DNDメディア局の出口です。先週スキップした集中連載『変貌する中国・知られざる海南島ルポ』続編は、その3となります。じっくり海南島に住む人々の生活や人となりを観察し、時に高級住宅街に潜入、あるいは上場したバイオ企業の経営者らの横顔にも触れてきました。ゆったりと清々しい空気を吸って爽快に、そんな気分を感じてくださることを期待します。まあ、師走の喧騒とはいえ、巷間、耳を疑うような事件があふれています。そんな気が滅入るような風聞に振り回されず、しっかり気構えてこの動乱の年を無事に締めくくりたいものです。
さて、海南省政府の官庁、それに経済の中心となる人口115万人の省都・海口市、その北側の海岸に面した幅広の濱海東路を西にむけて走る。先日も通ったが、途中、運河をひとまたぎする世紀大橋の上に立った。文字通り海に口を大きく広げたような海口新港から海旬河を隔てて、新しく埋め立てられた海旬の島を一望した。
1980年代に流行った湾岸一帯を埋め立てるウォーターフロント・プロジェクトのような副都心の整備が急ピッチで進められていた。緑が茂る広大な敷地は学生3万人を擁する、科学技術分野を得意とする海南大学のキャンパスでした。一歩踏み込むと、そこに省政府一の新設病院が建ち、経済や産業のイノベーションを司る改革発展研究院など政府の重要な施設が点在していた。
これは、上海に似ているなあ。
上海と言えば、租界時代の面影を残す外灘とその対岸のきらめく超高層ビルが林立する浦東新区のコントラストに特色があるのだが、海南島もその新区の発展をみれば上海の構図とよく似ている。対岸の島が、この10年で見違えるように変貌した。その一方、賓海東路の南側の狭い路を一本入ると、歴史的建造物が並ぶ中山路、得勝沙路だ。ガイドブックには、100年前に華僑が建てた洋風の建築群が今にその往時を伝えている老街なのだという。史跡の指定をうけて保護されていた。ひと時代をまたいで過去と現在を追体験できるところが上海を彷彿とさせうる要因なのかもしれない。しかし、こちらの歴史を刻む建築群ににぎわいはなくむしろ老街のその呼び名のごとくいまにも朽ち果てそうな悲愴感を漂わせていた。
上の海と書いて上海、下の海とすれば下海となる。下海、そんなエリアも上海の下にかつては存在した、と上海市の博物館で知った。なぞらえると、南の海なのだから海南でなく南海といってもよかったのではないか、と案内役で省政府の国際部長、呉松さんにそれとなくふった。
いえね、そう、南海島と呼んだ時期もなかったわけでもない、そういう記録も残っているのよ、と教えてくれた。海口という地名、最初は妙な呼び名だなあ、と思った。あらためて地図をながめると、海に向けて大きく口をあけるので海口という、そんな地名の意味もこの地に立って理解できた。海南島の最北端、その頭部が新しく開発が進んだ海旬地区で、海南島の頭脳となっている。海旬の島の形が、鷹の頭のようだった。その鋭い目は遠くの海に睨みを利かせているのである。
そして海沿いをさらに西に走る。
あっ!その辺、クルマ止めてくれませんか。同行の張輝さんらに車の停止をお願いし撮影ポイントを指示した。運転手の林さんが、すぐに反応した。日本語を理解できないはずの林さんが、時折、不思議なハンドルさばきを見せる。
このケースもそうだった。
道路の反対側だから、行くことが難しい。誰もがそう口をそろえた。歴史建造物の老街が見たい、そして写真を撮りたい。そこをスーッと通るだけでも無理だろうか、と僕は粘る。が、呉さん、張さんも、それは逆方向だからと、色よい返事がない。
すると、クルマはスピードを上げたかと思うと、道路左によって無理にUターンした。今思えば、一本南の大同路に入ろうと、したらしい。が、右の角を曲がったところで正面から車がきた。何台も後続があった。道が狭い。我々の車はそれ以上前に進めず、往生してしまった。
