DNDメディア局の出口です。四川大地震の研究視察レポート、その4は、その復興計画をスピーディに成し遂げた「中国の今その現実」について、省・市政府などの訪問先での議論を交えながら報告します。
このプロジェクトの団長は、認定NPOの日本政治総合研究所の理事長で政治学者の白鳥令氏、参加者はこの研究所に所属する地方政治政策研究会のメンバーで明治大学政経学部教授、土屋光芳氏夫妻、参議院議員、ツルネン・マルティ氏秘書の久保谷政義さん、埼玉県議の山川百合子さん、元埼玉県議で司法書士の峯岸光夫氏、建設会社社長、相田準一氏ら、主に地方の政治や行政にもっぱら関わりが深い方たちで構成されていました。
私は、まったくの飛び入りで、白鳥氏は私の大学時代のゼミの先生、つまり恩師というつながりです。先生が駐日マルタ共和国名誉総領事にご就任された関係で、地中海に浮かぶ島、マルタを一緒に訪問したことがあります。今回の旅はマルタに続いて2回目です。DNDメルマガで紹介しています。ご関心がありましたら、一度目を通してみてください。
「マルタの風」
「続マルタ:駆逐艦「榊」の真実」
さて、まずその夜の事から話しましょう。四川本場の深い辛みが信条の麻婆豆腐といえば、成都市の中心街からやや西に行った先にある「陳麻婆豆腐店」。元祖、麻婆豆腐の老舗でした。成都初日のディナーは、われわれ一行8人に加え、白鳥先生が中国の友人4人をこの席に招いていた。ゲストは、近代中国の農村研究や中国経済の実情に詳しい大学教授や研究者で、一人をのぞいて日本語が堪能で、彼らのスピーチには中国を理解するのに役立つ貴重なヒントがちりばめられていました。
:元祖、麻婆豆腐の老舗「陳麻婆豆腐店」で、
成都市で初のディナーです。
四川料理を食す。ゆったりと大きな円卓テーブルに鮮やかに盛り付けた料理や煮込みの鍋が、次々と運ばれてきます。そのセッティングやお酒の手配で目がまわるほどなのに、少しもあわてる様子をみせない。そんなウエイトレスらの身のこなしは、そばで見ていても小気味よいものでした。無駄な動きがない。音もさせない。それでふっと微笑むような表情をたたえている。成都は、美人の誉れ、とは、ほんとそうかもしれない、と、しみじみ思った。顔立ちだけではないのである。
みんなで囲む美味しい料理は、おのずと心を和ませてくれます。赤唐辛子や山椒を絡めた激熱の料理は、時折、眠っていた感情に火をつけるらしい。私たちの議論も赤唐辛子に負けずホットでエキサイティングでした。議論の中心、その流れをモデレートするのは、リベラルな政治学者を自認する白鳥先生でした。先生は、話の運びがうまい。まるでね、「ハーバード白熱教室」で人気のサンデル教授の政治哲学の講義みたいでした。その模様を随所に紹介しているのでご期待ください。
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:仲睦まじい土屋夫妻、奥様は素敵にクラシックバレーをやり中国語が堪能です。
■中国の遠い民主化への期待の一歩
この日は、成都市での初日とあって、午前と午後と昼食をはさんでびっしり、省の発展改革員会や地震局など政府の関係機関を訪ね回った。立派な会議室での丁重な応対でした。そこで政府当局から、復興への取り組みや、地震のメカニズムなどの詳しい説明を聞いた。政府の担当者らは、M8規模というのは想定外で4000年に1度の事態と語る一方で、4600万人に及ぶ被災者の暮らしは、震災前より震災後の方がよくなった、と胸を張った。そして、農村の生活レベルは飛躍的に向上した、と総力をあげた成果を強調していました。
確かに、そうかもしれない。被災者の数の多さや、被災の範囲の広さ、それに険しい山岳の崩壊による救援の難しさの3点を捉えても2008年5・12の四川大地震は、ほんとうに未曽有の事態だった。約8万7000人が犠牲になった。その悲しみをこえて見事に困難を克服した。いま復興計画の94.7%をやり遂げたのは、中国の底力であろう。ボランティアの人数は、1000万人を超え金銭に換算すると2000億円に上るという試算があった。
