DNDメディア局の出口です。先日の台風の日、心配になって電話すると、意外にも明るい声が返ってきました。『被災地からの報告』の取材で世話になった宮城県気仙沼市の三陸EM研究会代表、足利英紀さん(67)は、「いやあ、大雨、風も凄い、海水が溢れ、夕方から大潮だから、危ぶねぇ、市内には近づかねぇんだ。うん、街は水浸し、どうにもならない。せっかくもらった命だから。あの時、瓦礫に埋まった町や海沿いを出口さんと回ったでしょう。そこへは一歩も入れない」という。
東北の被災地に強風、大雨、それに大潮が寄せ街は水浸し、一宿一飯の恩義がある足利さんの気仙沼も冠水していました。地震で地盤が沈下し、大津波が海岸沿い砂浜をえぐった。この自然の猛威は、こうも容赦のないものか。これを非情というのだろうか、と天を恨みます。
気仙沼の繁華な場所での仮設店舗はどうなったか、えぇ、飲食店や理美容などなんとしても復興しようと立ち上がった商店主は50数人、お盆前にはオープンの予定です、という。周辺に人がいない。が、心意気を示したい、とい地元の商店主が腕まくりしているのだそうだ。足利さんの店も参加します。
さて、私の被災地からの報告余話は、3回目です。題材は、EM技術で地域貢献している足利さん、そしてある牧師さんとのインタビューです。岩手県釜石市で佐々木雪雄さん宅に2泊し、そこから佐々木さんのワゴン車で南下し、気仙沼に入ったのは5月12日午後3時半を少々回っていました。気仙沼では、足利さん宅に泊めてもらうことになります。足利さんとは初対面でした。
足利さんご家族も被災者でした。街の繁華な場所の一角にあった店舗兼住宅が津波で流された。何もかも失った。失意の中で、立ち上がり懸命にボランティアで街の再興に走り回っているのです。市内を見下ろす高台の気仙沼市赤岩の実家に身を寄せながら、EM技術の開発者で名桜大学教授の比嘉照夫氏の指導を実践していらっしゃる。被災した家々や路上の悪臭対策、学校やグランドのへドロの浄化、加工場の再建など尽力されていた。気を許すと、」悲しみが込み上げるが、もう涙も枯れて、拭く涙もないのかもしれない。命があるだけ幸せさ、と踏ん張る、そんな気丈な一人なのです。名古屋に本社がある「EM生活」が足利さんをサポートし、社長の比嘉新さんらが応援に入っていました。
ポツポツ雨が降ってきた。急ぎましょう、と足利さんにせかされて軽トラックの助手席に乗り込んだ。最初に訪ねた先が市立鹿折小学校でした。天井まで津波が押し寄せた。ヘドロと油にまみれて鼻を突くような悪臭が校舎の教室内や学校周辺の土壌からわき立っていた。が、EM活性液を大量にまいた。ヘドロを除去した。教員や児童らがEMの液をスクイズボトルで、シュッシュッとやった。それをシュッシュッ隊と名付けて楽しくやった。やがて、さっぱり悪臭が消えていた。こんな話は、※被災各地で枚挙にいとまがない。
※以下は、比嘉先生によるDNDで連載の『甦れ!食と健康と地球環境』の論文から抜粋です。「EMによる悪臭、水質汚染、その他諸々の衛生対策」:
本件について過去に阪神・淡路大震災でトイレ、下水、ゴミ集積場の悪臭対策はもとより、消毒液や化学物質の悪臭対策にEMが多方面で活用されました。以来、国内における地震や洪水等の災害にもEMは広く活用されています。また海外では台湾中部大地震やスマトラ島沖地震、四川大地震の際にも悪臭はもとより、諸々の衛生対策に活用されています。タイ国のように災害時の衛生対策としてタイ国軍や社会開発省が組織的にEMを活用するシステムを作っている国もありますが、その具体的な指導は、EM研究機構が行ない完全に機能するようになっています。本シリーズ「第30回EM技術による自前でできる危機管理」でも述べたように、EMは宮崎県で発生した口蹄疫の感染拡大防止と殺処分された家畜の埋却処理時の悪臭や二次汚染防止対策に決定的な威力を発揮しています。この成果は口蹄疫が大流行となった韓国でもいかんなく活用されており、感染拡大防止はもとより、300万頭余の殺処分された家畜の埋却処理に関する悪臭対策や二次汚染防止対策や様々な衛生対策に広く活用されています。≪「第39回:地震災害後のEM活用」から≫
