DNDメディア局の出口です。久しぶりにクラスメートと過ごした夕張でのひととき。そこで人というものは記憶の中でしか生きられないのだなあ、と感じ入った。記憶を記録する、その終わりのない作業が今週も続きます。
夕張といえば、炭鉱閉山、街の破綻など暗いイメージがついて回るが、自慢はメロンやスイカ、トウモロコシといった豊穣の恵みばかりではない。夕張に足を踏み入れて野山周辺を歩いてごらんなさい。四方を囲む山の稜線はなだらかで美しく、手つかずの深い森には癒されるし、水量が豊かな清流にたくさんの魚が棲み、のびやかな景観には息をのむことでしょう。また砂金が採れるし、アンモナイトの化石も発見できる。農家の畑の一角で石斧など縄文時代の石器が見つかるのは珍しいことではない。そんな時空を超えた古代ロマンへの誘いも魅力だろう。楽しみの多い山村なのである。
楚々とした草花は朝露に光り、空は神々しく七色の夕焼けに染まる。漆黒の夜は満天の星…昔の姿を今に伝える夕張、その続報です。
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その後、仲間からメルマガの感想が寄せられた。彼らの思いが心に沁みわたるようだった。それは後半に譲るとして、さて、ここ還暦に至って、気負いもなく昔のことを素直に語れる友だちの存在は有難いものだ。世間の難しさに気づかず痛々しいほどの自分たちが、何に悩んでどんな風に変わったのか。それぞれに波乱のドラマがあったはずだ。これからその半生にじっくり耳を傾けたい、と思った。人生の時間からすればまばたきに過ぎない思春期の、ほんの数年の事柄を共有しているというだけで、こんなに気が許せるものなのだろうか。そして、あまりに懐かしく感じ入るものだろうか。
■校庭裏に夕張川に通じる崖の道
川遊びや、石拾い、そして森の探検に、花の盗掘だって、自然相手にいくら遊んでも時間が余っていた。思えば、あの中学校舎の裏庭から、夕張川に化石を探しに崖を下りて行けたはずだ。そうだ、川に行ってみようか。それは、ぼくの思いつきだったのか、慎重な三浦龍一に何か考えがあって誘われたのか、まず万事控えめな小室眞一の提案ではないことは確かだ。
太田正章夫妻とは、朝、ホテル前で記念撮影をして別れた。だから翌日は、三浦と小室、それにぼくの3人。三浦の車に小室の車が続いた。母校の校舎跡付近に立つと、昔に返ったような気になった。抜けるような青空、広い砂地のグランド、道ひとつ、木の一本に思い出が刻まれているようだった。いつしか校歌が響いてくる。
♪川霧晴れてつぐみとびかい、丘に輝く我らが向陽…と口ずさんで、太陽の子ぞ、我らみな〜のフレーズではトーンを上げて大きく叫ぶのだ。太陽に向かうから向陽、みんな太陽の子なんだから、明るく強く仲良くと教えられた。このメロディーが脳裏から離れない。詩的で美しい校歌だった。が、校舎は消えた。統廃合の憂き目にあったのだ。校歌を歌い継ぐ生徒もいない。校長の官舎に人影がなく、雑草が覆う。少し前まで、小学校の担任だった細川先生が校長として官舎に住んでいた。
車を降りて砂地の校庭を抜けた。野球のベースがそのままだ。ソフトボールが転がっていた。ここで野球に興じ、サッカーを覚えた。当時の記憶が甦るようだった。校庭わきから川へ下る小道を探した。
あの頃はねぇ、急な斜面をジグザグになった細い道が続いていたわ、と小室が言った。三浦が、ハンマーで石を割り化石を拾ったね、と続ける。何かの授業だったのだろうね、授業時間にみんなでその斜面をよく上り下りした。河原で少し目がなれてくると、大きなアンモナイトの化石を見つけられる、と、教えたのは太田正章だった。