が、車窓から、老街の建造物がわずかに視界に入ってきた。車を降りて、いにしえの街の散策は適わなかったが、窓枠や軒の装飾に豊かな時代の一端を垣間見ることができた。雰囲気があるなあ、それにしても傷みが激しく今にも朽ち果てそうだ。長らく人が住んでいないのだろう。
運転手の林さんは、僕が窓越しに一眼レフのカメラで数枚撮ったことを確認したら、ハンドルをいっぱい切ってバックし先を急いだ。いやあ、なかなかなものだわ。林さん、謝謝だね。
ぐるり、遠回りして再び海沿いに出た。手入れの行き届いた公園は、国立森林公園の万緑園だという。この公園のただならぬスケールに目を奪われた。遠目にも緑は清々しく、樹木が生き生きしているのがわかる。亜熱帯特有の植物や四季折々の花が咲き乱れる。植物園や遊園地、お弁当を広げる芝生も整う。庶民の憩いの広場になっているらしい。秋頃には台風もくる。どうやら日本の平均的な気候にそっくりで、暮らすにはなじみやすいかもしれない。
道路は、世紀大橋の入り口付近から賓海大道と表示が変わった。山側にオーシャンビューの高級ホテルが並ぶ。湾を縁取るように沿道にヤシの街路樹がつらなる。
あれっ、ちょっと!僕の声に、やはり林さんが反応した。左手の高台に別荘風の住宅が見えた。車は、またゆっくり方向を変え、希望通り南側の坂道をそろりと進んだ。右手の石垣が切れたところに無人の大きなゲートがあり、その中に車は進んだ。僕は、車を降り歩いて見て回った。これは豪邸だわ。どれもこれもしゃれている。閑静な住宅街に人の気配がないのは、どうしたことだろうか。表の看板に「美林谷」とあった。ロスの高級住宅街をイメージしたのだろうか。写真を撮った。長居は無用、急いでもと来た道を戻った。いやあ、手間をかけますなあ。きっと血液型占いを知る日本人なら、僕の事をB型と信じて疑わないだろう。マイペース、我がまま、協調性がまるでないのである。
しかし、僕の興味は次に、「紫国」の大きな看板、インペリアルガーデンと英語表記のある高級住宅街に移っていた。あっ!さすがに今度は、反応なし。もういい加減にしてください、という無言の威圧感を感じた。が、こんな大きな一戸建てに誰が住んでいるのだろうか、ガードも万全のようだし…。投資目的の別荘分譲地なのだろうか。
中国の住宅は20階から30階建の高層マンションが一般的だ。上海でもそうだった。8月、四川省の都江堰市の復興住宅は一戸建てがあった。それに異例なスタイルだったことは認識しているので、個性的な一戸建てのいわば注文住宅がこの海南島でよく浸透していることを知って驚いた。さて、土地付きでいくらするのか、見当がつかない。
呉さんが言う。
海南省は、1990年頃から経済特区の優位性を生かして数々の経済投資が盛んに行われた。住宅価格は、マンションで1平方mが6000元(7万8000円)前後、広さにもよるが一戸当たり日本円で870万円から890万円が相場で10数年前に比べたら倍になった。海口市の中心街ではやや高く1平方mが8000元から1万元(13万円)になるらしい。上海だと、その2〜3倍になる、と呉さん。
上海と比べれば勿論、リーズナブルだ。最近は、やや価格は下がり気味だというが、依然、海外からの投資熱は衰えず、最南端のリゾート地、三亜市には海外からの投資が99%にも及んで、時ならぬ投資ブームに沸いて大型案件の巨大ホテルの建設が相次いでいる、という。
さて、寄り道したが、海岸沿いからまた南下し、港澳大道に入った。このエリアは、製薬やバイオ関連の企業がひしめく。いわばバイオクラスターの「海口蓉谷」だという。企業が50から60社も集積していた。
訪問したのは、製薬会社の「海南康芝」、大きな正門を抜けて玄関のファサードに車が入ると、中から社員数人が走って石段を駆け下りてきた。そして横一列に並んで、われわれ一行が車を降りるのを待ち構えていた。
