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110年目の八甲田死の雪中行軍の真実

 ・元毎日記者、三上悦雄さんの壮絶
 ・小笠原孤酒と新田次郎:取材ノートの驚愕
 ・三上千鶴さん「あとがきにかえて」の感動
 ・八甲田山遭難事故の概要と回顧
〜コラム&連載〜
 ・黒川清氏の「学術の風」
 「新たな大チャレンジで2012年が始まる」
 「国会の福島原発事故調査委員会 −2」
 「国会の福島原発事故調査委員会 −3」

DNDメディア局の出口です。もうすぐ新年を迎えるというのにも構わず、大晦日の夜は、書斎で本の整理に没頭し迎え来る時を忘れていた。そこで聞くとはなしに耳に入ってきたのはNHKラジオから流れる津軽海峡冬景色でした。


いやぁ、なんともすすり泣くような石川さゆりの哀しい響きが切ないほど身に染みた。華やいだ紅白歌合戦はあまり好きではない。が、石川さゆりのこの歌は格別だった。七五調の阿久悠の歌詞も切々として冬景色が眼前に広がってくるようだ。すると、青森出身の先輩記者の切なさが込み上げてきた。


新年を迎えたら、雪の青森に気持ちが動き始めた。もう居ても立ってもいられない。その5日の深夜、夜行列車ならぬ、青森行の夜行バスに飛び乗った。車中、頭が冴えて眠れない。仙台から花巻に入った付近で雪がしんしんと降っていた。僕は、その彼の遺作となった本を膝の上にしっかり抱えていた。


新米記者だった当時、栃木県の日光エリアを担当する日光通信部でご一緒したのが元毎日新聞記者の三上悦雄さんでした。特ダネを競ったし酒を飲み、雀卓を囲んだ。寺山修司のようにつぶやくような口調が懐かしく、そのくぐもった響きが耳に残る。なんど助けられたか。


あの三上さんはどうしているだろうか。数年前、気になって毎日新聞の本社や支局に問い合わせた。水戸や青森にも電話をかけたが、分からなかった。青森支局のデスクが、出版した本の表紙などをFAXしてくれた。その本の出版元となった新聞社にかけあって、三上さんの連絡先を問い合わせてみた。すぐに教えてはくれない。忘れかけた頃、奥様の千鶴さんから電話をいただいた。三上さんが亡くなったことを聞いた。その壮絶な最後を知るに至って心底、驚いた。思い出すたびに胸が詰まる。


その晩年と言っては失礼だが、水戸支局石岡通信部長を最後に54歳で早期退職し文筆活動に入った。2002年9月、遺作となった『八甲田山 死の雪中行軍真実を追う』(河北新報出版センター刊)の原稿を書き終えて、その直後、眠るように息を引き取った。資料の収集に明け暮れて、そのデータをパソコンに入力し続けたらしい。三上さんが執念を燃やした八甲田山の真実とは、三上さんは何を炙り出そうとしていたのだろうか。


やはり津軽海峡を望む青森に、雪の八甲田山に踏み込んでみないと、ね。そうでないと、地方記者の仁義として三上さんに申し訳が立たないような気になった。


バスの窓のカーテン越しに暗い闇をぼんやり眺めていると、ひと目を避けてしけこんだ場末のバー「和」が浮かんできた。ふだん口数が少ないぶん酒席となると、くぐもった声がよどみなく続いた。そのカウンターに銚子の本数を並べた。


「ところでさぁ…」とトーンを変え、「ほんとぉ〜」とおどけたような相槌が口癖だった。時折、たじろいでしまうほど鋭い目をきりっとこちらに向けることもあった。


あの時も急にポケットベルが鳴り、席を立って戻ると、その鋭く睨むような目をこちらに向けて「明日未明、早いよ、それだけいえば、わかる?」と表情を変えた。酔いがすっ飛んだ。大惨事を招いた川治温泉のホテル火災事故に強制捜査の動き、風雲急を告げる。数社の東京社会部がざわめいていた。


気取りもなければ、飾りもしない。どちらかというと、地味で控えめなタイプだった。一生独身を通すのかと思ったら、お見合いで嫁さんを迎えた。明るいさっぱりした千鶴さんで、声が涼やかで細身の美人と思った。殺風景な通信局舎が魔法をかけたように一夜にして見違えるようになっていた。


