響く声で、挨拶する洞澤徹先輩、40年前の画像が映し出されると会場は沸いた。やっぱ、Coolだわ
DNDメディア局の出口です。やんやの喝さいのなか、気がついたらあの頃の表情に戻ったような気がした。甘酸っぱい青春が詰まった獨協大学英語クラブ、その思い出がゆらぐOB、OGが集まった。集まれるだけでもうれしいことなのだが、なんという仲間なのだろう、せつないほどうるわしい先輩らは少しの気負いや、それにてらいも消し去って軽妙な語り口で当時を振り返り、惜しげもなく表も裏もさらした。熟達の境地だわ、と感心しながら僕は忘我の世界にとっぷりつかった。
還暦を過ぎたら、先輩のように肩の力が抜けて自然体でいられたらいいなあ、と、もうその大台に差し掛かっていることをつい失念して、いつの間にか10代の学生の自分に引き戻されそうになってしまっていた。会場にはユーミンの曲が流れていた。演出もうまいぞ。ステージ横のスクリーンには、アルバムから拾ったモノトーンのひとコマがスライドで流れた。あらら、若かりし頃の不確かな姿に、いまを重ねて見入ったり、冷やかされたり、笑ったりと往時を懐かしんで会場は、華やいだ。
このスクリーン上に次々と大写しにされる画像をみていると、誰もがそうだったように当時の記憶がリアルによみがえる。さて、このセピアのデジタル化というのはどうしたのだろうか。
聞くと、3・11の東日本大地震がきっかけで、古いアルバムの写真をデジタル化する作業が進んでいたのだ。会場で紹介されたのは、ほんの一部だった。震災の余波で、英語クラブの部室などが並ぶ部室棟の土台に亀裂が入り、立ち入りが制限された。取り壊しの計画が浮上し、大学キャンパスの部室の隅に眠っていたアルバムなどの資料を搬出しなければならなくなった。
現役の学生らが荷物の整理を始めると、おびただしい量のスクラップブックが年代別に山積みされていた。めくると、1ページごとに写真が張り付けられていた。夏キャンプや合宿など楽しげな光景や、肩を組んだ先輩らのスナップだった。先輩たちのピュアな一面をみてしまったから捨てるに捨てられないわ。きっと歴代の執行部が大事に保管してきたのだ、と学生らは理解した。写真は判明しただけでもざっと5000枚にのぼり、段ボール20箱分に及んだ。
現役の学生から先輩へ、古いアルバムをめぐってメールが飛び交った。ソーシャルネットを通じてさらに情報が拡散した。やっと先輩と後輩が、そして先輩たちの現在と過去がつながった。その日、この懐かしのメモリーが、40年ぶりに息を吹き返した。古いアルバムが封印を解いたのである。
■「懐かしのDESS仲間の懇親会」
東京マラソンを前日に控えた2月下旬、東京都庁のおひざ元、新宿界隈は活気づいていた。JR駅東口から線路沿いに下って地下通路から道路の反対に渡ったら、新宿プリンスホテルだ。その地下の一角で、まもなく大学の同窓が集うことになる。夕刻5時半すぎ、仲間の飯田泰久君がカメラ班だというので、助っ人のつもりで僕は一眼レフのデジカメを持参した。その「懐かしのDESS仲間の懇親会」の表示を確認し、レンガ造りの古風なレストランに向かった。
「懐かしのDESS」。DESSとは、獨協大学のイニシャルのD、英語会をESS、獨協大学の英語会の略なのである。歴史が浅い大学だった。知名度がなく先輩らは草創の苦難を強いられた。が、獨協のESSは抜きんでていた。部員総勢400人〜500人を超える大所帯だった。英語劇の公演、スピーチ、ディスカッション、それに伝統のディベートと、専門誌の発刊、各セクションで大いなる足跡を残しそれが引き継がれた。中でも建学の祖、天野貞祐学長の名を冠にしたスピーチコンテスト「天野杯」は、当時、NHK杯、毎日杯と並ぶ全国屈指の大会として名を連ねるようになった。1972年秋の大会は僕が出場した。