が、その下り口がみあたらない。雑草が胸の高さまで茂る。手で押し分けて根元を踏んで進むが、雑草に阻まれて崖際までは行けない。その近くから崖下の道を探った。右に左に目を凝らした。あらっ、崖下の裏道は消えていた。どこにもみあたらないのだ。う〜む、しばし、そこに佇むしかない。青空にぽっかり白い雲が浮かぶ。木々の間から涼やかな風が吹き上げてくる。かすかだが遠くから川の流れる音が聞こえていた。夕張川の流れに違いない。
■絵の時間
う〜む、45年の歳月か。時の流れは、あらゆるものを変えていくものだ。考えようによっては残酷ですらある。校舎がないのだから、昔の佇まいを求めても無理かもしれない。校舎外れの物置小屋付近に大きな銀杏の樹があったのを思い出した。ぼくは職員室の前からスケッチしてこの銀杏の樹の枝ぶりに苦労した。何度も色づけしたが、満足いくものでなかった。絵画の江川先生が苦笑しながら、ずいぶん色を重ねたね、とやさしく言ってくれたのを忘れない。
江川先生は絵を描く楽しさを教えた。いまは青森にいる松橋良則は指で雲を書いてコンクールで入賞した。線を描かず筆先を押し付ける方法で絵にしたのは工藤雅志だったろうか。これもコンクールに出品された。版画で才能を見せつけた太田は、雪の轍を群青色のグラデーションで彩った。秀才の上田達也も太田と同じ筆致だった。夕暮れの雪道は青く映った。
笠松美千代や転校生の大場雅子、幼なじみの諸沢信子らも絵がうまかった。みんな絵の時間になると、にわかにピカソになって目を輝かせたものだ。太田に、中学の時に絵が上手かったのは誰か、と聞いたら、記憶では、渋谷正弘、森崎順一、それに林口辰行らだが、あと一人廊下に良く張り出されていたのは、この私です、と言った。
小室にも同じ質問をした。面白いことに、古い記憶をひも解いて思い出した人物は、小甲龍司と森崎順一だと思う。そして、あと一人は、この自分です、と言った。手前味噌だが、と断って、全校生徒が参加した風景画の投票でベスト10入りした、と自慢した。太田と小室の証言だと、森崎順一が上手かったのだろう。
スケッチによく出かけた。メロン農家をやっている山田久人の家近くの丘を登って川を見下ろした。絵の時間は楽しかった。江川先生への憧れも強かったが、夕張の美しさを心に焼き付けていたから、みんな表現が巧みだったのだ。
■銀杏の樹と石碑
さて、その銀杏の樹のことだ。
校庭にあった銀杏だよね、間違いないわ、と念を押したら、三浦、小室らが、そうだわ、と相槌をうった。せめて銀杏の樹1本でも残っていてよかった。記念に、樹の下でふたりの写真を撮った。ぼくも撮った。これが向陽中学校を偲ぶ唯一の証だと思ったら、その樹の存在が妙に頼もしかった。高さ7−8mもあろうか。立派な枝ぶりだった。
しかし、どうも、違うらしい、と小室が後日、その銀杏の樹の事を調べて連絡してくれた。なんだ、なんだ。場所が違う、という。植え替えたのではないか。あの当時の銀杏はどうしたのか、それでは今ある銀杏はなぜ、そこにあるのだろう。あれこれ、いろんなことが錯綜する。遠い幻影が、ぐらり揺らいで傾いた。
後ろに身を引くと、ひっそり隠れるように巨石が横たわっていた。石は、緑や藍の紋様があるこの地特有の石だった。雑草をかき分けなかったら、見過ごすところだった。表に「向陽」、裏に「向陽中学校跡」の文字。その下に「昭和62年3月31日閉校」と読める。向陽中学は、そこで終わった。多くの記憶は、この石碑に託されたのかもしれない。今度来たら、せめて周辺の草刈りをして石碑がすぐにわかるようにしたい。
■夕張川と鬼首山
校庭裏から斜面を下って夕張川へ行くという探検は、儚く潰えた。すると、三浦は、素早い動きをみせた。愛車のパジェロを校庭の西側の沼ノ沢神社を左に見て山の方へとハンドルを切った。長閑な田畑が続く。しばらく行くと、視界が開けた。三浦が車を止めた。後続車も止まって車から小室が下りてきた。車は1台で移動すればよかったね。