こちらを見てください、書籍や重要書類をEMで処理しました、と足利さん。職員室や校長室の思い出の貴重な書籍などが、ヘドロにまみれたのをひとつひとつきれいにした、という。案内された部屋の床にぎっしり並べられていました。臭いがないのが不思議でした。帰り際、教職員の方々に廊下であった。みなさん。足利さんに感謝の言葉を伝えていました。足利さんの顔が輝いて見えました。
日が暮れる。雨は降ったり止んだり、はっきりしない。市内から港へ向かう途中、ここに家があった、と足利さんが言う。その角地は、瓦礫置き場になっていた。1階に3店舗、そのひとつが足利さんのEMショップ、2階が住まいだった。見る影もない。逃げるのに懸命で、何一つ持ち出せなかった。街は、鎮まりかえっていた。料理屋もバーも、お菓子屋も、カメラ店もスーパーも、1階部分を津波が突き抜けた。まるでゴーストタウンとなっていました。市内から気仙沼港に向かう。
悪臭がひどくなってきた。いやあ、体が凍りつく。無惨としか、言葉がない。瓦礫の撤去作業でやっと道が開いたところだ。津波の上を火が走った。火が燃え続けた。港町は焦土と化していた。雨の中、遺体捜索に休みのない警察官らは、福岡県警から、という。まだ800人以上の行方不明者の捜索に懸命だ。あれは?っと、指さしたのが、巨大な船だ。いきなり目に飛び込んできた。どうしたの?あれは、と足利さんに何度も聞いた。恐ろしいものを見てしまった。車を降りて歩いた。船の裏手で別の部隊が遺体捜索に取り掛かっていた。不気味に静まり返る。周辺を見渡すと、あちこちで鉄骨がむき出しのまま歪んで焼け落ちていた。心が折れそうになる。ともかく広い。想像を越えていた。全体像を伝えきれないのが、もどかしい。巨大な燃料タンクが、対岸から防波堤を乗り越えてビル建屋に突っ込んでいた。港で停泊の船が焼けて真っ黒だ。船が、幾隻も折り重なるように住宅街に押し寄せていた。なんという、光景なのだろう。
近づくと、そこに水産関係者が居合わせたので、いろいろ聞いた。陸に押し流された船は、サンマの底引き漁船6隻で、これが横倒しになると、解体しか手がないので左右から鉄骨で支えてバランスを保っていた。1隻190t級だが、実際の重量は450t近いという。解体か、移設か、損保関係者や水産関係者、漁業組合らの間で技術的問題の検討が繰り返されているという。海岸付近まで400m、クレーンでいったんあげて船体の左右を固め、船底にレールを渡してズリズリと移動させられるか、何かの拍子で横倒しとなる危険も大きいのだと、説明していました。船は、地元、宮城県、岩手の宮古、遠くは富山県からの船でした。サンマ漁船というから、よく船の中をうかがうと照明や網などの漁具がないので、これまた聞くと、シーズンが終わってそれら漁具は海岸の倉庫に預けるのだそうだ。が、この津波で漁具は倉庫ごと流されて破壊された。いやあ、これも大変だ。
その近くにフカヒレの加工場があります。そこも津波でやられた。足利さんが、フカヒレ加工場の早期、復旧を目指してEM活性液で繰り返し浄化し、再開のメドが立ったという。