僕らは1971年入学で大学8期、早いもので今年還暦を迎える。この日の参加は7人、3つ先輩の5期が5人、6期4人、7期13人と、10期までの各学年と現役の学生ら8人も加わって総勢55人のにぎわいとなった。卒業後、こんな風に一堂に会するのは初めてだ。そわそわして落ち着かない。誰に、どこから、何を、語ればよいのだろうか。
ひと足早く会場入りすると、この一連の企画立案のひとりで司会進行役の林田雅明さんをはじめ、実施委員長の中島荘次さん、そして綿密なタイムテーブルを準備した矢吹孝彦さんら幹事団が入り口付近で先輩らを出迎えていた。礼儀正しいのよね。
会場奥のテーブル付近には、ギターをつまびくおしゃれな中島敏雄さんをはじめ、ダンディーなおふたりは萩原伸一さんと中林光雄さん、それにパソコンのチェックに余念がない笠原洋さん、笠原さんが古いアルバムのデジタル化の作業を申し出た。懐かしい顔ぶれの中に、渋く甘い美声の洞澤徹さん、怜悧な面立ちの栗原ひかるさん、笑みを絶やさない古川謙一さんら6期の先輩らに続いて、7期といえば、ロスからかけつけたマドンナの山田和子さん、栃木・足利で新技術を開発しながら手堅い事業を経営する「清田アルマイト」の清田明さん、北海道旭川から高専で教鞭をとる十河克彰さん、仲の良い小島勝一、真理子夫妻、やや遅れて飛び込んできたのが大沢千佳子さんで、チャーミングな面影は変わらない。同期の、といってもリタイア組の僕と違って4年間のクラブ在籍を貫いた飯田、田山稔、加藤雅之、萩原修身、ト澤一能の面々が裏方でスタンバイ、紅一点の太田洋子さんも顔をみせた。後輩の照沼弘君が日焼けして海外出張から戻った。起業家の杉田剛君も立派になっていた。可愛い後輩らは、初々しくどの子も垢抜けしていた。渉外の梅山紫帆さん、スピーチセクションの川喜田奈美さんらが目を輝かせていた。
まあ、60人余りもいるのだからこんな風に綴ると、紙面がなくなるわ。あの日に還って、笑い、憂い、語らいの誇らしげな記念撮影があっちこっちで繰り広げられた。熱いものが込み上げて少しファインダーが曇りそうだった。
そんなまぶしい光景を写して古いアルバムの表情と比べてみるのもいいかもしれない、と思った。記憶を記録するが、このメルマガの趣旨なのだから。が、それが難しそうなので少なく限定しようと思う。
■先輩たちの饗宴
7つのテーブルに着席して全員の顔がそろった、だれ?うっそー、えー元気そうでよかった〜和気あいあい。懇親会がスタートした。司会は、海外勤務が長い長身の林田さん、実施委員長の中島さんが趣旨等の説明と、アルバムのデータ化に尽力された41期の坂本可織さんをはじめ、笠原さん、林田さん、洞澤さん、田山さんら各期の有志の名前を紹介した。
スクリーン画像との対比が、40年の歳月を感じさせた実施委員長の中島荘次さん
スクリーンをご覧ください、と言った先の画像は、まさに幼さが残る細面の40年前の中島青年でした。40年で40キロ、ちょうど1年で1キロずつ増えた計算になります、といって場内を沸かせた。確かに、古いアルバムのなかに自分を再発見するというのはある種のファンタジーかもしれないなあ。
今夜限りの40年ぶりの懇親会は、スムーズにそしてテンポよく進んだ。ステージに登壇するたびに、40年前の画像が映し出されるという仕掛けには、参加者一同が驚きと懐かしさに目を見張った。さて、中島さんの丁寧な挨拶が終わりました。
「先輩たちの饗宴」そのパート1は、乾杯のご発声から。
美声の洞澤さんが名前を呼ばれてステージに。やはりスクリーンに彫り深い日本人離れした顔が大写しにされた。若き日の端正な洞澤さんでした。僕らが1年の時の委員長、総勢400人を超えるクラブ員の頂点にたつ雲の上の存在でした。当時の畏怖はまだ残るが、柔らかな表情を浮かべてやっと地上に舞い降りてきた。切れ長の目元が涼やかだ。