嫁さん、もらった、俺も歳だしよ、とぶっきら棒に言って顔を赤らめた。麻雀と競輪、それに酒という一見無頼派っぽいが、どこか人生を真摯に直視していた。付き合いはいつも生真面目でした。週末、ふらっと所在をくらます。競輪通いが生活の一部となっていた。故郷の選手を追って転戦するらしい。意味が分からないから、そんなに面白いのなら今度、連れてってとねだったら、家の一軒ぐらいの金がすぐに無くなる、そんな罪深い修羅場に誘えない。それは無理、と取りあってもらえなかった。競輪に興味があったのではなく、ただ一緒にいたかっただけなんだけれど、ね。


珍しく青森の思い出を語ってくれた。


青森の知人の事務所から火が出た。ボヤで済んだが、その見舞いに記者クラブの連中と何人かで行った。その鎮火した焦げ臭い2階で、火事見舞いの一升瓶を開けて茶碗で酌み交わした。同情が慰めに変わり、そしたら激励のつもりで歌が飛び出した。のむほどに気が大きくなって手拍子がわいて、気が付くと割り箸で小皿叩いて踊り始めていた。いつものように気分よく騒いでいたら、世帯主から、あの〜状況をわきまえてもらえませんか、と消え入りそうな声でクレームが入った。火事場をすっかり忘れていたのよね、と笑いながら面白がって語ってくれた。


次から次と、思い出が尽きない。今度は、奥様、千鶴さんの声が聞こえてきた。三上は、腕組みしながら、あとは見出しだけだな、ほんのちょっと横になるから、と言葉を残して書斎に消えたのよ。パソコンのスイッチは入ったままでした、と。


長い長い原稿を書き終わって、ホッと力が抜けたのだろうか。床の上に横になる三上さんの姿が浮かんだ。三上さんは冷たくなっていた。八甲田山の原稿は最後の追い込みに入っていたのかもしれない。動画の再生のように何度もそのシーンが見える。


きっと重い体を横たえて目をつむったら、ビュービューと地吹雪が唸りをあげて襲ってきたのかもしれない。あの白魔の惨劇のシーンだ。さ迷う亡霊のような兵士の幻影が、やはり彼の脳裏をかすめていったに違いない。その夢の途中で、胸までつかる雪に遭遇し、視界が利かない山中で凍えるような寒さに、たぶん彼も耐えきれなかったのだろう、とそんなことを想像した。


まえがきに、執筆したことの理由に触れていた。八甲田山遭難の資料が少なく関連本に誤記が多い、「さらに」と付け加えて、取材と執筆に半生をかけたのに報われなかった、孤酒の功績を残したかったからである、と結ぶ。孤酒、青森・十和田記者クラブ仲間で、やがて郷土史家となる元時事新報記者、小笠原孤酒(本名・広治)のことをおもんぱかっていた節がある。この交遊が、早期退職の伏線になっていたのかもしれない。つまりこの本は、孤酒への追悼文であり、鎮魂の叫びである、と思えてくるのである。


『八甲田 死の雪中行軍 真実を追う』は、三上さんが急逝してから2年後の2004年に、当時の十和田記者クラブの仲間の手で出版された。思えば、いくつもの奇妙な偶然が重なっている。


雪中行軍を取材した『八甲田連峰 吹雪の惨劇』の著書がある孤酒の出版パーティーは、三上さんら十和田記者クラブが主催した。そして孤酒が雪中行軍の取材に関する資料を惜しみなく提供し、現地の案内までやったのが作家、新田次郎でした。孤酒の目論見が裏目に出た。本家の『吹雪の惨劇』はさっぱり売れない。借金を重ねるばかりだったが、ご存知のように新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』はベストセラーになる。これを原作にした高倉健主演の映画「八甲田」は、一躍話題になり列島を席巻した。「天は我々を見放したか」との流行語さえ生んだのだ。


新田の『八甲田山死の彷徨』には誤りが少なくなかった。三上さんが、史実をもういちどひっくり返して丹念に事実を積み重ねた。その過程の中で孤酒と新田の関わりを詳細に明かし、新聞記者らしい取材力で八甲田山雪中行軍の遭難事故の真実に迫った。数えれば、今年で遭難事故からちょうど110年目、三上さんが亡くなって10年の節目を刻む。


八甲田山遭難事故の出版にまつわる彼らの数奇な軌跡は、なんとも不思議な気がしてならないのである。


新田の手になる秀逸なドキュメントタッチの記録文学で、八甲田山の遭難事故はほぼ勝負あり、だったのではないか。その真実を追う、とは、どういう料簡なのだろうか。


『〜真実を追う』によると、新田次郎の『八甲田山死の彷徨』はフィクションとはいえ、その骨格となる最後の生き証人のインタビューなど史実的裏付けは、前にも触れたが実は、仲間の孤酒が、自力で調べ尽くしたものがベースとなっていた。孤酒は、最後のひとりとなった生き証人の取材で、青森から神奈川県小田原市内にあった国立療養所に何度も通った。孤酒の元へ新田から取材協力の手紙が届いたのは、それから間もなくの1970年の夏ごろだった。その2月に最後の生き証人が90歳の生涯を閉じた。新田もあわてたに違いない。9月に入ったら孤酒は勇んで新田を現地に案内した。資料を提供し隠された事実を伝え、とっておきのエピソードの数々を惜しみなく披歴した。