港は悲惨な状態でした。どうするのだろうか。瓦礫は、とりあえずわきに寄せたが、これからどう処理するのか。また、電源が落ちて冷蔵庫の中の冷凍のサンマやイカが大量に腐った。腐った状態で路上に散乱していた。地震で、電気、ガス、通信のインフラが壊滅的打撃を受けていた。釜石から気仙沼に入る途中の大船渡の港でも同じだった。悪臭が鼻をついた。加工場から腐った冷凍魚の処理に手が回らないらしい。梅雨時期に入り、夏場を迎えたら、と足利さんは心を痛めていた。対岸の大島は、4日4晩火が街を焼きつくした。高台の足利さんの避難先から見えた。街は、四六時中、救急車のサイレンが鳴りやまなかった。
いやあ、異様な悪臭が漂う。まだ遺体がある、と足利さんは指摘した。気仙沼の被災者数は死亡925人、行方不明612人、避難4,509人(56施設)と地元の三陸新聞が伝えていた。ひとりの悲しみにどれだけの人が寄り添っていたか、そのひとりにどんな夢や楽しみがあったことか、それらひとりひとりの人となりを語り継がなければならない、と思ったら、気持ちが重くなった。
お年寄りが多い避難所生活はどんな状況なのか。やはり、三陸新聞が、宮城県内の避難所を対象とした食生活に関する調査結果をまとめていた。栄養の摂取が不足している避難所が約9割に達していた。たんぱく質が足りない。ビタミンCの欠乏も著しい。栄養量が確保されていない実態が明らかになった。調査は、震災の被害が甚大だった、気仙沼と石巻の両市、南三陸町など13市町の避難所を栄養士が巡回し、難所や食事の責任者などから食事の回数や内容などを聞き取って集計した、という。
それによると、避難所平均の1日当たりのエネルギー提供量は1,546キロカロリーで、目標とされる2,000キロカロリーを約23%下回った。摂取目標を満たした避難所は1か所もなかった。被災者100人以内の避難所で一日3回食事が提供されているのが79.2%だったのに対して、500人以上が暮らしている大規模な避難所は、1日食事3回が提供されているのが6割弱でした。食事への不満がささやかれ始めている。肉や野菜が極端に少ない。1日に2食しか提供できない避難所では、1食分の1部を残し、後で食べるという人も多いのだそうだ。食中毒の心配はないのか、と懸念されている。新聞は、きれいな水と満足な食事、温かい寝床、清潔なトイレという快適な生活を叶えてあげられないものか、と改善を望む声を紹介していました。やりきれませんね。
iPhoneのバッテリーが赤い表示に変わっていた。ソフトバンクのショップに入った。充電しながら、facebookにそれまでの一部を記事と写真をアップした。それを終えると、急にお腹がすいてきた。佐々木さんの奥様、さか子さんから手渡されていたシャケのおにぎりをほおばった。ふう、一息ついた。
足利さんの避難先は、奥様、和子さんのご実家で、庭のある瀟洒な邸宅でした。食事は、和子さんご自慢のカレーライスでした。ご子息の裕紀さんと一緒にごちそうになった。美味しかった。かわいらしい奥様に行儀のよいご子息、足利さんは幸せだなあ、と感じ入ってしまった。裕紀さんは、津波で泥まみれになった家族のアルバムをEMで処理したあと、パソコンで傷や汚れを修正し、見違えるようなアルバムに仕上げていました。夜遅くまでやっているので、寝るとき、彼に「長くやると目に障るから、気を付けてね」と声をかけた。「ハイ、そろそろ休みます」ときれいな声で返事していました。
その夜、さすがに疲れた。佐々木さんのお家でもそうだが、奥座敷のいい部屋を用意してくださった。かたじけない。が、なんだか、興奮して眠れない。そのため、布団に入ってから3時間、facebookに情報をアップした。夜中、激しく雨が降った。朝4時半に地震で目が覚めた。それから2時間、iphoneからfacebookに記事をアップしていた。