えー、6期の洞澤でございます。(みんながコップを手に立ち上がる)、まだ、お座りいただいて結構です、と言ったら、しゃべるの?のツッコミに場内が沸いた。いやいや、せっかくのご機会なものでちょっと、オレの時間やるよ、の声が飛んで、さすがの洞澤さんも苦笑しながら、やりにくいったらない、という表情だ。
続けて、
矢吹さんの進行台本によると、突然のご指名をうけまして、ということなのですが、わたしみたいな若輩者が、先輩諸氏をさておいて乾杯はどうか、と固辞はしたのですが、幹事の方から頭髪から見ていちばん年寄りにみえるから問題はないよ、という事で妙に納得してここに上がってきたわけでございます、と、その冒頭から、さすがだなあ、うまいなあ、笑いをとって心をわしづかみする。
ここから洞澤節の本番です。
あの、つらつらとみなさまのお顔を拝見するに、まあ、時は残酷だなあ、との印象を抱いてしまいます(爆笑)、昔の面影を残していらっしゃる方もいるのですが、とても変貌を遂げている方もいらっしゃいまして、あれは、だれって、という言葉がさきほどから飛び交っていました。
さて、40年ということで、考えてみれば第二の人生と言う言葉があるとすれば、第一の人生を終えたぐらい、ちょうど還暦を迎えた、迎えよう、迎えちゃった、という方がもう6割ほどいらっしゃるのではないかなあ、と。今回の趣旨として、私ども40年前に卒業式を終えたのですが、ここでもう一回、第一の人生の卒業式というか、区切りをしようと言う、主催者側にそんな隠れた気持ちがあったのではないか、と推察をいたしているところでございます。
皆様方、いま昔話をすると家庭などで非常に嫌がられているのではないか、と言う気がしておりますが、今日は、せっかくの場なのでだれにも気兼ねをせず昔話にぜひ、花を咲かせていただいて時間の許す限り歓談をしていただければと思います。
では、ご唱和ください、と杯を上げた。
う〜む、2分30秒の短い時間に、言うべきことをコンパクトに詰め込んだ、ユーモアいっぱいのスピーチでしたね。聞き惚れて、頷いて、メモをとってばかりいたので写真を撮るのを忘れるほどでした。
続く、最年長の5期を代表して、中林光雄さんがしみじみと語る。
えー大変ご無沙汰しています。5期は、ここに5人参加しております。思えば1968年4月の入学時に200人の新入部員を数えました。それが5期です。4年後の1972年には部員数が17人になって、いまトナカイと呼んでいます。年に何回か集まりを持ち、昨年12月26日の忘年会で、震災で部室棟が倒壊の危険があり、そこに残されたアルバムをなんとか生かそうか、などの意見が集約されたのですね。ご尽力くださった笠原さんらに御礼を申し上げたい。
当時、ESSでは対外試合に出ていた。ちょうどその頃、東京の大学の間では、埼玉県草加市にある獨協大学ってなんだ、知らないなあ、ということなので、なんとしても東京に出て行って獨協の存在を知らしめよう、とPRに動いたものです。いまアルバムを見て思い出しましたけれど、野尻湖で開催した1970年のオール英語のサマーキャンプですね、日本語がつい口に出て罰金を払った記憶がよみがえりました。また、その春には東京の読売ランドで、春合宿を企画し、講師として天野貞祐学長にご案内すると快く引き受けてくれた。吉祥寺のご自宅に車でお迎えにいって、その車中、先生にDESSの話を聞いていただいたことを懐かしく思い起こしました、と語り、この懇談会の裏方役を務めた林田さんらの労をひとりひとり名前をあげてねぎらった。
■アルバムをめぐる先輩と後輩の出会い系