長身の王培さんは薬品の生産センターの責任者だった。女性の王輝さんは広報担当で、色白の美人だった。終始、にこやかだ。展示コーナーに案内された。
売上が、今年度2億元(約26億円)規模で来年は3億元になる見込みだ。従業員が400人余り、主力製品は、子供向けの薬で熱や咳の家庭用常備薬に特化して成長してきた。日本に子供向けの薬ってあっただろうか。そんなことを考えてしまった。
苦い薬を飲みやすくする、色や形に工夫を凝らした。そんな日々の努力が報われて中国全土でも有数の創薬メーカーに成長した、と男性の王さん。最近は、中国でも人気の女優をイメージキャラクターに採用し、テレビCMなどでの宣伝が効果を上げている、とは女性の王さん。どちらの王さんも終始、笑顔でした。
キャラクターに採用した女優のパネルを前にして、左から張さん、女性の王さん、呉さん、男性の王さん。
展示室から会議室に場所を変え、10分程度のプロモーションビデオを拝見した。2010年に深センの証券取引所に念願の上場を果たした。昨年暮れに、9000平方メートル余りあった街の中心に近い保税区内の敷地から、現在の場所に移転し工場とヘッドオフィスを新設した。広さが10倍になった‐ことなどが紹介された。
テーブルの上にフルーツの盛皿が用意されていた。珍しいフルーツばかりだった。王さんが、どうぞ、と言って、自ら口に入れて実演してくれた。皮ごとかじる。表面がつるりとした赤い実は、やわらかなさっぱりした味だった。
りんごじゃないし、梨でもない。大半がピンポン玉サイズの小粒だ。これ何?と聞くと、Ren-wuという。どんな漢字をあてるのか、と質問したら、蓮霧と書いて示した。ロマンチックだわ。
所変われば品変る。珍しいものがあるのですね。同席の研究者が持参したのは植物の種だという。黒いゴマのような種を紙コップの水に入れると、キノコの胞子のような細い毛先を出し寒天状に膨張した。プルプルしていた。どんどん膨らんでいくのがわかる。植物を「草子」と呼ぶのだそうだ。このメカニズムを解明し、子供の薬の次の開発に役立てられないか、を研究しているといった。貴重な植物があるのだ、と感心した。
「草子」という種が、みるみる膨張していく。
まるで生き物のようでした。
そんな折り、突然、ドアが開いて小柄な男性が勢いよく入ってきた。社長の洪江游さんが姿を見せたのだ。骨格がしっかりした社長だ。全身エネルギーに満ちていた。
今重要な会議の最中で、少しだけど皆様にご挨拶にきた、と言った。ようこそ、といい名刺を交わした。そして、社長は、今後さらに日本との関係を深く太く結んでいきたい、と言った。こちらも礼を述べた。日本はバイオ関係の面白く懸命なベンチャーも数多いし、海南島でのビジネスアライアンスは十分可能だろう、と返した。
日本の製薬会社との関係もないわけじゃなかった。ふたつの製薬メーカーと提携し、医療機器の会社との連携もある、と実名を挙げた。大学発ベンチャーに関心があると言ったので、ネットでDNDサイトを開いてその情報欄にベンチャーの情報がある旨や連載企画の要点を説明した。社長は、iPhone4を手に持っていた。別れ際、日本にも行きたい、というから日本に来る時は、ぜひ、連絡ください、と伝えた。
若く精力的な社長だ。上場してビジネスがうまく回転しているように見えた。名刺には、製薬会社の董事長、いわば社長のほか、Honz Investment Group、投資会社の董事長も兼ねていた。実力派で、なかなかのやり手かもしれない、と思った。