朝、洗面を済まして食卓についた。庭の原木から採ったシイタケのバター焼き、コゴミの和え物、ほうれん草のおひたし、お米も、味噌汁の味噌も、みんな無農薬のEM栽培だから滋味が口に広がり、体が楽になってくるようです。
さあ、ご家族にお別れです。ご挨拶にするのに家の中に和子さんの姿が見えない、と思ったら、玄関先で、屈んでなにやら箱詰めしていた。軽トラックに乗り込むとき、これっ!と手渡してくれました。箱の中に、EMで育てた黄色いミニトマト、ナス、万願寺とうがらし、それにピーマンの苗だという。うれしい、うれしい。佐々木さん宅から、グミの木や、グスベリの木、そして行者にんにく、エシャロットをいただいていたから、まるで行商人のみたいになったかもしれない。ずっと、手を振ってくれました。
これから幼稚園に向かうという。道すがら、道路わきで老夫婦が腰を曲げて田植えを始めていた。車から降りて「写真を撮ってよろしいか」と、ご婦人に声をかけた。どうぞ、どうぞ、というので撮った。きれいな表情でした。82歳という。生きていたら父と同じ年齢です。頬かむりにもんぺ姿だが、周辺の山間に溶け込んだ心和む風景と思った。目元が涼やかな美人でした。「どちらから?」と聞くので、「取材できました。東京からです」というと、こちらを向いて、「ご苦労様です。大変ですね、いやいや」と、恐縮した様子で、しきりと頭を下げていた。里の方々は、なんとお優しいのでしょう。
さて、気仙沼の最後の訪問は、気仙沼市反松の愛耕幼稚園でした。近くの汚れた川の浄化のために、EMだんごを園児らが投げ入れる、そんな環境浄化に取り組んでいるのです。それを指導しているのも足利さんでした。
大震災で市内中心部の大きな幼稚園がいくつも流された。犠牲者も出た。3月は、ちょうど園児の卒園と4月の入園の入れ替えがあります。この幼稚園も園児の自宅が流された。廃園となった幼稚園の園児の受け入れなどその対応に追われた。そのため、被災した園児の入園料を無料にした、と園長の臼井嘉男は穏やかに言う。臼井さんが、日本バプテスト気仙沼教会の牧師さんでもあります。せつかくですので、臼井さんにインタビューをし、震災と信仰などについて聞いた。そのやり取りを載録します。信仰者として、この震災をどう受け止めるべきなのか。そのヒントを得られるでしょうか。臼井さんは、丁寧に言葉を選びながら、ご自身の宗教観、震災における信仰者の矜持などを語っておられました。
■ ■ ■
編集長‐この未曾有の大惨事をどのように解釈すればよいのでしょうか?
園 長‐私、地学のほうは素人ですからチンプンカンプンで分かりませんけど、近代科学や技術がこれだけ進歩していろんなことを知っていながらどうして海底の変化について地殻変動について予測が正確にできないのか。そういう思いがありますね。
それから、想定外という言葉はずいぶんな言い方だと思いますね。使い道は立場によっては、使っていい人と使っちゃいかん人というのはあると思うんですけどね。これだけ技術革新が進んだ中で、なぜ予測ができないのか。で、多分予測はできているけどもそれを学問の世界で発表するのと全体の政治的な状況、民衆の動揺とかも含めて判断するのとは違うのだろうなとは思いますけどね。の煎じ詰めていけば、これは個人の問題で、人間の傲慢は避けて通れない現実があるだろうとは思いますけども。で、そこでそれをどう乗り越えていくかということはやっぱり、課題だと思いますね。
編集長‐人間のもっている傲慢さですか?