風が流れる。なだらかな山間の右端に頭一つ小高いのが、鬼首山だ、と三浦が指をさした。おにくびやま、鬼が首をつった山だ、と言い伝えられて、幼心にどれほど怖れたことか。しかし、こうして眺めていると、深い森を広いすそ野に抱えてなんとも優美な稜線を描いているではないか。周辺の風景に溶け込んで落ち着きがある。夕張の単調な山間にひとつのアクセントになっているようだ。恐れていた山に親しみがわいた。
この先にいいポイントがある、と三浦が再び、先を急いだ。この辺は、三浦の地元だ。彼のナビゲータ役は確かだった。
少し三浦の事を紹介しよう。
彼とは太田や、亡くなった上田達也と同じバスケット部だった。昔、よく彼の家にお邪魔した。父親は90越えて健在でいまでの親子で酒を酌み交わすらしい。玄関の下駄箱の上に、父親が河原で集めた石の収集品が並べられていた。よく磨かれており、山並みを思わせるみごとな石があったことを覚えている。
三浦は、夕張北高から明治大学に進み、文学部史学地理学科の考古学専攻を納めた。考古学は飯のタネにはならないが、と父親に了解を求めた。父親は反対しなかった。理解のある優しい親だ。大学では彼に確かな考古学の現場を踏ませた。親しい先輩に北海道遺跡調査の第一人者で、元北海道開拓記念館学芸部長の野村崇氏がいる。恩師のような存在だ。
野村氏は、司馬遼太郎の『街道を行く』の「オホーツク街道」編で、北海道考古学の水先案内人として登場している。三浦にかつて、司馬遼太郎さんの案内で車を出してくれないだろうか、との依頼が舞い込んだ。小躍りしたが、どうしてもスケジュールの調整に至らず涙を呑んだ、と度々、三浦から聞いた。司馬遼太郎の運転だったら、そばでたくさんの貴重な思い出が刻めたはずだ。ぼくも、う〜む、惜しいことをしたと同情した。
三浦は札幌市役所に勤務し、考古学の調査・研究の学識を乞われて自然博物館の建設準備に携わった。数年前から、志高く東北大学大学院国際文化研究科の博士前期課程で考古学を研究している。彼は、ぼくたちの誇りだ。
そのため、三浦に寄り添うと、自ずと北海道の歴史や開拓使の薀蓄を学ぶことになる。松浦武四郎の事も彼から教わった。「北海道」の名付け親として知られ、幕府の役人として蝦夷探検の膨大な記録を残した。その中に『夕張日誌』がある。夕張の調査は、安政4年7月8日に夕張のアイヌ4人を雇い石狩を舟で出発、石狩川をのぼって夕張川に入った。その奇岩の景観が際立つ滝ノ上付近で、その先の探検を断念するのだが、三浦は帰り道に滝ノ上に立ち寄って詳しく説明してくれた。写真は後段に掲載しますね。
さて、夕張川の雄大な流れが目に入った。川幅のわりに水深が浅い。三浦に聞いた。
「不思議な流れだね」
「岩盤が出ているんだよ。地層が斜めに走っているのがわかる」
「なんなのこれ?」
「堆積しているのがひっくり返った。だから断面が川底から出ている」
「珍しいね、しかし…」
「ここらは褶曲(しゅうきょく)地帯だから、ぐにゃぐにゃになっている」
ぼくの質問に、考古学者の三浦は、褶曲(しゅうきょく、英: fold)地帯という専門用語を持ち出した。地層の側方から大きな力が掛かった際に、地層が曲がりくねるように変形する現象のことをいう。地震による場合もあるが、多くはプレートの移動などで長時間強い力を受け続けることで形成される。圧縮の力と、隆起や沈降の力、それらによって地殻が歪むのだ。
そのために、写真でもわかるように川が下流に真っすぐ流れるのではなく、この断層に沿って斜めにいく筋もの流れを作っていた。珍しいね。次に三浦が、砂金が採れる、と興味深いことを言った。
あの引っ込んだ筋の溜まりのところに、砂金が沈んでいるんだ。重いから溝のところにひっかかる。あの辺の泥をかいてさ、ゆっくり洗うと、砂金が採れる。よく採れる。比重が重いから泥やほかのものは流れるが、砂金が最後に残る。そうやって、砂金を採ったことがある、と砂金採りの体験を語った。