昼食は、王さんらスタッフと一緒にテーブルを囲んだ。清潔で高級なレストランに案内された。席に着く間、テーブルにあったメニューに目を通した。ふ〜む、中国のワインブームは本物らしい。紹興酒や白酒など中国伝統のお酒より、輸入物のワインの銘柄の数が圧倒的に多かった。価格も高い。エグゼクティブは、いまやもっぱらワインをたしなむものなのだろうか。白酒で、乾杯を繰り返す慣習は、だんだん影をひそめていくような印象をもった。
ワインは、ボトルで300元(4000円)から500元(6500円)程度だった。比較的高価だ。紹興酒は、地元の酒が安くてうまい、と呉さんがいう。それで、いやあ、安いものに偽物はないよ、と続けた。確かに、それにしても呉さんの言葉は、毎度、本質を突くのでハッとさせられることばかりだ。
隣に男性の王さん、王さんは海南島の出身で広州の薬科大学を卒業し、海口市の外資系の製薬メーカーに就職した。いまの製薬会社には、上場直前の2009年に移籍した。薬科大学に入るのだから、よほど家柄がよいのか、成績が優秀だったのではないか、と探りを入れた。すると、生まれ育った村の話を始めた。
子供の頃、家の庭にヤシの木があり、その実を採るため木に登った。すると蛇が、木の上の鳥の巣に入っていたヒナを狙っていた。その蛇にかまれて木から落ちたことがあった。ハチに追いかけられたこともあった、というので一同が大笑いした。
家のそばには大きな川があり、よく網をかけて魚を獲った。面白いほど魚が獲れた。貧しい村だが、朝霧に水鳥が飛び交う美しい村だった、と王さんは目を細めた。話しおえると煙草に火をつけた。うまそうに紫煙をくゆらせていた。
王さんのその隣が紅一点の王さんでした。彼女は、あまりに肌の色が白いので海南島のギラギラ照る紫外線から、どうやってその白い肌を守っているのか、と聞いた。すると、出身が東北の吉林省といった。吉林省の吉林で看護師だった。それが33歳の時に海南島にきてこの製薬会社に就職した。それから7年がたった、と自分で言った。
なぜ、吉林省から海南島に来たのか、と踏み込んだ。呉さんが通訳した。その瞬間、王さんの表情が少し陰った。人生いろいろ、いまあんまり話したくないわ、という意味のことを言っているような仕草をした。呉さんは、そこは訳さなかったが、僕にはそう感じられた。これは余計なことだったと悔いた。
そんなやり取りが終わるや否や、男性の王さんが突然、あわただしく立ち上がった。もうひとり席を動いたのがなんと、運転手の林さんだった。一瞬、険悪なムード?なのでテーブルのわきでにらみ合うのか、と心配したら、いや、親しげに並んで手を取り肩をたたきあった。王さんが照れながらしきりと、林さんに恐縮しているように見えた。
何があったのだろうか、左隣の張さんに聞いたら、よくわかんない、という。言葉がわかんないから、やり取りがのみこめないらしい。上海生まれの張さんに海南島の地元の方言がまるでチンプンカンプンなのだ。
へぇーと驚いていたら、呉さんが、海南島には27も言葉があるといった。さまざまな民族が入り込んだ証明なのだ。言葉が通じない、って、ね。中国では珍しいことではない。同じ日本語を話しても言葉より、心が通じない、と冗談をいったら、日本語も生まれ故郷で言葉が違うから、と日本の滞在が長かった元外交官らしいコメントで呉さんがフォローした。
海南島生まれの呉さんには、さすがにお二人の会話は分かる。王さんと林さんは、海南島の北東部、赤坂村の出身で同郷のよしみなのだという。川に網を投げ入れて魚をたくさん獲ったというあたりで、林さんがピーンときたらしい。どこまでも勘のいい運転手だ。
村の真ん中を貫く万泉河、広く大きな川だ。その北側に濱灘という集落がある。王さんが生まれ育ったところだ。対岸の南鈴地区では林さんが生まれた。同じ村で、行き来には舟を使ったが、いまは橋が完成していきやすくなった。この地方は、天然ゴムの栽培が盛んで胡椒の産地としても有名だった。