園 長‐それが原因だったと、言っているのではなく、それは避けて通れない現実だと、それで、その科学技術だけを頼るということにたいする警告みたいな意識はずっとあったわけですけれどもこのような形で示されると、ぶつけようがない。
編集長‐日本の7歳の女の子がバチカンのローマ法王に質問しましたね。なぜ、こういう震災が起こるんだろうと。ローマ法王は私にも分かりません、ただ、そういう問題を投げかけることは大事だ、というようなことをおっしゃっていて…。
園 長‐誰にも分かりはしないだろうとは思いますけども。
編集長‐起こる現象等々について、また、それに対する対処の仕方についてもそれはある意味、宗教の持つ役割にかかわるのではないでしょうか。
園 長‐それはそうでしょうね。
編集長‐10日間以上も電気も水道も無い。親を失い、子供を亡くし、仕事も奪われた。二重ローンに、この先どうしていけばいいか見当すらつかない。仕事がないなら、現場の瓦礫処理の仕事なんかやればいいんじゃないかって言う人もいるが、気持ちが折れちゃっていて、日にちがどんどん増すごとに滅失した気持ちがどんどん深まっていきます。我慢してね、すると穏やかだった表情が、最近では表情が消えてしまって・・・。
園 長‐緊張の内容が別なものに移ってきましたね。
編集長‐質が変わってきましたよね。例えばそういう人たちや、ある人は自殺が増えるんじゃないかという、不安や、絶望が、それが怒りに変わればいいんですが、怒りをさっと通り越して別なところに行ってるんじゃないか。盛岡から南下して今日で4日目なのですが、ホントにどうにもならない。私ですら精神的に落ち込んでしまう。
園 長‐そうでしょ
編集長‐こういう状況に対して、どうすればいいでしょうか。
園 長‐人間は二本足で歩き生き物ですから、今必要なもの、政治的な生命維持のためのサポートをしっかりしてもらわなくてはならない、連帯、隣人愛の実践ということも含めて、それが大事だと思うんですね。同時に、それぞれの宗教が確信するところを持って励ますとか、ケアするとか色々なやり方がありますけども。人間、政治的な現象だけで生きているわけじゃありませんから、意味の世界をきちっと知覚して賦与することを助けすることですね。何の善悪の結果なのかは、法王さんと一緒で分からない。ただ、これだけの状況の中でもなお、信仰がね、試されていることも事実でありますから。それは本人と神様の問題ですけどね。
編集長‐信仰が試されていると。
園 長‐信仰者にとっては試されていると思いますね。
編集長‐それは他人に対してどうであるかではなく、自分でどう受け止めるかという課題を突きつけられた感じなのでしょうか。
園 長‐ですから、絶望の問題としてキェルケゴールは自分自身に絶望するのと、神の助けに絶望するのとでは男性的な絶望と女性的な絶望と表現していますけどね。たとえ自分に絶望したとしても神の助けに絶望しないということがあれば救われるだろうとおもいます。
編集長‐キェルケゴールといえば、うろ覚えですが死に至る病といった実存主義の創始者ですね。しかし、どうなのでしょうか。そういう哲学を超えた宗教的理念が、残念ながら戦後65年の歴史の中で本来もっと日常的に語られるべきだったのに、経済的な豊かさに、また科学技術への傾倒が加速し、いつの間にかそれらの本質を忘れて傲慢さが蔓延してしまった?
