◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2012/02/01 http://dndi.jp/

選りすぐりの金沢、鈴木大拙と谷口吉生の極意

 ・哀愁の北陸へ雪吊りの金沢へ(上)
 ・名刀の輝きを放つ、鈴木大拙館
 ・松田章一館長と村井好博さんの機微
 ・謎めいた3つ目の軸「△□不異○」
〜コラム&連載〜
 ・比嘉照夫氏 第54回「タイ国の大洪水後の浄化活動に国策として活用されたEM」
 ・橋本正洋氏 第54回 日米イノベーション政策の相互影響−『米国の競争力とイノベーション能力』報告書
 ・山城宗久氏 第38回 イカとシカ


 松田館長と展示空間、右の軸の英文が、シェークスピアの戯曲から。

DNDメディア局の出口です。哀愁の北陸へ、雪吊りのある静寂な城下町、金沢へ行きました。小松空港には、僕が客員教授を務める金沢工業大学の村井好博さんが出迎えてくれた。道すがら、西の空低く鈍色の雲が流れた一瞬、白山が冠雪した雄姿を輝かせた。

いやあ、真冬の日に白山がくっきり見えるのも珍しい。

村井さんがそうつぶやいて車を路肩に寄せた。う〜む、チャンスなのに一眼レフのデジカメを持ってこなかった。凍てついた道路を横切って田んぼの土手付近からiPhoneを構えた。複数の県境をまたぐ白山は、標高2702mを誇る日本名山のひとつで屏風のようになだらかなすそ野を広げていました。


屹立して堂々と、慈しみ深いやさしさと磨きぬかれた気品をたたえている。そんな印象を持った。村井さんに伝えると間髪入れずに、おっしゃる通りまるであの方の存在そのものかもしれません、と意味深なことを口にする。

あの方って誰だと思いますか?

今回は、東洋の心をいち早く世界に伝えた金沢の偉人、鈴木大拙にまつわるひと模様と、加賀に息づく精緻な匠の技のあれこれを取り上げたい。


さて、金沢でのわずか数日の滞在が毎回、充実しているのは、これは間違いなく村井さんの配慮のお蔭だ。大学では、常任理事で産学連携機構の事務局長の要職にあり、多くの改革のミッションを抱えているのに、細かい気遣いはさりげない。北陸の雪は深いが、情も深く、そして厚い。

その日も、そうでした。

きっと、出口さんの感覚にフィットするのじゃいかなあ、次の会議まで時間があるので、段取りしました。ご案内します、と言ってアクセルを踏んだ。

車は、金沢21世紀美術館の地下駐車場に滑り込んだ。

少し歩きます、と村井さん。白を基調にした円形のスマートな外観は、すっかり金沢の顔になった。ぐるり、美術館の外側を左回りに進んで道路に出た。金沢歌劇座交差点を図書館側にわたって南下した。背後には兼六園、美術館がある。陶芸や、友禅の工房、学校と、金沢の文化施設が周辺に点在する。


地名が、本多町に変わった。そこの小道を東に抜けると、車の往来が途絶え静かになった。近くに森があるのだろうか、野鳥のさえずりが野山の散歩のような気分にさせてくれた。広い庭の立派なお屋敷のわきを進み、袋小路の先を急ぐ。


村井さんがいう。本多町は、加賀藩の筆頭老臣である本多政重の屋敷があった地に由来しますが、この辺が下屋敷でした。

雰囲気がありますね。

そうでしょう。もうその先の左角です、と指をさす。

なんとコンクリート打ちっぱなしのシンプルな建物が目に飛び込んできた。なんだろう、といぶかっていたら、哲学者の鈴木大拙館だという。昨年10月18日に開設した。


哲学者って? 鈴木大拙って? 哲学者といえば、独創的な哲学体系を築いた西田幾多郎は学んだ。が、1870年、明治3年生まれの中学の同窓で互い影響を与え合った関係だったとは知らない。鈴木は、その西田に、「わたしの思想上、君(大拙)に負うところが大きい」と、その書簡で言わしめた。「善の研究」など日本の哲学者として頂点を極めた西田の存在や知名度に比べて、鈴木大拙の業績の評価は心もとないのではないか、と思った。大学の「哲学」の講座にも出てこないし、とんと知るところではなかった。西田の「善の研究」に対して鈴木の「禅の研究」、それを東洋の心として英訳し、自ら流暢な英語を操って海外に伝えた。今日の欧米における「禅」(ZEN)のおおいなるブームは、鈴木の功績が大きい。

鈴木大拙って実際どんな人物で、その精神世界はどんなものだったのか?