王さんの姉が林さんの家の近くに嫁いでいたことが判明し、その場の話題を独占していた。林さんは王さんの郷土の先輩だったのだ。いつもは控えめな林さんが、この時は堂々として逞しかった。
余談だが、万泉河を地図で探した。すると、海口市からまっすぐ南下した山間地を源流に数百キロに及ぶ大河であることが分かった。島のやや中央から東に流れいくつもの集落や県、市を抜けて南海にそそぐ。その支流では、渓流下りを楽しむラフティングの河として知られていた。
さて、このレストランでも円卓テーブルにエビが並んだ。これまでエビ料理は定番メニューで活エビの茹でたてを黒酢と醤油のソースにつけて食べる。何もつけなくても、すこぶるうまい。毎度、昼、夜、そのエビがテーブルにのる。どれくらい食べただろうか。あんまり食べたら背中がまがってしまうよ、と笑った。こっそりメニューで値段を見たら、94元とあった。4〜5人前の一皿で1200円程度でした。
ここのエビはいままで食べたエビとひと味違った。干しエビ、それも一夜干風なのである。指に力を入れて千切って食べる。塩味が利いて噛むと味がにじみ出るんだわ。
珍しいメニューは、キュウリの芽というのか、長さ3pほどの若いキュウリを丸ごとエビや、貝などと炒めたものだ。いやあ、しゃきしゃきしてなんともいえない食感でした。キュウリの若い芽を摘んだのだろうか、そういう品種なのだろうか。う〜む、この料理はどこかで食べた記憶があるが、ふ〜む、歯がゆい、今になっても思い出せないのね。
毎度、どれも後を引く豊穣の海南島料理、それはエビやカニといった新鮮な海の幸に、熱帯性の気候特有の食材が豊かなのだ。みんなでテーブルを囲む幸せな光景が、どこのレストランでも目にした。食事の時、みんな話がうまいのよね、その軽妙でとりとめない会話が弾んで、楽しい宴は時を忘れさせた。しかし、政治の話で激しないのだろうか、言動が原因で口げんかなんかないのだろうか。上司への不満を愚痴ることはないのか、なんて疑いの目を持つこともあったが、それは杞憂でした。呉さんが、一週間、一所懸命働いて、みんなでテーブルを囲むのが、とても幸せなのよ、という。そんな晴れの日に、眉間にしわを寄せたりしないのである。生活の知恵ですね。みんな一同に会して遠慮なくお腹いっぱいご飯を食べる。これが幸福のベースになるべき姿なのだなあ。ああ、海南島、こうなると、もう日本に帰りたくない、と今宵もしみじみ思ってしまうのです。
お礼を言って別れを告げた。わずか数時間、ご一緒しただけなのに、この後ろ髪を引かれる思いは、どうしたことか。不覚にも別れ際、言葉に詰まった。
車内で、みんないい人だね、と呉さんに言ったら、ひとは己の鏡、いい人と思えばいい人になる、とまた、そんな話をする。しかし、この辺でいままで胸にしまっていた疑問の切り札をその訳知りの呉さんにぶつけてみた。
ねえ、呉さん、周辺見渡せば、確かにきれいに整備されている。緑もうっそうとして南国ムードはあるが、少しもリゾートぽいところがないのはどういうことですか、どこが中国のハワイなのよ、と冗談交じりに悪態をついた。
いやあ、そう言うと思ったよ。すぐにわかりますよ、きっと恐れ入りました、と後になって困ることになるかもしれませんよ、と、ほくそ笑むのである。さて、いよいよ海南島の旅は、クライマックスを迎えます。島の南端に位置する、リゾートのメッカ・三亜市周辺に向かうのである。
熱帯性気候なので、真冬でも15度から17度と温かい。海口市と南の三亜市では温度差が10度にもなることがある。その三亜市へ1泊で訪問する。それにはビジネスモデル学会の会長で、俯瞰経営学の新しい領域を拓いた東大名誉教授の松島克守さんがやや遅れて合流する。どんなドラマが待ち構えているか、僕らの旅は続く。
◆事務局からのお知らせ◆
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