新田のベストセラーとは対照的に、孤酒がライフワークとしていた八甲田山の遭難記録『吹雪の惨劇』はシリーズで全5巻の予定が2巻で挫折し、評判も売れ行きもさっぱりで借金を重ねていた。


その挙句、新田の本のあとがきにそえた取材ノートの本文中に、雪中行軍を「人間実験」と決めつけられて憤慨し、犠牲となった遭難者の名誉を著しく傷つける結果となったことに孤酒は自己嫌悪に陥った。孤酒の苦悶の日々を間近でみていた三上さんならではのエピソードがこの『…真実を追う』の中に織り込まれているのである。


『〜真実を追う』は、全20章の構成で、第1章「取材」は、小田原の風祭にある国立箱根療養所で孤酒が歩兵第五連隊伍長、小原忠三郎(89)から聞き取り取材する場面から始まっている。両手とも親指以外4本の指が爪の部分が欠け、両足はひざ下をわずかに残して足首がなかった。全編にわたり雪中行軍の指示から計画、行程、露営の実際、行き倒れ、遭難者の名前と死亡場所、救援の様子等、それこそ徹底した調査と取材、それに各種資料を駆使して遭難、救助を再現した。小さい事実の断片をつなぎ合わせるのに腐心したことがその行間からにじむ。


新田が無線電信講習所に学ぶ無線の専門家なら、同じく三上さんも無線通信士となって北洋漁船の通信長時代の経験がある。瞬時に変わる山の気象の変化を気象データから読みとるくだりは圧巻でもあった。


これら綿密な執筆ぶりに、ページをめくりながら何度も文字が霞んだ。巻末に並んだ膨大な資料の山を収集しそして構想を練って書き表すという芸当は、プロの仕事術であろう。またその記憶力のよさに感服させられた。


例えば、孤酒とのこんなやりとりが再現されている。


小笠原がいう。
「(新田は)雪中行軍を小説に書きたいのだそうだ。僕が自費出版したのを聞きつけたとみえて、向こうから接触してきた。きのうは遭難コースを案内してやった」
「それだけですか?」
「小原(最後の生き証人)さんから聞いた話のほとんどを教えた。資料の提供も約束したし、山口ユ少佐自殺の裏付けも教えた。とっても感謝された」
「う〜ん」と三上はコーヒーカップを見つめながら考え込んだ。
「それはサービスのしすぎでは」
「どこがだ」    
 三上さんは、孤酒のそんな様子を素直な人柄だと評しながら気をもんだ。身銭を切って東京、横浜、小田原から岩手、宮城を歩き回って、大隊長山口少佐の身内や小原やら生き残り隊員で銅像のモデルの後藤房之助の子息などからの取材した証言を、孤酒がただで提供したことになにやら嫌な予感をしていた。
「おいしいところを集めて小説に書かれてしまうのではないか?」
「その心配は無用だ。向こうは小説、こちらはノンフィクションだ。重みが違う」
「しかし、あなたの場合は、いわば特ダネを教えてしまったように思われたもので。ま、おれの杞憂に終わればいいけど」


三上さんと孤酒の議論はかみ合わない。孤酒は、流行作家が自分を訪ねてきたことに満足し、舞い上がってしまっていた。三上さんの懸念が不幸にも的中してしまうことは時間の問題だった。


新田が、孤酒をうまく利用したのか、といえば、三上さんはそうは決めつけてはいない。新田が『強力伝』でデビューした翌年の1952年、厳しい寒気団の襲来と青森歩兵第五連隊の遭難事故と絡めて原稿用紙30枚程度の『吹雪の幻影』を脱稿した。が、どこの雑誌も掲載しなかった。これはのちに『八甲田山』と改題し、1955年に明文堂刊の『強力伝』、1965年には新潮社刊の『強力伝』に収録された。内容は、最初の生存者でのちに銅像になった後藤伍長が意識不明の状態で立っていて捜索隊に発見されるところで終わっている短編だ。が、生存者の記録などに誤りが多々あった。新田にしてみれば、いつか長編に仕上げるつもりだった、と三上さんはそう指摘するのである。