時間がないのでスキップされたかと思ったと、逆に恐縮しながらステージにあがったのは、5期の笠原洋さんでした。進行台本では、トップバッターで写真のデジタル化の作業経緯と状況を紹介する予定だった。
大学の部室棟にあったアルバム救出作戦の一端が、紹介された。
昨年11月の頃、中島敏雄さんからメールが入り、部室のアルバムがこのままだと捨てられてしまう、どうしようか、とやり取りしていた。これをデジタル化してみんな見られるようにしないといけないのじゃないの、とみんなが言うのだかけれど、誰も手を挙げなかった(そうだようなあ、という同情の声と、笑い声)、定年2年目なので暇なのでじゃあ、やろうか、と手を挙げたら、あの100冊あるんですよね(へーっ、たいへんだわ)、他に手伝ってもらう、って中島(敏)さんとか、洞澤さんとか、田山さんとかで分担してスキャナーしてデータ化することになった。それなら順次、やっていけばよし、と思ったら、司会の林田さんから、なんかこれを機に懇親会を開く、と、それに間に合わせないといけない(笑い)、ちょっとちょっと、待ってよ、と思ったのですけれど、一生懸命やりました、と語ってたくさん拍手を受けていた。写真のデジタル化はこの人がいなかったら、間に合わなかったのだ。
ところで、このアルバムのデジタル化は、どんな経緯をたどったのか。
現役の3年生、勝股俊敬君によると、3・11の影響で部室棟が倒壊の危険がある、ということで翌12日から立ち入り禁止となった。取り壊すので、荷物は新たに部室ができるまでどこかに一時保管しなくてならなかった。部室の奥の棚にあった昔のアルバムや、トロフィー類の処理に頭をなやませた。トロフィーは、それぞれ持ち主に引き取ってもらった。アルバム等は、先輩で41期の坂本可織さんが6月ごろに車で引き取って持ち帰ってくれた。
朝から搬出の作業に加わった。終日かかった。段ボール箱20箱はあった。年代別、行事別にマジックで箱に書いて仕分けした、という。
その坂本さんが、この日参加した。ステージで、冒頭、英語であいさつした。大学を卒業して5年、いまではちょっとした英会話でもどうしたものかなあ、と思うといいつつ、透き通るきれいな英語でした。そこで本題、なぜ、私がここに招かれたかというと、と部室のアルバムの搬出等に触れた。
自宅にちょっとしたスペースがあったものですから、じゃあ、うちでとりあえず引き取るよ、となった。が、この夏のことなのですけれど、かねてより交際していた彼と結婚することが決まりまして、その相手がなんと私の家にくることになったのですね。ただし、その家には資料の詰まった段ボールが玄関付近にどーんと山積みになっていた。そこで先輩にSNSとかメールとかで、どうしたものか、と問い合わせた。その夏は、先輩とつながる貴重な経験をした、と語った。そして、なにせ40年の蓄積です。90年代、80年代、そして本日の70年代の先輩らとメールのやり取りを通じて先輩の様々な断面を知ることになった、とも付け加えた。
坂本さんによると、連絡をとっているプロセスで先輩方のESSに対する考え方がふたつに極端に別れていることを知った。ひとつは家庭の事情などでESSとは関わりたくない、連絡を取りたくないというタイプ、それとは別に環境が変ってもESSを心にとどめておいて、何か機会があれば、関わりたい、連絡を取りたい、集まりたい、という方々です、といいのけた。それまでやんやの盛り上がりだったものが、どうしたことでしょう。にわかにシーンと静まり返り、雑音が潮を引くようにスーッと消えた。