小室にやらせるか、とぼくが冗談半分に言って、笑った。いやあ、実際、砂金採りにぼくの気持ちは微妙に揺れた。やってみたいのだ。
いやいや、ともかく夕張川に入ろうよ、と三浦が誘ったが、いかんせん、夏用のメッシュの革靴にスーツ姿だ。どうやって川に入るのよ、と聞くまでもなく、三浦は車のトランクからひと抱えある大きな箱を取り出した。箱はふたつ。開けると、なんと新品のゴム長靴だった。
これで川をじゃぶじゃぶ歩けるしょ、という。なんと手回しのいいことだろうか、小室は頑丈なブーツに履き替えて、頭に手拭いを巻いてスタンバイしていた。ほんと、みんな段取りいいわ。驚きながら、感心していた。
夕張川とペンケ川の合流地点、右側がペンケ川、川の色の違いがわかるだろうか。
ぼくが身に着けたのは、胴付長靴で、足の先から胸元まであるゴム製の防水ズボンだ。よく渓流釣りの人たちがはいている胴長靴、ウェーダーともいう。これで転んで胸元から水が入ったら、偉いことになるぞ、気を付けなぁ、と小室が笑って言った。
同級生と一緒にいてわかったのだが、太田もそうだが、みんな釣りをやるんだ。ぼくが借りたのは、三浦の息子さんのもの。三浦親子は、ちょくちょく釣りにいく、と聞いて、ほとんど釣りをやらないぼくは、何か大事なものを忘れてきてしまった感覚に襲われた。釣りをやっておくべきだった。釣りの極意は、師匠選びにあり、と太田が言った言葉を思い出した。太田は夫婦で釣りに行く、言った。
夕張川を行く。川底がむき出しになった断層にそって歩いた。何個か、石を拾った。砂金はあるのだろうか。川が大きく二つの流れに分かれて、この付近で合流していた。ひとつは夕張川、もうひとつがペンケ川だ、と三浦が教えてくれた。あのペンケ川か、よく遊んだペンケ川と聞いて、心にさざ波が立った。
ぼくが初めてペンケ川に遊びに行ったのは、小学校1年の夏休みだった。鮮明に憶えている。なぜかって、それは恐怖と、感動と、それに称賛を一度に体験したからだ、と書いたら大げさだろうか。ペンケ川で川遊びを経験したその夜、興奮して眠られなかった。あの感動は繰り返し夢に出た。その夢を見ると決まって布団に世界地図が描かれることになった。
ぼくに初めて女神がほほ笑んだ日の事を回想したいと思う。
■小学校1年の夏、ペンケ川初体験
川遊びに行く直前になって、ひと騒動が起きた。集まったのは、近所の鳴海さんの兄弟、下田さんの兄弟ら総勢5〜6人はいた。みんなぼくより4つ、5つ年上だった。集合場所の鳴海さんの家の前で、ぼくを連れて行くのはダメだ、いいと言い出した子がいた。手に釣竿や竹で組んだ網、バケツ、ミミズの入ったエサなどを持って、出発寸前だった。ぼくはうつむいて泣きそうになっていた。俊ちゃんは、弱虫だった。手に、母親が用意してくれた弁当をしっかり握っていた。
すると、6年生の鳴海さんの兄貴が、ぼくに言い聞かせた。今回はやめた方がいい。もう少し大きくなったら必ず連れて行くから、と言った。ぼくは、嫌だ、と首をふった。いいか、あぶないこともあるけど、ついてこられるか、ケガをしてもしらないぞ、と脅迫めいた口調にもなっていた。よく事情がわからないまま、ぼくは、それでも「行く」と言った。鳴海さんの兄貴は、しょうがないなあ、という顔をしながら黙ってぼくの手を引いた。
目的のペンケ川に行くには、真谷地から汽車に乗る。最寄りの生協前の無人駅から、4〜5キロ、数えて3つ目の終点の沼ノ沢駅まで行くのだが、そこでとんでもないことに遭遇する。やはり小学校1年生じゃ、無理なんだわ。そんなこと知らないもん。
汽車は単線で車両は1両、石炭で走る蒸気機関車だ。乗客はまばらだった気がする。汽車に乗り込んでしばらくして終点のはるか1キロ手前の踏切に差しかかるころ、みんながそわそわしだした。車内の最後列に移動を始めた。ぼくも後を追った。口をつぐんで無言だ。それがいっそう緊張を漂わせていた。