園 長‐旧約聖書の創世記をもう一回振り返ってみると、あれが書かれた時代の自己理解も、今突きつけられた中での自己理解の仕方についても、あまり違わないんじゃないかと思うんですけどね。ソドム、ゴモラの神様が裁いた道徳的な腐敗に対して整理するということであったわけですが、その中で逃げる途中で後ろを振り向いたら塩の柱になった。塩の柱になったということは役に立たないものになったということ、それは過去を振り返って、過去にとらわれた、ということが未来を失ったというわけですからね。
そういう意味では我々は過去にとらわれる、あの時は良かったというだけではすまないとおもうと、もう一回創世記を読み返してみたいけど、世界も、イスラムの世界はあれは祖先の世界の理解として啓示として受け止めている世界ですけどね。キリスト教も旧約聖書もキリストの救済の予言、あるいは予兆あるいは準備として聖典の中に入っていますけどね・・・。
編集長‐う〜む、確かに…。もう少しお聞きしてよろしいでしょうか。これは個人的な実感なのですけれど、欧米やアジアでも大惨事が起きて被災した場合、みんな祈るじゃないですか。9.11の時もそうでした。日本人はどうでしょうか。日常的に祈るという意味での宗教的な連帯が断絶していて・・・。
園 長‐全体を見ればそうかもしれないけど、部分的にはあります。私も家内の親達の兄弟たちは熱心な浄土宗の信者達もいますが、彼らは日常的に祈っていますよね。経をあげるという意味でも礼拝しています。皆さんはというと僕は知らないんですけども、僕はクリスチャンの世界で生まれ育っていますからね。ただ、今ここで忙しいのはお寺さんが忙しいです。それはお葬式で忙しいんですね。そのお葬式で忙しいお寺さんが朝の行を怠っているか知りませんけど多分やっていると思いますね。だけども、一般の人たち一般の檀家、信徒の人たちはそういう訓練をされていないというのも事実ではないか。
そういう意味では生活が豊かになると宗教的な熱心さが消えていくのは必然なんですが、朝鮮の人たちも韓国の人たちも熱心なんですよ。そのなかで経済的にだんだん良くなってきたら、かつての熱心さと違った部分が来て、それは信仰の危機だと言っていますね。それは韓国だけでなくて日本でも同じ、どこだって一緒だとおもいますけどね。
編集長‐さて、突然の訪問で、貴重なお話をお聞かせくださり感謝いたします。どうぞ、復旧復興にむけて多くの方々を勇気づけてくださることを期待いたします。ありがとうございました。
園 長‐いえいえ、わざわざ遠いところお出でくださいました。こちらこそ、いいお話ができました。どうぞ、お気をつけて取材を続けてください。
※愛耕幼稚園は、大正05年、気仙沼バプテスト教会(大堀町)の保育園として創立、昭和11年、愛耕幼稚園と命名された。歴史のある幼稚園でした。
さて、この連載も気仙沼からさらに南下し、石巻、女川、仙台へと続きます。
■ ■ ■
どんより、白く垂れ込める雲、ひんやり、戸外は身震いするような冷え込みです。なんだか湿っぽい。梅雨とはいえ、切ないくらいの空模様が続きます。思い出さずにいられません。それは、無理でしょう。こんなことなら、思い出したらすぐに込み上げてくるのなら、いっそ飛んで行ってさ、ひと声かけてあげればよかったかもしれない。まもなく告別式が始まる時間でしょうか。棺の中から会場をうかがって僕がくるのを待ってはいないだろうか。僕は行かない。行ったら、メルマガじゃないのかい、って言われるに違いない。それもそうだが、最後のあいさつなんてしたくないべさぁ。
これもつい先日、栃木県日光市の鬼怒川温泉入り口で、ウエスタン村の元オーナー、大南兼一さんが脳出血で逝去し、先月29日に家内と葬儀に参列しました。大南さんとは、昭和53年5月、ウエスタン村オープンの取材が縁で、これまで33年間のお付き合いになりました。享年65歳でした。
その翌々日の午後のことでした。書斎に携帯が鳴り、息子が電話を手渡してくれた。電話は切れていたが、留守電が残されていた。表示が札幌の市街番号の011−で始まる見覚えのない番号でした。う〜む、もうそれでピーンときた。すぐに胸騒ぎがした。心臓が高鳴ってくるのがわかる。
