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足利のココ・ファーム創設者、川田昇さん逝く

 ・「弔辞」:劇的な人生に鮮やかな言葉
 ・『文藝春秋』1月号の弔辞特別企画の圧巻
 ・中島粂雄氏が詠む「弔辞」と「森への木戸」
〜連載〜
 ・塩沢文朗氏「ハーグ再訪−OPCW将来構想委への参加」
 ・橋本正洋氏「イノベーション戦略と知財:商標三極会合」
 ・比嘉照夫氏「EM技術による天然記念物や老齢木の保全」
 ・山城宗久氏「一隅を照らすの記:4回目のトラの巻」
 ・張輝氏「中国のイノベーション:温かいスープで新年を」

DNDメディア局の出口です。この底冷えは、クリスマス寒波で年末年始は大雪が列島を包み込んで大荒れという。こちらはオフィスでひとり、身悶えしながらPCに向かっています。脳裏に浮かぶフレーズを打ち込んでは消し、消しては打ち込むというさっきからこのなんとも疎ましい作業を繰り返しています。どのような形相でやっているのでしょうかねぇ、一度、天井裏からでものぞいてみたい。


 文字をつないで同じ段落を行ったり来たり。それでも飽きずにカブトムシのようにピクリとも身動きせず一心不乱に打ち込む姿は、異様かも知れない。さらっと、あるいはすらすらと書くということなんか、これまであったためしがない。呻吟しながら、それでも書き続けるのは、これはいったいなんなのでしょうか。


 こんな作業を毎週やって9年目に入りました。その後遺症がジワリ、すり寄ってきます。右手の薬指の付け根が硬く筋張ってきた。姿勢はすっかり猫背で、頸椎が重苦しい。視力がさらに落ちた。極度の近眼だが遠視がみられないのは幸いかもしれない。この夏頃から、左足大腿部の裏側の筋肉が硬く痛い。椅子の座りすぎだろうか。椅子から立つと、痛みで足を引きずるようになる。マッサージか、軽いストレッチで完治する、と思って医大付属の病院へいくと、MRI診断を勧められ、昨日受診した。軟部腫瘍の懸念があるらしい。そんなこんな不安を抱えての年の瀬です。


 それでも書いていられるのは、やはり好きなのだろうか。時折、さっさと終えて映画館に走り込みたい衝動にかられます。が、窓辺から見下ろす神田川、隅田川の川のある風景が癒しになるのと、心に沁みるツルノリヒロさんのCDのお陰かも知れない。気持ちが穏やかでないと、文章に集中できるものではないのです。


 ツルさんのアルバムの中から「Thousand Dreams of Deserts」を選び、「沙漠の彼方に」や「生命の木」を聴きいていると、いつの間にか捉えるべき対象の輪郭がおぼろげに見えてくるのです。本年最後のメルマガは、「弔辞」です。


 不思議と、今年は、いろんな人との別れがあった、というのが実感です。暑いこの夏に父が逝った。それを書いたら、学友や知人らから偶然にも時期を前後して、ご尊父が死去したことを知らされた。さて、愚息らは平凡だが偉大な父の亡骸に対峙してそこでどんな追憶を語ったか。その言葉ひとつが弔辞なのだと思う。


 数日前、友人の橋本正洋さんからメールがあり、文藝春秋1月号の弔辞特別企画は圧巻だったことに触れて、「近藤紘一氏を送る司馬遼太郎の弔辞を読んで近藤氏という優れた記者の存在と、司馬遼太郎が産経新聞出身で、出口さんの先輩であることを初めて知った」と語っておられた。


 司馬氏は、勿論のこと、近藤さんも私にとって遥か遠い存在です。同じ産経と言っても月とスッポン、司馬氏や近藤氏と私の名前を同じ行に並べることすら憚れます。近藤さんとごく親しい同期のHさんが、かつての私の上司で、近藤さんの消息を聞くとなしに耳にすることがあった。記者として敏腕で文才に長けているとはいえ、それが社内でそれなりの境遇にめぐまれるか、というとそこはどの組織もあるように複雑な人間模様が絡んで一筋縄ではいかないようです。