汽車は登り坂にかかってスピードがゆるんだ。兄貴が、進行方向左側の車両の降り口の足台に片足を乗せて、タイミングを見た。車両が左にカーブを描いたその瞬間、いまだ、とひと言発して、車外に飛び降りた。兄貴の丸みを帯びた大きな体が土手を転げた。網やバケツは、車外に放り投げられた。続いて下田の兄さんが、無言で身をひるがえした。そして次々に飛んだ。土手に転がった。みんな慣れたもんだ。
登り坂付近が、実は、ペンケ川の釣りの穴場に一番近いという地理的事情、それに汽車がスピードをゆるめるという飛び降りの安全確保、もうひとつは無賃乗車という節約的背景があったのだ。終点まで行くと、ほぼ1キロ線路沿いを逆に戻らないといけない。時間のロスだ。それに10円取られる。賢いといえば、子供ながらに知恵者はいるものだ。たいしたものだ。さて、感心していられない。
ぼくが無事に飛び降りられるか、どうか。
汽車は、まだ坂を上りきっていなかった。最後に、ぼくの番だった。もう誰もいない。みんながやるように足台に片足を乗せて手すりを後ろ手にして、目線を足元に移した。しかし、線路の枕木や砂利が流れて、めまいがしそうだ。いまだ、とつぶやいてみるのだが、やはり車輪の回転に目を奪われて足がすくんだままだ。体がピクリとも動かない。手すりが汗で濡れてきた。間違えば、死ぬかもしれない。こんな恐ろしい経験は初めてだ。
遠くから鳴海さんの兄貴が飛べ、飛べって、腕をあげて手を降っているのが見えた。汽車が坂をのぼりきってスピードを上げ始めた。飛べ、飛べという兄貴の姿が、だんだん小さくなった。みんなとはぐれるのが嫌だ、と思った瞬間、飛んだというより、線路わきの草むらに体が落ちて土手に飛ばされた。汽車は汽笛を鳴らしながら黒煙を上げていた。
鳴海の兄貴らがかけよってきてくれた。誰かが、だからなあ、と嫌味をいった。やっぱり、とつぶやく奴もいた。が、鳴海さんの兄貴は黙って手を引いて、ズボンの汚れを手でほろってくれた。
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札幌から夕張に向かう車中で、三浦にペンケ川のその思い出を話したら沼ノ沢のホテルに入る前に、三浦はパジェロを線路の方に走らせた。もう蒸気機関車は炭鉱の閉山前に廃線となった。線路も取り除かれていた。三浦は、ペンケ川に一番近い線路があったところだ、と言った。その場所は、わずかに線路の土手があったかもしれない、と思わせるだけで景色は一変していた。が、緩やかに左に弧を描く登り坂だったことをうかがわせるのに十分だった。
そして汽車はこの辺が登りの一番きついところだから、俊ちゃんらが飛び降りたのは、この先あたりじゃないかい、と飛び降り場所まで特定した。線路があった付近の交差点を反対側に進むと道は下り坂になっていた。確か、この坂を下って橋を越えた右側の河原で遊んだ、と言い終わらないうちに、すぐ橋が目に入ってきた。が、川は、堰堤にさえぎられて近づけない。切り立った護岸が恨めしかった。それでもまだ川に魚がいるらしく、河原に下りて魚をついばむ白いサギを見かけた。
■アカハラの思い出
さて、走る汽車から飛び降りて、ペンケ川に向かった。兄貴らは、さっそく川に入り、竹で組んだ網を川岸の草むらに固定し、上流の方から足で草むらをかき分けたり、石をひっくり返したりして、魚を網に追い込んだ。ふたりが左右で網を固定し、3人が追い込む役柄だった。ぼくは眺めているだけだったが、見ていてわくわくした。網の中には、砂石や枯葉の中に、ドジョウや、カジカ、それに珍しく10cmほどの形のよいウグイが数匹まぎれこんだ。採った魚はバケツに入れられた。ドジョウが大小、ウヨウヨいた。ウグイだけはきれいなブリキのバケツに入れられた。