新田は新田で『八甲田山死の彷徨』の巻末に取材ノートとして、出版にさいして孤酒に取材協力してもらったことへの謝辞、その過程で孤酒がこだわった「実名」にするか、小説なので丸みを持たせる意味であくまで新田が「匿名」を主張したことなどの論争も記述した。さらに孤酒のノンフィクション『吹雪の惨劇』の紹介や連絡先を記述する念の入りようだった。この取材ノートは版を重ねるごとにやがて巻末から消えた。三上さんは、その扱いに疑問を向ける。


なかでも孤酒が、とくに「愕然」とした箇所が、取材ノートの後半部分のくだりだったことを明かした。それは、新田の信念に近い、軍部への不信が渦巻いているのだろうと、思われる。新田は、その取材ノートで遭難の原因が、おそらく装備不備、指揮系統の混乱、未曽有の悪天候などは必ずしも真相を衝くものではないと前置きして、「やはり、日露戦争を前にして軍首脳部が考え出した、寒冷地における人間実験がこの悲惨事を生み出した最大の原因であった」と喝破した。


続けて、第8師団長をはじめとしてこの事件の関係者は一人として責任を問われるものもなく転任させられるものもなかった、と付け加えた。


が、三上さんは、いくつかの論点を整理して反論を加え、処分はあった、と新田の記述を強く否定した。そして孤酒の気持ちを代弁し、「雪中行軍が人体実験だなんて…こんなふうに結論づけられるのなら、生活に困りながら集めた資料を新田へ提供するのではなかった。道案内をするのではなかった。ああ、僕はなんという甘い男だったことよ。愚か者めが」と頭を抱えた様子をも書き留めた。


さらに孤酒の恨み節は止まらないのである。


この悲劇的な事故を教訓にして日本軍は積雪寒冷地での装備をぐんと充実させた結果、厳寒の大陸で五連隊と三十一連隊は大活躍したではないか、両連隊の活躍がなければ、サハリンの半分を分捕る有利な講和は勿論、黒溝台の会戦で敗れたかもしれなかった。だから「人間実験にされた」とは承服しえない、と。


三上さんは、追撃の手を緩めることはしなかった。自らの調査による検証で、新田の小説のどこが事実と異なるのかを4か所について重点的に指摘した。また一つの章立てで、新田の小説や映画のクライマックスの場面として引用されている山口少佐のピストル自殺について疑問を呈し、ピストル自殺説をほのめかしたのは孤酒であったが、弘前大学の松木明知医学部教授の科学的な論文や資料を引き合いに出してそれは伝聞の域を出ないと真っ向から否定した。山口少佐の凍傷は、軍医の報告でも「手足を失うだろう」という資料を添えて、山口少佐の死因はピストル自殺ではなく心臓麻痺と断定した事実を三上さんは見逃さなかった。


孤酒が56歳となった1982年、遭難事故から80周年の折り、後藤伍長の銅像が立つ馬立場より八甲田寄りに孤酒は記念塔の建立を計画した。遭難兵士の遺家族から寄せられた収集品約6万点を中学校などで展示、売却することをマスコミに流した。収集資料の売却は、思う通りに売れず、逆にひんしゅくをかった。還暦を過ぎた頃、田代平の馬立場の銅像茶屋の経営者から、孤酒の収集品を展示してもいいとの申し入れを受けた。その資料館の開館から数年後、孤酒は脳出血で倒れ、1989年8月、その63年の生涯を閉じた。


『〜真実を追う』は、東奥日報に載った孤酒の死亡記事を転載して結んでいる。


普通なら、「まえがき」があって、巻末に「あとがき」が続くのがならいだ。が、千鶴さんが、「あとがきにかえて」と題して関係者に謝辞を述べ、この執筆にかけた三上さんの思いを丁寧に綴っていました。毎日新聞の初任地、十和田で小笠原孤酒さんと親しくなったことなど、その履歴に触れていました。孤酒さんが『吹雪の惨劇』を発行した昭和45年(1970年)初夏に、三上さんを含む十和田記者クラブのみなさんが激励を込めて出版記念パーティーを開いた。このパーティーを開いた当時の記者クラブのみなさんが、その30年後、三上の遺稿出版のために尽力してくださることになろうとは誰が想像できたでしょう、とそのご縁を不思議がった。


僕が、一番気になったところは千鶴さんも触れているのだが、新田次郎が取材ノートの中で吐露した次の一文に関することです。


〜私(新田)は、全身氷に覆われた兵士が次々と私の前を通っていく夢を見た、というと、小笠原孤酒さんは、そんなことしょっちゅうで、夢の中で「私はなんのなにがしで、どうか私のことを正確に書いてくださいと頼まれ、そして目を覚ますことがある」と言った〜ところです。