加賀藩家老本多家の侍医の家に生まれ、昭和41年7月に永眠する96年間は、明治、大正、昭和の激動期において、国際的視野に立って内外に広めた深奥な東洋思想と活動は、21世紀の今日の対処に迷う我々に無限の示唆を与えている、とは出光興産名誉会長、出光昭介氏の巻頭言『鈴木大拙、没後40年、松ケ岡文庫編』でした。


実は、金沢から急いで東京に戻って大拙の関連本をむさぼり読んだ。その断章を少し織り交ぜながら、たとえば鈴木大拙を円の中心にした人生96年のひと模様とか、その人間曼荼羅のひとコマを浮き彫りにしたい。また鈴木大拙館をそれこそ匠の技を尽くして完璧に仕上げた建築家、谷口吉生氏の巨匠の世界にも触れます。


金沢ゆかりの鈴木大拙と、谷口吉生氏の接点に不思議な縁(えにし)を感じます。宗教と建築の出会い、その入り口から中をのぞくと、そこには時空を超えた悠久の煌びやかな万華鏡の世界が浮き上がってきた。


■名刀のような輝きを放つ、鈴木大拙館。
 鈴木大拙館の地番は、金沢市本多町3丁目でした。繰り返しになるが、哲学者で西洋に仏教を伝えた禅の泰斗、鈴木大拙(すずき・だいせつ)を世に問う記念館であり、訪れる人々の思索、学習の場でもあるという。


屹立して堂々と、慈しみ深いやさしさと磨きぬかれた気品、冠雪した白山のような存在感がある。この建築の洗練されたデザイン、周辺との構成の妙、入り口からのびる直線的でシャープな動線、そのいずれもスマートな気品に満ちている。周辺に佇んで見渡すと、ふっと肩の力がぬけていく。この清々しさはどこからくるのだろうか。水と光と風を建築全体に取り込んで内と外が見事に融合している。


建築は素人だが、記者時代に特命でほぼ1年がかりで「建築面」を提案した。その当時、幸いにも建築家、故・丹下健三先生にお供して世界の丹下建築を取材して回った体験があるので少しは肌で感じるものがある。


建築家の名前を聞いてすぐに納得した。谷口吉生氏、彼のプロフェッションとしての匠の技が一寸のぬかりもなく隅々に息づいていた。やっぱりどこにいてもどんな建築でのきちっとしたいい仕事をなさる。谷口といえば、我が国を代表するモダニズム建築の大御所、谷口吉郎氏を父に持ち、いまや親子二代にわたるDNAの開花期を迎えたのであろう。このあっ晴れな作品の前に佇むと、これは仕事ではなく建築家としての矜持の現れである、ということに想いが至るのである。唐突だが、人生の探し物は、感動の二文字なのかもしれない、と思った。


時折、凛とした名刀のような鋭い輝きを放つ。規模は小さいが、空、風、森、それに光を取り込んで宇宙に広がる壮大なドラマを演出ているように見えた。落ち着くし、思索が深まるわ。こんな場所で原稿が書けたら、幸せだろうなあ、と素直に思います。う〜む、鈴木大拙館、大いに気に入りました。


本題に入るに前にパンフレットなどから、施設の概要や特徴についておさらいしましょうか。特徴的なのは、裏手の小立野台地から続く斜面を背景に、石垣や水景などによって金沢にふさわしい景観を創造し、そこに金沢ゆかりの鈴木大拙の世界を現出することを基本とした。建築は谷口吉生建築設計研究所の谷口吉生氏の設計、監修による。


「玄関、展示、思索空間の3つの棟を回廊で結び、周辺に玄関、水鏡、露地の、3つの庭で構成されている。3つの棟と、3つの庭をめぐる。それによって鈴木大拙を知り、学び、そして考える、という3つの行動を促すものとする」という。


ふむ、この解説でもわかるように基本数字が3、この3のナンバーにこだわりを感じるのだが、それは偶然か、意図的なのか。意図的とするならこの3にどんな意味が込められているのか、少し謎めいて興味深いものがあります。この3についてはまた別の角度から後半で触れることになります。


■松田館長の案内で館内を拝見
 さて、やや遅れて入館すると、村井さんが受付を済ませて僕を待っていた。館長をご紹介した方がよろしいですか、と聞く。先般、金沢工業大学の石川憲一学長と訪れた。石川学長も大変、感銘を受けた様子だった、という。