アカハラが入らないかなあ、という。お目当ては、産卵を迎えて体が赤みを帯びたウグイだった。それをアカハラと呼んで珍しがった。体調が25pもあるという。場所を変え、追い込みを工夫して何度も繰り返した。しかし、もっぱら網にかかるのは、ドジョウやカジカだった。網は、竹を割って弓状に曲げたものに細かい網を張った手製だ。長さが1mはあっただろうか。
それぞれが河原に腰を下ろしてのんびり、お昼を取り始めていた。あたりに蝉の声が響いていた。みんなひと休みに入ったころだった。もうだれもかまってはくれない。ぼくは、のそっと立ち上がると、濡れた網を手に持ってふらっと川に入った。だれも引きとめもしなかった。汽車から飛び降りるのをためらったことが、みんなの心証を悪くしていた。やっぱり連れてこなければよかった、と口にはしなかったか、そのつれない態度や視線が、ぼくには針のように痛く刺さった。
ぼくは、誰かに教わったわけでもない。兄貴がやったように、川岸の草むらの端に網を押さえて、片足で砂石をまさぐった。ペンケ川の流れは速い。川底で足を動かしていると、網を押さえる手の方の力がゆるんで網が浮いて流されそうになる。ひとりじゃ無理だよ、という冷ややかな声を背後に感じた。まあ、しかし、いいじゃないの。何か入るかもしれないし、入らないかもしれない。
いま考えると、不思議な気がする。どうしてひとりで網を持って川に入ったのか、と。何回か、足で川底をまさぐった。そして砂石や流木、泥などで重くなった網を静かに上げた。網の底に沈んだ枯葉の中で、まぶしいほどの銀鱗が躍っていた。ぼくはすまし顔だったと思う。これが当然というような顔をしていたかもしれない。
体長25センチのウグイが跳ねていた。「ウグイが獲れた」と振り返ったら、鳴海さんの兄貴がじゃぶじゃぶ川に入ってきて、網の中をのぞいた。いやあ、でっけい、すげぇ、とすぐに驚きの声を上げた。そして、まじまじ眺めてから、アカハラだ、アカハラだぞ、と叫んだ。産卵を控えて頭や腹に婚姻色の赤みを帯びる。それをアカハラと呼ぶ。みんながかけよってきた。アカハラはぼくの手に触れることなくブリキのバケツにそっと流し込まれた。バケツが小さく感じた。ぼくは、この偶然が偶然とは思えなかった。
それから、みんなの態度が明らかに変わった。ぼくに熱い視線を向け始めた。兄貴が、俊ちゃん、凄いなぁ、って言ってくれた。それがなによりうれしかった。
それから何度もペンケ川で遊んだ。そう、汽車の飛び降りは恐れなかった。鳴海さんの兄貴の役回りを知らず知らずのうちに演じていた。近所のちびっ子を手なずけて気立ての優しいガキ大将に成長していた。
アカハラ? アカハラを捕まえたのは、あとにもさきにもこの時だけだった。ビギナーズラックだったのか、幻のアカハラだったのか。
あの時も青い空がまぶしく、ペンケ川の川面がきらきらしていた。あれから半世紀以上の時を経て、いま再びこうしてペンケ川の流れに身をまかせていると、アカハラの思い出がリアルに甦ってくる。運命の扉が開いた、と、ふとそんなことを今になって思うのだ。
■森の精霊に会う。
三浦と、小室と、そしてぼくと3人は、どのくらい川で遊んでいただろうか。川遊びは時間を忘れさせてくれた。2〜3個、夕張川の特有の石を拾った。川のせせらぎを眺めていると、気持ちが落ちついてくるようだった。
もう一か所、いな数か所か、三浦はぼくらを誘った。川から上がって車を鬼首山のすそ野方向に向けた。深い森に入った。やがて巨木の前にたどり着いた。高さ30mはあるカツラの樹だった。幹の太さは、見当もつかない。三浦が、子供の時から気に入っている樹だ。中学のバスケットのランニング練習で、こっそり抜け出してここに来たことがあるかもしれない。しかし、記憶が不確かだ。木洩れ日が、やはりきらきらと舞っていた。美しい森だ。ここがぼくらの秘密基地だった、と三浦が言った。カツラの樹に精霊が宿っている、と思った。
■仲間からの感想
愛おしいほどのぼくらの故郷、夕張讃歌は、仲間からのメールを紹介して、この辺にしよう、と思います。