例えば、上海市とパートナーシップを結んだ震源地に近い都江堰市は、その"対口支援"によって上海styleの新興住宅街のニュータウンが続々と誕生した。スタジアムも完成した。都江堰市郊外の天馬鎮という農村では、朽ちた古い農家には新築の2階建て戸建住宅が提供されていた。家々に、水洗トイレを完備し清潔な街並みを整備した。これと言った風景のない山林、田畑に、上海の飛び地が誕生した趣でした。都江堰市人口65万人、その街の7割強に及ぶ45万7000人が被災した無残な爪痕は、どこにもみあたらなかったのです。この整備状況を見ると、当局の説明にはいささかの誇張もないことに気づかされる。
ただ、復興計画の策定に関しては、「農民の意見をくみ取ってその声を反映させた」と説明した。これを新しい一歩としてとらえるべきなのだろうが、農民がどんな要望を誰に伝えたのか、それらを聞き取るという姿が具体的に浮かんでこなかった。当時、温家宝さんが現地に入り、百倍の力をと訴え、急ぐのは住宅建設、守るのは就職先、そして適えるのは豊かな生活と方針を示した。中でも数ケ月で仮設住宅を用意し1年半先から本格的な住宅を順次提供してきた。
■復興住宅の建設に画期的3つの手法
住宅の建設や土地の開発には、以下のような手法を採用し、組み合わせた。そこでも農民の意思を尊重する、という考え方が底流に見えた。それというのは、1つは、「四川省などの政府が全体を企画して建設する」、2つ目は、「政府が全体を計画するが農民が自分で家を建てる」、そして3つ目が、「政府が資金を出して農民が自分で家を建てる」というものだったと説明した。つまり、住宅は単に与えられるものではなく場合によっては、農民が自分たちで設計し、好きなように建築するという風に聞こえた。そんなことが可能なのだろうか。3つの選択肢の中でどれが多かったか、その割合は?という質問があったが、被災地の現状がそれぞれ違う、という理由で明確な答えはなかった。
白鳥先生が、都江堰の震災陳列館で案内役に立った市政府の担当者に、復興の考えに3つあるが、どれが最適と思うか聞いた。その40前半ぐらいと思われる男性は、政府が金を出しそのお金で自分たちが家を建てる、と3番目のいわば注文住宅方式を上げていた。民主的とか、自由とまで言わないが、自分たちの存在の確かさを形にしたい、と誰もが思うのだろうか。
「地震陳列館」には、震災の状況から救援、救出への涙ぐましい様子を写したパネル、復興の模型や、復興計画が具現化した写真や記録の書面、冊子などが展示され、15分程度の映像も上映されていた。
省政府の地方行政に携わった経験が豊富な女性担当官は、復興の方針に触れ、世界遺産などが被害を受けたことから歴史的建造物、文化財を可能な限り復旧することを第一にあげた。"おから工事"と非難された耐震強度は、病院、学校に手厚く施した。周辺の自然や環境保護への配慮、調和のとれた街並みの整備、経済の発展や豊かさが享受できる都市像、そしてブン川県など震源地で学校が潰れ、多くの犠牲者を生んだ場所などは、地震遺跡として遺族らの慰霊の場に整備した、とよどみなく話した。
こんな風に中国の復興への取り組みをうかがいながら、私の脳裏によぎったのは東日本大地震の復旧復興の現実でした。四川大地震では、「農民の意見を反映させた」というのだが、我が国の、どうもテンポがのろく財源がどうのこうのと、遅々として具体的姿と手順を見せてくれない東日本の現状でもそのネックは、住民の意向をどう計画に盛り込むか、という復興のプロセスにおける民主的な利害調整の難しさにある。その難しい課題を中国の省や市政府がうまくやれたかどうかは、次なる検証を待たなければならないが、農民の意向を復興の要に据えていたというのは驚きであり新しい発見でもあった。