ご挨拶できるものならほんの数分でも、ぜひ、お願いしたいですね。

館長は、もう一つの市の文化施設「ふるさと偉人館」の館長も兼務されているので席にいらっしゃるか、どうか。ちょっと聞いてみましょうか。


そんなやり取りをしていると、偶然、受付の後ろの扉が開いた。品のある白髪の男性が姿を見せた。柔和な表情を浮かべていた。


あっ、館長、先日はありがとうございます、と村井さんがあいさつし、僕を紹介した。鈴木大拙館の館長、松田章一さんだった。名刺を交し、受付前にまっすぐのびた回廊を一緒に歩いた。突然のことなのに、松田さんは案内や解説に心を尽くした。そして僕の質問にも丁寧に答えてくれた。そのやり取りはインテリジェンスに溢れ夢心地でした。その記憶をたどって再現しようと思います。


■ダイナミックな鈴木大拙の世界
 エントランスから横長の回廊が東西にすーっと、のびる。直線的だがこれは時間軸でもあるのだろうか。未来の扉に向かう。館長が口を開いた。


「あそこが本多家の上屋敷で一応の官邸ですから、この辺までお庭でして、ここは中屋敷ですね。ご家族とか皆様がお住まいになられていた。向こうが、下屋敷、本多家の家臣が住んでいたのですね。」

「俗と聖、ここから別れます」というポイントの南面がガラス張り、そとの庭に通じる。砂利の先に、どっしりと巨木が枝を広げていた。

「しかし、堂々たる構えですね。」

「そうですね、この樹木は当時の、本多家のもの。楠木ですね。この石川県が北限じゃないかしら、本来、台湾とか九州とか暖かいところにあるものですから。これだけ太いのだから樹齢300年はあるでしょうか。」

館長が、塀越しに遠くに目をやった。

「大拙が育ったのは、本多町3丁目界隈です。あのマンションがありますね、向こう側の端っこに一軒家があります。あの辺でした。大拙の父親が、本多家のお医者さんでした。まあ、侍医だったのです。」

「すると、ここはまさに大拙ゆかりの土地なのですね。」

「そうです。そうなります。それなのでこの場所を選定したのです。ただね、父親は明治9年に亡くなる。大拙が6歳の時でした。しかも母親は20歳の時に亡くなるのです。大拙は男4人兄弟の末っ子、お兄さんらに育てられた。幼少の頃、この楠木にのぼって遊んでいたかもしれない。大拙の視界に入っていたことでしょう。」

「凄いですね。」

大拙メモ:大拙は、中学に入り同窓の西田幾太郎とは、終生の親友となる。しかし、鈴木家は廃藩と破産に追い込まれたため大拙は退学し一時小学校の英語教師となる。母親が20歳で死亡すると上京し、早稲田大学の前身、東京専門学校本科に入学、坪内逍遥の英文学の講座を取る。前田家は加賀人のため寄宿舎を用意した。そこで後輩の安宅彌吉と意気投合し、安宅がその後、大拙のパトロンとなる。


廊下を抜けると、一段低いスペースの壁際一面がわずかな展示空間となっていた。シンプルで、ストレスを感じさせないところが感心した。

「なるべく一点集中主義という考えです。写真パネル3枚、軸3幅、それに書籍を紹介しています。」

「なるほど…パネル1枚、軸1幅、この本1冊とて大拙を語る大変な世界があるのでしょうね。」

展示台に一冊の古い本、『新宗教論』(1896年刊)との題字が読み取れる。

「これが大拙の処女出版になるものでした。26歳の時のもので、これを書いて儲けたお金でアメリカ行きの旅費にするつもりだった。が、目論見は外れてほとんど売れなかったという話です」

「解脱する前?」

「かなりその以前でしょうね」

館長と私の間で笑いが弾けた。書籍は、その他、最初の訳書となる「仏陀の福音」(1895年刊)、これは原作がポール・ケーラス著の『The Gospel of Buddha』(1894年、オープン・コート出版社)でした。


1枚目の写真パネルは、「作務」と題した大拙晩年のスナップで、大拙が箒をもって立っていた。

「庭の掃除ですか?」

「これは大拙が94歳の時のものです。掃除というのは、禅の修行にとって重要なのです」

「庭を掃いているのではなく、心を清めているということでしょうか」

「その通り、箒も重要で、箒と体が一体とならないといけない。禅ではね。これもね、よくみると、片足で立っているでしょう。94歳の立ち姿、重心がぴっと決まっていますね」

「この場所はどこですか」

「鎌倉の松ケ岡文庫という大拙の住居と研究所ですね。昭和19年に建てた。自分の書籍とか仏教に関する蔵書がある。仏教の研究者に利用されているが、一般には開放していません。ですから、この大拙館は大拙に関した初めての一般公開となる。