 文藝春秋の弔辞特別企画は確かに読み応えがありました。冒頭の司馬氏による弔辞は、「近藤紘一君、生死というのは仮の姿でしかありません―」で始まり、ひとりの人生のもっとも輝かしいエッセンスを凝縮して引き出すような印象がありました。「弔辞 劇的な人生に鮮やかな言葉」の見出しの通りでした。


≪語りつくせぬあの楽しき日々 万感込み上げる涙と思い 伝えられなかった感謝の言葉 弟子から師へ、友から友へ、最愛の人へ 人生最後のときに捧げられた、45の珠玉の辞≫


 と、紹介された45編の弔辞の後に、元朝日の河谷史夫氏と読売の現「編集手帳」担当の竹内政明氏の新聞コラムニストの腕利きのお二人が、これら弔辞の企画について対談しています。


 河内さんが、「司馬遼太郎は、やっぱり弔辞の名人だと思うね。近藤紘一へ捧げられたこの弔辞は見事なものです」といえば、竹内さんは、「かなりの長文なんだけれど、長さを感じさせないですね」‐と呼応する。興味深いのは、その次の下りです。少し引用しましょうか。


≪河谷:思えば、彼はずっと日本への弔辞を書いてきたんですよ。坂本龍馬に始まって近藤勇、土方歳三から、信長も、秀吉も、家康も全部、彼の日本史に対する壮大な弔辞でしょう。『坂の上の雲』も、ああいう人たちの存在を初めて知らしめたわけです。司馬遼の意味というのはそこにある≫
≪竹内:司馬文学が弔辞であるとでもいうか……。≫
≪河谷:そう。司馬遼太郎はやっぱり最大の弔辞作家だと思うねぇ。開高健にも弔辞を送っているけど、司馬遼って開高健とそんなに親しいわけじゃないのに上手い。司馬遼ってやっぱり人たらしだよね。死んだ人までたらしちゃう(笑)≫


 う〜む。弔辞ひとつでここまで語るのですね。歴史を透徹するコラムニストの眼は、鋭い。それにいいやりとりじゃないですか。対談もここまでズバリ核心をついてくれると、読んで楽しい。恐れ入りました。


◇                           ◇


■足利のココ・ファーム創設者、川田昇さんが逝く
 しかし、こんな偶然もあるのですね。その21日は、「省エネ・エコ住宅」で勢いがある「桧家住宅とちぎ」の集まりで午後から栃木市の会場に入っていました。そこへ家人から電話で、ココ・ファームの川田さんが亡くなられたそうよ、22日が足利のココ・ファームで告別式です‐との一報をもらった。告別式の日は、朝早く名古屋大学VBLでの講演のため、新幹線で名古屋にむかわなければならない。新幹線は一路西へ、その裏腹に気持ちは東へ。体と心が引き裂かれそうでした。



ありし日の川田園長=足利担当記者時代に筆者写す。
※よく保存していたものです。


 さて、名古屋大学での全国コーディネート活動ネットワークでは、少人数ながら熱心な意見交換ができました。中部地域の熟達のコーディネータの皆さんを相手に、この統括役の前田裕子さんをはじめ、経産省の進藤秀夫さん、文科省の橋爪淳さんらが新しい施策の説明を行い参加者の質問に答えていました。名古屋大学からは、副総長の宮田隆司さんが各大学の取組事例に熱心に耳を傾けていました。私の講演は、メディアの新しい現実の構図を捉えたつもりでした。どこまで共感が得られたか、どうか。やはり落ち着かず、交流会も中座して急ぎ東京へ戻りました。


 以前にも紹介した知的障害者厚生施設「こころみ学園」の創設者で園長の川田昇さんが老衰のため、17日午後11時38分に死去、享年89歳でした。お誕生日が12月18日でした。