すると、坂本さんが、今日、その後者のタイプの先輩がこんなにたくさんいらっしゃるとはおもいもよらないことで、うれしくて夢をみているような気持ちです、と、一段とトーンを上げると、歓声が起こった。続けて、こんなに大きな集まりとは知らず、プリンスって品川のどこだろう、と思ってきたのですけれど…と新宿と品川を取り違える可愛さで、ふたたび場内は爆笑に包まれた。
う〜む、心に沁みた。
坂本さんの自宅にアルバムをひきとりに行ったのは、林田さんと実施委員長の中島さんでした。このお二方は、陰に陽に、表に裏に、西へ東へ、海外駐在で鍛えた身のこなしが日常に息づいているような活躍でした。
■浅草のトトロとたぬき夢物語
余談になるが、懇親会の前日夕、浅草の雷門前を歩いていた。交番をすぎてジブリのショップのウインドに、隣のトトロでなじみの大トトロの縫いぐるみが飾ってあった。それを横目でみながら、視線を神谷バー方向に移したら、そこになんと、白髪の長身のトトロ、いやいや、林田先輩がいた。僕の方に指をさしてなにかしゃべりかけている。声は、喧騒に消されて聞こえなかったが、指と目の動き、左手で前髪を後ろに払う仕草から、おい出口、こんなところでなにをやっているんだ、という風な感じだ。たぶん、間違いない。
こんなところで、ってこの辺は僕のシマ、新聞社時代に浅草支局デスクだったのだから、林田さんこそ、こんなところで何を、と言ってやりたいところだが、ぐっとそれをのみ込んだ。次に何を言うか、それもわかった。これから飲みに行くぞ、と言う構えなのだ。前髪を手でかき分けた。髪を手でかき分ける、僕にはすでにかなわない仕草だわ。そばに旭川の十河さんがいる。知ってる?と聞く。旭川ですよね、と言ったら、にこやかに、DNDメルマガを読んでいるよ、あれ凄いね、と言ってくれた。40年ぶりなのに素直にうれしい。
一旦、別れて約束の時間に雷門前に行ったら、矢吹さんがいた。僕は矢吹さんがなぜ、そこにいるかわかっている。まもなく林田さんらが戻り、中島荘次さんも加わった。行った先で、結構、飲んだら、林田さんにたしなめられた。
悪い夢を見ているような気分だった。気が付いたら店に誰もいない。店の前に中島さんが立っていたので声をかけたら返事がなかった。目をこすってよくみたら、巨大なたぬきの置物だった。店は、たぬきと言う名前だった。遠くの道の先に、トトロとたぬきの後ろ姿が目に入った。あやかしものじゃあないだろうか、と用心して近づかなかった。
■さて、続:先輩たちの饗宴
もうこんなに長い話をしてしまった。もう少し、です。先輩たちの「饗宴パート2」に入ります。遠方の大先輩の鈴木修さんに続いて、ロスから飛んできた山田和子さんがナチュラルな英語を披露した。旭川から参加の十河克彰さんは、懐かしいリンカーンのThe Gettysburg Addressを暗唱し始めた。が、決め台詞の、This Bible is for the government of the people, by the people, and for the peopleまではたどり着けなかった。場内、大爆笑の渦でした。
なんともキャラクターが光ったのが6期の先輩、古川謙一さんでした。
古川さんのスピーチは、出色でした。やはり話のリズム、間の取り方が絶妙だったのかもしれませんね。
古川さんが壇上のマイクの前に立つと、司会の林田さんから、どうぞ、anyway!の声援が飛んだ。古川さんの口癖だったのだろうか。わーっと笑いが弾けた。
さて、その古川さん、
Good evening my friends!とかなんとかやったりして…ともう最初から笑いを取って、十八番の、anyway!と続けた。まあ、ここが一番の笑いでした。
そういうわけで6期の古川です。まあ、ほんとうに40年ね、この40年を3分でしゃべれ、というのはどだい無理なのですけれど、こういうのを持ってきました。いまの現役の方、こういうのはあるかなあ、と聞く。