先週の土曜日の28日午前10時36分に、札幌の原田さんに携帯に電話した。留守電だった。が、夕方でも連絡が入ると思っていたが、折り返しがない。いままで、遅くても1〜2時間後に律儀に返事をくれた。「もしもし!ハラダですっ」といつも元気がいい。それでやさしい。どうして電話がないのだろうか、いぶかったが引っ越しや、大南さんの葬儀などが重なって、再び電話する状態ではなかった。
「お世話になっております、札幌の原田裕の娘の由美と申します。あの、父が事故で亡くなりまして…またご連絡させていただきます。失礼します」
札幌のハ…のところで、もう電話の意味、返事がない理由を察した。体から力が抜けた。ショックでした。信じられない。これから楽しいことがいっぱいあったのに、いやあ、なんで、こんなことになるのさ。
4月は雨が多くて畑がぬかるんでまったく畑を耕せないのさ、こんなに雨が降るなんて珍しい、いやいや、まいったなあ、作業が進まないのさ〜。北海の訛りで、やんや、と言った。もう、それ以来、涙があふれてとまらない。こんなに泣けるものだろうか、と思うくらい泣けてくる。
おそる、おそる、電話したら、石狩の厚田村に近い畑で27日午後、トラクターを動かしていて転倒したらしい。うつぶせになっての圧死でした。背中にトラクターがのしかかったのが致命傷になった。
僕が電話したのが28日午前10時36分だった。黒い大地にうっぷして、しばらくどんな夢をみていたのだろうか。二人で、タラの木を10万本植栽する計画をたてていた。う〜む。我が家に、乾燥よもぎ、庭に山わさび、ふきが植わっています。夏には、ニンニクの収穫を楽しみにしていた。札幌に行ったら毎回、いきつけの創作料理「ジャンボ」で北海道の幸をたらふくごちそうになった。昨年の秋、今年の冬には、二人で日光の温泉に泊まった。写真も撮った。ビデオも撮った。気持ちが平らかで遠慮がちにものをいう。5つも年下の僕をかわいがってくれた、ありがたい兄貴でした。享年63歳でした。
出会いは、学生の18〜19歳の頃、草加の下宿で何度かあった。産経に就職が決まり、北海道の根室に帰省する際、一足早く札幌に舞い戻っていた原田さんの下宿に泊まらせてもらった。それ以来、音信が途絶えていた。それが、産経新聞本社に電話をし、「出口俊一さんという人と連絡がとりたい」と連絡をしてきた。会社を興し、従業員にも恵まれ年商が5億円まで成長してやっと顔向けできるまでになった、と笑っていた。そして数ケ月後、会った。10数年前のことでした。それから頻繁にある機会にめぐまれ、ここ数年は、年に数回、会った。電話は、毎週欠かさずやり取りしていた。
苦労人だが、懐深い人情家でした。かけがえのない友人を失った。気が遠くなりそうです。昨日、通夜、本日、告別式でした。大勢の祈りの中で旅立ったことでしょう。いけなくてごめんね。探したかい。行ったら、泣いてばかりで立ち上がれる自信がないです。お別れの言葉なんて嫌だし…。
そもそも葬儀に行ったらメルマガ大丈夫かいって聞いたでしょう。いや、メルマガの邪魔をしたら、悪い〜と言うでしょう。だから、泣きながらでも、書いたのさ。メガネが曇ってしょうがない。
僕のメルマガのファンでした。毎回、毎回、連絡をくれた。凄いしょや、いい、いい、よくわかる〜と言葉少なにコメントをくれた。木曜日にずれこむときは、それも気にしてくれていた。パソコンが苦手だったから、サイトにアップした後、それをプリントして読んでくれていた。
奥様の典子さんが、出口さんとお会いしたことや、電話の事をいつもうれしそうに話してくれていました。あんなに元気で、先日は、東北だってさ、というから、何がって聞くと、いま出口さんが東北の震災の現場に行ってるのさ。いやあ、大変だわ、メルマガ読めば、よくわかる、という意味のことを口にしていたらしい。うれしいね。
純朴で、愚直で、一所懸命な人のために、そして僕のメルマガを楽しみにしてくれる人のために、書いているのです。いや、こういう人がいるからこそ、書き続けられるのかもしれません。これからも優しく見守ってくださいね、ありがとう、原田さん。
このメルマガは、故郷の大地に逝った、あっ晴れな原田裕さんに捧げます。
合掌