴があり、その点既存の伝統的知識の保護等の概念をはるかに超えている。
C)このような埋もれた創意工夫の探索の旅をShodh Yatraと称している。アーメダバード経営大学院の農業経営の博士課程のコースの一つになっており、過去8年間同大学院での最も人気のあるコースであるという。
D)http://www.sristi.org/hbnew/aboutus.php
E)http://www.ted.com/talks/anil_gupta_india_s_hidden_hotbeds_of_invention.htmlにグプタ教授の講演が動画で掲載されている。Grassroots innovationの背景や必要性に加えや、70歳のインドの老人が、愛する人に会いにいくために、自ら自転車を改造した発明を行なって、船がこない日にも河を渡る話などが印象的に紹介されている。
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