 川田さんのような人を立派な先生と呼ぶのでしょう。その半生を、知的障害者の自立に捧げました。彼らの柔らかな手を触って、これではいけない、と思いたち私財を投じて山林を買い、知的障害の彼らと開墾した。わざわざ人里離れた場所を選んだのは、そこの土地が安いからでした。


 こんな風に書けば簡単だが、実際は難儀を極めたようです。川田さんの自著『ぶどう畑の笑顔』によると―。


 ココ・ワインの醸造場の東に広がる葡萄畑に、最初の鍬が入ったのは昭和33年頃でした。知的障害のハンディを持った36人の中学生らは、本物の勉強と生き方を求めて未開の山に入った。雑木林を切り開き、平均36度の急斜面に600本の葡萄の苗を植えた。


 炎天下で草を刈り、凍えつく中で石を広い、落ち葉を集めて、たい肥を作り、それを背負って急斜面を這い上がり、力のある葡萄の木を育て上げた、という。


 自然は、ひたむきな子供たちに確かな力を与えた。子供らは、その力で今度はより大きな自然の恵みを引き出すことを学ぶ。川田さんは、そこでこう力説するのでした。


 「子どもたちは、もう知恵遅れの子ではなくて、どんな辛いことも平気でやりぬく勤勉な一人の青年であり、自信に満ちたもの言わぬ誠実な農夫になっていた」と。いつしか、その柔らかな手は、一変し逞しい男の働く手に変わったのです。


 思えば、この学園には興奮すると歯型がつくほど噛みついたり、一分もじっとしていられなかったり、凶暴な子や沈黙する子、それにあちこちの施設で見放されたあげくここで救われた子も多い、という。川田さんは、この人たちに対して、職員と入園者を差別しない。自然の中の質素な生活を大切にする。労働を大切にする。そして、地域の協力態勢を強化する‐の4つの基本的な考えに基づいて学園を作り上げていった。(中島粂雄著『ういんどみる物語』「地方からの風」の章)から。


 その山林が、いまや安らぎのぶどう畑になって毎年秋の収穫祭には日に1万人を越えるお客さんでにぎわう。今年秋にほぼ30年ぶりに家内と足を運んだ。それも2回も。後継のお嬢様の池上知恵子さんが気さくに出迎えてくれました。その時も感じたのですが、知的障害の子らの個性が十分に発揮できる場所を用意してきた細やかな配慮のひとつひとつが、胸を打ちました。園生らが暮らす寮の中も案内してくれました。


 食堂の壁に、何枚もの写真が貼ってありました。何気にながめていると、お年寄りの女性の園生が、これがわたし、と指をさす。屈託なくないおだやかな表情をこちらに向けていた。つい笑顔がこぼれます。もう、長いことこの学園で生活してきた。70をちょいと過ぎたぐらいじゃないかしら。川田さんが、手塩にかけた園生らに高齢化の波が容赦なく迫る。川田さんの祭壇は、この中に設営されたそうです。


 僕に翼があれば、足利の里に飛んであの葡萄畑を真下にうかがいながら、空からそっとお見送りしたかった。冬至の22日は、空気が澄んで小春日和に恵まれた。心配した前夜来の雨がやんだのは幸いでした。柩の中の先生に最後のお別れです。その時、木々が揺れ一陣の風が、深い谷あいを駆け下りていったらしい。


 きっと冬枯れの森でそろそろ眠りにつくはずの神々とて内心穏やかではなかったのでしょう。知的ハンディを負う園生らの祈りの姿が多くの参列者の涙を誘った。葬送の意味は捉え難いが、悲しみの深さはピュアな命に響き合うもののようです。参列者は1000人を超えていたそうです。


 川田さんの生涯は、今日的には社会起業家の走りかも知れません。それにしても国からの助成金や補助金をもらわなかった理由は、うちがもらえば他がもらえない‐という言葉でした。自立支援の要諦は、支援する側の補助金離れの大切なところを教えているような気がします。