しかし、失礼ながら、ほんとうだろうか、とつい疑ってしまうのです。農民の意向をどうやって吸い上げるのだろうか、その具体的な手続きの場面がイメージとして浮かんでこない。突っ込んで聞くと、これは政府当局じゃなく農村研究の教授だったのだが、農民の希望は「元の場所に戻りたい」というのが多く、次いで「道路を整備してほしい」というインフラに関するものだったと調査の結果を紹介した。
■都市への流出で、若者が農村に10%
農民は、元の場所にもどれたのだろうか。復興は、まず安全な移転先を確保し、そこに復元復興を施したのではなかったか。農民の要望を計画に反映させる、というのはそれほど簡単なことではない。そもそも、農民は政府に対して何か意見を言うとか、要望を訴えるということに積極的ではない、という女性研究者の解説の方がより説得力があった。農村から都市への若者の流出が加速しており、中国の農村の存亡が逆にクローズアップされることになるのでした。農村研究者は、どれだけ農村に若者が残っているのか、との白鳥先生の質問に、「10%弱」と力なく答えていた。
それにしても、まあこんな風にね、私たち日本人はなぜ、中国のやることについていちいちケチをつけるのだろうか。成都に出発前、成都の原子力研究所で火災があり黒煙が噴き上げている、大丈夫ですか、というメールをもらった。が、現地はそんなニュースはないが、フクシマ原発でメルトダウン事故を起こし近隣諸国に迷惑を与えていることを思うと肩身が狭く、成都の原発は大丈夫か、と聞く勇気は持ち合わせていなかった。
そもそもこんな大きな中国を政治的な一断面だけ見て全体を捉えられるだろうか。中国の政治的な覇権主義、帝国主義をいたずらに批判する論評がメディアに溢れ返っているのは異常なほどだ。中国のある特異な部分をえぐっているようなその行為が奇妙に感じる場合もある。政治的なアプローチばかりが際立つ傾向に陥っているのではないだろうか。メディアの取材拠点が北京というのも偏っている。内陸の成都のニュースなんか滅多におめにかからないもの。メディアは、中国を隅々見るべきである、と思う。
■四川省・成都の躍進と魅力
さて、中国の内陸部、四川省の成長、発展は目覚ましいものがあります。人口500万人、周辺を入れれば1100万人、3200万人の重慶に次ぐ規模だが、中国でこの先10年を見越せば、成都市は最も成長の可能性が期待される高度な産業都市なのである。フォーブズ500社の世界企業のうち、成都市内に現地法人や営業所を開設している企業数は130社と多い。高速道路が網の目のように縦横に張り巡らされ、インターチェンジ近辺に巨大な工業団地が広がり、背後に高層マンションが林立し遠くに蜃気楼のように浮かんで見えた。さらに沿岸部から新幹線が通り、地下鉄が走る。街路樹はいたるところに青々と茂り、街にはごみ一つ落ちていない。パンダの自然保護区はつとに有名だし、九寨溝、峨眉山、青城山、楽山など世界遺産が6ケ所あり、世界から観光客を集めているのです。標高3077mの峨眉山に上ったが、その山頂は仏教の聖地という印象を内外に誇示しているようで工夫を凝らした巨大な仏像が数年前に建立され祭壇も設けられていた。バスで1時間、ロープウェイを乗り継ぎ、そこから頂上にいたる700段を超える急な階段を駆け上がる。大勢の観光客が列をなしていた。お年寄りや足腰に不安があるお客には、100元(1300円)程度でカゴ担ぎの便宜を受けられる。筋骨隆々の村の男衆二人が前後して坂道を駆け上がって客を運ぶ。もはや浅草の人力車に顔負けするほどの威勢のよさでした。日本人のツアー客にも多く出会った。
:世界遺産の峨眉山山頂へ、先生はカゴに乗る。どんなものか担いでみた。先頭は、久保谷さん。
:雲が湧く峨眉山で、相田さんのムービーをのぞく
通訳の鄭さんと王さん。