次は書。墨痕、鮮やかな軸に、「無」の書、無とはない、とは解釈しないのである。後段の松田館長の解説に譲りましょう。


大拙の語録が、日英の対で資料として無料で用意されていた。「道を究める人」と題した文面には、「鈴木大拙は、禅を世界に広めた人として最もよく知られています。大拙の禅の特徴は、学問としての禅を研究するとともに、禅の修行を体現した点にあります。理論と実践のどちらにも偏ることなく、ふたつを融合することが重要であるとし、自らそれを日々実行しました。そこには、正しいと考える「道」を、たゆむことなく究めようとする姿をみることができます。」とあった。


2枚目の写真パネルは、ドイツの実存主義者、マルティン・ハイデッガー夫妻とその自宅前でのスナップでした。1953年、大拙がエラノス会議(スイス)に出席する途中、ハイデッガーの自宅を訪ねた。ハイデッカーは、大拙の英著『Essays in Zen Buddism,First Series』本を読んで、大拙に関心を抱いていた。


大拙は、またハイデッカーの家を出た後、ふと立ち止まり、付き添った秘書に「西田(幾多郎)にそっくりだ」とつぶやいたという。大拙にとっても生涯忘れがたい特別な日となったらしい。


ふ〜む、学生時代の一般教養で少しかじった哲学者、ハイデッガーですね。その著書「存在と時間」はなじみがあるでしょう。20世紀を代表するドイツの哲学者と鈴木大拙の説く『東洋の心』がつながるものだろうか。理屈を超えて、時間性という共通のテーマが響きあったのかもしれない。ハイデッガーを生写真で見たのは初めてでした。


「日本の哲学者で、ハイデッガーと肩を並べる人物はそうはいないでしょう。禅と言うとDAISTSU SUZUKIが有名なんです。大拙の功績はとても大きい」


「明治の20年代というのは、日本が仏教を外に持っていこうという動きがありました。禅があり、西本願寺が熱心でした。そういう動きの中で大拙の欧米を目指すのです。明治政府は神道擁護一辺倒で、廃仏毀釈の考えが吹き荒れた。仏像が川に捨てられたり、海外に持ち去られたりしたのもこのころでした。」

「確かに、そうでしたね、仏教受難でした」

ふ〜む、神仏混合の修験場の日光も例外じゃなく明治初期の神仏分離令が発端となって東照宮と輪王寺の境内における建物の所有権をめぐる裁判が記憶にあたらしい。宗教100年戦争と言われるゆえんだ。余談だが、昭和52年9月、24歳で日光に赴任した時、最初の衝撃は、最高裁第1小法廷は「和解勧告」を指示したニュースでした。

まあ、それはそれとして、ふたつ目の軸には驚いた。

「O wonderful,
  Wonderful,
  and most wonderful wonderful!
  and yet again wonderful
          Disetu」

この軸を前にして、松田さんの口元がゆるんだ。

大拙によれば、女篇に少、つまり仏教でいうところの「妙」をヨーロッパの人びとに理解してもらうには、ひと工夫がいる。不可思議で謎めいたこの妙の字をどう訳せばいいのか。そこで大拙が考え抜いた文章が、このO Wonderfulで始まる英文だった。

「いやあ、凄いね。大したもんだ。なんとなく意味が通じそうですよね」

「これはね、なんだと思いますか。シェークスピアの戯曲の一節なんです。確か、お気に召すまま、だったと思います」

「えっ〜シェークスピアでしたか」

いやいや、やるもんだ。

「見事ですね。それにしてもよくまあ、残ってましたね。保存もよいし…」

すると、松田さんはおずおずと岡村美穂子さんというアメリカ生まれの女性の存在を口にした。

調べてみました。その存在はつとに有名で、大拙が81歳から96歳で亡くなるまでの15年間にわたって、秘書として仕事や身の回りを支えた。その岡村美穂子さんが、大拙の書や折々に撮ったスナップ写真を保存していた。その多くが美穂子さんの所蔵品で名誉館長にもご就任いただいている、という。

「えっ、ご健在ですか?」

聞くと、京都在住で月に1度ほど来館していただくようにお願いしている、という。さる1月25日の開館100日を記念して開かれたアンバサダー会議には参加した。これも余談だが、東京に戻って大拙の思想や足跡を調べていると、随所に岡村美穂子さんが登場する。すらりとしたお人形のような美しさで若き日の写真が多数残っていた。