 東京に戻って、まず第一に連絡したのが地元のタウン誌『渡良瀬通信』の編集長、野村幸男さんでした。通夜に行ったら、中島さん夫妻を見かけた、というのでその次に中島さんに電話した。すると、その川田さんご逝去の前後の動きを教えてくださった。弔問客は、あくまで到着順で焼香してもらい、その肩書で区別しなかった。これが川田先生の流儀と思う、と中島さんの口調は明確でした。


 中島さんからすぐにFAXが入りました。池上知恵子さんと越知真智子さんの連名になる会葬の御礼、この4月川田さんが吉川英治文化賞を受賞された時の川田さんの経歴、それに受賞の言葉でした。受賞に際して、川田さんは、戦地から生きて帰って、そのため帰らぬ人となった学友に申し訳ない。もらった命だから、悔いのないように生きたい、と思ったなど当時の心情を語っていました。そして、「園生たちも歳をとりました。これからしばらく、福祉の仕事は、ますます困難になっていくことでしょう。ワイン熟成にも長い月日がかります。どうぞ、末永く見守って下さいますようお願いします」と結んでいました。私には、遺言のように感じられました。


 中島さんのFAXは、あと2枚続きました。その1枚が、「弔辞」でした。


≪…あれから41年、今日の「こころみ学園」や、森と沼のある谷、そこで創られる人々の苦悩や怯えを癒す不思議な味の極上のワインを、誰が予想し想像できたことでしょうか。
 「こころみ学園」が始まった頃、みんな半信半疑でした。たしかに良い事をやっている、でも実現は不可能だと思っていました。川田先生の大風呂敷だと思っていました。しかし、それは違いました。先生の夢は着々と実現され、さらに新しい夢が広がっていきました。遠目で見ていた人も応援してくれるようになり、初めは迷惑施設と考えていた人たちもこの場所が自分たちのかけがえのない「宝もの」であると思うようになりました。
 これを人々は奇跡だといいます。しかし、本当の奇跡は、「こころみ」が障害のある人が地域社会から助けられる施設ではなく、地域を元気にし、人々を幸せにする真の「厚生」活動の起点になったことにあります。
 人々に夢と希望を与えてくれた川田昇先生、本当に、本当にありがとうございました。どうか安らかにおやすみください、そして在天の星となって我々をお導きください。


 平成22年12月22日


社会福祉法人こころみる会理事   中島粂雄   合掌     ≫


 いやあ、中島さんの弔辞を打ちながら、なんども目頭が曇って、文字が霞んで困ってしまった。本当の奇跡は、障害のある人が助けられる施設ではなく、地域を元気にする活動の起点になったことだ、と喝破されていました。


 そしてもう1枚は、「森への木戸」と題した詩でした。


森への木戸               中島粂雄


鉄扉を開けるとその先は森だ
冬至の日、その男はそこから森に帰った
爽やかな笑顔で

秋晴れの明るい日差しのなか
九十歳の生涯を数分のこして
軽やかに立ち去った

それはなんの未練も悔悟もない
見事な一生だった
自分自身を生き終えた男の顔

指名焼香お偉いさんの弔辞も無く
ただあるのは、その男の一生の見事さだけ
お葬式で生きる元気をもらうなんて

やはりあの男は並ではなかった
この緑の森にも陽はまた昇る
しかも明日からは少しづつ長くなる


 中島さんは、足利商工会議所の専務理事を30年務めるなど地元のまちおこしに命を賭けたといっても言い過ぎじゃないほど、それを自らのライフワークとして数多くの成果を残しました。地元にとって有為な存在であることは確かです。その一環として特に「こころみ学園」の発展にはひとかたならぬ支援をおしみませんでした。理事のひとりであり、沖縄サミットでココ・ワインの「NOVO」がデビューできたのも、そのスパークリングの物語性もさることながら、世界のソムリエ、田崎真也さんがたまたま雑誌の撮影か何かで偶然、足利を訪ねた折に機転を利かせて、ココ・ファーム・ワイナリーでの昼食をセッティングしたのが事の始まりでした。ココ・ファームの"奇跡"は、偶然に起こったのではなく、中島さんの思慮深い演出があったわけです。設立当初から、その最後まで表に裏に川田さんのよき理解者として支えたのが、地元の応援団長、中島粂雄さんの真骨頂でした。お疲れ様でした。