(会場から、わーよくもっていたねぇ)
古川さんが右手にかざしたのは、テーマを決めて行う英語のディスカッションの場に置く厚紙で三角に作ったネームプレートでした。僕もその昔、使った記憶がある。
ディスカッションをやるとこれを自分の席の前に立てるわけだ。で、終わると、みんなでこのネームプレートを回すわけです。そこにコメント書く。いろんなお世辞があったりして…これをみると本当にね、僕がいかに英語がうまくてその場をうまく差配してたかのように書いてあるのだけれど、実際は、この辺の先輩がご存知のように英語は下手で、人前に出るのが恥ずかしくてね、女性はいつも恐れてましたしね、そういう4年間でした。
いまは打って変ってだいぶ慣れましたけれど…そこでまたanyway!のヤジが飛ぶと、唱和するように、古川さんもanywayを連発、笑わせた。そういう意味でアルバムができたのはうれしい。またこれを機会に皆さんと、絆をもう一度ということで行きたいと思います。若い人もがんばってください。ここへくる私も現役に戻ったようにね、40年がポーンと飛んで若くなったような気分になります。うちに帰ったらもう62歳なのでボーっとしてしまいますが、これからもよろしくお願いします、とあっさり締めた。
さて、紹介する最後のスピーチは、1個先輩の清田さんです。
冒頭、41期の方と呼び、今日は若い方を中心にお話をさせていただきます、と体を現役学生のテーブルの方に向けた。
あれから40年、なんですかね、みんな英語なんかしゃべったりして、まるで英語のクラブみたいじゃない。さっきの古川さん、私が香港にいた時、外国人による広東語スピーチコンテストに出場して、私がかばん持ちで応援に行った。その時、入賞しましたか?一発ツモとか言っちゃったりして…、と笑わせた。
そして7期の参加者を紹介した。笑いとペーソス、ちょっぴり毒も含んだ個別の紹介はここでは省略いたします。終始、漫談のきみまろ風の愉快なスピーチでした。始めとおしまいは、「清田アルマイト」で検索を!とPRを忘れませんでした。
■中島敏雄さんの伝説の弾き語り「風の中のあなた」
もう早いもので2時間半は過ぎていた。お待ちかねです。中島さんがギターを抱えて特設ステージに腰を掛けた。弦を確かめて構え、ひと呼吸おいて…
〜風のなかの、あなたのおもかげいつまでもはなれないでね
うしろ姿、さみしそうに去って行ったあの日のあなた
遠いあなたを探してみてもとても忘れることができないの…
いやあ、たまりませんね。風のなかの…となんのまえふりもなくいきなりささやくように歌いだすなんて、なんとおしゃれなのでしょうか。形容がしようがないほど胸にジーンときた。泣かせてくれますね。
風のなかの〜語るように歌い出した中島敏雄先輩の懐かしのギターにDESS40年の邂逅は、クライマックスに。
当時、大学英語会の打ち上げかなにかイベントがあるごとに中島さんがギターを披露して我々を楽しませてくれた。だからこの曲のメロディーも歌詞も憶えている。こんな楽しいことってある?
中島さん、クールだわ。
で、この人のトークも見逃せないのよ。う〜む、情感たっぷりに笑いのツボを押さえながら、小気味よさはたまらない。理屈抜きに好きだなあ。
40年×50人、ざっと2000年だよ、憶えてらんねぇよね。みんな忘れちゃうよ。だからまた、会いましょう。 会ってまたお話しましょう。
それで2000年分の喜怒哀楽が渦巻いている。酒が入っちゃうと、余計ね。やはり僕らの年代に懐かしいのよね。
なあ、中島、また音楽バンドやろうよ、というお誘いがある。名前?うん、もう考えたから、ザ・ゴムバンドって、伸びてすぐつかえなくなっちゃうよ。いいじゃないの!