3つ目の写真は、翻訳に没頭する大拙の姿でした。

インド訪問から帰ってすぐ、出光興産の創業者、出光佐三氏の配慮で手配された東京・日活ホテルの一室にこもって、『教行信証』の英訳に取りかかっていた時のものだ。1961年1月の撮影でした。『教行信証』といえば、親鸞の著作で全六巻からなる浄土真宗の根本聖典である。昼夜翻訳に没頭し、運動のため夜中に散歩する毎日であった。1日10ページと決め、「終わらなければ明日はない」という覚悟で打ち込んでいた。


全6巻のうち、4巻の翻訳を終えて出版した。90歳すぎてから取りかかり、これが最後の仕事になる、と決めていた。残る2巻をやり遂げるために、「あと5年生きていたい」と祈るような思いだった。が、未完に終わった。


■謎めいた3つ目の軸「△□不異○」

パネル写真が3枚、軸は2幅紹介した。残るひとつが、謎めいた絵文字なのである。

△□不異○

三角四角は円に異ならず、と読むのだと、松田さんの説明にいっそう力が入る。

普通、これでは読みにくいので、色不異空と解釈する。色と空は、色即是空の色と空なのであるが、いわば「有限は無限に異ならず」、と今風に言うとこうなる、と、館長の説明によどみがない。

「いやあ、館長、凄いね。さすが館長…」

松田さんは「いやいや…」と照れながら、これは大拙のあれじゃなく、江戸時代の仙高ニ言う坊さんが手がけた禅の極意を描いたものだ、という。


仙豪`梵(せんがい ぎぼん、1750年 -1837年)は、江戸時代の臨済宗古月派の禅僧、で画家、禅味溢れる絵画で知られる。博多の聖福寺の住持を二十年務め、多くの洒脱・飄逸な禅画を残す。東京の出光美術館は仙高フ絵のコレクションで知られている、とある。

なるほど、ねぇ。

大拙は、2本の線ではダメで、3本線で△になる。△をふたつ重ねると□になり、□をどんどん重ねていくと、○になる、と喝破した。つまり形のあるものは空、無限である。禅の極意を形で表したのです。続けて、空というと無いのではない。空は、無であり、妙なのである。この一言で全部を説明することが可能だ。絶対ですから、この絶対ということが我々の根源である、と松田館長は、言い放った。松田さんに仙高ェ、そして大拙が乗り移ったようにたくましく思えた。


この△や数字の3、これに建築家の谷口さんも興味を惹かれたらしく、入り口の三角、つくばいのデザインを△□○を縁取った、という。


軸3幅は、墨痕、見事な「無」一字、次に「Wonderful」の英文の書、そして洒脱な「△□○」の絵文字とバラエティーに富んだ。写真も心に響いた。シンプルだが、訪れるものの記憶に見事に刷り込むパワーは、う〜む、何か、魔法にかかったみたいな感動でした。


さて、松田館長の解説は、次に谷口吉生氏のその集大成ともいえる建築美と究めぬいた匠の技に移ります。これからもうひとつの佳境を迎えることになります。時計をみたら、とっくに小一時間が過ぎていた。村井さんがほんの少し時計を気にし始めた。が、わずらわしいそぶりは一切みせない、そんな機微がなんともうれしいところなのです。

本日は、このへんで止めましょう。次回、谷口magic、大拙館の秘密に迫ります。


【鈴木大拙】

鈴木大拙「(すずき・だいせつ)、本名:貞太郎(ていたろう)」英: D. T. Suzuki (Daisetsu Teitaro Suzuki)、1870年(明治3年10月18日) - 1966年(昭和41年7月12日)は、禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者(文学博士)である。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。梅原猛曰く、「近代日本最大の仏教者」。1949年に文化勲章、日本学士院会員。名の「大拙」は居士号である。同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎とは石川県立専門学校以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は加賀の三太郎と称された。(ウィキペディアから)


 冠雪した白山がくっきり、いいことありそうだ〜。


 金沢の21世紀美術館、やはり落ち着きがあります。


 ひっそりとたたずむ鈴木大拙館の正面入り口


 堂々たる江戸時代からの楠木、
大拙も登っていたかもしれない。


 回廊から途中、そとの庭を臨める


 回廊の先の壁に飾る、在りし日の鈴木大拙


 アメリカ訪問の際の、大拙。
 遠くを眺める立ち姿のバランスが見事だ。


 軸「無」


 松田館長を囲んで、左側が金沢工業大学の村井さん


仙がい、の書、四角三角円を描いていた。






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