◇                 ◇             ◇


【連載】以下の連載はすでのサイトにアップ済みです。


【連載】塩沢文朗氏の『原点回帰の旅』は第73回「ハーグ再訪−OPCW将来構想委への参加」です。オランダ・ハーグで開催の極めて重要な会議の参加報告です。「化学兵器禁止機構」(OPCW:Organization for the Prohibition of Chemical Weapons)の将来構想諮問委員会にメンバーとして出席の要請を受けての報告です。こんなこともあるのですね。きっと、感無量だったことだと推察します。
http://dndi.jp/17-shiozawa/shiozawa_73.php


【連載】特許庁審査業務部長、橋本正洋氏の『イノベーション戦略と知財』第37回は「第9回商標三極会合」です。橋本さんが議長の大役を無事にこなされての凱旋です。台風の目となる中国の不参加が気になりますね。
http://dndi.jp/21-hashimoto/hashimoto_n34.php


【連載】名桜大学教授、国際EM技術研究所長、比嘉照夫氏の『緊急提言、甦れ!食と健康と地球環境』の第36回「EM技術による天然記念物や老齢木の保全」。冒頭、懸念が大きいトリインフルエンザについて言及し、「畜舎や飼養の管理にEMを活用することで、感染を防ぐことが明らかとなっていたが、この根幹はEMが強い抗ウイルス作用を持つことと体内に入ると免疫力を強化するというEMの機能性によるものである。現在、騒がれているトリインフルエンザも同様な方法で対応が可能である」と喝破されています。
http://dndi.jp/19-higa/higa_36.php


【連載】東京大学産学連携本部副本部長、山城宗久氏『一隅を照らすの記』第33回「4回目のトラの巻」。日本が米国と戦争を行ったことを知らない日本の若者が増えていることを捉えて、改めて日本の歴史教育の再構築の必要性を感じますーと指摘し、ジョン・ダワーMIT教授著の『敗北を抱きしめて』を紹介しています。原題は"EMBRACING DEFEAT"なので、忠実な和訳タイトルという。タイトルのトラはご自身の干支、今年が4回目だったそうです。
http://dndi.jp/22-yamashiro/yamashiro_n33.php


【連載】技術経営創研代表の張輝氏『中国のイノベーション』の第40回「温かいスープで新年を迎えよう」です。面白いですね。2400年前のスープ発見のニュースから掘り起こし、「日本スープ協会http://www.soup-japan.org/)」が存在し、ちょっと確認したらなんと12月22日がレタスクラブネットの「スープの日」だという。クノール、朝のスープシリーズ、クリームスープ、わかめスープなど、寒い冬の季節に熱々スープの湯気は人の心を温めてくれそうな気がするーと、スープだけにホットなお話し。どうぞ、よいお年をお迎えください、とメッセージも付け加えていただきました。
http://dndi.jp/16-tyoki/tyoki_40.php


【ご挨拶】
 大雪警報ですが、さて、年末年始はどうでしょうか。あんまり雪は歓迎しませんね。しかし、雪の朝は、雪が下界の雑音を吸収するらしくシーンと静まり返ります。雪がどのくらい降ったかは、外を見なくても静けさの度合いでうかがい知れます。雪国で育ったらきっとこのような幼い頃の寝床の記憶があるのではないでしょうか。降り続く雪害も恐ろしい。北海道最東端の根室の知人に聞くと、ここ数日は寒波が襲い釧路へと結ぶ国道は視界ゼロの猛吹雪で、車の横転事故が数十台に及んでいる、という。知らぬ間に白魔が牙をむく。今年1年、たくさんのご声援やご注文を賜りました。ありがとうございます。どうぞ、皆様方にたくさんいいことがありますように。新年もよろしくお願いします。


DNDメディア局編集長 出口俊一
DNDメディア局一同


平成22年12月25日


記憶を記録に!DNDメディア塾
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