このクリーンで美しい街、成都が次に目指すのが田園都市構想で、いわば環境・エコに配慮した持続可能な都市づくりだという。中国政府、四川省、市、それらがスクラムを組んで国造りに懸命だ。スピード感がある。変貌著しい。それに比べて我が国は、過去ばかりとらわれていないか。後ろ向きなのではないか、とつい愚痴ってしまいそうになる。
しかし、都市の発展の系譜は、いずれの国も農村から安い労働力を集め、工業化への道をひた走る。その光が強ければ影も濃い。都市化、工業化が、都市と農村の格差を生み、貧富の差の拡大を増幅させる。しかし、こんな歪んだ状況のまま突っ走った先に、何が待ち構えているか。この先に本当の豊かさがあるのだろうか、と問うのは、どうだろうか。
■「ロンドンでマルクスが見た光景」
白鳥先生が、言葉を選びながら指摘した。
「中国の未来が明るいというけれど、所得が上がるのは、農村から貧しい人がいなくなったためで、すでに農村に若者が10%しか残っていない。老人と女性、子供が残されて、農業も満足にできない。農村からどんどん人がいなくなっていくのは明るいことですか?」
「急激な工業化のあおりで、農民が都市へ移動し、都市に労働力が集中する。都市にいけば、現金収入がはいる。収入が約束されるから都市へいく。若い農民がどんどん都会へ駆り出される。そういう工業化が成功すると思いますか?」
と、疑問を投げかけて、こう言い切ったのにはドキリとした。
「それが、19世紀にマルクスがロンドンで見た光景ですよ」
マルクスは19世紀ロンドンの悲惨な労働者階級を見て、共産主義思想を生み出した、といわれています。先生は、そのことを指摘した。
続けて、農民の格差を埋めているのは、出稼ぎですね。農民が都市に出て農村の人口が減っても貧富の格差はなくならない。貧しい農村の生活があがっているのではなく貧困の農民が農村からいなくなっているだけではないか。家庭のレベルでみれば、豊かな人らが、もっと生活が向上しているので、格差はうまらない。農村が豊かになった、というのは一番下の貧しいところがいなくなっているので、所得があがっているようにみえるだけ。 一番下が農村から離れれば、全体が上がる。これはかつて日本で起こっていたことで、いま中国で起こっていることだから。
どうやら、この論争は先生に軍配があがりそうですね。農村の新しい街に行ったら、この不安かどうかわからないが、人々の表情に暗い影が見えた。やや私の思い過ごしかも知れないが、4畳半一間の貧乏暮らしから一転、4LDKの豪邸に移り住んだら居住まいがよくないのと似て、どこかぎこちないのである。豊かな生活をエンジョイするという意味を呑気に麻雀に興じることと勘違いしてしまうのです。そんなところに幸せの神様は微笑まないのよ、ね。これも大きなお世話かもしれない。
:真新しくなった農家の家々、そとでベンチに腰を掛けるご婦人ら。
■哲学者、カント曰く、「慈悲深い父親は独裁者」
農民の意見を聞く、その要望を政策に反映させる、という。これを中国の民主化の一歩だ、と言わないのは彼らの見識だが、そんな軽々と民主化が進むと思っているわけはない。が、なんでも簡単にやってしまいそうな国柄である。震災復興の力技と違って、民主化っぽいその一連のプロセスに汗を流した形跡がみあたらないのは気になった。成都の街から透けてみえる震災後の新しい動きは、農村に幸せをもたらすのだろうか。また中国は、人が生きる、その当たりまえの権利とむきあう時がくるのだろうか。
もう一つ白鳥先生のつぶやきを紹介しよう、と思う。
円卓テーブルを囲みながら、先生は、四川省、被災地で子供を亡くした家族がたくさんいます、と切り出した。そのため、子供を多く産むために排卵誘発剤を配っている。これはどう思う?
昔、産児制限のため、一人っ子政策をとり、村の女性の生理や妊娠を細かくチェックした。いまは誰も賛成しないが、80年代にはじまったこの政策は、人道的ではない、と白鳥先生。やがて人口の構成にひずみがでて、バランス悪く、老人大国というお年寄りだけになってしまう。今度は、子供を亡くした親に無理に子供を作らせるやり方は肯定しますか?