そして「もうすぐ完成するぞ」と私(千鶴)にいいながら、三上は「孤酒さんや、遭難兵が吹雪の中に出てきて、頭の中をかけめぐるのだよ」と同じ夢をみたことをはなしてくれた、ことを明らかにしていました。


お昼ご飯を一緒に食べて、「あとは見出しだな」と言って仕事場に戻り、少し横になっているうちに吹雪の夢の中に入っていったのではないか、と思うのです。三上さんは、もう夢から覚めていることでしょう。僕の原稿を見たら、あそこはやや違うのじゃないか、と苦笑いを浮かべているかもしれない。


さて、順序が後先になったが、6日朝午前9時半すぎ、夜行バスは無事に青森駅に着きました。粉雪が舞っていた。三上さんが生まれ育ったという市内浜田玉川付近の歩兵第五連隊本部があった筒井中、青森高校に行って周辺を仰ぎ見てみます。その足で、八甲田山に分け入ってみようと思っています。


次回は、45年ぶりに再会した竹馬の友と吹雪の八甲田山を目指したことなどを報告したいと思います。


【110年目の八甲田山雪中行軍遭難事故の回顧】
 時は日露戦争の2年前の明治35年(1902年)1月、ロシアの脅威に備えての耐寒の雪上訓練を行うため、青森歩兵第五連隊と弘前歩兵第三十一連隊が、それぞれ八甲田山の踏破を目指した。青森の第五連隊一行210人は23日午前、麓の峠を越えて田代、増沢、そして三本木までの51キロの1泊2日の行程だった。行進の途中、天候が急変した。胸まで埋まる猛吹雪と寒波に襲われて数日間、立ち往生した。吹雪はいっそう激しさを増し視界が利かず深夜の冷え込みは想像を絶した。そのため、疲労に加え飢えと寒さで次々と倒れるものが続出し、199人の犠牲者を生んだ。兵士の多くが冬山を甘くみた節があり、装備も万全ではなかった。指揮官が定まらず、混乱に拍車をかけたとされる。しかも列島は24日から未曽有の寒波に覆われる始末で、旭川では翌25日に観測史上最低となるマイナス41度を記録した。時期も悪かった。


一方、弘前歩兵の第三十一連隊一行は少数精鋭の38人で、1月20日に弘前を発ち十和田湖の南側湖畔をめぐって北進し八甲田山を踏破する11泊12日の約220キロに及ぶ行程を予定通りにひとりの犠牲者もださずにやり遂げた。足に油紙を巻きつけたり唐辛子を詰めたりと凍傷防止のための心得を徹底した。冬山の岩木山で実地訓練をやった。前年夏には同じルートを事前に視察する周到ぶりだった。しかも冬山に明るい地元民を道案内に雇うなど協力を求めた。


同じ八甲田山踏破を目指しながら、ひとりの犠牲もださなかった弘前の連隊と最悪の事態を招いた青森の連隊とを対比し、その運命の成否を分けたリーダーシップの功罪が論じられ企業経営トップのあり方をめぐる教材にもなった。


新田の『八甲田山死の彷徨』に、喇叭(ラッパ)を吹け!というくだりがある。喇叭の音で集団幻想から目をさまし自分を取り戻すだろうという狙いからだ。が、喇叭は、音が出ない。地獄の底でうめくようななんとも薄気味の悪い低音が出ただけだ、と青森第五連隊の過酷な状況の一端を表していた。


一方、無事生還した弘前第三十一連隊といえば、吹雪が正面から吹き付けたり、隊員の疲労で隊列が伸びたり、と連絡方法にラッパでは思うようにまかせない、と判断しラッパから呼び笛に変えて、呼び笛による連絡を徹底させていた。気温が零度以下になると、ラッパの金属が冷え切ってくるのと、ラッパ卒の口元が寒気で力がなくなるからだ、とそれまでの訓練でつかんでいた。


このほかの用意周到な工夫といえば、握り飯や焼餅は、油紙にくるんだうえ、上衣の下の腹部に巻き付けて凍らないようにした。水筒の水は七分目ほどに止め、少量のブランディーを入れ、行軍中に水筒をゆすって凍らないようにした。凍傷防止のため、小便は最後の一滴までしぼり風に向かって放尿することを避けさせた。手をこするときはまたぐらで、これをちん振り、両手ひざこすりと呼んだ。立ったままでの小休止の際、足踏みをして体の冷えを防止した‐など随所で、凍傷防止の細かい指示を徹底した。『われ、八甲田より生還す‐弘前隊・福島大尉の記録』(高木勉著、サンケイ出版)より。





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