今日の「風の中のあなた」は原曲の歌詞を少し変えてるね。弱い私とか、ちょっとそぐわないから。この歌っていうのは、愛しい人が自分より先になくなったので、残された人が愛しい人を思って歌う歌なの。そういう風に思われるように、これから夫婦仲良くね、まあ、どっちが先に逝くかという問題もあるが、もうそんなカウントダウンが始まっているかもしれないね。
あのね、ここのレストランの天井はね、ビートルズがデビューしたリバプールのパブ、CavernClubに似ているんだよね、とささやいたら、名曲「Michelle」を歌いはじめた。
Michelle, ma belle
Sont des mots qui vont tres bien ensemble
Tres bien ensemble
I love you, I love you, I love you
That's all I want to say
Until I find a way
I will say the only words I know
That you'll understand
今年は、ビートルズがデビューして50年だそうだ。CavernClubをネットで検索すると、確かに周辺の赤レンガは、そんな雰囲気がありましたね。ポール・マッカートニーがすぐ目の前に現れてくるような錯覚すら覚えました。
さて、いよいよお開きですね。中島さんの弾き語りに合わせて、Yesterdayを合唱した。
幹事さんの配慮で、受付でその歌詞が配られていた。実施委員長のあいさつ、司会の挨拶と続いて、無事、素敵な時間をたっぷり、思う残すことなく過ごすことができました。いやあ、40年とはいいタイミングでした。これはなんとか、記事にして後世のために残さなくてはいけない、と思った。写真があるなら、テキストも必要だろうからね。
さて、さて、進行台本は、タイム管理からBGMの音量まできっちり書き込まれていました。たいしたもんだわ。林田さんに、よくやりますね、と問うと、いやあ、クラブ活動みたいなもんよ、と言って照れた。そして左手で前髪を後ろに払って笑った。還暦になってもDESSで鍛えた自主独立のスピリットは、いまだ健在というところでしょうか。
懇親会が引けて、近くの居酒屋に、僕ら8期の同期の飯田君、加藤君、萩原夫妻、そして裏方役の田山夫妻が入った。そこに先輩がご一緒し、中林さん、栗原さん、そして萩原さんも加わった。憧れの先輩らとこんなに身近にいられることは素直にうれしかった。勘定の段になって、先輩らが大枚をだそうとする。
割り勘にしましょう、ひとり2000円もかからないから。だって若い時に手取り足取り教えてくれて、還暦になっても世話になっちゃ申し訳ないよね。これからは僕らが恩返しする番です、と言ったら、中林さんが表情豊かに、うれしいこといってくれるねぇと笑った。栗原さんも目を細めて聞いていた。萩原さんは、申し訳わけなさそうに肩をすぼめていた。いい先輩だわ。DESSの誇りです。
このメルマガに写真を掲載する旨の承諾をメールでお願いした。すると、私が絵になるなら、と洞澤さんが洒落たメッセージを返した。萩原さんのメールには心底、参ったさ。
「ご丁寧な手紙ありがとうございます。本当に楽しいひと時を過ごす事ができ皆さんに感謝しています。出口さんの事を信頼していますので、あなたの役にたつのであれば私の写っている写真を使ってもらっても問題はありません。ご活躍をお祈りしています。萩原伸一」
僕はね、数日間、あれこれ呻吟した。が、萩原さんのおやさしい数行のメールで救われた気がした。先輩の流儀、それを学んで、こうありたいと命に刻みました。みなさま大変、お疲れ様でした。まあ、anyway!これにどんな写真が加わるか、それもまたお楽しみに。
誰かの口癖がうつってしまったみたいです。長い文章をお読みいただいて、ありがとうございました。
■
※今週は、北澤宏一理事長の民間事故調の報告書発表やら、エルピーダメモリの破綻などここにきて大きな動きが目白押しでした。個人的には、明日から東北に入ります。まあ、そんななかで、ややのんびりしたメルマガとなりましたが、大学への恩返しのつもりでございます。ご容赦くださいますようお願い申し上げます。編集長、出口俊一
左前から萩原伸一さん、中林さん、中島(敏)さん、
後ろは左が小島さん。
左から洞澤徹さん、古川謙一さん、
真ん中が萩原修身さん、紅一点の太田洋子さん、
そして栗原ひかるさん(右端)。
写真掲載を快諾してくれた同期の萩原さん夫妻、
この日、32回目の結婚記念日でした。
どうみても彼は、還暦にはみえないのだ。