私は悪くない、賛成です、と通訳の中国人女性が迷わず答えた。
子供を産む、それが自分の意思ならね。もっと子供を産みなさい、あるいは子供は産んじゃいけません‐ってやるけれど、子供を産むかどうかは人間として自分が決めることと思いませんか。女性は子供を産む機械じゃない、人間として扱っていないのではないか、と思いませんか、と鋭く迫るのでした。
その女性、アット!小さく叫んだと思ったら、ひと呼吸おいて、国家の政策と農民の考えが一致するので、強い批判はないと思う、と言った。
先生は、そこで、ドイツの哲学者、エマニエル・カントは、ご存知か、と聞く。専制君主、独裁者の例えとして彼は、情け深い父親が最大の独裁者だというのです。息子の事を考えて将来、苦労がないように医学部に入れて医者にする。それは情け深い父親というのが、子供が自分の将来を決める権利を認めていない。だから最大の独裁者だと、カントは言った、と。
自分の未来を自分で決める、これが人間の最低の権利だと思うが、どうかなあ、と静かに説くのである。子供を産むか産まないか、それは基本的な人権にかかわる問題という。その意味がなかなか理解されにくかった。
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■恩師、白鳥令先生の「学者の矜持」
中国・成都での四川大地震視察研究は、白鳥先生の、それは大げさではなく事実として言うのだが、知識人としての矜持を垣間見るチャンスに恵まれたことはとても有意義で忘れがたい経験となりました。省の市の政府要人へのアプローチは、少しの妥協も許さなかった。それが尊い中国政府への義であり礼である、といわんばかりの覚悟の指摘があっ晴れでした。
例えば、地震局で専門の科学者からの説明が終わったあとのことでした。ほぼ1時間余りの紹介や挨拶、それに地震のメカニズムの解説と質問、予定のメニューを終えて白鳥先生が御礼の挨拶をするのかと思ったら、意外だった。
どうもありがとうございました。さっき質問しようと思ってタイミングをのがしてしまったのですが、よろしいでしょうか、とお断りし、それは何かというと、ずっと四川省あたりは地震の多いところだったわけで、それでブン川大地震が起こった時に、何か自分が予測していなかったこと、つまり科学者としてこのくらいの地震ならこれくらいのことが起きるだろう、がけ崩れが起きるとか、建物が壊れるとか、そういう予想していたこと以外に、何が起こったのでしょうか。
それに対しての答えは、「震度の強さ、M8の地震が起こるとは思っていなかった」という一言だった。まあ、通訳がどこまで正確に伝えているか、通訳のボキャブラリーが著しく貧困だったから、疑問は残る。
■堂々と、柔和な微笑みを絶やさぬ恩師への敬意を込め
先生は、続けて、そうすると科学者が予想していなかったことが起こったから、例えば、学校がつぶれて子供たちが亡くなったという話になりますか、それとも、科学者は、そのくらいはおこるかもしれないと予想していたのに、政治家や法律家が悪くてきちんとした規則をつくらなかったから、大きな被害が出た?それとも、その震度8という地震がある、という予測できなかった科学者に責任があるのか、と鋭い。
参加者一同、どんな答えが返ってくるか、固唾をのんで見守っていると、その専門家は、「これまでM7という経験があったので、M7の地震は知っていた。M8という地震がおこるとは思ったことはなかった。震災後は、中国政府も耐震に関しては新しい基準を設けた。いまの地質科学者にとっていつ起こるかという地震予知というのは難しいことです。大きな地震にはそれなりの背景があります。日本の場合も同じでしょう。ここに断層帯があるということはわかっても、いつ地震が起きるかは分からない、ですから、できることは耐震しかない。地震後の応急措置も手当てが必要です」と答え、予想外の被害が出た責任にかかわることについては、発言を控えた。
なにより堂々と、そして終始、柔和な微笑みを絶やさぬ恩師、白鳥先生の学者としてのダンディズムに改めて敬意を表した次第です。
:ポーズが決まった白鳥先生、
この写真が我ながらベストと思うのだが…
政治学者としてネパールや世界の紛争地域にもっぱら足を運び、民主主義の基本であるその国の選挙制度の在り方や憲法制定という難しい課題に対して助言や指導を続けていることを知った。アフガンなどで3回、ホールドアップの苦い経験がある。今年に入って北アフリカで連鎖した市民革命のチュニジア、エジプトに飛ぶ。その行った先々できっと持ち前の柔和な表情を浮かべながら、言うべきは言う、質すべきは質す、といった知識人ならごく当たり前の姿勢を貫いているのだろうことは、今回のプロジェクトでの振舞いからして想像に難くない。自己紹介の時、政治学者で、しかも革命家ですとの言葉を加えた。私もかくありたい、かくあらねばならない、と心底、思いました。